8.君と行きたい
空が白む。長い長い、地獄の夜が明けようとしていた。
遠くから地鳴りが響く。巨大な校舎が、細かく震えている。寧守は最初、いよいよ中庭の地面が崩れ落ち始めたのかと勘繰ったが、違った。二つの校舎そのものが揺れている。主たる悪魔の意思を失った地獄が、沈もうとしていた。
「どうしよう……」
寧守は呆然とつぶやいた。クノカネルナが消滅した今、このままでは、寧守も杏勾も地獄に沈んでしまう。
「大丈夫だよ」
だが、杏勾は寧守を安心させるように笑った。
崩れ出す校舎の中に、杏勾は寧守の手を引いて入っていった。保健室の扉に手をかけて、杏勾はくすりと笑む。
「どこに行きたい? 寧守」
「ど、どこって……?」
いつもと異なる、どこか蠱惑的な杏勾の表情にどきどきしながら、寧守は聞き返した。
振動と共に、校舎が崩落していく。そんな中、杏勾はまるで平静に、寧守の問いに答える。
「どこでもいいよ。好きな所へ、連れて行ってあげる」
「じゃ、じゃあ……海、とか?」
寧守の答えを聞いてから、杏勾は扉を開けた。向こう側から溢れてくる光に、寧守は息をのむ。扉の向こうには、青い空と海がどこまでも広がっていた。
崩れていく柘榴石校舎――その扉を抜けて、寧守と杏勾は海岸へと駆けていく。
「すごい、本当に……!」
夏の日差しが降り注ぐ砂浜に立ち、寧守は感嘆をつぶやいた。振り向くと、たった今通り抜けた扉は跡形もなく消えている。
「……どうやったの?」
「君が望んだから、扉が開いた。それだけ。人の魂をさえぎるものなんて、本当は何もないんだよ、寧守」
波を割って、大きなクジラが砂浜に身を乗り出してくる。ごつごつと貝が付着したその頭に、ちょうど人が一人通れそうな大きさの扉が付いていることに、寧守は気が付いた。
杏勾はためらわず扉を開ける。その向こう側に、緑色の大地が見える。
「行こう」
杏勾に誘われ、寧守はクジラの頭に開いた扉をくぐりぬけた。そこは背の丈ほどの草が生い茂る草原だった。巨大な竜が空を横切り、大きな影を草原に落としていく。
杏勾は次々に扉を見つけ、異なる世界へと寧守をいざなった。火口が煙を噴き上げる黒々とした岩山、静謐な湖を擁する霧の森、褐色の見たことのない材質でできた建物が立ち並ぶ都。寧守と杏勾は、無数の奇妙な世界を渡り歩く。ありとあらゆる場所。ありとあらゆる世界を、杏勾と寧守は見た。
どれほどの世界を経ただろうか。一枚の扉の前で、杏勾は立ち止まった。
「寧守。この扉が、最後の扉だよ」
振り向いて、彼女は寧守に尋ねる。
「どこに行きたい?」
「私は……」
「君の、本当に行きたい場所。望む世界。この扉は、そこにつながっている」
「私の……望む世界」
「そう。さあ、扉を開いて」
杏勾に促され、寧守はその扉を開けた。
そこは、なんの変哲もないワンルームのマンションの一室だった。寧守の開いた扉は、その部屋の玄関にそのまま繋がっている。ゆっくりと、二人はその部屋に歩み入った。
「……私は、杏勾がいてくれれば、それでいい」
杏勾の方を振り向いて、寧守は言った。
「どんな世界でもかまわない。私はただ、ずっと、杏勾のそばにいたい。それだけが望み。私は……」
まっすぐにこちらを見つめてくる杏勾に、恥ずかしくて目をそらしたくなりながら、それでも寧守は続けた。
「杏勾。私は、ずっと、あなたと一緒に生きたい」
「私も、同じ気持ちだよ。寧守」
杏勾は、そう言って寧守の手を取った。彼女のうるんだ瞳の中に、これまで見たことがない感情の火が揺れている。寧守の初めて見る表情。泣くことと笑うことを同時にしようとすれば、こんな顔になるだろうか。
「君と一緒にいきたい。ずっと、傍にいてほしい」
「本当に……?」
涙ぐんで、寧守は杏勾の手を握り返した。杏勾は恥ずかしそうに頬を染めてうなずく。寧守は、感情の赴くままに杏勾を抱き寄せた。そして。
誰にそうせよと言われたわけでもないだろうが――開け放されていた玄関の扉は、独りでに閉まったのだった。
