2.卑しい口
蛍光灯の光を受けて、白く浮かび上がる新校舎の廊下。その奥から、ぺたぺたと足音を立てて、歩いて来るものがいる。
そいつは四つん這いで、やせ細った体にごつごつした骨が浮いて見えていた。体格から、人間の男のようにも思える――だが頭には髪も、耳も鼻も目もなく、あご骨の尖りすらもない。まるで肌色のボールのようなその頭に、ただ一つあるのは口だった。顔の真ん中に大きく裂けた口から、赤い舌をだらりと垂らし、犬のように四つん這いになって、そいつはぺた、ぺた、と廊下を歩く。
「あれは『犬奉』の眷属よ。終わらぬ飢えを満たすことしか頭にない、低位の邪霊」
寧守の隣りで、パーカー少女――クノカネルナが解説する。廊下の奥から、十メートルほど離れた場所にいる二人に向かって歩いて来るのっぺらぼうを指差して、
「見える? 鼻がないから、ああやって、舌で獲物の臭いを探ってるの。この距離でもまだ気付かないくらいだから、それほど鋭くはないのよね。ま、特殊な能力があるわけでもないし、試し切りには手ごろな相手よ」
「た、試し切り?」
「そう、試し切りよ。あなたの――そして、この子のね」
楽しげに目を細めて、クノカネルナはパーカーのフードを下ろした。ショートの金髪がふわり、と薄闇にきらめく。
脱いだフードの中から、彼女は小さな手を器用に使って、するすると細長いものを取りだす。出てきた物を見て、寧守は目を丸くした。
クノカネルナが明らかに物理法則を無視しつつフードから取り出したのは、日本刀だった。黒塗りの鞘に、赤色と紺色の紐が巻きつけられた柄。鍔は細長い楕円形で、見たことのない文字が装飾のように彫られている。全体の長さは一メートルと少しか。日本刀など間近で見たことのない寧守には、それが長いのか短いのかもわからなかったが。
ただ、クノカネルナとの対比で見るなら、明らかに長大な得物だった。自分の身長を超える丈の日本刀を、しかし少女は虫取り網でも扱うように、片手で気軽に振って見せる。
「この刀はね、いわゆる妖刀というやつよ。正直言って、今のわたしじゃ手に余るくらいの力を持っている。この刀の持つ本来の力を引き出せたなら、悪魔とだってやりあえるでしょうね。今の状態でも、邪霊退治には充分な業物よ」
そう言って、クノカネルナは「はいっ」と柄を寧守に差し出した。
「……え?」
ぽかんと刀を見つめる寧守に、クノカネルナはあきれたように眉根を寄せる。
「あなた、丸腰で邪霊と戦うつもり? それとも、もっとカッコよくて強い武器が欲しい? 悪いけど、これ以上のは持ち合わせてないのよ、今のところ」
「い、いや……でも。私、刀なんて遣えないよ」
「そう。じゃあ、やめる?」
あっさりと、クノカネルナ。
「こんなこと、無理強いはできないし。せっかく助かった命を、無理に危険にさらすこともないわよね」
「……待って」
出した時と同じように刀をフードのポケットに仕舞おうとした少女の右手を、寧守は掴んで止める。
「ごめんなさい。わかった、あなたの言うとおりにする。……だから」
見上げるクノカネルナの蒼い瞳に促され、寧守は言葉を続けた。
「だから、私に力を貸して」
寧守の台詞を聞いて、少女は満足げに目を細めた。
「ならば、たった今からこの子があなたの相棒よ。銘は『カラキリ』――さあ、その手に取りなさい」
『カラキリ』。精霊の少女がそう呼んだ刀を、寧守は受け取る。
予想よりもはるかに刀は軽かった。右手に鞘を持ち、寧守はきっと眼差しを鋭くして、廊下の奥へ向き直る。まだ離れた位置をうろついている怪物を睨みつけ、刀を抜こうとして、ふと気が付いた。
「……あ、そっか。右手で抜くってことは、まず鞘を左手に持ってないと」
「………」
「い、いやほら、だから! 刀なんて扱ったこと無いんだって!」
怪訝な表情のクノカネルナにあわてて言い訳するも、精霊の少女の懸念は晴れないようだった。眉間にしわを寄せたまま、少女が静かに言ってくる。
「……ねえ、本当に、やめたかったらいつでも言ってくれていいからね?」
「だ、大丈夫大丈夫、問題ない問題ない!」
反復して強調しつつ、寧守は改めて左手に持ったカラキリを抜刀する。
放たれた刀身が、照明の光を反射して白く輝いた。混じり気のない銀の刀身――知識のない寧守の目にも、その美しさがわかる。
(綺麗……でも、少し怖い)
綺麗に見えるのは、単にこの刀が美しく造られたからではない。ひたすらに道具としての合理性を突き詰めたからこそ出る美しさ、機能美というものだ。刀の『機能』……それは、つまり。
「来るわよ!」
クノカネルナの鋭い声に、寧守はハッと我に返った。
廊下の向こう、まだ離れた場所に居ると思っていた四つん這いの邪霊が、こちらに気が付いたのだ。『犬奉』の眷属、とクノカネルナが言っていたその邪霊は、まさしく犬のような動作で走り出す。まっすぐに迷いなく、寧守へと向かって。
口だけしかないその顔を正面から見て、寧守は体がすくむのを感じた。脳裏に、痛みがよみがえってくる――皮膚を突き破り、肉に食い込む鈍い歯の感触が。つい十数分前に経験したばかりの激痛は、実際の痛みと同じように寧守の体を震えさせた。
(む、無理、無理だよ!)
