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7.天国の狼



 明かりも灯されず、曇天の薄暗い光だけが窓から差し込んでいる、柘榴石高校の保健室。そこに、三人の人影があった。

 一人は、制服姿の小柄な短髪の少女。目つきが悪く、かなり疲労の色が濃い。どこか不安そうな表情だ。

 もう一人は、それよりもさらに小さな金髪の少女。赤いパーカーに身を包み、フードをすっぽりと被っている。こちらは対照的に自信に満ちた顔で、瞳を輝かせて最後の一人を見下ろしていた。

 最後の一人は、ベッドに横たえられている、長い黒髪の少女。お伽噺の姫君のように、美しいまま眠り続ける少女――羊谷杏勾。

 短髪の少女――安永寧守は、祈るような思いで杏勾を見つめた。

「クノカ……お願い」

 寧守の言葉に、クノカはうなずいて、杏勾に手をかざす。

『我、今ここに、クノカネルナの名において契約を果たさん。羊谷杏勾の魂よ、帰還せよ』

 条理をねじ曲げる者。悪魔クノカネルナの厳かな詠唱が、あたりに響く。その時、杏勾の瞼がうっすらと開いた。

「……杏勾」

 おそるおそる、寧守が呼びかけると、杏勾はこちらを向いて、優しく微笑む。

「……またそんな、泣きそうな顔して。初めて会った時みたい」

「憶えてる、の? あの時のこと……」

「君と初めて会った時のことを、私が忘れるわけないでしょ。寧守」

 感極まって何も言えないでいる寧守を、杏勾は身を起こして、優しく抱きしめる。

「ごめんね。もう二度と、置いて行ったりしないから」

 静かなささやきは、全ての咎人を救う許しの言葉のように響いた。寧守はもう何も考えられず、杏勾の華奢な体をただ強く抱き返す。

 しばらくの間、寧守は杏勾の胸に抱かれたまま、すすり泣いていた。



「さて。それじゃあ、本題に入りましょうか」

 数分後、まだベッドの上で抱き合ったままの寧守と杏勾に向かって、そう言ってきたのはクノカだった。

「本題?」

 涙の跡が残る顔で、それでもいくぶん平常心を取り戻した寧守は杏勾から体を離し、クノカに聞き返す。杏勾を甦らせること以外に、本題と呼べるようなことが他に何かあっただろうか。

と、杏勾にクノカのことを何も話していないと気が付いた。訝るような視線を金髪少女に向ける杏勾に、寧守は説明する。

「この子はね、杏勾を甦らせる手助けをしてくれたんだよ。クノカって言って、精霊、じゃないけどええとまあそんなような――」

「羊谷杏勾。あなたに、力を貸してほしいの」

 しどろもどろになった寧守の言葉をさえぎって、クノカは言った。ベッドの上の杏勾へ向けて。

「……え?」

 呆けた声を上げたのは寧守だが。杏勾は無言で、クノカを見返している。そのどちらにも構うことなく、クノカはにこにこと笑いながら話を続ける。

「あなたの魂の持つ、扉を開く力を借りたい。それがあれば、わたしは今度こそ完全な姿で現出することができる、協力してくれるわよね――杏勾」

「な、何を言ってるの、クノカ……?」

 混乱する寧守に、さらなる混乱を与える言葉を杏勾はつぶやいた。

「そう……そのためにあなたは、私を殺したんだね。狼魔クノカネルナ」



 薄暗い保健室に、言いようもない空気が重く停滞していた。

「どういう、こと……?」

 寧守の疑問を無視して、クノカネルナは肩をすくめる。

「あなたに真名を教えた覚えはないのだけど……どうやって知ったのかしら。おそろしい子ね、あなたは」

(ふ、二人とも、なんの話をしているの?)

