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3.その欲は肉



「だからさ」

 ひどく苛立った口調で、少年は繰り返す。口元に近づけた小型の無線機に向かって、ゆっくりと噛んでふくめるように、

「何べん同じこと言わせんだよ。地獄だ、地獄。現出地獄――正確には、現世の局地的異界化現象・分類『ゲヘナ』。はぁ? 聞いたことねーって? んなわけねーだろ、一昨年の資料見ろよ。あっただろ夏場に三百人くらい死んだやつ」

 と、少年は目の前にそびえたつ学校を見上げた。すでに高く上った太陽の光を背にして、市立柘榴石高校の校舎はどこか不気味に屹立している。

「範囲は不明。ただこの感じ、学校の敷地内はおそらくアウトだな。もうこの世のものじゃねえ。中に居る人間の末路もお察しだ――最初に通報を受けたっていう警官はどうした? 踏み込んだのか? そうか。じゃあ犠牲者に一人追加だな」

 状況と、上司の無能さを通信機越しに確認しながら、少年は校門の外からその校舎を眺めていた。不気味さを感じるのは静かだからだ、と不意に気が付く。昼も間近なこの時刻に、高校生が詰め込まれた平日の学校がここまで静かなはずはない。付近の住民が、異常を察して通報したのも無理のないことだ……電話を受けた真面目な交番巡査にとっては不幸だったが。

「まあ、現出地獄に関しては今のところ安定してっし、中に入らなきゃ大過はないだろ。だから、問題なのは原因だよ。この現象、確実に悪魔が噛んでるぜ? それも、地獄の具現化なんて露骨なまねをやらかすのは、まず間違いなく『三十二扉』のいずれかだ。どうすんだお前、コイゴドープだのヨッカテだのマーデだの、あの辺の悪魔が出てきてんだとしたら。……いや、だから、大至急一大隊をこっちに寄越せって、さっきから言ってんだろーが。これ以上ちんたらしてると、地図の描き直しが町単位で済まなくなっちまうぞ」

『三十二扉』の名を出したとたん急に焦りだした上司の声に、少年は心底あきれてため息をついた。先程から少年が訴えていた状況のまずさが、ようやく伝わってくれたらしい。どうやら今回の敵は、魔王と呼び習わされる最高位の悪魔らしい、ということが。

「召集かけてる近場の連中が到着したら、俺が中に入って足止めしておいてやる。時間稼ぎ、っても魔王級相手に意味あるかどうか微妙だけど。一応、念のために死んどいてやるよ。だからとっとと魔王討伐隊を寄越せ。いいな?」

 それだけ告げると上司の返事を待たず通信を切って、少年はあらためて校舎を見上げた。逆光の中、黒く浮かぶ校舎の影を睨みつけ、つぶやく。

「まったく、真昼間っからこうも堂々と、悪魔に好き勝手されちゃあな。俺らエクソシストも形無しだぜ」

 言葉とは裏腹に、少年の顔には不敵な表情が浮かんでいた。



「どこに行くんだい、ダァァリィィィン!?」

 不気味に上機嫌な、女の声と――

「ひ、ひあああっ!?」

 悲壮な男の声が、廊下しかない校舎に響いていた。

 死肉の塊のような巨体の女、『膨女』が、どすどすと廊下を歩き回り、柘榴石校の制服を着た男子生徒を追いかけまわしている。追われる側の男子生徒は、端正な顔立ちを恐怖で蒼白にして、自分の倍以上の背丈がある怪物女から必死で逃げていた。

「うわ、わあああ、た、助けて――」

「逃げたって無駄さぁ!! ここら辺の扉は、みーんなアタシが埋めちまったんだからねェ!!」

 膨女の言うとおり、そのフロアには本来あるべき、教室へと通じる扉がなかった。窓すらもなく、蛍光灯の明かりに照らされるだけの廊下がえんえんと続いている。そこを男子生徒が逃げ回り、膨女が後を追っていく。男はそれこそ死力を振り絞って逃げている様子だが、対する膨女は早歩きに足を進めるだけだ。それだけで、両者の距離が少しづつ縮んでいく。まさしく悪夢のような逃走劇だった。