胸中で悲鳴を上げる。駄目だ、いくら武器を持たされたところで、自分には無理だ。あんなものと戦うことなんて、できるわけが――
立ちすくむ寧守の目前で、『犬奉』の眷属は地面を蹴り、跳んだ。頭の形が変わる程に口を開いて、犬歯を剥き出しにしている。
なんとなく、そいつが喉を狙っていることが寧守にはわかった。このまま、なすすべもなく喉笛をかみ砕かれるのだ。わかりきった未来は、すぐそこまで迫っていた。
「死者を甦らせるのは」
杏勾の眠るベッドの脇に腰掛けて、自らを精霊と名乗った少女――クノカネルナが言う。
「この世の条理に反することよ。死にかけた人間を健康体に治すのとは、わけが違う。あるいは、破損した死体を復元することともね」
少女の小さく白い手が、杏勾の黒髪をなでた。少女にされるがままの杏勾、微動だにしないその表情を、寧守は見つめる。やはり眠っているようにしか見えなかった。だが、彼女の魂はそこにはもうないのだ。
「わたしは精霊。人を見守り、叶う願いなら叶えてあげる、それが存在意義。とはいえ今のわたしに、世界のルールに反して死者を甦らせるほどの力はない。でも、あなたの手助けがあればわたしは――条理を無視して、蘇生を可能にするほどの力を、手にできるかもしれない」
「手伝わせて」
間髪を入れずに、寧守は答えた。杏勾の髪を弄りながら、クノカネルナはほほ笑む。
「そんなに気安く引き受けていいのかしら? どんな手助けをわたしが要求するのか、聞きもしないで」
「どんなことだっていい。杏勾のためなら私は、何を差し出したって惜しくないもの。たとえそれが命でも」
「その言葉に、嘘はないね?」
寧守は、決然とした面持ちでクノカネルナの言葉にうなずいた。目の前で笑うこの幼い少女は、只者ではない。だからこそ、これはまたとない機会なのだと、寧守は悟った。
こんな自分でも、大切なもののために何かができるのならば、迷うことなどないと。
「――ああああっ!!」
寧守の振り上げた左手が、その手に握ったままの刀の鞘が、『犬奉』の眷属の顎を打ち上げた。跳びかかって来るさなかの空中でアッパーカットを喰らい、怪物の体が宙返りしながら吹き飛ぶ。
「ギャンッ!」と犬のような悲鳴を上げて、怪物の体が廊下の床に叩きつけられた。
素早く体を起こし、唸り声を響かせる四つん這いに、寧守も刀の切っ先を突き付けて応じる。
「わ、私でも――こんな私でも、杏勾のためにできること、見つけたんだ! 絶対にやって見せる――あんた達なんかに、負けるもんか!」
剣先を震わせながらも、寧守が決死でそう叫んだ、次の瞬間。
ばしゅっ! と、『犬奉』の眷属の腹から、鮮血が噴き出した。
「……え、ええ?」
剣を突き付けた姿勢のまま呆然とする寧守の目の前で、怪物は血を撒き散らしながら、ふらふらと揺らめき、ついには、血だまりの上にべしゃりと倒れた。そのまま、ぴくりとも動かなくなる。
右手に握るカラキリの刀身を、寧守は見た。白銀の刀の腹に、いつの間にか血が付いて、薄く模様を描いている。だが、見る間にその血は刀身を滑り落ち、血振りをするまでもなく刀は元の状態に戻った。
「き、斬ってたの? いつ?」
まるで実感なく寧守はうめいた。鞘アッパーを繰り出したあたりまでは、確かに自分の体がそう動いたという実感がある。だが、右手の刃を振るった感触は、まったく無かった。怪物の腹から血が出ていたことを思えば、鞘で打ち上げた直後に斬っていたのだろうか。
「幸先いいじゃない。まあ、あれくらいはあっさり倒してもらわないとね」
上機嫌で、クノカネルナが言う。
「いま、刀がとても軽く感じたでしょう? 種明かしするとね、わたしが少しだけ力を貸してあげたの。筋力や体力、それに反射神経を底上げしてあるから、どんな相手にもそうそう遅れを取ることはないはずよ」
「い、いつのまに……」
クノカネルナにさらりととんでもないことを言われて、寧守は自分の体を見下ろした。特に変わった様子は見えない、が、今しがた邪霊を斬り払ってのけた鮮やかな動きは、精霊少女の手助けあってのものだ、と言われた方が納得がいく。いくら杏勾のためにと決心を固めたとはいえ、常日頃から運動不足で貧弱な寧守の体が、いきなりあんな良い動きができるなんて彼女自身にも思えない。
