呆然
いつのまにか眠りに落ちていた。重い瞼を持ち上げると、馬屋に陽の光が差し込んでいる。はっと目が覚めて、慌てて立ち上がった。今は何時?早く戻らないと。
宿に入り、急ぎ足で部屋に向かう。恐々とノックしてエメラを呼ぶ。返事が無い。あれ、と思いノブを回すと鍵がかかっていなかった。
「エメラ?」
中には誰もいなかった。自分の荷物だけが、ぽつんと床の隅に置かれていた。
「え……」
ちょうど通りかかったおかみさんが、開きっぱなしのドアから顔を覗かせる。
「あら聖女様。忘れ物ですか」
「え、いえあの、他の皆はどこに」
おかみさんは変な顔をした。
「2時間前に立たれましたよ。聖女様もご一緒だったのでは?」
「いいえ私は……」
めまいを覚えてふらつく。おかみさんは驚いて体を支えた。
「なにか行き違いがあったのかしら。今お水を持ってきますから、ここで待っていてくださいね」
ルミリスをベッドに座らせてぱたぱたと走って行く。何が何だか分からなかった。もう仲間は宿を出ているのか?待つように言われたが、ルミリスは焦る気持ちを抑えられずに部屋を出る。カタリナとルーシー、エイベルの部屋を確認に行くが、どちらももぬけの殻だった。自分は置いて行かれたのか?いやそんなことはありえない。何の話もなしに置いて行くなんて、全員が納得するわけない。
「おや。どうしたんですか、ルミリスさん」
振り向くと、クライドが立っていた。ズボンと首元を開けたシャツ一枚のラフな服装だ。ルミリスは彼に詰め寄って訴える。
「クライドさん!皆が、皆がいないんです」
「はい?ちょっと落ち着いてください。どういうことですか?」
通りかかった客にじろじろ見られて、クライドはひとまず自分の部屋にルミリスを入れた。
「それで、何があったんですか」
「私も、まだ状況が飲み込めていないのですが……」
一部を伏せて昨日の晩、クライドを部屋に送った後のことを話した。
「ふうむ。エイベルさんと言い争いをした後、馬屋で一晩過ごし、戻ったらいなくなっていたと。置き去りにされたってことですよね。状況から考えて」
うなだれたルミリスを見て、慌ててマイルドに言い直す。
「何か誤解があったのかもしれませんね。仲間を黙って置いて行くなんておかしいですし」
「そうですね……」
クライドはどうしたものかという顔をした。ふと、何かを思い出したようだ。椅子から立ち上がる。辺りを探して、一枚の畳まれた紙を拾い上げた。
「記憶が定かではないのですが、早朝にカタリナさんが訪ねて来たんですよ。忘れていました」
「カタリナさんが?」
「ええ。もしルミリスさんが戻ってきたら渡してほしいと言われて」
紙を受け取って開く。そこに書かれていた内容は、全く予想外のことだった。
『急なことで、非常に混乱している。もしルミリスが戻って来たときのために、要点だけ書き残しておく。まず確認しておきたいんだが、ルミリスが旅を諦めて逃げたというのは嘘なんだよな?エイベルの話では、ずっとルミリスに言い寄られていて困っていたというんだ。それで昨日はっきり断ったら逃げてしまったと。それで、ルミリスは王都に返して自分たちは旅を続けようと話がまとまってしまったんだ。すまない、私一人の反対では覆せなかった。
私たちは予定通り鍛冶の街に向かっている。着いたら手紙を出す。ルミリスを迎えに王都から兵士が来るはずだから、そこに留まってくれ』
「これは……」
「なるほど。勇者様に嵌められましたね」
後ろから手紙を覗き込んだクライドがそう言う。確かに彼の嘘のせいでこうなったのは疑いようがない。だがそんな悪意を彼が自分に向けたことが信じられなかった。昨日の言葉は本音だったのか?自分はそれほど嫌われていた?
