5.橙に光る海
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
嫌な子供だったのだと思う。
昔の自分のことを思い起こすに、そう表現するのが最も適切だと、寧守は考える。今だって別段、自分が他人を快くする存在であるとは思わないが――逆の事ならよく思うが――それにもまして、昔の寧守は嫌な子供だった。他人を見下し、馬鹿にしながらも、自分から何をするでもない。退屈を誰かのせいにして、日々の生活に常に不満を抱えていた。
小学四年生の夏休み。寧守はTシャツに短パンという男の子のような格好で、自転車に乗って家の裏にある小さな山に出かけた。目的地があったわけではない。ただ、どこかへ行きたかっただけだ。
山道を逸れ、道なき道を進む。決まり切った景色などうんざりだった。がむしゃらにペダルをこぎ、汗を流しながら、生い茂る林の中を走っていく。
そのころの寧守は、ちょうど自意識のこじらせが最もひどいころだった。昨日見たテレビの話で盛り上がる同級生が馬鹿みたいに見えて、そんな彼女たちに愛想笑いを返すことが、拷問のように苦痛だった。違うクラスの誰誰が好きだの、どの教科の教師がいちばんムカツクだの、注意されないようにこっそりお化粧をしてきただのといったくだらない話題に、興味のある振りをして相槌を打つのもごめんだった。どうして私がそんなことをしなくちゃならないんだ、と寧守は本気で怒っていた。
(みんな、友達が欲しいんじゃないんだ。自分の話を聞いてくれる相手が欲しいだけ、あなたは正しいよって言って欲しいだけじゃないか。そんなのが本当の友達なもんか。くだらない)
そんなような事を考えて、怒りながら、怒っている自分に酔いながら、寧守は自転車を走らせた。当てもなく彷徨ったその先に何かがあると、根拠のない予感に身を任せて、山の中を進む。
唐突に林が開け、プレハブ建ての小屋が現れた。壁はぼろぼろで入口の扉も倒れていて、かなり長い間手入れされていないことがうかがえる。
廃墟といっても差し支えないその建物を前にして、寧守は胸をときめかせた。林の奥で見つけた謎の建造物。この奥にはきっと、誰も見たことのないような世界の秘密があるに違いない。今から思えば大げさだが、その時は本気でそう思っていた。
自転車を降り、興奮で息を弾ませながらプレハブ小屋に足を踏み入れる。机の上に投げ出されたままの工具、天井からぶらさがるケーブル、足元でじゃりじゃりと音を立てる割れたガラス。そんな物のひとつひとつが、寧守にとっては非日常を象徴する刺激的なオブジェクトだった。
プレハブ小屋を探検しつくしても、寧守の興奮は収まらなかった。まだこの建造物の全てを解き明かしてはいない、このまま引き下がるわけにはいかないと、無意味な義務感に突き動かされ、寧守は建物の周囲を探索する。と、プレハブの裏に、鍵が開いたままの物置を発見した。
深く考えもせず寧守は扉を開けて、物置の中に侵入した。そこには草刈り機や大工道具に混じって、見たことのない薬品類がいくつか放置されている。
寧守は『重大な秘密』を発見したことで得意になって、上機嫌で物置の中を探索していた。物置の棚の、一番上に乗せられた木箱を取ろうとして、棚に足をかける。
ぐらり、と平衡が崩れるのを感じた時には遅かった。大きな物音を立てて、棚が倒れる。
寧守は咄嗟に目を閉じて、体を丸めていた。それが功を奏したのか、背中を床にしこたま打ち付けただけで怪我はなかった。だが、目を開けてすぐに異常に気が付く。
暗い。目を開けているというのに真っ暗だ。闇の中でおそるおそる手探りすると、どうやら棚が落下する際のはずみで物置の扉が閉められてしまったらしい、とわかった。斜めにもたれかかった棚を、なんとか元の位置に戻す。ついで扉を開けようとしたが、開かない。血の気が引いた。両手で、全身の力を込めて扉を引く――が、物置の扉はぴくりとも動かなかった。
「だ、誰か! 誰かいませんか!!」
扉を叩いて外に呼びかける。だが、すぐにやめた。山道からも外れた、何年も人の手が入っていないようなプレハブ小屋の物置。そうそう人が通りかかるはずもない。
(ど、どうしよう、どうしよう――)
奇妙な探検に感じていた高揚など、とっくに失せていた。暗闇の中、焦りだけがつのっていく。寧守は今日、誰にも告げることなくここに来た。出かけることすら秘密にしていたくらいだ。彼女がここに居ることを知っているものは、誰ひとりいなかった。
どれほど時間が経っただろうか。工具でこじ開けようとしたり、抜け道はないかと探したり、考えうる限りのことは試してみたがことごとく失敗に終わった。無駄と知りながら物置の外への呼びかけも再開したが、獣の唸り声のようなものが外から聞こえてきたので中止した。今はもう何の気配もない。