 困惑する寧守の気配を察したのか、杏勾が答えてくる。視線は金髪の少女に向けたまま。

「地獄への扉を開いてしまったのは……私なんだよ、寧守。教室の黒板に描かれていた『扉』を覚えてる? チョークで描かれた、白いサークル――二重線式の越界円扉。あれは、クノカネルナが用意していた罠だった。私はそれに触れてしまい、そして――」

「そして、開かれた『扉』を通り、わたしが現出した。もっとも、一度目は失敗だったけれどね。扉が狭すぎて、完全な肉体では通ることができなかった。扉の大きさに合わせデチューンされた不完全な体……それすら扉を通過する際の負荷に耐えられず、ほとんどバラバラになってしまったけれど。われながら、流石に無茶すぎたわ」

 杏勾の言葉を続けたのはクノカネルナだ。寧守の脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。杏勾と二人きりの、旧校舎の教室。黒板に描かれた謎の模様。杏勾が触れようとするのを、寧守はなぜか必死に止めようとして――いや、だが、あれは夢ではなかったか。

「地獄化を引き起こしたあたりで、わたしは悪魔としての力をほとんど失っていた。だから杏勾をおびき寄せてもう一度、次は完全な形で扉を開かせることにした……けど、そこでまたも予定外の事が起きたのよね。再び扉に触れた羊谷杏勾は、そこから流れ込んでくる知識を得て、わたしの正体を、目的を見破ってしまったの。わたしが精霊ではなく悪魔であることを。だから」

 クノカネルナはいたずらがばれた子供のように、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。

「……殺すしかなかったのよ」

「……つまり」

 混乱する頭で、寧守はなんとか、自分にとって重要な部分をすくいあげて理解する。

「杏勾は、巻き込まれて死んだわけじゃなく……クノカが、自分の目的のために殺したってこと?」

「そう言わなかったかしら?」

 寧守は、杏勾の居るベッドから降りた。足元に放っておいたカラキリを、鞘ごと掴み上げ、抜刀する。いつもなら、実感がわかないほどにするりと鞘から抜けるのだが、今はなぜか鞘に刀身がひっかかった――いや、違う。刀を扱う寧守の右手が、震えているのだ。

 かたかたと震える手で、刀を抜き放ち、ゆっくりと――それ以上の速度は出せそうになかった――ゆっくりと、金髪の少女へ、切っ先を突き付ける。

「それは、つまり」

 ごくりと唾を飲み込んだのは、刃を突き付けている寧守の方だった。からからに渇いた喉から、かすれた問いかけを投げかける。

「私に、杏勾を甦らせるようしむけたことも……全部、あなたのお膳立て通りだったってこと、だよね」

「ええ、そうよ。杏勾の力はどうしたって必要だもの。砕け散った肉を集めたところで、この肉体はそもそも不完全なのよ。本来のわたしの力には遠く及ばない」

「だったら……次にあなたがすることは。しようとしていることは、ひょっとして」

「そうね」

 あっさりと、クノカネルナは認めた。

「あなたとしたように――今度は羊谷杏勾と、使い魔の契約を結ぶことかしら」

 少女の言葉を聞いた次の瞬間。

 寧守はカラキリを翻し、クノカネルナに斬りかかっていた。が。

 少女の細く白い指。一本だけ立てられたその指が、カラキリの刃を受け止めている。鋼鉄すら裂く妖刀の刃が、少女の柔肌に傷一つ与えられていない。

「速さも鋭さも、初めての時に比べてだいぶ増したわね。この一晩でずいぶん強くなったじゃない、寧守」

「ふざけないで――」

『動くな』

「っ!?」

 続けて斬りかかろうとした寧守を、クノカネルナの一言が封じた。たった一言命令されただけで、寧守の全身が硬直し、ぴくりとも動かなくなる。

「忘れたとは言わせないわよ、寧守――あなたはわたしの命に従う。互いの真名にかけて、それを誓ったはず。それを違えることはできないわ」

 邪悪な笑みを浮かべる、クノカネルナ。

「さて、どうかしら羊谷杏勾。もちろんわたしは、あなたとも対等な契約を結びたいと思っている。あなたの魂の価値を鑑みれば、複数の願いを叶えることもやぶさかではないわ。そうね、さしあたっては『安永寧守を使い魔から解放する』なんて願いはどう?」