「それじゃあ、改めまして。わたしの名前はクノカネルナ――人の願いを叶えるもの」
自己紹介をして、クノカネルナは右手をこちらに向けた。パーカーの袖からちょこんとのぞいた小さな手を寧守の姿に重ねて、少女の声で、おごそかな言葉を告げる。
「『人の子よ――我が手足となり、悪魔の血肉を取り戻せ。さすればクノカネルナの名において、必ずや汝が願いを叶えよう』……さあ、あなたも名を言って」
「や、安永寧守の……名において」
「友のため、わたしの命に従うことを。誓いなさい」
「杏勾のために、私は、あなたの命に従うことを誓います」
「契約は、成立した」
にやりと笑みを浮かべて、クノカネルナは、ゆっくり右手を握りしめた。見えない何かをその手に納めるかのように。
「寧守。この学校は、すでに地獄と化しているわ。地獄へと続く『扉』――開かれたその扉から這い出してきた悪魔が、この校舎を地獄へと落としたのよ。けれどその悪魔はもう居ない……何が起こったのか、それはわたしにもわからない。残ったのは、引き裂かれた悪魔の血と肉だけ」
いつもとは違う、冷え冷えとした空気が流れている柘榴石高校の舎内。その空気をしめす様に、クノカネルナは両手を振り上げた。
「あなたも見たでしょう、『膨女』『針刺』――我が物顔で闊歩する、異形の邪霊たちを。あの邪霊たちは、悪魔の肉を求めて、この地獄へとさまよってきた者ども。すでに悪魔の肉体の大半は、彼らのものになっている。わたしだけじゃ、力を増した邪霊を倒せない。だからあなたに、一緒に戦って欲しいの」
金髪少女の、蒼い瞳が寧守を見つめる。
「邪霊たちから、悪魔の力を取り戻すのよ。条理に反逆し、不可能を可能にしたいのならば、それしか方法はない」
「さて、それじゃあ本格的に地獄へと降りましょうか。あまり時間をかけると、地獄が沈んでしまうしね」
そう言って、赤いパーカー姿の少女はひらりと軽やかに身を翻し、廊下を戻り始めた。
「ま、待ってよ」
あわてて少女の後を追いながら、寧守はクノカネルナに呼びかける。
「ねえ、クノカネルナ――」
「クノカ、でいいわ」
振り向いて、クノカネルナが言った。くりっとした蒼い瞳が寧守を見上げている。その幼い外見には不釣り合いな落ち着いた口調で、精霊少女は提案してきた。
「長いし、呼びづらいでしょ。わたしもクノカって呼ばれる方が好きだし――それに、『クノカネルナ』っていうのはわたしにとって真名だからね。あんまり連呼してほしくないな」
「……どういうこと?」
「自分の名前っていうのは本来、相手に知られただけで命を握られてしまうほどの重みを持った言葉なのよ、『安永寧守』。今みたいに特別な契約を交わす時でもなければ、本名はなるべく誰にも教えない方がいいの。だから、これからわたしのことはクノカって呼んでね。わたしも、あなたのことは寧守って呼ぶわ」
「……うん、わかったよ。クノカ」
寧守の返事に、クノカはにこっと目を細めた。
「ところで、何か聞きたいことでも? 寧守」
「あ、うん。地獄が沈むってどういうこと? そもそも、この学校が地獄と化した、って……一体、何がどうなってるの?」
「……その質問は、もっと前のタイミングにしておくべきだったと思うなぁ。少なくとも、わたしと契約を結んじゃう前には、ね」
振り向いたまま歩きながら、意地悪い顔で言ってくるクノカに、寧守はぐっと言葉を詰まらせた。確かにそうだが、仕方ない。クノカと契約を結んで、杏勾を甦らせるという希望が見え始めた今この段になるまで、寧守の精神に、それ以外のことを考える余裕はなかったのだから。
「どこから話そうかな。まず、天国地獄の概念は、わかるわよね?」
「……死んだあと、善い人が行くのが天国で、悪い人が行くのが地獄。……でしょ?」
「そう、それでおおむね合ってる。善き魂は天国へ昇り、悪しき魂は地獄へ沈む。天国、地獄、そして現世と、この三界は決して交わらない。それが世界の条理、この世の道理。至極当然、当たり前」
