不甲斐ないな
「佑おはよう。昨日はごめんね――泣いたらスッキリした」真琴は笑顔でそう言った。真琴は強い。強いからこそなかなか弱音を吐くことができない。昨日はそんな真琴からのSOSだった。でも、とても元気だ。大丈夫……なのかな?
「さあ、走りに行くよ‼︎」朝靄の中を二人で走り抜けて行く。僕は走るというより、ただ前に進んでいるような感じだけれど。
しばらく走って、息が上がった真琴が休みながら言った。
「今日は体が軽い。やっぱり私は湿っぽいのは嫌だよ。残りの時間、佑と笑って過ごすんだ。ねっ」やっぱり真琴は強い。こういうとき、いつまでもウジウジしない。尊敬しているし、大好きだ。
僕は微笑み返した。
「帰ろうか」真琴は颯爽と走り出した。
今日も朝から忙しい。
「すみません……」あっ。あの、旦那さんが自殺してしまった奥さんだ。今日はご両親かな?と一緒だ。
「こんにちは。どうされました?」
「夫の両親です。今日は被害届を出しにきました」
女性はしっかりと前を見つめている。
「わかりました。書類は警察署にありますので、そちらに行くことは可能ですか?」
「それは、構わないのですけど、できたら長谷川さんにお願いしたいんです」
「私が直接関わることは規則上難しいのですが、被害届が受理されない場合もありますので、一緒に行きましょう。警察署までお送りしますね」
真琴は三人をパトカーに乗せ警察署に向かった。
「被害届を出したいのですが」真琴は受付の女性に声をかけた。
「よろしくお願いしますね」真琴は女性に目配せをした。ネームプレートには大橋と書いてある。
大橋さんも「了解」という顔をした。
「それでは、私はこれで失礼します。進めていく上で心配なことなどあればいつでも話を聞きますからね。一人じゃないですよ。私たち警察官はあなた方の味方です」
「ありがとうございます」
女性は深々と頭を下げた。
「戻りましたー」
「お疲れ様ー。長谷川君。相変わらず面倒見がいいね。警察官の鏡だよ」
「おだてても何も出ませんよ」
「そうなの?それじゃあ、パトロールよろしくね」
「はーい」
あの家族が幸せに暮らしていけるといいなと思いながら、自転車を漕ぐ。みんながルールを守り、人を思いやる気持ちがあれば事件や事故など起こらないのだ。それなのに人は罪を犯す。人間はなんて愚かなのだろう……そうしたら、佑だって生きていられたかもしれない。
私一人の力ではこの世の中を変えることはできない。それでも私は諦めたくないのだ。幸せな世界を――。
その後、被害届が受理され警察による捜査が開始された。あの奥さんのご主人を奪った犯人は名誉毀損・自殺教唆・暴力行為などたくさんの罪が認められ逮捕された。そう、これはいじめではなく犯罪なのだ。
捜査中も奥さんは度々真琴のいる交番を訪れた。聞き上手な真琴に話を聞いてもらいながら、なんとか乗り切ったようだ。
「長谷川さん。あなたがいてくれて良かった――」優子さんはまた泣いている。
「本当によく頑張りましたね。ご主人もお子さんもあなたの頑張りを見ていたと思います。私も尊敬しています」優子さんは目に涙を浮かべながら、ニッコリと微笑んだ。
「これからどうされるんですか?」
「両親の実家が広島にありますので、そこに行って子どもと暮らすことにしました。東京は辛い思い出がたくさんありますので……」
「優子さんの決断を100パーセント支持します。また、東京に来ることがあったら――その時はぜひ、顔を見せに来てくださいね」
「はい。長谷川さん、身体に気をつけてくださいね。本当にお世話になりました」
優子さんは何度も何度も振り返りながら帰って行った。
真琴はキッチンでお稲荷さんを作っている。この前、佑の好物は何か?と真琴に聞かれたのだ。真琴はお稲荷さんも作れるのか。油揚げを煮ているところだ。僕はいつもお稲荷さんは買って食べていたので、家庭で作れるとは知らなかった。そういえば、僕の母は料理もあまりしなかった。
「佑。今日は何をしようか?」
「うーん」この質問は困る……何をすると言われても僕は身体がすり抜けてしまうし、何よりも、僕は真琴と一緒にいられたらそれでいいのだ。
「何かないの?」
「二人で同じ本を読みたい」