(……もう出られないのかな。この先ずっと、誰にも見つけてもらえないまま……)
その考えが、ひどく嫌な重みを帯びて、寧守の胸にのしかかってくる。外に出ようと試行錯誤した末、ぐちゃぐちゃに散らかった狭い物置の中で、寧守は膝を抱えてすすり泣いた。その時。
ガタンッ。
物置の扉が、そんな音を立てて震えたかと思うと、まっ白な光が物置の中に差し込んでくる。逆光の中に、寧守とさして変わらない背丈の人影が見えた。
長い黒髪の少女だった。仕立ての良い白いフリルシャツに落ち着いた黒のスカート、だが足元は、動きやすそうな青いスニーカー。大きな瞳が、外からの光を受け、きらきらと輝いて見えた。
寧守と同い年くらいに見えるその少女は、右手を寧守に向けて差し出してただ一言、
「行こう」
と告げた。
あなたは誰? どうしてこんな所に居るの? そんな当然の疑問を一切尋ねることなく、会ったばかりの寧守に対して、ごく自然に。
少女のあまりに自然なふるまいに、寧守もまた疑問を抱くことなくその手をとった。そうすることが、生まれる前から約束していた決めごとのように思えたのだ。
迷いなく手をとった寧守に、少女は笑みを浮かべる。長らく探していたものをようやく見つけたかのような、満足げな表情で。
(ああ――そうか、私は――)
少女の柔らかな笑顔に見とれながら、寧守は思った。
この少女と出会うために、私は生まれてきたのだと。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
新校舎の廊下の窓から、寧守は外を見下ろしていた。はるか下、果てしない闇の奥に向かって、校舎の壁面がどこまでも続いている。クノカの話では、この闇の底はそのまま地獄の深い階層へと繋がっているらしかった。校舎が高い塔のような形状になっているのは、少しでもこの地獄を現世に近い場所に留めるために、悪魔が作り替えたのだろうと。高く高く積み上げて、少しでも闇の底から離れるために。
杏勾のいる保健室は、この校舎塔の上階、『元・一階』とでも言うべき階層にある。思い出せば、あの保健室だけはこの異常空間から切り離されたかのように無事だった。窓の外から見える中庭の景色は、地獄に変質する前となんら変わらないように見えた。クノカの話では、やはりあの中庭は二つの校舎塔に挟まれて浮いているだけらしいが。
その反対側、もともと校庭が見えていた側の窓。その窓枠に肘をついて奈落を覗き込みながら、寧守がつらつらと思い出すのは、杏勾と初めて出会った時のことだった。物置小屋の暗闇から救い出されたあの日から、寧守にとって杏勾は最も大切な友人だった。その天真爛漫な表情や、時折見せる悟ったような言動……彼女と接するほどに、寧守は惹かれていった。今思えばそれは、ほとんど恋のような感情だったかもしれない。
「……あなたが、私に手を差し伸べてくれたんだよ。杏勾」
ぽつりとつぶやく。昔の話だ、彼女はもう忘れていることだろう。だが、寧守にとってそれは、何よりも大切な思い出だった。
「何たそがれてるの、寧守?」
横から呼びかけられ、寧守は物想いを中断して振り向いた。金髪の精霊少女が、廊下の真ん中で余り気味のパーカーの袖をひらひらと振っている。
「お待たせ。一通り磁場を調べてみたけど、悪魔の肉はもう、この地獄の中には残ってないわ。残りはすべて、『針刺』が保有していると見て間違いないでしょうね」
「『針刺』……私の見た、仮面の男だよね」
「ええ。その出自は、苦痛の悲鳴の甘美さに魅せられた、とある処刑場の拷問官だとか。長い歳月を生き残ってきた、狡猾で残忍な邪霊よ。加えて、大量の悪魔の肉を吸収することで、その力は増大しているはず。間違いなく、今までで最強の相手になるでしょうね」
「……ふぅん」
「あら、余裕って感じ? 頼もしいわね」
「……そういうわけじゃないよ。ただ、選択の余地がないってだけ。杏勾のためなら、私はどんなことだってする。そう決めたんだから」
二つの選択肢。どちらかが零点で、どちらかが百点の問題。だが、寧守が丸をつけられるのは、杏勾の名前がある方だけだ。そこで迷うことに意味はない。
(……私に、多くは選べない。それはわかってる。だったら……私はもう、迷うべきじゃない)
腕の中で消えていった邪霊の少女を思い出しながら、寧守はぎゅっと拳を握った。
「『針刺』を倒せたら、悪魔の力が戻ってくる。それでようやく、あなたの友達、羊谷杏勾を甦らせることができるわ。頑張ったわね、寧守」
寧守のそんな思いに気づいているのかいないのか、クノカが外見相応の無邪気な笑顔で、寧守にそう告げる。だが、その時。
ずどぉぉん!!!