「それも取引材料の内ってこと、か」

 感情の見えない、低い声で杏勾はつぶやいた。動けずにいる寧守を安心させるように、杏勾は手を伸ばして、そっと寧守の背中に触れる。

「私を殺した後、地獄に放り込んだのも、あなたよね」

「ええ。『奔る地獄』は楽しかったかしら? わたしの故郷なんだけど、悪くないところでしょう?」

「~~~~っ!!」

 ほとんど動けず、声も出せない状態で、寧守は奥歯を噛みしめてクノカネルナを睨みつけた。杏勾を殺しただけでは飽き足らず、さらなる苦痛まで与えたのか、この悪魔は。

 寧守の表情を見て、クノカネルナはにやにやと嬲るように言葉を続けた。

「地獄じゃあ、時間の流れも現世とは違うからね。現世ではほぼ一晩が経ったから、換算して……そうね、一ヶ月くらいさまよったことになるのかしら? ねえ杏勾?」

 あからさまな挑発には耳を貸さず、杏勾は冷静に質問を返した。

「あなたは、簡単に私を殺せる。その魂だけ地獄に幽閉することもできる。なのに、どうしてそうまでして私を支配しようとするの」

「魂の持つ力っていうのはね、わたしたちのような悪魔には理解できないものなのよ」

 悪魔の少女はそう言って、わざとらしくため息をついた。

「たとえばわたしが、人間を殺して、その魂を手に入れたとする。だけど、そうして命を奪い、無理矢理に支配したところで、魂は元通りの力を発揮しない。この世の理を超越するような力……扉を開き、異なる世界をつなげる力……その出所はわからないし、現象を認識できても力そのものは知覚できないの。わたしたち悪魔にも、ね。その力を扱えるのは、人間の魂だけ。あなたが、あなたの意思で、その力を使わなければ駄目なのよ、杏勾」

「脅迫で従わせるのが自由意思?」

「脅迫じゃないわ。これは正当な取引よ。わたしが提示するのは、安永寧守の――」

 と、クノカネルナは寧守を示す。が、寧守の方を見た瞬間、滑らかだったその言葉が途切れた。

 歯を食いしばり、ぎりぎりと体を軋ませながら、寧守が少しづつ動いている。命令の拘束力を、彼女の意思が上回りつつあるのだ。

「……わ、たしを、取引、材料になんて、させないっ!」

 叫んで、寧守は斬りかかる。クノカネルナはするりと攻撃を避けたが、驚きを隠しきれない表情のままさらに後ろに跳んだ。保健室の壁に斜めに着地したクノカネルナは、追撃の意思を見せる寧守に、指を突き付けて叫ぶ。

『クノカネルナの名において命ず! 安永寧守よ、動くな!』

「――っ!!」

 瞬間、走り出そうとしていた寧守の体がびくりと止まる。だが。

「……ぁああああああああっ!!」

「なっ!?」

 再び走り出した寧守に、クノカネルナは驚愕の声を上げた。気勢をあげて斬りかかって来る寧守を、クノカネルナの右手が受け止める。カラキリの刃が、白い掌に食い込み、血を跳ねさせた。

「どうして、動ける……!」

「悪いんだけど、クノカネルナ。人間はあなたたち悪魔よりもずっと、嘘つきなんだよ」

 ベッドからするりと降り立ちながら、杏勾が言う。

「契約を破ることだってできる。情報の集積体である悪魔とは違って、人間の魂は情報ですらない。何からも保証されない。実在すらも確定しない。だからこそ、何よりも自由な力を持つ。それこそが……条理に容易く穴を開ける、『扉を開く力』だよ」

「そう……あなたにも、魂の力があったわね。安永寧守」

 ぎり、と奥歯を噛みしめながら、クノカネルナが言う。小柄な少女の姿をした悪魔は、右手に握りしめた刀を、持ち手の寧守ごと放り投げた。寧守は短い悲鳴を上げて壁に叩きつけられるが、すぐに跳ね起きて、再びクノカネルナに対峙する。

「杏勾を……使い魔になんてさせない。あんな辛い目になんて……」

 カラキリを、切っ先で地を裂くように構えながら、寧守はうなる。

 寧守は床を蹴ってクノカネルナに飛びかかった。だが駆け寄る途中で、がくん、と失速する。

「っ!?」

「水臭いじゃない、寧守。そんなに使い魔が嫌なら、言ってくれればよかったのに」

 蒼い瞳を輝かせながら、クノカネルナが低くささやいた。

 寧守は急に重くなった自分の体に戸惑いながらも、カラキリを悪魔少女へ向けて振り下ろす。だが、クノカネルナは避けもしなかった。彼女の被る赤いパーカーのフード、それに触れるか触れないかの所で、刀がぴたりと停止する。