それから、寧守と杏勾は二人で過ごした。好きな時間に起き、交代で料理を作って食べる。
この世界に、二人以外の人間はいなかった。電気や水道は通っていて、冷蔵庫には常に新鮮な食べ物がある。この世界のすべては、杏勾と寧守が生きていくためだけに存在していた。寧守の望みが導いた、扉の向こうの世界。
部屋に一つしかない、セミサイズのダブルベッドの上で二人は寝起きした。時には二人で部屋の外へ出て、誰もいない世界の夕暮れを散歩する。夜になれば部屋へ戻り、朝まで寄り添って眠る。時には二人でベッドの上、朝になるまでお互いについての意見交換をすることもあった。
こんなに幸せでいいのだろうか、と寧守はよく思う。
二人の生活はいつまでも続いた。いつまでも続くように思えた。実際、少なくともそれは十年以上の歳月であるように思えたが、二人にも世界にも、なんの変化もなかった。ここはただ、そのためだけの空間なのだ。どれほどの歳月がたっても、二人でいる事に飽きることはなかった。
「寧守はさ、これだけは見てみたい、ってものはないの?」
ある日、杏勾はそんなことを尋ねてきた。
「見ておきたいもの?」
ベッドに寝転がりながら、寧守は聞き返す。
「んー。見ておきたいものかー」
ごろごろとベッドの上を転がりながら、寧守はうなる。そんな彼女の様子に、ベッドのふちに腰掛けている杏勾がくすっと笑った。
「思いつかない?」
「……ていうか、けっこう前に、二人でいろんな世界行ったでしょ。あれで満足かな」
「あー、あったねえそんなこと」
うんうん、とうなずく杏勾。あれがいつのことだったのか、正直なところ寧守には明確な記憶がない。この部屋に移ってからどれだけの年月が経ったのか……それ以前の記憶というのはひどくあいまいで、夢のようにおぼろげに思えた。
「杏勾は、何かあるの? 見ておきたいものって」
あるのなら、今度一緒にそれを見に行くのもいいかもしれない。そんな軽い気持ちで、寧守は尋ね返した。杏勾は、つと笑みを深くして、秘密を打ち明けるように声を落とし、言う。
「私は、今を見たい」
「……今、って?」
よくわからずに、聞き返す。続く杏勾の言葉も、寧守には理解しがたいものだったが。
「過去、未来、現在。私たちは、『今』を――『現在』を生きている。だけど、それを知覚することはできない」
「知覚できない?」
「そう。私たちが感じているのは……見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わっているのは、すべて過去の情報なんだよ。たとえば私の話すこの言葉だってそう。私の口から出て、空気を伝い、寧守の耳に届き、鼓膜を震わせ、電気信号へと変換されて脳に届き、そこで再び音声情報として復元される。それだけのプロセスを経て、ようやく届く。でもそれは、その時点ですでに過去の言葉となってしまっているの」
と、杏勾は寧守の方を見たまま、ふと目を閉じ、人さし指を立てる。
「『でも次の瞬間を予測することはできるよ』。その通り」
「でも次の瞬間を予測……あれ?」
言葉を先取されて、寧守はきょとんとする。そんな彼女の様子を見てくすくす笑いながら、杏勾は続けた。
「けど寧守、それはあくまで未来でしょう。君がそうして、予測されたことで言葉を途中で止めたように、未来は変化する。それに対し、過去は不変の性質を持ってる。未だ存在しないがゆえに未来。すでに成されたがゆえに過去」
そこで杏勾は、ふと表情を真剣にした。
「私が知りたいのは、そのどちらでもない現在。私たちが存在する、なのに誰ひとりとして、それを知ることのできない場所」
「でも、杏勾」
この意見も予測されているかと思ったものの、寧守は口をはさんだ。
「杏勾の『今』の定義の通りなら、その『今』っていうのは五感じゃ知覚できない物ってことにならない? 音と同じに、光だって臭いだって、感触も味も、すべて脳に伝わってから意識にのぼる、その過程は一緒なんだから。だったら『今』っていうのは、真っ暗で何も感じられない場所、っていうことになっちゃうよ」