地を揺るがす轟音が、柘榴石校の校舎を揺らした。
「な、何!? 今の音……」
衝撃に揺れる校舎の中で、寧守はあたりを見回した。廊下の蛍光灯が激しく振れて、天井や壁の至る所できしむ音が聞こえる。何か大きな力が、校舎を直撃したようだ。
「地震、かな? でも、ここって地獄の中なんだよね? ねえ、クノカ――」
自分よりまだしも状況を理解できそうだと、精霊の少女の方を見やった寧守はぎょっとした。赤いフードを被った金髪の少女は、うつむいて肩を震わせている。その全身から――小柄な肩から、握りしめられた拳から、フードに隠れて見えない表情から、凄まじい負の感情が立ち上っていた。
「『熱する地獄』のマーデ……」
これまで聞いたこともない低い声で、クノカがつぶやく。それこそ地の底で悪魔が唸るような、心底いまいましげな口調で。
「身の程わきまえぬ虫ケラが……わたしの、邪魔を……っ!!」
「く、クノカ……?」
そう聞いた瞬間に、寧守の全身からどっと汗が噴き出したのは、何もクノカから発せられる威圧感だけが理由ではなかった。周囲の気温が、急激に上昇したのだ。肌寒いほどだった夜の校舎の空気が、瞬間的に呼吸すら辛いほどの高温へと変わる。同時に、窓の外からオレンジ色の光が差し込んできた。
「一体、何が……」
「寧守。まずいことになった」
ぱっと顔を上げて、クノカ。その表情にさっきまでの異様な雰囲気はなかったが、隠しきれない焦りが透けて見えた。
「新たな悪魔が現れた。このままだと、この地獄すべてが沈んでしまう。早急にカタをつけなきゃならない」
屋上を目指して廊下を早足で歩きながら、クノカは説明した。
「正確には、悪魔本体じゃなくて、その使い魔――というより、末席の眷属でしょうね。三十二扉の地獄を支配する悪魔の一柱、『熱する地獄』の灼熱蛾マーデ。柘榴石校の地獄域が下がってきたのを見計らって、比較的存在の小さな眷属を送り込んできたんだわ。無茶なことを」
一歩踏み出すごとに、周囲の気温が一度、上がっていく気がする。手で扇を作ってあおぎながら、寧守は質問した。
「無茶、なの?」
「そうよ。大方、この地獄を足がかりにして現世へと進軍するつもりなんでしょうけど……マーデの眷属の存在値は、それでも大きすぎるのよ。かろうじて浮かぶ難破ボートに、クジラの子供が乗っかって来るみたいなもの。へたをすれば船ごとひっくり返って沈没よ。あっちにしてみれば、沈んだところで元いた場所に帰るだけなんだから、駄目でもともとのつもりなんでしょうけど」
「そ、それは困るね……」
「ええ。早急にお帰り願わないと、わたしたち、永遠に地獄を彷徨うはめになるわ。何としてでも……倒さなきゃならない」
「……これまで倒してきた『邪霊』より強いの? 『悪魔の眷属』って」
寧守の質問に、クノカはすぐには答えなかった。しばしの沈黙をはさみ、ぼそりとつぶやく。
「比較にさえならないわ。悪魔の強大さは、邪霊なんかとは次元が違う」
「……私たち、勝てるかな」
「どうあがいても、力の総量で相手を上回ることはできないでしょうね。でも……」
と、クノカは足を停めた。金髪少女は振り向いて、まっすぐに寧守の瞳を見つめる。
「あなたなら、勝てる。そう思えるのよ、寧守」
「……どうして、そう言えるの? 私には、取り柄なんてない。クノカからもらった力はあるけど、私にはそれ以外、何もないよ」
「いいえ、寧守。あなたには戦士の資質がある。刀を持たされたからって敵を斬れるわけじゃない。力を与えられたからって戦いに勝てるわけじゃない。戦士の資質とは、すなわち戦って勝つということよ。武器や力の有無なんて二次的なものに過ぎない。あなたはこれまで勝利を収め続けてきた。それは紛れもない、あなた自身の戦果よ」
「……よくわからない。私はただ、必死だっただけで。戦士の資質なんて、あるとは思えないよ」
「今はわからなくてもいいわ。でも、今この地獄で悪魔の眷属を打ち倒せる可能性があるのは、あなただけ。わたしはそう判断したのよ」
クノカは寧守の顔をまっすぐ見上げながら、言った。
「だから――負けるかもしれないなんて、余計なことは考えなくていい。あなたはただあなたの友のために、戦って、勝ちなさい。安永寧守」
「……うん」
「いい返事だわ」
寧守の返事に、クノカは初めて会った時のような、にやりとした笑みを浮かべた。寧守も、少々ぎこちないが似たような笑みを作る。
そこは、屋上へと続く階段の手前だった。足元から溶けてしまいそうな熱気の中、クノカは屋上への扉を示しながら説明を開始する。
「灼熱蛾マーデ、およびその眷属は、燃え盛る翅を持つ巨大な蛾の姿をしているの。奴らは『熱』を司る。その翅から撒き散らされる燐粉……『加熱燐粉』は、付着したものの温度を際限なく上げていくわ。おそらく奴は、屋上から校舎全体にその粉を撒き散らしている」
「……どうして、そんなことを?」
「この地獄を自分たちの支配下に置くためよ。マーデは三十二ある地獄の内の一つ、『熱する地獄』の支配者。この地獄がそこと同じ灼熱の世界になれば、この場所はマーデの新たな領地となる。屋上には恐らく、その加熱燐粉が充満しているはず。普通の人間なら、一呼吸しただけで、肺が燃え上がって死に至る。けど、寧守、今のあなたの回復力ならその程度のダメージは問題ない。一瞬で回復するでしょう」