そこで、クノカは気楽な表情を消した。ふいと前に向き直り、足は止めぬまま、言葉を続ける。
「だけど、時としてその垣根を乗り越える者がいる。垣根を壊して、こちら側に乗りこんでくるものがいる。それが、悪魔」
「悪魔……」
悪魔の肉。クノカが求める、寧守が集めなければならないもの。この世の条理を覆す力。
「その罪深さゆえ、永劫、地獄に縛られているはずの悪魔。だけど彼らは時として、人の心を、魂を通り道にして、この世へと現れる」
「じゃあ……柘榴石校の誰かが、悪魔を呼び出したってこと?」
「ええ。とはいえ、意図的に呼び出した、というわけではないでしょう。悪魔は、現世にあらわれることはできないけど、いくつもの罠を張って犠牲者を待ちかまえている。強い魂を持ち、新たな世界を望む者が……『扉』を開けるのを、ね」
『扉』。
その言葉に、寧守は引っ掛かりを感じた。いつの事なのか、しっかりとは憶えていないのに印象的な、記憶の断片がよみがえる。白い円に触れようとする、細い指先。そう、彼女は確かにあの時、それを『扉』と呼んでいた――
考え込む寧守に気付いた様子もなく、クノカは説明を続ける。
「人間の魂には、『扉』を開く力がある。『新たなる世界への門』を繋ぐ力。悪魔はそれを利用して、地獄への扉を開かせる。ここからは推測になるけれど……この学校の生徒の誰かが罠にかかり、扉を開けてしまった。地獄へ繋がれたその扉から悪魔が呼び出され、柘榴石高校はこの世の地獄と化す。哀れな召喚者は悪魔に引き裂かれ、地獄へと落とされた。そして、何が起こったのかはわからないけど……その後なぜか、悪魔自身もその肉体を引き裂かれ、死んでしまった。かくて学校は地獄となり、元凶たる悪魔の肉はそこら中に、散り散りになってしまいましたとさ」
ばっと、目に見えない紙吹雪を散らすように両手を上げるクノカネルナ。
「地獄と現世は交わらない。それがこの世の条理。わたしたちの居るこの校舎も、新たな地獄となった以上は最早その例外ではないわ。今は、現出した悪魔の力の余波で、『この世であり、あの世でもある』という微妙な位置にこの地獄は保たれている……けれど、時間が経つほどにここは、あの世へと近づいて行く。やがて現世とのつながりは断ち切られ、地獄は、沈む。本来あるべき深みへと。そうなったらおしまいよ。もうこの世には戻れない。だから、わたしたちには一刻の猶予もないのよ、寧守」
ふいに、クノカの姿が消えた。驚いて立ち止まった寧守の目の前には、階段が姿を現していた。クノカはここを降りて行ったらしい。
木製の階段をぎしぎしと軋ませて降り、辺りを見回す。朽ち果てた木の壁からカビ臭いにおいが漂っていた。湿った空気の中を、寧守は一人進む。蛍光灯がばち、ばちと点いたり消えたりを繰り返している。
「ク、クノカ~……?」
おずおずと廊下の向こうに呼びかけてみるが、金髪の精霊少女の返事はない。
ひたすら困惑して、寧守はあたりを見回した。一体ここはどこなのだ。そもそも、学校の地下にこんな空間があるなんて聞いたことがない。
見たところ、学校の廊下に似ているが……窓もなく、教室への扉もない。ただの一本道の廊下が伸びているだけ。一歩踏み出すと、木の床が軋んで悲鳴のような音を上げた。壁も天井も木が腐りかけ、ところどころ壊れているのが見て取れる。
「寧守」
「ぅひえ!?」
後ろからいきなり声をかけられ、寧守は思わず飛び上がった。
おそるおそる振り向くと、いつのまにそこに居たのか、クノカがあきれた顔で立っている。
「何やってるの? こっちよ」
そう言ってクノカはすたすたと廊下の奥へ歩き出した。また取り残されないよう、寧守はあわてて後を追った。
「この奥ね」
少女が立ち止まったのは、木の壁に開いた大きな洞の前だった。
「……外?」
壁に開いた真っ暗な穴の向こうから漂ってくる気配に、寧守はつぶやく。草のにおいの混じった風と、虫の声。身を潜める小動物たちの足音。外の気配とは、つまりそういうものだが。