「初めにそう伝えたでしょう。嫌なら、いつでもやめさせてあげるって」

 クノカネルナが、寧守に貸し与えていた魔力を回収したのだ。寧守の身体能力は人間のそれへと一気に逆戻りする。そして――

 ぞぶり。

「ぐっ!?」

 腹部に鋭い痛みを感じ、寧守はバランスを崩した。苦痛の発生源へと視線を下ろしてみれば、右手に提げていたはずのカラキリが、いつのまにかその刃を、寧守の腹部に深々と喰い込ませている。長い刀身の半分以上が突き刺さり、切っ先が背中へと抜けていた。

「あの不愉快な退魔士から聞かなかった? その子は、わたしの体を別けて作った『妖刀』なのよ。ねえ、寧守――わたしの貸した力で、わたしのあげた刀で、あなたは一体、誰を倒すつもりだったのかしら?」

 あざけるようなクノカネルナの言葉を聞きながら、寧守はその場にくずおれた。



「寧守っ!」

 友の名を呼ぶ杏勾に向き直って、クノカネルナは勝ち誇る。

「取引材料が増えたわね、杏勾。寧守の回復力は人間のそれに戻っている。このままだと遠からず、彼女は死ぬでしょう。救えるのはわたしだけ。ねえ、杏勾。あなたにとって、安永寧守は、大切な友達でしょう」

 杏勾は、クノカネルナを強いまなざしで見た。少女の姿をした悪魔は、にやりと口の端をゆがめる。

「強い魂を屈服させるのは、とても難しいことよ。あなたにどれほど苦痛を与えたところで、果てのない地獄を永遠にさまよわせたところで、あなたはわたしの言うことなど聞きはしないでしょう。けれど、そんなあなたの唯一の弱点が、彼女――安永寧守の存在。そうよね?」

 確信的な口調で、クノカネルナは告げた。

「あなたは彼女を見捨てられない。絶対に」

「……そうね」

 静かに、杏勾は認めた。視線はクノカネルナから外さないが、彼女の意識は地に倒れ伏す寧守へと向けられている。それを感じ取り、クノカネルナはほくそ笑んだ。

「ならばわたしと契約なさい。安心して、杏勾……何もわたしはね、あなたを酷い目に遭わせたいわけじゃないの。さっきも言ったけれど、あなたの魂の力には、敬意を払うだけの価値がある。あなたがその力をわたしに預けてくれるのなら、この世界のほとんどのものを容易く手に入れることができるでしょう。あなたは欲するものを望むだけでいい――寧守と二人、ずっと幸せに暮らせるようにだってしてあげられるわ」

 見た目だけは少女のように、クノカネルナは可愛らしい仕草で首をかしげた。

「悪い話じゃないでしょう? 羊谷杏勾」

「クノカネルナ」

 ぽつり、と杏勾がつぶやく。

「何かしら?」

「クノカネルナ。あなたの名前は、どういう意味なの」

「……名前の意味?」

 杏勾の意図が分からず、クノカネルナは眉根を寄せる。杏勾は構わず言葉を続けた。

「悪魔として生まれた時、その名はどうやってつけられたの。あなた自身が名乗ったのか、誰かから定められたのか。それとも……」

「そんなことが知りたいの? まさか、それがあなたの願い?」

「いいえ。私は、ただ――」

 訝るクノカネルナに、杏勾はゆるりと首を振る。その言葉の途中で、衝撃がクノカネルナを襲った。

「な、ぁっ……!?」

 横殴りの衝撃は、小柄な少女の姿をしたクノカネルナを真横に跳ね飛ばし、保健室の壁ごとぶち抜いて校舎の外へと押し出していく。

「――ただ、彼女の傷が癒えるまで、もう少し時間を稼ぎたかっただけ」

 誰もいなくなった保健室で、杏勾は一人、つぶやいた。



「ああああああっ!?」

 絶叫を上げるクノカネルナを――

 寧守は、全力の体当たりで壁にぶつけた。保健室の壁をぶちぬき、中庭を抜け、向かいの校舎の壁まで一息に。寧守が腰だめに構えた「カラキリ」の刃は、深々と金髪少女の腹に突き刺さり、彼女を壁に串刺しにする。