 寧守は廊下の角に隠れてその光景を見ていた。とうとう男子生徒が追いつかれ、強引に膨女の巨体に組み敷かれる。

「ぐふふ! 捕まえたァァ! お楽しみだよォォ!! ぐふふふふふふ!!」

「ひいいい! い、嫌だああああっ!!」

 悲痛な叫びに、寧守は思わずカラキリの柄に手をかけ、飛び出しそうになった。

「待ちなさい、寧守」

だが、隣りで同じように潜んでいたクノカの小さな手が、寧守の袖を掴んで引きとめる。

「さっきも言ったはずよ。彼を助けることはできないって」

「で、でも……」

「あの男子生徒、あれはもう生きた人間じゃない。彼の本来の肉体はとっくの昔にぐちゃぐちゃになって、上で見た教室のどこかで他の肉片と混じってる。ここに居るのは、地獄に囚われた哀れな魂だけよ」

「けど、あの人、幽霊には見えないよ……」

 助けを求める男の声に焦燥を募らせながら、寧守はクノカに反論を試みる。だがこの精霊の少女は、幼い外見に似つかわしくない重々しい仕草で首を振った。

「今の彼の肉体は、この地獄の土からできてる。膨女を切り捨てて、彼を助け出したとしても、地上に出た瞬間に彼の体は泥くれになってしまうわ」

「………」

「あるいはわたしに、彼の甦生を願ってみる? けど、例え完全なる悪魔の力を手に入れたとしても、わたしが生き返らせることができるのは一人だけよ。それ以上は約束できない。よく考えることね」

 クノカの台詞はつまり、あの男子生徒を助けたいなら、杏勾のことは諦めろということだ。

 それはできない。何があろうとも、杏勾の甦生を諦める事だけは。その願いはもはや、今の寧守にとっては存在理由に等しいのだから。

 寧守が拳を握りしめると同時に、男子生徒の絶叫が響いた。

「うぎゃああああっ!! うわ、うああああああっ!!?」

 悲鳴を上げる彼の体の上に、膨女の巨体が馬乗りになっていた。正確な重さはわからないが、やや小柄な男子生徒の体などあっさり潰してしまいそうだ。

 しかし、彼が悲鳴を上げたのは、潰されそうになったからというだけではないらしい。膨女の体の周囲が蜃気楼のようにゆらめき、離れた場所から見守る寧守たちの所にまで、異様な臭いが漂ってくる。

「うっ!?」

 寧守は思わず顔を引っ込め、鼻を押さえて壁際にうずくまった。さっき嗅いだ膨女の体臭と似ているが、より獣に近いような臭いだ。どう考えても悪臭の部類だが……

 ふらり、と視界がよろめく。嗅いでしまった鼻から中心に、熱が全身に広まっていった。体中のそこかしこが熱くなり、居ても立ってもいられない。吐き気がするほど気持ち悪いというのに、同時にどこか陶然とした感覚が下腹部から込み上げてくる。

「ふぅん。膨女の体から発せられる臭いには、媚薬効果があるみたいね。あまり嗅がない方がいいわよ、寧守。戦闘に差し支えるでしょ」

 こちらは平気な顔をして、クノカ。寧守はふらふらになりながら制服の袖を口鼻に当てた。そんなもので防ぎきれるものでもないようだが、息を止めたことで一時的に症状が緩和される。

「び、媚薬? なんで?」

「見て」

 涙目になりながら寧守の発した疑問に、クノカは曲がり角の向こうの膨女を指差す。寧守は息を止めたまま、おそるおそる再び顔を出した。

 男子生徒の上に乗った膨女の体が、奇妙な動きで揺れていた。一定のリズムで上下、前後運動を繰り返し、そのたびに膨女は悲鳴ともつかない声をもらす。

「ああやって強引に性交するのが目的なのよ」

「……ごめん、ちょっと吐いてきていい?」

 十数分ほどして、膨女は満足したようだった。ぐったりしている男子生徒を片手でつまみあげ、何処かへと持ち去っていく。

「巣に戻る気ね。チャンスよ」

 クノカが目を光らせて言う。

「膨女は空間の出入り口を隠してしまう能力を持っているから、後をつけて行かないと巣の場所が分からないのよ。わたし一人で行ってくるから少し休んでいなさい、寧守。まだ媚毒が抜けてないんでしょう?」