「あれ? え、でも、ここ地下じゃなかったっけ」
「地下も地上もないわよ。言ってるでしょ、ここは地獄だって」
当然のような顔で、クノカ。
「あなたの居た現世とは勝手が違うの。一つ一つの断片は元の校舎と同じものであっても、すべての空間がねじれて、変質しているの。見たでしょう、塔のように変質した校舎を。地下から屋外に通じてるくらいで驚かないでよ」
金髪の少女はそう言うと、別の空間につながっているという、その穴の向こうを示した。
「さ、行きなさい。この奥に『犬奉』のねぐらがあるわ」
「え? クノカは?」
「わたしは行かないわよ」
「なんでっ!?」
思わず悲鳴のような声を上げる寧守。クノカは肩をすくめて、
「だって、今のわたしの力は、あなたに貸してあげてるのが全部だもの。姿を隠すくらいはできるけど……万が一、犬奉に見つかったら抵抗しようがないし。わたしが喰われたら、あなただって困るでしょう」
「いや、それは……まあ」
「じゃ、がんばって~」
クノカの気楽な声に送り出されて、どこか納得いかない気分のまま、寧守は穴の奥へと踏み出した。
がさがさと藪をかき分けて、寧守は闇の中を進む。右手にはすでに抜刀したカラキリを持っていた。鞘は置いて行こうか少し迷ったが、結局左手に持っている。
暗闇は、どちらかといえば得意だった。残酷な太陽の光に照らし出されることもなく、すべてが平等に、闇の中に投げ出されている。寧守にとっては、昼間よりもよほど過ごしやすい時間帯だった。とはいえ、さほど夜目が利くわけでもないが。
(行きなさいって言われても……そもそも、どこに行けばいいんだか)
命ぜられるままに来てしまったが、何を手掛かりにすべきかくらいは聞いておくべきだったかもしれない。引き返そうとして、寧守は振り返る。が。
通ってきたはずの、壁の破れ目が見えない。蛍光灯の明かりを、ついさっきまで背中に感じていたような気がするのだが。首をかしげて疑問符を浮かべるが、すぐに重大な事実に気が付く。
校舎がない。さっきまで寧守のいた柘榴石校の校舎が跡形もなく消えている。まだ建物が見えなくなるほどに進んではいないはずだが
「どういうこと、これ……」
《寧守ー、聞こえるー?》
「えっ、な、何っ!? クノカ!?」
校舎消失に驚く間もなく、頭の中に響いてくる声に、寧守はさらに混乱した。脳に直接語りかけてくるその声は、あの金髪精霊少女のものだ。
《テレパシーは電波良好みたいね。じゃ、そのまま右に八十度回ってー》
「は、はちじゅうど? こ、こう?」
クノカのテレパシーとやらに促されるまま、寧守は向きを変える。
《あー、それだとちょっと回りすぎ。戻って戻って……今度は戻りすぎ……んー、もうちょい……ビンゴ! じゃ、そのまま進んで》
「……どこから見てるの?」
暗闇をきょろきょろ見回しながら、寧守は歩き出した。
《見てるんじゃなくて、磁場を感じてるの。人の魂や邪霊はそれぞれ、独自の磁場を持ってるからねー。レーダーみたいに探知できるのよ》
「じゃあ、クノカはまだ校舎にいるってこと? あ、そうだクノカ、校舎がどこにあるかわからなくなっちゃったんだけど……」
《ああ、出入り口なら見失ったんじゃなくて、無くなったの。わたしがリンク切っちゃったから》
「……えっと? あれ、それってもしかして私、もう戻れない感じの雰囲気?」
《犬奉を倒したら、奴が支配してた分の空間が正常化して、校舎には戻れると思うわよ。何の問題もないでしょ?》
「う、うう……まさか味方の手で、文字通り退路を塞がれようとは……」
《精霊聞きの悪いこと言わないで。どうやら犬奉とその眷属は、邪霊たちの中でも地獄化にいち早く反応して、さっきの穴から校舎に雪崩れ込んできたみたいね。穴を塞げば一時的には流入を止められるけど、大元を叩かないと解決にはならないわ》
「大元……」
《そう。寧守、あなたが今進んでいる方向の先に、奴らの反応が多数あるわ。おそらくそこが巣よ》