「な、ぜ……っ! 傷は……あの傷で、動ける、はずがっ……」

 血を吐いてうめくクノカネルナが、寧守の体を見て、絶句する。

 寧守の腹部の傷から、蒸気が上がっていた。じゅうじゅうと焼けるような音を立てて、傷がふさがっていく。

「回復法術……! あの退魔士か!? なぜ、奴がお前に術を施す!? 何があった……!!」

 クノカネルナの問いかけに、寧守は荒い息を吐きながら応えた。

「……私にも、わからないよ。ただ、彼は最後に、私に術を託したんだ」

 言いながら、寧守は彼の……楠木明良の言葉を思い出す。これは、人が悪魔と戦うために編み出した、究極の術だと。彼はクノカネルナのこと、悪魔のことを浅からず知っていた。ひょっとしたら、遠くない未来に起こり得る、クノカネルナと寧守の決別を、彼は見ていたのかもしれない。

「だ、だが、剣、剣、その、剣は――」

 そう言って、クノカネルナはカラキリの刀身を見下ろした。だが、その漆黒の刀身を目にして、悪魔の少女は悲鳴を上げる。

「――ほ、本物の、『空斬り』!? どうして、わたしが折ったはずのそれが、ここに有る!?」

「私が、門を開いて呼び寄せたのよ」

 彼女の疑問に答えたのは、杏勾だった。壊れた校舎の壁から中庭へと歩み出ながら、彼女は静かに言う。

「あなたが作った贋作の『カラキリ』を起点に、類似する過去のアーティファクトを探して置き換えた。それは1347年前、あなたの右脇腹に突き刺さって折られる以前の――正真正銘、本物の『空斬り』よ」

「お、前――」

 杏勾に向けて右手をのばそうとするクノカネルナ。寧守はとっさに、突き刺さったままの空斬りを、斜め上に薙いだ。水でも切るような抵抗のなさで、空斬りは壁とクノカネルナの体を裂き、右腕を斬り落とす。悪魔の少女は、獣のような断末魔を上げた。

「ぐぅぐぐるぶぶ……」

 人間離れした声で唸りながら、クノカネルナはそれでも寧守ではなく、杏勾を睨みつける。

「羊谷杏勾……なぜ、それほどまでに力を使いこなせる……!? 真実を知り、わたしに殺されたあの時ですら、ここまで自在に扉を開くことはできなかったはず……なのに、なぜ……!?」

「私に時間をくれたのはあなたでしょう、クノカネルナ。さっきの質問に答えておくよ――『奔る地獄』は、確かに悪くない場所だった。とても有意義な時間を過ごせたよ。自分の内面を、魂を見つめ直すのに、充分なだけの時間を」

「――っ!!」

 杏勾の言葉に、悪魔の少女が後悔を口にするよりも早く。

 寧守の振るった『空斬り』が、クノカネルナを両断していた。頭から真っ二つになった少女の体が、一瞬で黒く染まり、崩壊する。

 だが――

「寧守っ!!」

 杏勾の叫びに、考えるよりも早く寧守の体は動いていた。消し炭のようになったクノカネルナから離れ、杏勾を抱きかかえて距離をとる。次の瞬間、空気が歪み、膨張した――

ググゥグルアァァァアアァッ!!!

 絶叫と共に、虚空を引き裂いて、巨大な狼頭の怪物が姿を現す。

寧守は杏勾を抱きかかえたまま、渡り廊下の屋根を目がけて跳躍した。クノカネルナの魔力によって『限界を超える感覚』を記憶した寧守の肉体は、回復法術を得ることで、再び人間を超越した動きを可能にしている。

 渡り廊下の天井をへこませながら着地した寧守は、空気をゆがませて膨れ上がるその怪物を、呆然と見つめた。

 中庭を埋め、両隣の校舎を圧迫するほどの巨体。全身を、白に近い灰色の毛でおおわれたそれは、人と狼の間のような形をしていた。頭には二列の牙を持つ狼の頭、五本の指がある手には鋭い鉤爪が。だが人と狼どちらの特徴でもないのは、その腕が六本、体側面に並んで生えているということだ。

「あれは……いったい……?」

「『狼魔』クノカネルナ。あれが、悪魔としての本性よ」

 寧守の疑問に、杏勾が静かに答えた。

 狼の怪物と化したクノカネルナは、鋭い歯列を剥き出しにして涎をまき散らしながら、ぎょろりと蒼い目玉を動かして寧守たちを捉えた。狼頭の巨人が、少女であった時とは似ても似つかない声でわめき散らす。