「うん……」

 荒い息を吐きながら寧守はうなずいた。なるべく臭気を吸わないよう努力したにもかかわらず、体の火照りは一向に治まらなかった。

クノカが膨女を追って行ってからしばらくの間、寧守は一人うずくまって目を閉じ、息を整えていた。

(よし……そろそろ動けそう、かな)

 昂りが治まったと判断して、寧守は目を開く。

 目の前に、男が居た。先程膨女に襲われていたのとは別の男だ。寧守と同年代に見える、制服姿の少年である。寧守よりも背はあるが、男子としては中の下といったところか。短く刈り込んだ髪、どこか達観したような目つき。かっちりした学ランは、柘榴石高校のものとはデザインが違う。

(他校生……?)

 寧守はぼんやりと考えた。いつの間にか寧守の目の前に立っていたその少年は、けだるそうな表情でこちらを見下ろしている。少年が口を開いた。

「死体かと思ったら、生きてんじゃねえか。同業者か?」

 と、寧守の携える刀をちらりと見やる。寧守が否定も肯定も返さずにいると、少年は首をかしげた。

「退魔士なんだろ? お前も。違うのか?」

「私は……ええと、その、そう。たいまし、です」

 なんとか少年の言葉を理解して返事をする。退魔士というのがどういう職種なのかはわからないが、どうやら帯刀が不自然ではない職業らしい。ならばそうだと思っておいてもらった方がありがたい。

 怪訝そうな少年に言い訳するように、言葉を続ける。

「その、でもあの私、新人で、よくわかってなくて。今日が初日というか、初出勤というかその」

「なんだ、新顔かよ。どうりで見覚えねえと思ったぜ」

 少年が納得したようにうなずく。腕組みをして、彼はしみじみと続けた。

「しかし、運がなかったなぁ。よりによって初任務がこれとは」

「……そ、そうなの?」

「やっぱなんの説明も受けてねえか。あのな、ここは比喩でなく、この世の地獄なんだよ。人間である俺やお前に、現世に帰還する方法なんてねえんだ。要はお前、捨て石にされたのさ」

「そうなんだ」

 寧守はうなずいた。クノカもそのようなことを言っていた気がする。

 と、少年が再び、疑わしげな目を向けてきた。

「……あまりショックを受けてないみたいだな?」

「え?」

「もう地上に戻れないと知っても、なんの動揺もないのか?」

「そんなことないよ? えと、あ、あんまりだー」

感情をこめて嘆く。が、少年はなぜか疑いの視線を強めた。ごまかすように(実際にそうだが)、寧守は少年に質問を返す。

「あ、あなただって平気そうじゃない」

「俺は全部わかってて、自分から入って来たんだよ。死ぬ覚悟でな。お前とは違う」

「そんなの、……私だって、そうだよ」

 これは演技ではなく、寧守は言い返した。杏勾のためなら、死すら厭わない、それくらいの気概はある。

「そうか。そういうもんかもな。ルーキーもベテランも関係ない、か」

ようやく納得したらしい少年は、肩をすくめて言った。

「んじゃ、お互いにせいぜい頑張ろうぜ。ひょっとしたら万に一つ、現世に戻れるかも知んねえしな」

「あ、待って!」

 去ろうとした少年を、寧守は呼びとめる。

「まだ名前、聞いてないよ。私、安永寧守っていうの。あなたは?」

「……名前? 俺のか?」

 少年はなぜか驚いたように聞き返すと、頬を掻きながら、ぼそりと答えた。

楠木明良くすのき あきらだ。よろしくな、安永寧守」



 明良と名乗った少年が去っていった方向を、寧守はぼうっと見つめていた。

「あれは退魔士……エクソシストね。邪霊退治の専門家。地獄まではるばる、ご苦労なことだわ」

 と、すぐ横から声がする。寧守が驚いて振り向くと、いつの間にかクノカが隣りにいた。

「もう帰って来たの?」

「ええ。膨女の居場所は突き止めたわ。さ、仕留めに行くわよ。面倒臭いのが絡んで来ないうちにね」

 金髪の精霊少女はどうやら、あの少年を快く思ってはいないようだった。さっさと歩き出したクノカに付いて行きながら、寧守はあの少年が言っていた退魔士のことを尋ねてみる。

