はじめまして
これは夢……なのだろうか。
疲れ切った身体を引きずりながら家に帰ってシャワーを浴びて、そのまま横になった。だからきっと、夢だろう。
何もないこの空間をただひたすら進んでいく。それが前なのか後ろなのかもわからない。随分と長い時間歩き続けている……と思う。時間はわからない。けれど疲れは全く感じない。
「はせがわどの……長谷川 真琴殿」私を呼ぶ声がする。澄んでいてとても綺麗な声。ウットリしてついボーッとしてしまった。
「ご足労感謝する。ソナタに頼みがあって来てもらった。率直に聞くがソナタ一年間の自殺者数を知っているか?」
仕事柄そういったことにはよく出くわす。夢の中でもこの話題か……私は少しうんざりしながら答えた。
「二万一千人越えです」
「さすが、よく知っておる。その通り。そして、年々増えている。我々としても早急に対策をせねばと危機感を募らせているところだ」
「対策……ですか?」考えたことも無かった。そちらに引き込まれてしまわぬよう、そういったご遺体を扱う際には心を無にするようにしている。どうして死んでしまったの……なんて少しでも考え始めたら一気に谷底に引き摺り込まれてしまう。自分の心を守るため、仕事としてただ「お疲れ様」と遺体を楽な状態にしてやる。それだけだ。死にたいと思うまでに様々なことがあっただろうに、対策なんてできるのだろうか……
考えを巡らせていると
「真琴殿」と美しい声の主に呼ばれハッと我に帰る
「一昨年自ら命を絶った者をそちらに送った」この声の主は一体何の話をしているのだろうか――
「はあ……」全く意味がわからなくて、気の抜けた返事をしてしまった。
「学び直しというのか、生き直しというのであろうか。まあ、来世でまた同じ過ちを繰り返さぬよう鍛え直してやってほしい。生まれ変わってまた死なれては困るゆえ」
「えっ⁉︎は⁉︎無理ですよ……私仕事もしてるし、そもそもそんな大役。どうして私に⁉︎絶対無理です‼︎お断りします‼︎」
「そんなに肩肘張らずに一緒に過ごしてもらえたらそれで良い。ソナタは適任ぞ。それでは任せた」
「いやいや……ちょっと‼︎」自分の叫び声で目が覚めた。何とも釈然としない変な夢だった。それにしても、こちらの意見は全く聞き入れてもらえないなんて……言いたいことだけ喋って……まったく……こんな理不尽あるのだろうか?夢ではあるが苛立ちを覚える。声の主は一体誰だったのだろう。妙にリアルで寝起きも最悪だ。
ふと気配を感じ飛び上がった。武器は何も持っていない。戦えるか?警察官の家に不法侵入するとはいい度胸だ。部屋を見渡すと、ソファに誰か腰掛けている。
「そこで何をしている‼︎」気配の方へ叫んだ。そこでは何とも弱々しい男が何か言いたげにしている。俯きがちで顔はよく見えない。ジーパンにTシャツ姿のその男はTシャツの裾をギュッと掴みながら話し始めた。
「あの……女神様からお話があったかと……思うのですが……お世話になります」その弱々しい男は深々と頭を下げた。
「いやいやいや、女神様って……アンタ頭おかしいんじゃないの‼︎そもそも人の家に勝手に上がってただで済むと思ってんの⁉︎」
「それはその、すみません。女神様に置いていかれてしまって」
私は科学が好きだ。だから、科学で証明されていないことは信じない。信じたくない。私の夢に誰かが入ってきて、一昨年自殺したとされる奴が私の部屋にいる。一体何なんだ。この男は誰だ?私はまだ夢を見ているのか……もし、これが現実だとしてもこんな陰気臭い奴と四六時中一緒だなんて勘弁してほしい。そうだ、ひとまず、落ち着こう。こちらに危害を加える気はなさそうだし。少し話を聞いてやろうじゃないか。
「え〜と、何から話したらいいのかな?その、女神様って私の夢に出てきた人のこと?」
「はい、そうです」
「それで、その女神様に私はあなたのお世話を頼まれた」
「はい」
「あなた、自殺したの?」弱々しい男のTシャツを握った手にさらにギュッと力が入った。
「言いにくいことを聞いてごめんなさい。ただ、こちらも何も聞かずに、はいそうですか。とあなたを引き受けることはできない。今日は非番で私も時間があるから話したくなったら話して」男は俯いた後、静かに頷いた。
目覚めが最高に悪い……せっかくの非番、今日は1人でゆっくり本を読みながらゴロゴロしたいな、なんて願いは儚く消えていった。
ひとまず、朝食にしよう――フライパンに卵を二つ割入れる。ジュットいい音がする。ヨーグルトも食べよう。ミルクたっぷりのコーヒーも飲みたい。
「あのさぁ。コーヒー飲む?お腹すいてる?」奴を受け入れた訳ではない、ましてお客でもない。しかし自分だけ飲み食いするのも気が引けるので聞いてみた。するとその男は
「えっと、僕は幽霊なので食事は必要ないんです」「――そっか。わかった」私は何の感情も込めず答えた。そのまま朝食の支度に集中した。
「さてと」テーブルの上に大好きな目玉焼きとヨーグルト、生野菜にコーヒーを並べテーブルに着く。奴に目を向ける。まだTシャツの裾を握りしめながら俯いたままだ。
「ねえ、こっちに来て座らない?」どうして私が気を使わなければいけないのだ……男は静かに立ち上がる――というべきなのか、浮いている……両足は閉じたままこちらに近づいて来た。何か特別な力が働いているのか……椅子を静かに動かし席についた。「幽霊だ……」唾をごくりと飲んだ。心なしか背筋がヒンヤリとした。
「……顔あげてくれない?」未だ俯いたままの男にそう伝えてみた。顔は青白く覇気が無い。幽霊だからそう思うのだろうか?マイナスの塊のような男だ。
「えーっと。その、女神様って言ったよね?どんな人?」まずは当たり障りの無い話から始めてみた。すると男はまた、俯いてしまった。が、何やらゴニョゴニョと喋っている。
「女神様はとても綺麗です。でも、僕が自分で命を絶ったことをとても怒っているんだと思います」男は弱々しく答えた。
「その女神様はどこにいるの?あなたはどこから来たの?」
「女神様は天界にいて、僕は下界を彷徨ったり女神様に呼ばれて天界に行ったりしていました」
「へぇ……」何と返答したらいいのか……聞きたいことは山ほどあるが頭がついていかない。コーヒーを飲みながら少し考えたい。しばらく沈黙が続く。
――しかし、考えても考えてもよくわからない。なんだかもう、どうでもいいや……私はこの件について
理解しようとすることを諦めた。
「私がどんなに理解できなくても、受け入れられなくてもあなたはここにいるってこと?」
「はい。女神様の言うことは、絶対 なので……すみません……」男は申し訳無さそうに答えた。
「あなた名前は?」考えることも抵抗することも諦めた。私は理解不能なことが起こると思考が停止するらしい。今回の発見だ。
「青野 佑です」
「あおのたすく――いい名前だね。私は長谷川 真琴。まことでいいよ。」
こうして、ものすごく頼りなさそうな幽霊との同居が始まった。