「……それ、肺が燃えること自体は防げないってこと?」
「問題はそこよ。いくら回復するとはいえ、一呼吸ごとに肺が燃えては治るなんて繰り返してたら、その苦痛だけでまともに戦えない。呼吸器だけじゃない、燐粉の付着した皮膚もダメージを受け続けるでしょうね。だから、」
と、指を一本立てて、クノカは言う。
「あなたの痛覚を遮断するわ」
「……痛覚を、遮断する?」
「痛みを感じなくするってことよ。もちろん一時的にだけど。痛覚神経だけを麻痺させて、ダメージを受けてもひるまないようにするの」
「まって。そんなことできるの? じゃあなんで今までやってくれなかったの?」
「こうすればまともに戦えるようになるわ。次に、灼熱蛾の放つ熱線だけど――」
「ねえ? なんで無視するの? ねえって」
顔をそらして説明を続けようとするクノカに、寧守は喰い下がった。クノカの肩を掴み、顔を覗き込みながら問いかける。
「ちょっとまって。ねえ。私、いままですっごい痛かったんだけど? すっごい痛い思いしながら戦ってたんだけど? ねえ?」
「……あのね、寧守。痛みを感じないっていうことは、必ずしも良い面ばかりじゃないのよ」
無視を諦め、困ったように眉根をよせて、クノカが言う。
「攻撃を受けても、痛みを感じなければ気づくのが遅れるでしょう。その分だけ反応が鈍くなって、怪我が増えることになる。もしあなたが初めから痛みを感じない体だったなら、ここまで必死になって戦い方を身につける事はなかったはずよ。今回は特殊なケースなの」
「ううううう」
それでも納得いかない思いで寧守はうめいた。これまでの戦闘で味あわされた苦痛の記憶が脳裏によみがえる。噛みつかれ、殴られ、潰され、削がれ……どれも傷はとっくに癒えているが、思い出すだけでその時の痛みがぶり返すような気分だった。もっともクノカの言うように、それらの痛みから逃れるために必死になったという面も確かにあるのだが。
「……じゃあせめて、今度からオンオフ選ばせて」
「あなたね……」
寧守の提案に、クノカはなぜか頭を抱えた。
屋上への扉を開くと、待ちかまえていたように、光と熱が流れ込んでくる。全身を炎にまかれ、咳き込みながら寧守は屋上へと躍り出た。
そこは、橙色の波が揺れる海だった。炎があたかも波のように幾重にも連なり、広大な屋上を覆っている。火の粉に混じってきらめく金色の粒子が空間を漂い、ぱちぱちと空気を爆ぜさせた。
炎の中へ、寧守は歩み出した。服と皮膚が一瞬で炎にあぶられる、が、どこかの皮膚が焼け焦げると同時に、その部分が再生を始める。熱さや痛みは全く感じなかった。ただ、ごわつく何かで全身を覆われているような、奇妙な感触があるだけだ。クノカの言うところの非常手段、『痛覚の遮断』はしっかりと為されているようだった。
息を吸った瞬間、肺が通常よりも大きく膨れ上がったような気がした。ふうっと息を吐くと、金色の粒子がきらきらと逃げて行った。これが加熱燐粉とやらだろうか。
「あそこよ」
屋上の片隅、ひときわ炎が激しく燃え上がっている方向を指差して、傍らのクノカがささやく。寧守が炎をかき分けるようにして進むと、巨大な影が、そこにうずくまっているのが見えた。
それは、見上げるほど巨大な一対の翅を伏せて、屋上の一画を占領していた。その存在が噴き上げる炎で、屋上の床が一部分溶解し、校舎の骨組が見えている。剥き出しになった鉄骨が赤く溶かされ、どろどろになった鉄を、そいつの細長い口が吸い上げていた。その存在は、溶けた鉄を喰っているのだ。まるで、蝶が花の蜜をすするように。
赤く燃え盛る翅を持つ、馬鹿げたサイズの『蛾』。
「焦熱地獄の化身、『灼熱蛾マーデ』の眷属――『灼翅』。……気をつけてね、寧守。知能レベルは動物並みだけど……ひとたび地上に出れば、国ひとつ滅ぼすくらいの力を持っている、神代の怪物よ」
クノカの言葉に、寧守がごくりと喉を鳴らしたその時、燃える巨大蛾――『灼翅』の動きがぴたりと止まった。それまで忙しなく動いて溶鉄を吸い上げていた頭が、ぐりっ、と向きを変えて、寧守を見る。
縄張りに侵入してきた余所者に、灼翅はどうやら強く怒りを覚えたようだ。屋上を包む炎が、灼翅の敵意に応えて激しさを増していく。炎を宿したその翅がわずかに浮かぶと、その周囲で危険な燐粉を含んだ空気が激しく渦を巻いた。
「クノカ、隠れて!」
寧守は精霊の少女にそう叫ぶと、カラキリを抜刀する。尋常でない熱に満ちたこの場にあってなお、その刀身は怜悧にきらめいた。
怒れる炎の化身が羽ばたく。炎と燃えがら、金色の燐粉が一纏めになって暴れまわり、灼翅の巨体を浮かせる上昇気流を作りだす。巨大蛾が飛び立つ前にと、寧守は駆け出した。
「くっ!」
だが、灼翅に近づくにつれて、周囲の炎は勢いを増していく。苦痛は感じないものの、その勢いに押されて寧守はたたらを踏んだ。これでは近づけない。
《寧守、気をつけて! 熱線放射が来るわ!!》
クノカの声が脳内で弾け、寧守はハッと灼翅の動きに注視した。ゆっくりと高度を上げていく灼翅の頭が、寧守の方を向いている。その口元に、ぽう、と白い光が灯るのが見えた。寧守は全力で床を蹴り、横に跳ぶ。
きゅぼうっ!