「ねえクノカ、退魔士ってなんなの? さっきの……ええと、楠木くんだったかな。あの人が、私の刀を見て同業者だと思ったみたいなんだけど。武装してるのが普通なの?」

「ええ。刀とは限らないけど、退魔士は戦うのが仕事だからね。丸腰に見えてもなんらかの武器を、おそらくは複数、隠し持っているでしょうよ」

 振り向かず答えてくるクノカの口ぶりに、寧守は内心首をかしげた。なんだかクノカが、ひどく不機嫌になっているように思えたのだ。理由はわからないが。

「退魔士は、精霊からの命を受けて邪霊を打ち倒す戦士よ。言ってしまえば、今の寧守と似たようなものね。ただ、あまり仲良くはできないと思うわよ」

「……え、どうして?」

「同じ精霊とは言っても、派閥が違うのよ。あの退魔士が仕える精霊と、わたしとではね。宗教戦争ってわけでもないけど、なかよく協力できるような間柄じゃないの。わたしの名前を出さなかったのはファインプレーだったわよ、寧守」

「そう、なんだ」

 寧守としてはそんな考えがあったわけではなく、単に口をはさむタイミングがなかっただけなのだが。精霊とやらの世界にも、いろいろ事情があるらしい。

「このあたりの壁よ。寧守、カラキリで斬って」

 と言ってクノカが示した、見た限りでは他の場所と区別が付かない壁を、寧守は妖刀を振るって長方形に切り取った。石川五右衛門よろしく、格好良く切り抜こうかとも一瞬思ったものの、恥ずかしくなったのでそれはやめた。代わりに、壁の適当な箇所にカラキリを「すとっ」と突き刺し、バターでも切るように軽い力で四角い形を描いていく。壁の向こうは空間になっているらしく、切り取られた壁が、粉塵を舞わせながらゆっくりと倒れ込んでいった。

 冗談のような四角い出入り口を抜けると、そこもまた、屋外ほどではないが意外な空間だった。どこか偏執的な赤い色で塗りつぶされた狭い廊下。床は金網が渡されていて、一歩足を踏み出すと、体重でがしゃがしゃと揺れた。金網の下は真っ暗で見通せないが、微かに水が流れているような気配がする。次いで天井を見上げた寧守は、すぐにその行動を後悔した。不釣り合いに豪華な照明器具が吊り下げられているのは、不気味にびくびくと脈動するピンク色の天井だったからだ。まるで生きているかのような痙攣を見せる天井に、寧守は見入ってしまった。気味が悪いもの、嫌悪を催すものだからこそ見てしまうというあの感覚だ。

 しばらく天井を見上げてから、寧守はクノカへ視線を移して、無言の抗議をする。クノカは「ああ」と何かに気が付いたように肩をすくめて言った。

「大丈夫よ、落ちてきたりしないから。たぶん」

「そういう問題じゃないんだけど……ていうかたぶんって……」

「わたしも、趣味が悪いとは思うけれどね。『膨女』にしてみれば、これがもっとも心安らぐ世界の在り方なのよ。邪霊の望む世界――彼女が覗き見てしまった『扉』の向こう側の光景。正確にはその光景の、模倣かしら」

「扉の……向こう側」

「悪魔が陥れるまでもなく、扉を開いてしまう人間というのは存在するのよ、寧守。それはもともと、どんな人間の魂にもそなわっている力だからね。けれど、強靭な魂の持ち主であっても……その光景を見てしまったら、耐えられない。正気を失い正体を失い、異形の邪霊に成り果てる。彼女ら彼らが何を見てしまったのかは、わたしたちにはわからないけどね」