「よくもこのわたしに傷を――最早、不完全なこの肉体でも構わぬ! 強き魂の持ち主は、地上に侵攻したのちまた探せばよい――羊谷杏勾!! その魂、今度こそ喰らってくれるっ!!」

 山のごとき巨体の怪物となったクノカネルナの敵意が、杏勾一人に集中する。並みの神経の持ち主ならそれだけで卒倒しかねない悪意の塊を向けられ、しかし杏勾は、不敵に笑った。

「それは無理な相談だよ、クノカネルナ。今やあなたは、恐ろしい力を持った怪物。対して私たちは、ただの普通の女の子ふたり。

『恐ろしい怪物』が、『女の子』を相手に――――勝ち目があると思ってるの?」

「ガゥルルアァァァ!!!」

 咆哮と共に、狼魔の右手が全て振り下ろされてくる。瞬間、寧守は杏勾を小脇に抱えたまま、前方へ飛んでいた。クノカネルナの足と足の間をすり抜けて反対側へと駆けていく。

 素早く振り向いたクノカネルナの左手が、背後から掬い上げるように迫ってくるが、寧守は校舎の壁を蹴って反対側へ降り立ち、かろうじてそれをかわした。鉤爪の生えた巨大な左手が、砂の城を崩すようにやすやすと校舎の壁を破壊する。振り向かず、寧守は全力で足を動かし続けた。狼の巨体が身動きするごとに地面が震え、校舎に挟まれて浮かんでいるだけの中庭が崩れてしまうのではないかと寧守は危惧した。

 ひとまず安全と思われるだけの距離をとり、寧守はそこで杏勾を降ろす。

「杏勾、隠れていて!」

 庇うように彼女を背にして、寧守は空斬りを構えた。クノカネルナの体は、今もなお巨大化を続け、何もせずとも柘榴石校の校舎を破壊しつつある。到底、寧守のかなう相手ではないように思えた。だが。

(でも、杏勾のためなら……私は戦える。どんな相手とだって……)

 寧守の肩に、ぽん、と手が置かれる。驚いて振り向くと、杏勾がすぐ横にいた。

「ありがとう、寧守」

 優しく微笑んで、杏勾が言う。

「だけど、大丈夫。クノカネルナは……私が倒すから」

「えっ?」

 寧守が疑問の声を発した、瞬間。

「グェグルグルルウァガガガガッッ!!!」

 けたたましく吠えながら、巨獣と化したクノカネルナが、大きく顎を開けて飛びかかってくる――

 とっさに『カラキリ』を放とうとした寧守を抑え、杏勾は告げた。

「『ナノク』と『ネネルカ』」

 瞬間、ぴたり、とクノカネルナの巨体が止まる。寧守は確かに見た――クノカネルナの、直径二メートル以上はある蒼い瞳が、恐怖に近い驚愕で見開かれるのを。

 天の裁きを代弁するかのごとく、重々しい口調で寧守は告げた。

「お前を、天国へと還してやろう。名もなき牛飼いの狼よ」

「どう、して、その名を」

 かすれたような声でつぶやくクノカネルナに、杏勾は語り出す。誰にも知られることはなかったはずの物語を。

「……ある日の気まぐれな善行で、天国へと召し上げられた、一頭の狼。たぐいまれなる頭の良さを買われ、狼は天国の牛飼いを命ぜられる。

 だがこの狼、性根はやはり気ままな森の獣、すぐに退屈な牛飼いの仕事に嫌気がさした。狼は、水を飲みに群れから離れた、双子の、うまそうな子牛に目をつける。この二頭くらい、自分が喰ったってかまうまい。狼は牙をむき出して子牛を追い、驚いた二頭の子牛は必死で逃げる。その先には、川が――」

「やめろォッ!!」

 絶叫して、クノカネルナが右腕を振る。だが、その鉤爪は杏勾を捉えることなく空振りした。

「なっ……!?」

 何が起こったのかわからないという顔で、クノカネルナは杏勾を見つめる。その右手は、確かにこの少女を捉えるはずだった。だが実際には、幻でも撫でたかのようにすり抜けた。