次の瞬間、灼翅の口からまっ白な熱衝撃波がほとばしり、寧守がいた空間を貫いて床に直撃、大爆発を起こした。衝撃で校舎が揺れ、はるか遠くで地鳴りのような音が響く。
(なんて威力……これ、直撃したら死ぬよね)
ぞっとして、寧守は胸中でうめく。人間の肉体などあっさりと消し飛ばしてしまえそうな力だ。火中に飛び込んでも再生し続ける今の寧守の回復力があれば、あるいは耐えられるかもしれないが。それでも戦闘不能はまぬがれないだろう。
戦いを長引かせるわけにはいかない。寧守は抜刀したカラキリを、再び鞘に納めた。空を炎の翼で打ちながら上昇していく灼翅を睨みつけ、居合の構えをとる。重心を心持ち前方に落とし、左足を前に。刀そのものが声なき声で持ち手に告げる、自らを最も速く、鋭く振るうことのできる構え。
「……落ちて」
燃える巨大蛾へ向けてつぶやきながら、寧守は斬撃を放った。光速の居合いが炎を断ち、空間をも斬り裂く。当たれば必殺、断空奥義『カラキリ』!
だが、寧守は眼前の光景に言葉を失った。『カラキリ』が発動するその一瞬前、巨大蛾の炎の翅が「消えた」のだ。そして、向かって右の翅の付け根から、オレンジ色の炎が噴射され、その勢いで灼翅の体は真横へと押し流される。結果、カラキリの一撃は何もない空間を斬った。すべては一刹那の光景である。
直後に、灼翅は翼を再生した。その光景に、ようやく寧守は悟る。あの翅は燃えているのではない、それ自体がすでに炎なのだ。灼翅の体側面から噴き出す炎が、翅のような姿を形成しているにすぎない。翅をもいで地に落とせばいいと考えていたが、それは通じないのだ。
(まずい……)
内心でつぶやく寧守に、灼翅は再び顔を向けた。その口元に、白い炎が現れる。
二発目の白熱波を避けながら、寧守はもう一度カラキリを納刀し、居合切りを試みる。ただし今度は横薙ぎだ。灼翅がさっきと同じように右左に回避したとしても、空間すべてを斬る『カラキリ』は避けられない。はたして。
結論から言えば、二回目のカラキリもまた失敗に終わった。横薙ぎの一撃が来る直前、灼翅は今度は、体の両側面から真下に向けて炎を噴射し、その場で急上昇することであっさりと『カラキリ』をかわした。そして、再び光熱波での反撃が来る。
決定打を与えられないまま、寧守は屋上を逃げ惑った。炎はますます勢いを強めていく。こうしているだけでも寧守の体は火傷を負っては治ることを繰り返し、クノカから借り受けた魔力を無駄に消費していく。
灼翅の体から、オレンジ色に輝く粒子が降りそそいだ。灼翅は校舎の上空を飛び回り、大量の燐粉を念入りに散布する。オレンジの燐粉が炎に触れると、爆発が起きた。炎がさらに激しく燃え盛り、寧守は自分が橙の中に沈んで行くのを感じた。視界全てが爆ぜ続ける火に覆われ、何も見えなくなる。
「っ!?」
唐突に息ができなくなり、寧守は目を見開いた。どれだけ息を吸っても、苦しさが増すばかりだ。
《落ち着いて、寧守! 周囲の空気から酸素が無くなって呼吸できないだけよ、なんてことないわ!》
(なんてことあるよ、それ!?)
クノカのテレパシーに胸中で言い返す。
ばしんっ!!
次の瞬間、破裂音と共に、屋上の炎が全て消えた。黒く煤けた空間を、涼やかな夜風が吹きぬける。さっきまで屋上に溢れていたオレンジの光は、今は上空を飛ぶ灼翅の翼に残るだけだ。
《炎を消し止めたわ。あの加熱燐粉をどうにかしない限り、すぐに燃え上がって復活すると思うけど》
「あ、ありがとう。でも、どうしたもんかな……」
困惑して寧守はうめいた。あの燐粉に対処するにしても、方法が思いつかない。通常の蛾や蝶の場合、燐粉とは翅に付着して雨などから保護する役目の粉であり、翅を奪ってしまえば封じる事ができるだろう。だが、翅自体が炎でできていて、自在に点けたり消したりできるとあっては、手出しのしようがない。
(あれ? ていうか、ほんとにあの粉、翅の部分をどうにかしないと止められないの? あの燃える翅から、燐紛が……?)