「………」

「さ、行くわよ」

 クノカに促され、寧守は金網の廊下を進み始めた。

 扉の向こう側。

 蠢く肉の天井よりも不吉な何かを、その言葉に感じながら。



 壁の向こうの空洞を進んでしばらくして、開けた場所に出た。

 それまで進んできた道と同じ、ねっとりとした赤色の壁と、小刻みに震える肉の天井に囲まれているその部屋には、だが明確な違いがあった。まずは広さだ。狭い廊下を抜けてから見ると、めまいがするほどの広さ。四角い部屋のそれぞれの辺は、五〇メートルほどあるだろうか。加えて、床は剥き出しの金網ではなくなっていた。金網の上に、肌色の重々しい絨毯が敷かれているようだ。寧守は足を踏み入れようとして、靴先の不快な感触にびくっと体を震わせ後ずさった。広大な部屋の床を隙間なく埋めている、肌色のそれが……まるで、人のように見えたからだ。

 部屋の中央で、禍々しい物体が不快な存在感を放っている。床が見えないほどに敷き詰められた、肉の絨毯。その真ん中に陣取って、壊れた人形のようなものを弄んでいる、巨大な人影。

『膨女』だった。異形の怪物が弄んでいるのは、ぼろぼろになった先程の男子生徒だ。

「どぉしたのさ、ダァリィン? ずいぶん大人しくなっちまってぇぇ……またさっきみたいに、元気な声を聞かせておくれよォォ?」

 胸が悪くなるような、嗜虐心に満ちた声が響く。寧守たちに背を向けて膨女が座るその絨毯は、男子生徒と同じく、全身が砕け潰れるまで玩弄された人間の肉体だった。それが何百人分と、床に敷き詰められている。それを理解して、寧守はまた吐き気がこみ上げてくるのを感じた。

「ふん、もう壊れちまった。新しいので遊ぶかね」

 ぽい、と男の体を投げ出し、膨女の巨躯がゆっくりと持ち上がる。

「女のガキは、嫌いなんだけどねェ……」

 低くつぶやきながら、膨女が寧守を振り向いた。

 膨女の全身から発せられる悪意に、寧守の体が竦む。どちゃっ、どちゃっ、と肉絨毯を踏み潰しながら、こちらへ向かってくる膨女。

「寧守」

 膨女からは見えないように姿を消しているクノカが、殺気に当てられた寧守を心配するようにささやく。寧守は小声で「大丈夫」と返し、意を決して肉絨毯の上に足を踏み出した。靴の裏の、肉を踏み潰す感触を全力で無視しながら、走り出す。

「アタシの部屋に、土足で入るんじゃないよォォォ!!」

 怒号で空気を震わせながら、膨女が突進してくる。回り込むように走り続けながら、寧守はカラキリを抜き放った。白い刃がきらめいて、灰色の空気を切り裂く。

 膨女の移動速度は、体の大きさから考えれば驚異的だったが、クノカによって強化された寧守の方が速い。突進をかわし、寧守は動きを止めた膨女の右斜め後ろから切りかかろうとした。が、瞬間、危険信号が火花となって脳裏に散り、寸前で身を引く。

 結果として、寧守の行動はぎりぎりの正解だった。刹那、凄まじい勢いで後ろ向きに跳ね飛んできた膨女の巨体が、寧守の左半身にぶち当たったのだ。衝撃に寧守は吹き飛ばされ、肉の地面に叩きつけられる。

「う、くっ……!」

 起き上がろうとして、寧守は左手に走る激痛にうめいた。左上腕が半ばで折れ、力なくだらりと垂れ下がっている。膨女の体当たりはとんでもない威力だった。もし寸前の停止が間にあっていなければ、直撃を受け、全身が粉々になっていただろう。

「はははッ馬鹿がァ! アンタみたいな馬鹿ガキの考えてることはお見通しさァ!」

 得意げに膨女が叫ぶ。見れば、ぶよぶよの腹肉の一部が、不自然に膨れ上がっている。瞬間的に肉体を膨張させ、それを反発力にして後ろ向きに跳んだのだ。

 先のダメージで起き上がれない寧守に、膨女が威圧的に歩み寄る。寧守は右手のカラキリを持ち上げ、近付いて来た膨女の足を突いた。だが、痛みで霞む視界に間合いを狂わされた一撃は、あっさりと外れる。