 狼魔が途方に暮れて動きを止めた瞬間、見計らったように杏勾は話を再開する。

「……神の子牛を殺した咎で、狼は天国を追われ、地獄へと落とされた。双子の子牛の名は、『ナノク』と『ネネルカ』――」

 ぴたり、とクノカネルナに指を突き付け、杏勾は告げた。

「その名は、己が犯した罪の証。それが、悪魔であるあなたの物語よ。『クノカネルナ』」

「だから……何だというのだ。そんなことで、このわたしを支配したつもりか」

 深く唸るように、クノカネルナ。狼魔の言う通りだと、寧守は冷や汗を流した。いくら正体を暴いたところで、この悪魔を倒せるわけではない。ただ、なぜかクノカネルナもこちらを攻撃できないようだが……

 狼魔の問いに、しかし杏勾は首を振った。

「いいえ。私はただ、あなたを天国に還してあげたいだけ」

「何を馬鹿な……」

 杏勾の言葉を笑おうとしたクノカネルナの言葉が、途中で止まった。巨大な狼の頭が、ばっと鼻先を空へ向ける。

 周囲に、それまでとは違う清浄な空気が満ち始めたのを寧守は感じた。曇っていた空が、いつの間にか晴れている――ちょうど寧守たちのいる真上の空だけが、ぽっかりと青空を覗かせていた。そこから、まばゆい光が降り注ぐ。

「な、ぜ……」

 怖れを含んだ声音で、クノカネルナがつぶやく。杏勾は目を細めて、無機質な口調で言った。

「魂の持つ力を忘れたの、クノカネルナ。私たちは扉を開くことができる。そしてそこから、望むものを選択し、呼び寄せることができる……『いつでも』『どこでも』『なんでも』、ね」

「ひッ――」

 恐怖にひきつった悲鳴を上げて、クノカネルナがその場から逃げだした。いや、寧守には始め、クノカネルナが逃げているようには見えなかった。狼の巨体がその場で暴れ、地面を引っ掻き、足だけがばたばたともがいている。どれだけ激しく動いても、クノカネルナは今いる位置から全く動けていない。

「な、なぜ!? なぜだ、なぜ逃げられんっ!!?」

 たまりかねたように叫ぶクノカネルナを見ながら、寧守もまた疑問を抱いていた。

(移動できていない? どうして?)

「動けていないわけじゃない」

 口に出してもいないその疑問に答えたのは、またもやというべきか、杏勾だった。

「クノカネルナの周囲すべてに、門を開いただけ。彼女が今いる場所へと通じる門をね。どれだけ移動しても、どこに行こうとしても、必ず元の場所へ戻ってくる。だから動いていないように見えるのよ」

「グ、ァアアァルグァアア!!!」

 絶叫して、狼魔が周囲を無茶苦茶に引っ掻きまわす。だが、その爪先はもはや何物にも届くことはない。

 ひらり、と寧守の目の前に、何かが舞い降りる。雪のように見えるそれは、まっ白な羽だった。寧守が手に取ると、それは空気のように軽く――指に触れた雪の結晶が溶けるように、手の中でほどけて虚空に消えた。一枚だけではない。空にぽっかりと開いた光の穴から、いくつもの純白の羽がひらひらと舞い降りる。

「安心して、クノカネルナ。あなたはもう、名もなき愚かな獣じゃない。地獄の底でさらに罪を重ねた、れっきとした悪魔よ。天はきっと、あなたを迎え入れてくれる……この世の条理に仇なす『敵』として」

「あ、ああ、あああああ……」

 杏勾の宣告に、クノカネルナは、怯えたようにその場に座りこんだ。いつの間にか、その体は巨大さを失っている。見る間に、クノカネルナは元の少女の姿に戻っていった。少女は天を見上げ、両手を組み合わせて、そこにいる何者かに向けてまるで祈るように許しを乞う。

「違う……違う、わたしはただ、現世に、生まれ育ったあの森に……ああ、そんな、御慈悲を、お願いです、どうか――」

 その言葉をさえぎるように、天から伸びる無数の銀光が、悪魔の少女を貫いた。数百本の、荘厳な装飾のほどこされた銀の槍に全身を突き刺され、クノカネルナの瞳が零れそうなほど見開かれる。悲鳴すら上げる事も許されないまま、少女の体が持ち上がった。引き上げられる無数の槍と共に、クノカネルナの体がゆっくりと、天へ昇っていく。その姿が雲間に消え、やがて、まばゆいばかりの光もやんだ。

「おかえり、クノカネルナ」

 空を見上げながら、杏勾がぽつり、とつぶやいた。



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