残りの時間
あの晩、真琴の気持ちを聞いてから僕はこれからの真琴との時間を大切にしようと心に決めた。女神様のことだ、きっと突然終わりを告げられるのだろう。なんとなく、もうすぐここを離れることになると感じていた。ここへ来て、もうすぐ一年になるのだ。
今日も真琴は警察官として頑張っている。真琴と話し合って、いつも通り をモットーに一日一日を大切に、お互いを大切にしていこうと二人で決めた。
「お疲れっす」
色々と書類を片付けていた真琴が顔を上げると、石田が立っていた。
「石田くん、お疲れ様。元気そうだね」ハコ長が穏やかに挨拶をした。
「おかげさまで。ハコ長、その節は本当にありがとうございました。ハコ長の言った通りでした」
石田は困ったような顔をしている。
「ちょっと、コイツ借りてもいいっすか?」
「どうぞ。でも、いじめないでね。僕の大事な部下だからね」
石田はバツが悪そうだ。いじめられたという感覚は私には全く無いが、石田が私に事あるごとに突っかかってくるということはみんな知っていたのだ。
「忙しいところ悪いな……」
「ああ」
石田の方から会いにくるだなんて珍しい。今日は嵐でも来るのかな――なんて考えながら交番の裏に回った。
「高坂からの手紙読んだよ――警察官続けろって書いてあった――続けろっていうか、辞めるなんて許さないって半ば脅しだったな――」
石田はなんだか嬉しそうだ。
「美樹らしいよな」私は空を見上げながら呟いた。
「あと、オマエのこと――長谷川のことをよろしく頼むって書いてあった――」
「はあ⁉︎」全く呆れた……美樹は一体どういうつもりなんだ⁉︎まったく、余計なことを……
「それと、今後長谷川をいじめたら許さない。地獄に引きずり込んでやるとも書いてあったな」石田は苦笑いだ。
「それと、最後に今までありがとうって――」
「長谷川――今までキツく当たって本当にすまなかった」石田が深々と頭を下げている――なんて眺めがいいんだ――大嫌いな奴が私に頭を下げている。悪くないな。
「俺がこんなこと言うのもおかしな話なんだけどさ。なんかあったら言えよ。何でも力になってやる」
「ふ〜ん。じゃあ、結婚してよ。私と」
「はあ⁉︎」石田は目を丸くしている。言葉が出ないようだ。真琴は至って真剣な顔をしている。
僕はひっくり返りそうだった――真琴が石田を……えっ……どうして……ついこの前、真琴とお互いの気持ちを確かめ合ったばかりなのに……
「冗談だよ」真琴はイタズラな顔で笑った。
「石田と結婚なんてするわけないだろ」真琴はまだ笑っている。
「まったく……オマエそういう冗談はやめてくれよ」石田は困惑しきっている――
「まあ、本当に辛いことがあったら頼らせてもらうわ。多分、一生ないと思うけど」そう言いながら真琴は立ち上がった。
「今度、美樹の実家に行こうと思ってる。警察官続けることにしたって報告したいんだ。石田も一緒にどう?」
「ああ。行くよ」
「スーツよく似合ってるよ。それじゃあな。また連絡する」真琴は石田に背を向け仕事へ戻っていった。
私たちは大丈夫――美樹が支え続けてくれるから――
「あの――すみません」
小さな子どもを連れた小柄な女性がやってきた。
「どうされましたか?」
「あの、先日お世話になった者なのですが……あっ!長谷川さん!あの――夫のことで――」
ああ‼︎旦那さんが自殺してしまったあの母子だ。
あれから数ヶ月が経った。
「こんにちは。どうされましたか?どうぞ、こちらに座ってください」真琴はパイプ椅子を勧めた。
「あの、その節は本当にお世話になりました」
「いえいえ。私は何もしていませんよ」真琴は穏やかに答えた。
「いえ……あの日は家族が到着するまで、私たちの側にいてくださってありがとうございました。あの時は長谷川さんが側にいてくださってとてもありがたかったんです。あの時は気が動転していて……お礼も言えず……」
真琴はあの日、この親子が心配で家族が到着するまで側にいたのだ。側に、というか仕事があるフリをしてそこに留まっていた。という表現が当てはまる。
「少し落ち着きましたか?」
「はい。やっと落ち着きました……と言いたいところなのですが、主人は職場で上司からひどいイジメに合っていたとわかりまして。それが自殺の原因のようです。主人は何も話してくれませんでした。私も気づかなくて……何もしてあげられなかった……」女性は力無く涙を流した。
「――イジメ……ですか……人が亡くなっているので、イジメではありませんよ。立派な犯罪です。どんな内容なのか伺ってもいいですか?」
「はい……えーと、夫は毎日 オマエは使えない奴だ、死ねなどと暴言を吐かれていたようです。頭を叩いたりはしょっちゅうで……仕事は全て夫に任せて……夫は昼食を摂る時間も無かったそうです。夫が亡くなった日はパソコンに向かって書類を作っていたら、椅子の背もたれを蹴られたようです……その際にも死ね、とっととこの世からいなくなれ……と言われていたそうです」女性は涙を流しながら話してくれた。