寧守は無意識に深く息を吸った。刀の柄を握る右手に汗がにじむ。さっきは、ほとんど意識しないままに敵を倒してしまったが、今度はそうもいかないだろう。これから彼女は、生き物――といっていいのかどうかわからないが――を、自分の意思で殺すのだ。寧守の人生でそんな経験はほとんどない。害虫の退治だって父親に任せきりなのだ。
《迷ってる余裕があればいいけどね》
内心を見透かしたようなクノカの言葉が脳に響き、寧守はどきりとする。
《少し面白い話をしてあげる。あるところに、貧しい夫婦が二人きりで暮らしていたの。親戚もなく、近所づきあいもなかった。多くの負債を抱えて、それでもなんとか続いていた二人のささやかな夫婦生活は、ある日唐突に破綻する。夫が職を失ったのよ。二人はたちまち、その日食う物にも困るようになった》
鈴の鳴るような少女の声が告げる悲しい物語を、寧守はまっすぐに歩みながら聞いていた。暗闇の中で、想像力は過敏だった。真っ黒な空に、やせ細った男女の姿が浮かぶ。
《やがて妻が倒れる。栄養失調で衰弱していく妻を前に、夫はどうすることもできず……それからは、妻の亡骸と共に泣き暮らした。やがて夫も、目が見えなくなり、立って歩くことも難しくなる。男はそれから長い間、暗闇の中を這いずりながら、飢えに苛まれ続けた。その時……男の指先に、柔らかな何かが触れる。嗅覚すら失った彼は、その柔らかな何かの正体もわからぬまま掴み上げ、口に運んだ……》
藪をかき分けながら、寧守はごくりと唾を飲み込んだ。男に同調したからではない。男が喰おうとしているそれが何なのか、察したからだ。
《餓死寸前の男の舌に、それはあたかも天界の食物のように思われた。男は夢中でそれを頬張った。どろどろに腐敗した、柔らかなその肉を。それを全て食いつくした時……彼はもう、人間ではなくなっていた。そこに居たのは目も鼻も耳もない、貪る口だけの、卑しい怪物……》
「………」
《わかるかしら、寧守。男は決して口にしてはいけない物を食べてしまった。人が覗き込んではいけない、扉の向こう側を知ってしまったのよ。知ってしまえば、もう元には戻れない――そんなの、珍しい話ではないのだけれどね》
いつの間にか、寧守は立ち止まっていた。藪の向こうから、何かが近付いて来る気配。一つではない。寧守を囲むように、四つだ。がさがさと藪をかき分けて、迫ってくる――
《ほら、聞こえるでしょう。哀れな男と同じように、貪る口だけに成り果てた、卑しい獣の泣き声が》
無数の荒い息づかいが、闇の中を走り続ける――息を上げながら、寧守は月明かりもない夜道を駆け抜けていた。
「いっ!」
唐突に、右のふくらはぎを襲う激痛に、寧守は短く叫ぶ。それでも足は止めぬまま、抜き放った日本刀――カラキリで、足に噛みついてきたそれを切り払う。
肌色の顔なし犬人間、『犬奉』の眷属。後ろから噛みついてきたそいつは、寧守が攻撃に移る前にその気配を察したのか、あっさりと寧守の足から口を離して、斬撃をかわした。
刀の空振りする感覚に、寧守は歯噛みする。さっきからこの繰り返しだった。どこからともなくやって来たこの犬人間の群れは、寧守の周囲にまとわりつくように並走して、思い出したように噛みつきを仕掛けては逃げていく。こちらの攻撃はすべて空振りさせられ、寧守の体には歯型だけが増えていった。
走り続けながらのため深くは噛めないのか、傷は浅く、出血はそれほど深刻ではない。クノカから貸し与えられた精霊の力によって、肉体の回復力もどうやら上昇しているようだが、しかし痛いものは痛い。
(ま、まっすぐ進んでるから、クノカの言う通りならたぶん、この先に邪霊のボスが――ええと、犬奉だっけ――いるはずなんだけど)
そこにたどり着くまでに、こいつらを倒しておいた方がいいかもしれない。覚悟を決めて、寧守はカラキリの柄を握り直した。
犬人間の攻撃は徹底したヒットアンドアウェイだ。噛みついた後は瞬時に離れ、しばらくは攻撃圏内まで近づいてこない。機動力では相手が上、先手を取るのは難しいだろう。
(攻撃されてから反撃――じゃなくて)
体中の痛みを忘れ、意識を五感に集中させる。
(攻撃と同時に、反撃する!)