「なんだい、これはァ?」

 膨女の巨大な裸の足が、寧守の右腕を踏みつけた。巨大女の重さに骨が軋み、たちまちの内に粉砕される。

「うああっ!」

 寧守は思わず悲鳴を上げていた。力を失った右手から、カラキリの柄が落ちる。膨女は刀を蹴って遠くへ転がすと、寧守の髪を掴み、無理矢理に立たせた。

「まさか、このアタシを殺すつもりだったのかい? ええ? この貧弱なガキがさァ?」

 赤い目玉で寧守を睨みつけながら、膨女はうなるような低い声で言った。武器を奪われ、両腕を折られた寧守は、ほとんど宙ぶらりに浮かされながら、体を震わせることしかできない。

 膨女は寧守を手近な壁に押し付けて、太った指を寧守の腹部に押し付けた。

「何とかお言いよ、口が聞けないのかい?」

 ぐっ……、と。

 内臓を押しつぶす強さで指を差し込まれ、寧守はうめき声を上げる。

「うぇっ……か、………っは……」

「苦しいかァ? 苦しいだろうねェェ?」

 邪悪な悦びに、膨女の顔面が歪む。怪物は寧守の反応を楽しむように、巨大な指先で何度も腹を押す。

 ぐっ……、ぐっ……、ぐぶっ………

「いっ……やめ、……っぎ、……い、嫌ぁっ……」

「くひっひ! いぃい声で鳴くじゃないさァ!」

 膨女の嘲笑を聞きながら、寧守は、自分の意識が遠のきつつあるのを感じていた。

「うあ、あ、あっ、……っ!」

 怪物の指がちょうど寧守のへその辺りに押し込まれ、寧守は悲鳴と共に、血の混じった泡を口からこぼす。

 このまま死ぬ。他人事のように、ごく当たり前に、寧守はそう思い浮かべた。このまま、抵抗すら許されず、膨女に嬲られて死ぬ。

「くっひひひぃ!!」

 嬉しげに涎をこぼして笑う膨女の体から、あの獣臭が漂ってきた。嗅いだ者の性的興奮を強制的に呼び起こす魔香。膨女の興奮に連動して臭いが強くなっていく。

 この怪物は、ずっとこうしてきたのだと、寧守は理解する。他人を欲望のための道具にして、無理矢理に快楽を取り立てる。相手のことなど顧みもせずに。

 怒りを覚えた。それは義憤ではなく、殺されかけていることへの感情的反射だったかもしれない。だがそれでもはっきりと、この怪物を許せないと、寧守は思った。

 同時に、頭のどこかで声がはじけた。今なら勝てる、と。

 とすっ。

 霞む視界の中、膨女の頭頂部に、カラキリがまっすぐに刺さるのが見えた。

「……んぁ?」

 獲物を嬲る愉悦にひたっていた膨女が、間の抜けた声を上げて、見えるはずのない自分の頭を見上げる。

 そこからの出来事は、すべて一瞬だった。カラキリはその尋常でない鋭さでもって、切っ先を支点にするりと回転、膨女の頭から胸にかけてを切り裂きながら下がり落ち、始めの位置からきっかり90度傾いて、怪物の胸元で止まった。そのころには、寧守は五感とそれ以外の感覚で、自分の両手が治癒していることをすでに理解していた。右腕を最短距離で動かし、まるで意思を待つように寧守の目の前まで下りてきた、カラキリの柄を握る。同時に、左手は自分を吊り下げる膨女の腕を掴んでいた。

 振りほどくためではない。逃がさないようにだ。

「っが!?」

 頭を切り裂かれた痛みに、ようやく悲鳴を上げ始めた膨女の太い首を、寧守の振るったカラキリが真横に薙いでいた。次に寧守は膨女の腕を切り裂き、吊り下げから脱する。

 最後に、ぶよぶよの肉が詰まった太い胴を横一文字に切り裂いて、寧守は距離を取った。一瞬後、膨女の体に付けられた全ての切り傷から、濁った血が噴き出す。轟音を立てて、膨女の巨体が膝をついた。