茫然とするルミリスを、クライドは軽い声色で呼ぶ。
「ルミリスさん」
「……はい」
「昨日、勇者様と口論したと言いましたけど、本当は違うんじゃないですか?勇者様が一方的に貴方に惚れていたのでは?」
驚くルミリスを見て、やっぱりそうかとクライドは笑った。
「勇者様の態度が露骨だったので。私が貴方の手を借りて部屋に戻るときも、思い切り睨まれました」
「エイベルさんがそんなことを……?」
ルミリスは少しの間無言になり、目を伏せて考え込む。そして決意した表情で立ち上がった。
「私、皆を追ってパーティに戻ろうと思います」
「えっ?」
戸惑うクライドに頭を下げて、部屋を出ようとする。クライドは慌ててその肩を掴んで止めた。
「待った待った。追うって今からですか。もうかなり遠くに行ってしまっていますよ。貴方は一人で旅なんてできないでしょう」
「いいえやります。これは意地ではありません。魔王討伐は私の責務なんです。投げ出すなんてできない!」
頭が沸騰するようだ。多分今の自分は冷静じゃない。しかし飛び出した言葉は紛れもない本心だった。
「……なら、迎えの兵士に送ってもらいましょう。カタリナさんもそうすべきだと考えているはずです」
「それでは、駄目なんです。守ってもらうばかりでは結局変わらない。エイベルさんは私のそういうところに苛立っていたのかもしれません。だから、皆と一緒に旅をする力があると証明したいのです」
「……そんな価値がありますかねー」
クライドの声色が嘲るようなものに変わった。その表情は笑顔だったが、目が冷たい。ルミリスは熱くなっていた頭が冷えていくのを感じた。
「心の綺麗な聖女様に、一つ助言して差し上げましょう。大人しく王都に戻った方がいい」
「いいえ私は」
「今代の勇者は無能のクズですよ。彼に魔王討伐なんてできるとは思えません」
聞きなれない暴言を耳にして絶句する。彼も勇者に敬意を示していたはずなのに。完全に態度がひっくり返っている。
「強引に迫ったことがバレるのを恐れて、仲間に嘘を吹き込むような人間ですよ。信じてしまう仲間も仲間です」
馬鹿ですよねーと彼は笑った。
「多分旅の途中で瓦解するでしょうから、あなたは王都で新しいパーティを編成すればいいんですよ。騎士団の優秀な人を勇者代理にして」
とんでもない言葉が次から次へと飛び出してくる。めまいがしそうだ。ルミリスは努めて冷静さを保って言う。
「今の言葉は、聞かなかったことにします。ご存じないのかもしれませんが、勇者はたった一人だけ神託で選ばれるんです。誰でもいいわけではありません」
「知っています。けど勇者は絶対に必要なものではないでしょう?」
ごく当たり前のことのように言われ、一瞬思考が止まった。ルミリスの反応を見て、クライドはちょっと考えて、ああと手を打った。
「本物の勇者がいた方が楽なのは確かですよね。すみません、きわどいことを言ってしまって。で、追いかけるんですか」
「は、はい。ご心配はありがたいですが、気持ちを変えるつもりはありません」
「やめたほうがいいと思いますけどねー」
何か認識がずれているような気がしたが、今はそれどころではない。ルミリスを探していたおかみさんに、宿を出ることを伝えて迎えの兵士への言伝を頼む。
「ええっ!?お一人で旅をなさるのですか!?大変だわ。ちょっとお待ちください。保存食と少ないけどこれ、持って行ってください」
「これはお金……受け取れません」
返そうとしたが、ひょいと小袋が取り上げられる。クライドだった。旅支度を済ませた格好だ。
「受け取った方が良いですよ。ルミリスさん、今無一文なんですから」
「あら、詩人さんも一緒なのね。少し安心だわ」
「ええ。責任を持って送り届けますよ」
そんなこと聞いていない。ルミリスは困惑して視線を行ったり来たりさせた。さあ急ぎましょうとクライドはルミリスの背を押して外へ出る。ルミリスはその勢いに流されながら、振り返っておかみさんに礼を言った。
「ありがとうございます!必ずご恩を返しにうかがいますので――」
「そんなの構いませんよ!頑張ってください、応援してます!」