「それ、楽しいの?」真琴は怪訝な顔をしている。真琴が聞くから、僕の無い頭で必死に考え思いついたことなのに……
「楽しいと思うよ」僕はとびっきりの笑顔を真琴に向けた。
「そっか。じゃあそうしよう」真琴も笑っている。
僕は今、充分幸せだよ――真琴はお稲荷さんの下準備を済ませ本棚の前にいる。
「本はどれにする?新しいの買いに行く?」
「これにしよう」僕は初めて真琴に会った日、この部屋に来た日に手に取った本を選んだ。僕にとって思い出の一冊だ。二人でソファに腰掛け、表紙をめくる。
「ねえ、佑。これは、私が声に出して読めばいいの?どういうルール?」真琴は困っている。
「僕、ここ好きなんだ」ページをめくり、指差した。「ああ。ここ良いよね。私も好き」
「この本を読む前は、この世に戻ってきても何も変わらないだろうって思ってた。でも、真琴に会って、本をめくったら、今までとは違う感覚があった。真琴に会えたことで、僕の考えは変わったんだ」
「今は、どう思ってるの?」
「――真琴を抱きしめたい」
「えっ⁉︎そういうことじゃなくって、その、何がどう変わったのか知りたいなってこと」焦った真琴もかわいい。
「この世は案外捨てたもんじゃないなって思ってる。嫌なことももちろんたくさんあるんだけど、それに勝る素晴らしい物がたくさんあるって知った。真琴にたくさん教えてもらった――でも、きっと僕のまわりにもあったんだと思う。僕が目を向けなかっただけで。そこにあっても気にしなかったら無いのと同じだよね。真琴が僕の視野を広げてくれたんだ。そのことにもっと早く気がつけていたら、僕は生きて真琴に会えたかもしれないなって今思ってる」
「――そっか。私と逢えて良かった?」
「うん。心からそう思うよ」僕たちは見つめ合った。
「そろそろ、夕食にしようか」真琴は味を付けておいたお揚げにご飯を詰め、夕食の支度に取り掛かった。
食卓には美味しそうなお稲荷さんと豚汁が並んでいる。僕は食べられないけれど、真琴と同じ食卓に着く。
「佑の大好物で申し訳ないんだけど。どうしても作りたくて……これで、お稲荷さんを見たら佑を思い出すかなって。そういう思い出たくさん作っておきたいんだよね」
「真琴……ごめんね」
「どうして謝るの?」
「一緒にいられなくて……」
「ずっと一緒にいられたら……いいよね」
真琴はお稲荷さんを食べた。
「おいしい」涙を流しながら。
「一緒に食べたかったな」僕たちは今、同じ気持ちだ。
「僕がいなくなったら大丈夫?」
「――大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれたら、大丈夫じゃないけど……何とかするから心配しないで。今までだってそうしてきたし。私強いし――」
「うん。確かに真琴は強いよね。でも、どんなに強くても、助けが必要な時があるでしょ?」
確かにその通りだ。今回の優子さんの件だって、話を聞いているだけでも内容が内容なだけに結構キツかった。それでも佑の笑顔を見ると心が絆されていった。佑には言わなかったけど、佑がいなかったら優子さんを支えきれなかったかもしれない。
「それでね。誰か僕の代わりに真琴のことを支えてくれる人がいたらいいなと思うんだ。僕には気を遣わなくていいんだよ。僕は真琴の側に居続けることができないから……本当は僕が真琴の側にいたいけれど……」
「心配してくれてありがとう。佑の気持ちは受け取っておくね。でも、私は佑がいいんだよ。他の誰かなんて……考えられない。今はそれでよくない?佑のことだけ見させてよ」
「真琴、ありがとう。僕はずっと自分のことだけ考えてたんだ。真琴は僕のものだ。僕だけが真琴の側にいるんだって。でも、今は真琴の幸せが一番なんだ。これが愛っていうものなのかな。真琴が一番幸せだなと思うことを選択していってほしい。これが僕の気持ちだよ」
精一杯正直に話した。それでも今僕たちの間には居心地の悪い空気が漂っている。愛とは本当に難しいものだ。
「ありがとう。佑の気持ちはわかったよ。それでも、佑がいなくなってからの話はしないで――」
「うん。わかったよ」僕は力無く頷いた。また、真琴を悲しませてしまったのだろうか……
真琴は食事を途中で終え、片付け始めた。食器を洗うカチャカチャという音だけがこの部屋に響いていた――