「そうだね」
杏勾は静かにうなずいた。決然としたまなざしで、続ける。
「だけど……人の魂は、そこにたどり着ける。私はそう信じている。全ての時間の流れが集う場所へ」
「全ての時間の流れ……」
「宇宙が生まれたのって、いつだと思う? 寧守」
「……いっちばん遠い昔、でしょ? 全てがそこから始まったんなら」
だが、杏勾は首を振って否定した。
「宇宙はね、今、生まれているの。だって、そうでしょう? 現在という一点に、すべての、過去と未来が収束する。それが真実なんだから」
「……難しいよ。わからない」
「わかるよ。必ず」
そう言って、杏勾はベッドがくっつけられている部屋の壁を指さした。
「だって、そこにあるんだから」
杏勾の言っていることを、寧守は半分以上理解できていなかった。ただ、彼女が細い指で寧守の背後にある壁を指さした瞬間、全身があわだつような、ぞっとする感覚に襲われる。理由のわからない恐怖に追い立てられ、寧守はベッドの上に身を起こして背後を見た。
いつもなら、寧守が背にしていたその壁には窓があり、マンションの前の通りが見下ろせるはずだった。今日だってほんの数分前まで、寧守はその窓から夕日を眺めていた。だが、今は何もない。かわりに一面をコンクリートで埋め立てたような、くすんだ灰色の壁がそこにあった。そして。
その壁の真ん中に、穴がぽっかりと口を開けていた。ちょうど小柄な人間が身をかがめれば入れるくらいの直径の、暗黒がどこまでも続く穴。
「ようやく、たどり着いたね」
喜びを湛えた表情で杏勾はそう言って、ベッドの上に立った。そのまま、ゆっくりとした足取りで、穴の前まで進んでいく。
「杏勾……」
言いしれぬ不安に襲われて、寧守は彼女の名をつぶやいた。何も知らぬ寧守にも、ただ一つ、わかることがある。あの穴の向こうには、これまで寧守が体験してきた世界とはまるで異質な何かが広がっている。どんな地獄でも及ばないような、ありとあらゆる事象を冒涜する、虚無よりもはるかに虚ろな何か。
寧守の呼びかけに、杏勾は振り向くと、心底から喜びをあらわにした笑顔で、告げる。
「君とここに来る日を、私はずっと待っていた。無限に思える時を繰り返しながら、ずっと。私の生み出した過去を、君がたどって来てくれるのを、ずっと、ずっと。この場所で、ずっと待っていたんだよ」
「待って……いた?」
寧守の体に震えが走った。彼女の言葉を理解できない。杏勾は一体、なんの話を――いつの話を――だれの話をしている?
杏勾は話を続けていた。なんの、いつの、だれの話だかわからない話を。本当に嬉しそうに、愛おしそうに話した。誰にも理解できない、その選択を。
「あの日。『扉』に触れたあの瞬間、私は全てを理解した。ここが、全ての始まりだと。過去と未来の始発点にして終着点。ここから少しでも動けば、遠ざかっていくばかり。だから、このルートを選んだ。寧守、君が私の元にたどり着いてくれる、唯一のルートを。邪霊たち、悪魔たち、そして私たちの思惑と行動が相互に干渉し、噛み合うことでしか成し得ない到達。たとえば、私の殺されるタイミング。たとえばクノカネルナがほんのわずかな一瞬、君を裏切るのをためらったこと。そんな些細な積み重ねが、少しづつ君の意識や行動に影響を与え、君の選択を後押しし、この結末へと導いた。私と――『羊谷杏勾と、ずっと一緒に居られる世界』を、君は望んでくれた。二人で現世に戻るのでも、二人がずっと幸せでいられる世界を望むのでも駄目なんだ。この部屋でなくてはならなかった。君のイメージが、寸分狂わずこの部屋を思い描いてなければいけなかったんだよ、寧守」
そう言って、杏勾は部屋の中を示した。二人が過ごした部屋。どれだけ長い間を過ごしても、変化の訪れない部屋、変化の訪れない世界。まるで、同じ時間を繰り返しているような。