灼翅がふたたび、加熱燐粉の散布をはじめた。寧守はその様子をじっと観察する。よく見れば、燐粉の出どころは、翅とは微妙に違う。その付け根の部分だ。燃え盛る翼の付け根、小さな――灼翅の全長に比すれば小さな――扇状の器官がある。魚のエラにも似たその器官から、燐粉と炎が、同時に放出されていた。
発見したその器官を目がけて、空間を渡る斬撃『カラキリ』を、三度放つ。可能な限り動作を少なく、素早く攻撃したつもりだったが、灼翅はやはり攻撃を察知して、ぎりぎりで回避した。続けて『カラキリ』を放てば追い詰められたかもしれないが、まだそこまでの技量は寧守にはない。
(あと少し……あと少し私の攻撃が素早ければ。あるいは、相手の反応を遅らせる事ができれば……)
寧守がそう思っていると、灼翅がふと寧守から視線を外し、何もない空間の方を向いた。
チャンスとばかりに寧守は『カラキリ』の構えに入る――が、灼翅の口元に白い焔がぽっ、と灯ったのを見て、疑念が頭をよぎった。灼翅は寧守ではなく、何もない空間を攻撃しようとしている。何のために?
大した根拠があったわけではない。ただ、直感が走った。『カラキリ』を放つことも忘れ、寧守は全力で叫ぶ。
「クノカ、避けてぇっ!!」
《っ!?》
きゅぼうっ!!
一瞬だけ、その警告は遅かった。灼翅の口からほとばしった光熱波が、屋上の一区画、炎にあおられて破裂した貯水槽の残骸を貫き、爆散させる。少女の悲鳴が寧守の脳裏に響くが、すぐに爆音に紛れて聞こえなくなった。
やられた、と寧守は唇をかむ。クノカの意識迷彩を、灼翅が見破り、攻撃を仕掛けたのだ。
(まずい……)
クノカが居たらしき貯水槽跡は炎上し、紅蓮が渦を巻いている。助けに行こうにも、クノカの姿は寧守からも認識できない。そうこうしているうちに、灼翅は加熱燐粉の散布を再開し、屋上をもう一度炎の海に変えていく。橙の翼を優雅に羽ばたかせながら、灼翅がゆっくりとこちらを向いた。
こうなったら一刻も早く戦いを終わらせるしかない、と寧守は刀の柄に手をかける。刹那、燃え上がる炎が、彼女の全身を包んだ――
「? あっ、熱、……え?」
全身から一斉に、激痛が脳へと突き刺さる。初め、それがどういうことなのかわからずに、寧守はただ困惑した。だが。
「あ、熱い、熱い熱い熱い熱いっ!! あっ、うあ、あああああああっ!?」
悲鳴を上げて、倒れ込む。耐え難い痛みにじたばたと転げまわるが、転がるその地面こそが燃え上がる灼熱地獄そのものだ。熱が真皮と神経を焼き焦がし、意思とは無関係に全身が跳ね上がる。
「―――――――――――――――――――っっっ!!!」
寧守は悲鳴を上げた。いや、それは声にすらならない。肺の中まで炎が占領し、空気を追いだしていく。言葉すら焼き尽くされていく。
痛覚の麻痺、および回復力の大幅な上昇。クノカの手によって施されていたそれらが、失われていた。戦うどころではない、全身の痛みのせいでまともな動きさえできない。
ごうっ……と、遠い耳鳴りのような音が聞こえる。灼翅の殺気が、プレッシャーとなって降りそそぐ。寧守に向けてあの光熱波を放つ気だ。
(よ、避けないと、避けないと、避けないと、避けないと――)
生きたまま体を焼かれる苦痛に意識をもうろうとさせつつ、寧守はとにかくその場から離れようと動いた。だが、もはや右も左も上も下も、どこもかしこも熱くて痛い炎でいっぱいで、自分がどこに向かっているのかすら定かではない。
ぎゅぼっ!!