地を蹴る音。生温かい息。鈍い牙が、寧守の皮膚に触れる――
瞬間。左上腕に噛みつこうとした眷属の顎を、カラキリの白銀の刃が両断していた。皮膚に犬人間の歯が触れたと同時、寧守は超反応で斬りつけたのだ。
(や、やった……初めて、)
全ては、まばたきする間の刹那の出来事。頭部を切断された眷属の死体が地面に転がるのを音で察知しながら、寧守は走り続けた。
(……初めて……自分の意思で、殺した……)
クノカの言う通り、感傷に浸っている余裕などなかったが。
他の犬人間の気配が消えたことに気が付き、寧守は立ち止まって、慎重に辺りを見回した。仲間の死に臆したのか……否。
闇に包まれた藪の中を、重苦しい空気が満たしていくのを感じた。大きな何かが、ゆっくりした動きで闇を押しのけて、寧守の方に近づいて来る。
暗闇に慣れた寧守の目は、かろうじてそいつの姿をとらえていた。
四つん這いの、巨大な黒い獣である――地を這う姿勢でありながら、その体高は寧守よりも上だ。全身を覆う真っ黒な毛は長く、つややかですらある。それは人間の髪の毛だった。その獣は、全身から人の毛髪を生やしているのだ。
こいつが『犬奉』だと寧守は直感した。獣の全身から発せられる威圧感は、これまで襲いかかって来た犬人間とはケタが違う。
(私は――)
緩慢な足取りで、犬奉が迫ってくる。黒い巨体の周りには、肌色の犬人間たちが付き従うように群れていた。さきほど寧守に纏わりついてきた集団よりも、明らかに数が多い。
だが、そんなことはどうでもいい。犬人間など眼中になく、寧守は絶望的な思いで犬奉を見上げていた。
(私は、馬鹿だ)
こんなものを、倒そうだなんて。たかが一振りの日本刀で、少しばかり素早く強くなっただけのこの体で、こんな怪物をどうにかしようだなんて。
逃げる、ことにすら頭が回らない。右手に携えた刀を構えることもできず、立ちつくす。
長い黒毛に覆われた犬奉の鼻先が、寧守の胸に触れるほどに近づいてきた。黒い毛並みの奥に、白い歯がのぞく。形こそは人間に似通っているが、その大きさはまるで違う。体に見合うだけの巨大な歯並びを剥き出しにして、どうやら彼は笑ったようだった。
瞳は見えない。無いのかもしれない。眷属たちの姿を思えば、それを想像するのは容易だった。目も鼻も耳もない、喰い散らかすための口だけを持つ獣。
(それでも……)
寧守は震える手で、切っ先を突き付けようとした。だが。
それまでの緩慢な動きから一転、弾けるように動いた犬奉の巨躯が、音もなく寧守を吹き飛ばした。
星一つない夜空は、地面とそれほど変わらなく見えた。上も下もわからぬ闇の中、何メートルかを突き飛ばされ、地面――だか夜空だかに、全身を強く叩きつけられる。
痛みと衝撃に意識が真っ白になるのを感じながら、寧守は自分の右手が奇跡的に刀を手放していないことに気が付いた。激痛に耐えて起き上がろうともがく寧守の周囲に、いくつもの気配が近づいてくる。犬奉の眷属だ。
彼らは寧守を包囲すると、一斉に襲いかかって来た。破れかぶれに寧守の振るった一閃が、二体の犬人間を切り裂く。
と同時に、残りの犬人間の攻撃を受けて、寧守はその場に引きずり倒された。体のそこかしこに喰いつかれ、肉を千切られる。
「ぎ、いっ! ひっ、……ぁああぁあっ!!」
引き攣れた悲鳴を上げながら、寧守はカラキリをがむしゃらに振り回す。美しい白銀が闇の中に乱れた軌跡を描き、犬人間たちの肉を裂いた。
襲いかかって来た時と同じく統率された動きで、犬人間たちが一斉に退く。が、寧守に立ち上がる時間は与えられなかった。間髪を入れずに跳びかかって来た犬奉の前足が、寧守を地面との間に挟んで押し潰す。
巨大な犬奉の体重を乗せた一撃を受け、寧守は自分の背骨があっさりと粉砕される音を聞いた。ばき、でも、ぼきり、でもなく、パチパチパチ、と小さなものが連続して弾ける音だ。
次いで、衝撃によって破裂した内臓が血液と共に、口から噴き出す。意思とは無関係に、体がびくびくと痙攣した。