「ひどい話ですね……奥さんが被害届を出せば私たちはすぐにでも動けます。検討してみてください」
女性はキョトンとしている……今は悲しみが先行して、被害届は現実的ではないのかもしれないな。真琴はそう考えた。
「無理にとは言いません。捜査・逮捕・裁判とご遺族の方にはかなり負担になることも事実ですから。その都度、聞くに耐えない事実に直面するかもしれませんし、そしてその作業が何度も繰り返されます。でも、少し考えてみてください。ご家族にも相談して、何かあったらいつでもいらしてくださいね。一人で抱え込まないでください。私たちいつでもここにいますから」真琴は微笑んだ。
「……わかりました。少し考えてみます」
時々、真っ黒な感情に飲み込まれそうになるときがある。様々な負の感情が渦になって私の心を覆っていく。こんな時、私はいつも美樹に会いに行っていた。美樹と他愛もないお喋りをしていると、いつのまにかその感情も消えていた。美樹がいない今、こういう時の私はどうしたらいいのだろう……トボトボと歩きながらふと空を見上げた。
「美樹……会いたいよ」夜空には星がまばらに頼りなく光っている。東京はあまり星は見えない。
家に着くと、真琴はソファに倒れ込んだ。
「真琴……お疲れ様」僕は何か気の利いた言葉は無いか……必死で探している。
「佑もお疲れ様」
「今日は夕食食べないの?」
「うーん。食欲無いな……酒でも飲もうかな」
真琴はソファから動かない。
「佑は今日、辛くなかった?」
「えっ?」僕は驚いた。でも、真琴の言う通り今日の話は僕が生きていた頃の辛い記憶が蘇ってきた。心が血を流している……そんな感覚だ。でも、今の僕には真琴がいる。僕は強くなった。苦しいけれど、大丈夫。そんな気がしている。
真琴は自分が辛いときでも常に僕を気遣ってくれる。だから、僕は大丈夫だ。
「真琴の方が辛そうだよ」
「うん……ごめん。なんか今日のは堪えたわ」
「僕も職場でイジメにあってた。まるで、僕の話を聞いているみたいだったよ」僕は話し始めた。真琴を更に追い詰めてしまうかもしれない。それでも、今話すべきなのではないかと妙な使命感に囚われている。
真琴は身体を起こし、ソファに座った。
「横になっていて大丈夫だよ」
「ううん。ちゃんと聞きたい」真琴は僕を見つめている。
「どうして僕が標的になったのかはわからない。確かに僕は陰気臭いしね。言い返すこともできなかった」話していて情けなくなる……
「いじめは日に日にエスカレートしていって僕の感情は無くなっていった。色々考えることを辞めたんだ。そしたら、自分でも気づかないうちに死んでた。僕はずっと死神に手を掴まれていて、あの日引っ張られた。それで、僕の人生は終わった。あっけないというか、なんというか……自分ではどうすることもできなかったんだ。ただ、僕には僕がいなくなって心から悲しんでくれる人がいなかったから。あの旦那さんはあんなに悲しんでもらえて幸せだなって、ちょっと羨ましかったな。それと……僕がこんなことを言うのも違うとは思うんだけど……旦那さんはたくさんの人に愛されていたはずなんだ。だから、なんか贅沢だよなって正直な気持ちだよ」
佑は遠くを見ている――
「あの二人はお互いを大切に想うあまり、一人で背負ってしまったのかもしれないね。旦那さんは家族のために一人で耐え続けた。奥さんも子どもを育てることを一人で頑張り続けた。いろんなことを二人で分け合えていたら少し違ったのかな……それでさあ、仕事辞めようとは思わなかったの?」
「心が病むと、視野が狭くなるんだ。その考え方はできなかった」
「奥さん被害届出すのかな?」
「それはわからないけど、また次の犠牲者が出るかもしれないし、私が単純にそういうことする奴が許せないからとっちめたいっていうのもあるし。――できることなら出してほしいなとは思うけどね。罪を犯したら法で裁かれるべきだよ。でもまあ、それは奥さんが決めることだからなー。なんか悔しいけど……」真琴は本当に悔しそうだ。誰かのために一生懸命になれる。こういう所も大好きだ。真琴に触れたい――今、真琴に触れられたらどんなに幸せだろう……
「真琴――愛してる」
真琴は驚いている。真琴の大きな瞳が更に大きくなった。
「あ。イヤごめん……ごめんじゃない……えーっと。なんていうのかな。真琴を想う気持ちが溢れた――」
僕は全く何をしているのだろうか――元気が無い真琴の力になりたかっただけなのに。
「なんだそりゃ。あはは。なんていうか、うん。ビックリしただけ。今の流れってそういう感じだったかなって思って。うん。でも、なんかありがとう。佑のおかげで元気出たわ」真琴が笑っている。
「佑?もう一回言ってよ」
「えっ⁉︎」改めて言うとなると、ものすごく恥ずかしい……今僕が生きていたら顔は真っ赤だろう。真琴は期待しているような、ちょっとイタズラっぽいようなこれまた可愛い顔をして僕を見つめている。
「真琴 愛してるよ」