白い光の熱線が、寧守のすぐ目の前の地面を撃ち抜き、膨れ上がって炸裂した。ボロ雑巾のように吹き飛ばされて宙を舞い、寧守は地面に叩きつけられる。衝撃で、体中いたる所の骨が折れる音が聞こえた。
そこはまだ屋上のようだった。加熱燐粉によって高熱を発するコンクリートが、自ら燃え上がり溶け落ちていく。他の場所も同じだ、逃げ場などとっくにない。ここはもう、燃え盛る炎の化身の領土なのだ。
不幸なことに、寧守がクノカから借り受けた魔力は、クノカがいなくなった今でも残っていた。内在魔力は寧守の生命の危機に反応して肉体の回復力を高めていたが、どれだけ再生した所で、彼女の体を包む炎は一向に衰えることなく、治りたての皮膚と血肉を焼いていく。
(……やめて……もう治さないで。痛い……いたい、あつい、くるしい……もういや……)
正真正銘、指一本動かすことすらできず、寧守は地に伏したまま脳裏でつぶやく。どれだけ懇願しても体の再生は止まらない。治って、焼かれて、また治る。それを繰り返し続ける。一体いつまで? 借り受けた魔力が尽きるまでか。あるいはもう、終わりなどない地獄に寧守はいるのかもしれない――そう、クノカが言っていたことだ。ここはもう地獄なのだと。
薄れていく意識の中で、寧守はとにかく、この苦痛が早く終わってくれることを願った。
そこは、荒野だった。先程まで世界を満たしていた炎と熱はここにはなく、荒涼とした風が吹き抜けている。
寧守は一対の目となって、その世界を見下ろしていた。自分の体がここになく、意識だけで見ているということが分かった。
灰色の空の下、草一つ生えていない荒れ果てた大地が広がっている。はるか遠くに、奇妙に不安をあおるシルエットの、尖った形の山脈がつらなっていた。風は乾いていて、胸糞の悪くなるような臭いが混じっている。生命の感じられない世界。
そこに、一人の少女がいた。長い黒髪の、華奢な体をした少女。彼女は一糸まとわぬ姿で、おぼつかない足取りで荒野を進んでいく。
彼女の体はやせ細っていて、お世辞にも栄養状態がいいようには見えなかった。食べ物になるようなものがなにも見当たらないこの荒野では、それもむべなるかな。水分すらありそうにない。
長い髪を垂らしてうつむきながら歩いていた少女が、ふと顔を上げた。その顔を見て、寧守は思わず叫ぶ。
『杏勾!!』
だが、意識だけの寧守の叫びは、荒野をさまよう黒髪の少女――羊谷杏勾には届かなかった。杏勾はふらふらと体を左右に揺らしながら、どこへともなく進んで行く。
『杏勾、生きていたの……? でも、ここは一体?』
寧守の声が空気を揺らすことはない。と、杏勾の体がぐらりとよろめいた。寧守は咄嗟に支えようとするが、今の彼女には体がない。なすすべなく、杏勾が倒れるのを見ているしかなかった。
荒野に倒れ込んだまま、杏勾は体をうずくまらせた。おそらく歩き続けだったのだろう。そのまま寝入ろうとするように見えた。わけがわからないまま、寧守はただ杏勾が少しでも安らいでくれるよう祈る。だが。
「っつ!」
苦痛を叫んで、杏勾が飛び起きた。さっきまで何もなかった地面、杏勾の寝ていた辺りから、白い牙が口の形に並んで突き出していた。まるで大地そのものが獣に化けたようなその牙が、がちがちとぶつかりあって音を立てる。
杏勾の二の腕には牙によって傷跡が刻まれ、そこから赤い血が流れていた。無残な傷跡はしかし、見る間に塞がっていく。
杏勾にとって、それらの現象は驚くような事ではないらしかった。彼女はため息をひとつつくと、地面に噛まれた二の腕を押さえて、またふらふら歩き出す。
『こんな……』
水も食料もなく、衣服も与えられず、何もない荒野をただ彷徨わせられる。一つの場所にとどまろうとすれば、大地がそれを許さない。ならば睡眠すらとることはできないだろう。寧守の経験してきたものとは違うが、この場所もまた、地獄であるようだった。
『こんな、ことって……』
寧守は、精神だけの自分の体が、散り散りに千切れてしまいそうなほどの悲しみに襲われた。どうして杏勾がこんな目にあわなくてはならないのだ。自分や他の人間ならまだしも、彼女が、どうして。こんなことは間違っている。
どこかから遠吠えが聞こえた。はるか地平線を持ち上げる山脈、その一つに、狼の影があった。奇妙に人間じみて見えるその狼の影――あの山が本当に遠くにあるのだとすれば、とんでもない大きさの獣だ。そいつは、さまよう杏勾を見つめて嘲笑っているようだった。
ふっ、と、鼻から息を吐くような声が聞こえた。
杏勾。人間が人間らしくあるための全てを奪われ、荒野を追われる少女。彼女は、狼を見返して不敵に笑っていた。この程度では、私からは何も奪えない。そう宣言するように。それは、寧守もよく見慣れた表情だった――杏勾が杏勾のまま、何も変わっていないことの証拠だった。
『………』
心の中から悲しみが消えていくのを寧守は感じた。代わりに湧き起こるのは、熱く煮えたぎるような原始の感情だ。
怒りとも似ているが、違う。その感情は闘志だった。
『……私は』
杏勾を救う。それだけが願いだったはずだ。ならば、成すべきことも決まっている。
『私は!!』
「――――――あ、ああああああああああああああっっっっ!!!」
絶叫しながら、寧守は立ち上がった。全身を覆う火傷の痛みを無視して、剣先を上空の灼翅へと突きつける。カラキリ――熱衝撃波で吹き飛ばされ、手放したはずの妖刀は、いつのまにか彼女の右手に収まっていた。
立ち上がった勢いのまま、寧守は周囲の炎を切り払う。ただし刃ではなく、刀の腹でだ。
ぞばんっ!!