「『今』に最も近い場所で留まり続けるために、無数の『瞬間』を繰り返し続ける世界。この世界に、君が自ら望んで、扉を開いて来る。無限に等しい広がりを持つ並行宇宙の中で、寧守が私のいるこの部屋までたどり着くのは……そんな過去にして未来が訪れるのは、このたった一つの選択肢しかなかった。だけど君は――ちゃんと、ここまで、来てくれた。私は、それが本当に嬉しくて、誇らしいよ」
全てを語り終え、杏勾はとびきりの笑顔を浮かべた。そして彼女は、寧守に向けて右手を差し出す。いつものように。子供が遊びに誘うように。
「行こう。寧守」
自分に向けて差し出された、杏勾の右手を――
寧守は、恐ろしいものでも見るような思いで見つめていた。お互いに知らないことはないと、そう思えるまで理解した……と、思っていた。しかし、今は。
わからない。まるで、わからない。杏勾が何を望んでいるのか。一体、何を選択したのか。扉の向こうに、何を見たのか。何を知り、何を思って、あの恐ろしい穴の向こうへ行こうと誘うのか。わからない――
「どうして……?」
気が付くと、そう口にしていた。どうして、そんな所へ行かなくてはならないのか。杏勾と二人、この場所で、こんなにも幸せなのに。そんな思いからほとんど無意識にこぼれた、疑問の言葉だった。
だが、杏勾の表情を見て、寧守は自分が取り返しのつかない過ちを犯したことに気が付く。杏勾は、一目でわかるほどはっきりと衝撃を受け、深く傷ついたという表情をしていた。最後の最後に、信頼する者からの手酷い裏切りを受けた人間の顔だった。
その表情も、すぐに消えた。杏勾は目を伏せ、饒舌なそれまでとは一転、何も言わぬまま寧守に背を向ける。
「あっ……」
寧守は、杏勾に追いすがろうとした。傷つけてしまったことを謝ろうと、彼女の肩に手を置いて――そして、その右手が何に触れることもなくするりと空を切るのを見た。
「えっ?」
理解できないまま、戦慄が背筋を駆け抜ける。杏勾は気付きもしない様子で、壁の穴へと向かって歩いていく。
「ま、待って――」
呼びかけながら、寧守は同じようにベッドの上に立ち、杏勾に触れようと歩き出す。
歩いて、触れようとしても、目の前の杏勾に手が届かない。業を煮やして、寧守は走った。それでも。
(追いつけない――!?)
胸中で、悲鳴を上げる。そんな馬鹿なはずがない。それほど大きくもない、セミサイズのダブルベッドの上だ。立ち上がって移動せずとも、その場でちょっと手を伸ばすだけで、届かない場所などない。そんな空間で、寧守は走っている。すぐ目の前の杏勾へ向けて――壁の穴へと歩いている杏勾へ向けて、全速力で走っている。なのに!
「まって、待ってよ杏勾!」
寧守の必死の呼びかけにも、杏勾は答えない。シーツに足をもつれさせて転びそうになりながら、寧守は死に物狂いで走った。だが、寧守と杏勾の距離は縮まるどころか、次第に――遠く、離れていく。
混乱する寧守の脳裏に、つい先刻の杏勾の言葉がリフレインした。私たちは、今を知覚できない。まぎれもなく今という瞬間に存在しながら、けっしてそれに追いつくことはない――
「待ってよ、杏勾! 置いて行かないで!! 私も、連れていって――――」
寧守の叫びに、もはや耳を貸すことはなく……杏勾の手が、コンクリートの壁に触れた。そこには黒々とした穴が、彼女を待ちかまえるように開いている。
穴の淵に手をかけるや、杏勾は滑り込むようにして闇の中に身を躍らせ、消えた。寧守を振り向くこともなく、一言も発することなく。
その光景に、寧守はひざから崩れ落ちた。震える指先で、目の前の壁に触れる。そこには窓があった。白く清浄な朝の光が、部屋の中に差し込んでいる。くすんだコンクリートの壁も、杏勾を飲み込んだ黒い穴も、どこにもなかった。
寧守はベッドの上に、呆然と座り込んでいた。後から後から、涙があふれてくる。
杏勾はもう、この世界のどこにも居ない。それがはっきりと理解できた時、寧守は絶叫した。