 寧守が息をついて髪を整えていると、クノカの声が頭の中に響く。

《寧守、腕は治したわ! 今のうちにカラキリで反撃を――……いえ、その。うん。なんでもない》

 ふっと、虚空からにじみ出るようにして、寧守の横に金髪の精霊少女が現れる。彼女は寧守と、血を噴き上げてのたうちまわる膨女を交互に見て、今度は肉声であきれたようにつぶやいた。

「ひょっとしてわたし、余計な手出しをしたのかしら」

「そんなことないよ。クノカが、カラキリを手元に持ってきてくれたから、助かった。ありがと」

と、礼を言う。膨女の頭にカラキリを刺したのはクノカだろうとあたりをつけての言葉だったが、はたしてクノカはまんざらでもなさそうに胸を張った。

「ふふん。まあ、わたしの的確な補佐があってこその戦果と――」

「――危ないっ!!」

 叫ぶのと同時、寧守はクノカの小柄な体をひっつかんで後ろに跳んでいた。一瞬前まで彼女たちの居た空間を、巨大な肉塊が高速でよぎっていく。

「ざっげるんじゃァ、ないよォ!! ごォの、ぐぞガギィィィィィ!!」

 壁に激突し、喚き散らしながら、肉塊がぞろりと起き上がる――

 膨女は死んでいなかった。切り裂かれた部分は治りたての傷跡のような白っぽい肉が膨れ上がり、いびつな形でかろうじて繋ぎ止められている。手足の形すら定かではない肉のスライム。以前にもまして化物らしい姿になった膨女の体が、足元の肉絨毯をも呑み込み、さらにぐじぐじと膨張し体積を増やしていく。

「殺ずっ! ごろずごろずごおずゥゥゥああ!!」

「……暴走か。元の形を失ってまでも、消失するのが怖いのね。魂の持つ気高き力も、邪霊にまで堕ちてしまえばただの見苦しい大道芸……哀れだわ」

 冷たく吐き捨てるようなクノカの言葉に、寧守は我知らずつばを飲み込んだ。

「でもなんか、そのぶらさげられてる子猫みたいな姿だと、何言っても可愛い感じだね」

「だったら襟首つかんでるその手を離しなさい!!」

 寧守に襟を掴まれぶらさげられた状態で、クノカがばたばたと暴れる。

 少女を下ろして、寧守はカラキリを鞘におさめた。増殖を続けながら殺意を向けてくる肉塊に向けて、構えを取る。誰に教わったわけでもなく、どう構えればいいのかがわかった。刀に導かれるように、半身を引いて右手を柄にかけ、静かに息を吸う。

 吊り下げられたことに文句を言いかけていたクノカが、寧守の姿を見て、にやりとしたのが気配でわかった。

「そうね。今のあなたなら、意識的に『それ』を放つことができるはずよ。あなたが今から放つその技の名は、銘と同じ『カラキリ』――引導を渡してやりなさい、寧守!」

 クノカの言葉と同時、弾かれるように体が動き出す。寧守は流れるような動きでカラキリを鞘から解き放った。目に見えぬほどの高速で振るわれた刃が、陽炎のように空間をゆらめかせる。

「馬鹿がァァ! そんな距離じゃ斬れやしないよォォォ!!」

 今や元の5倍以上の体積となった膨女が、遠く離れた場所で刀を振るう寧守を嘲笑った。そして。

 ぞびっ……

「え?」

 不定形で巨大な膨女の体が、嫌な音を立てて上下に分かれ、上半身がゆっくりとずれて、床に落ちる。

「な、なん、なんでェェェェ!?」

 絶叫を上げて、膨女は息絶えた。その死体から、赤く透き通った肉片――悪魔の肉がまろび出る。

『カラキリ』。空間そのものを両断する居合切り――それが、妖刀の持つ奥義だった。



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