剣圧が炎と燐粉を吹き散らした。回復途中の、ぐずぐずに焼けただれた体で、寧守は構えをとって灼翅をにらみつける。苦痛は引くどころか、体が治っていくにつれますます激しくなった。だが、それでも彼女は止まらない。鞘もないまま、刀の峰を体の脇につけ、居合切りの姿勢を作る。
「あの子が苦しんでるのに――私が! こんな、所でっ! 死んでられるかぁぁっ!!」
溶けた喉で叫びながら彼女が放った『カラキリ』は、灼翅の体のすぐ横、扇状器官をかすめるようにして空間を切り裂いた。やはり相手の反応が上回る。だが、寧守はもう怯まなかった。
寧守は屋上を駆け出した。獣の速度で走り、刀を振るって炎のない場所を確保しながら、灼翅へと距離を詰めていく。巨大蛾の口元に、炎が灯った。寧守は足を停め、カラキリを構えて攻撃を待ちかまえる。
光熱波が放たれる一瞬前に、寧守はきっかり五メートル、真横に跳んだ。着弾した光熱波が引き起こす爆発、その爆風に彼女が耐えられるぎりぎりの距離だ。爆発が校舎を揺らすと同時、寧守は踏み抜くつもりで地を蹴り、居合いを放つ。相手の攻撃直後を狙った一閃だ。
灼翅の反応は、攻撃の直後でもなお素早かった。片翅を瞬時に噴射に切り替えて横にスライド、間一髪で『カラキリ』を逃れる。触角の先端が斬り飛ばされて宙を舞い、炎となって溶けた。が、灼翅の挙動には変化がない。大したダメ―ジを与えられてはいないようだ。
ならば、これしかない。寧守はその場から動くことなく、居合いの構えで灼翅の攻撃を待つ。一見して、先程と同じ、攻撃直後のカウンター狙いの構えだ。
灼翅もそう判断したのか、同じく熱衝撃波で対処するつもりのようだ。口元に、今までで最大の白い炎が灯る。灼翅が放つ光熱波の威力は、すでに嫌というほど思い知らされていた。直撃すれば無事では済まない。避けない、という選択肢はあり得ない。
だからこそだ。
灼翅が攻撃を放つその瞬間、寧守はその場から動かず、カラキリを滑らせた。熱線放射と同時の『カラキリ』。攻撃の直後ではなく、攻撃と同時――直撃を覚悟した真のカウンターだ。
きゅぼうっ!!
光熱波が寧守の小柄な体に直撃し、爆散させた。同時に、『カラキリ』の一撃が、熱線放射を中断して回避しようとした灼翅をとらえた。片側の扇状器官を斬り飛ばされ、燐粉と青黒い体液が飛び散る。片翼を奪われ、バランスを失った灼翅の巨体が、落下を始めた。
灼翅は、片方だけに残った火炎翼を使い、体勢を立て直そうとした。だが、やはり飛ぶことはできず、燃える巨大蛾は夜空を落ちていく。
校舎の屋上に着地する灼翅。炎で焼き尽くされた屋上は、灼翅の体重を支えきれず、その巨体ごと崩落していった。太い肢を校舎の壁にひっかけて、灼翅は落下を阻止せんとする。
その時。発達した灼翅の複眼は、校舎の側面に立つ、黒い影を捉えていた。焼き崩れた校舎の破片と同じような、黒く炭化したそれはしかし、落ちていく破片たちと違い、明らかな意志を持っている。
焼け焦げた肉体で、その人物は、構えをとっていた。その全身から発せられる殺気に、灼翅はとっさに回避に移ろうとする。だが、翼を失いバランスの崩れた体が、一瞬、怪物の挙動を遅らせた。
一閃。
空間を渡る居合いが、一刀のもとに巨大蛾を両断した。頭部から尾にかけてまっすぐに縦に斬り裂かれ、灼翅は活動を停止する。統率する意思を失った炎が、巨大蛾の全身で爆ぜた。燃え上がり、二つの炎の塊となった灼翅の体が、ゆっくりと、闇の底へ落ちていく――
多くの箇所が崩落し、もはや無事である部分の方が少ないほどの、柘榴石校舎屋上。そこに、影が現れた。黒く炭化した人影が、ゆっくりとした動きで壁をよじ登り、屋上へと戻ってくる。動けるはずなど無い、焼死体のような体で、その影はぎこちなく足を進めて、未だ燃え盛る屋上のうちでも、火の勢いの衰えた部分へと歩いていく。
炎の消えた場所まで辿り着くと、影はぱたり、と倒れ伏した。その体が少しづつ再生していき、元の少女の肉体に戻っていく。
倒れ伏して、荒い息を吐く寧守。その傍らに、一人の少女が居た。少女の手が、優しく寧守の髪をなでる。
(クノカ……?)
今にも闇に落ちそうな意識の中で、その手の感触ははっきりと伝わった。寧守は重いまぶたを上げて、少女の姿を見ようとする。そうしなければいけないという謎の義務感があった。だが、抗いようのない眠気がそれを押し流す。
「がんばったね。……あと少しだから、ね」
少女の、慈しみに満ちたささやきを聞きながら、寧守の意識は闇に溶けていった。