痛みは遠かった――想像を絶する痛苦が脳まで届いているのは感じる。だが遠かった。死にゆく自分をまるで他人事のように、寧守は眺めていた。
(ほら――やっぱり、駄目だった。私には無理だった。わかってたんだ、そんなこと)
後悔ではなく、決まりきったことを確認するように、胸中でひとりごちる。砕けた腹部を巨大な前足に踏みにじられ、血肉を吐き散らしながら。
(なにができるつもりだったんだろう。ちょっとおだてられたくらいで調子に乗って、強くなった気になって。私に、戦う力なんてない。どうせすぐこんな風に、何でもなく死ぬって、わかってたことじゃない――)
だったら、どうする。
胸の中に、唐突に響いた自分以外の誰かの声に、寧守は困惑する。クノカのテレパシーではない、自分自身の内側。そこにぽっかりと開いた穴から、語りかけてくる声だった。
だったら、どうする。諦めるのか。羊谷杏勾を甦らせるという望みは。
「そんなわけ、ないでしょ」
内臓の破片と一緒に、返答を吐き捨てる。
地面にあおむけに倒れたその姿勢のまま、寧守は右手の刃を振り上げた。今まさに、こちらを踏みつけようとしてくる巨大な前足を目がけて、無造作に、だが鋭く。前足を足裏から刃に貫かれた犬奉の絶叫が、あたりに響いた――
悲鳴を上げて藪の中へと飛びすさる犬奉と入れ替わるように、配下の犬人間たちが、再び群れで駆けてくる。
その場で跳ね起きるように寧守は立ちあがった。折れたはずの背骨は、一瞬で元通りにまで治っている。包囲する犬人間を見ながら、寧守は冷静に考えていた。こいつらは刀を避けている。つまり、刀を刀として、武器として認識している。
(なら、こういうのはどう――?)
近くに迫っていた一体へ向けて、寧守はカラキリを縦に振った。近くと言っても刀の間合いにはやや遠い、避けるまでもなく空振りだが、犬人間は警戒するように少し後ろに下がった。
だが、刀を振り切る前に、寧守はカラキリの柄から手を離していた。刀はくるくると回転しながら飛んで行き、犬人間の脳天に見事突き刺さる。
斬撃に見せかけた投擲、というわけだ。もっとも、予想外の攻撃を当てて怯ませるのが目的であり、ここまで上手く刺さるとまでは寧守も期待していなかったのだが。
頭を貫かれて倒れる犬人間に向かって、寧守は走りだした。刺さった刀を回収するためだ。丸腰の彼女を狙おうと、他の犬人間も動き出す。左右から駆け寄って来た二体が、飛びかかってくる、その一瞬前に寧守は急停止した。目標を見失った犬人間が、空中で互いにぶつかる。
「りゃー!」
少々間の抜けた(と自分でも思うような)気勢と共に、寧守は空中の二体をまとめて蹴っ飛ばした。ひとたまりもなく吹き飛ぶ犬人間たちは、先に死んだ一体、その脳天から生えたカラキリの刀身にぶち当たり――すぱっ、と両断される。
「……いや、だからそこまでの切れ味は期待してない……」
なんとなく困惑して、寧守はうめいた。
犬人間の死体に刺さったカラキリを回収したあたりで、闇の奥から膨れ上がってくる殺気に、寧守は気付いた。刀を構え、犬奉の攻撃に備えるが。
どこからどう来たのかもわからない一撃で、再度、体が浮き上がる程打ちすえられる。ある程度心構えをしていたため、先程のように飛ばされはしなかったが。
(やっぱり――こいつだけは、他の犬人間とは動きが違う!!)
衝撃を堪えてその場に踏みとどまりながら、寧守は奥歯をかみしめた。
藪の中を、犬奉の巨体が横切っていくのが見える。黒い体毛が周囲に溶け込むこの暗闇でも、なんとかその輪郭を見ることはできたが、さきほど跳びかかって来たように素早い動きをされるとお手上げだ。肉眼では捉えられない。
犬奉の姿が消えた。寧守が再び見つけるよりも早く、攻撃の気配が闇を震わせる。
寧守はとっさに、倒れ込むような形で地面に転んだ。寝転がった姿勢のまま、右手のカラキリで天を突く!
持ち上げる柄から伝わって来たのは、刃が肉に突き立つ時の嫌な手ごたえ。同時に――
あおぉあああああああっ!!
闇の中に、人と犬のちょうど境目のような叫び声が響いた。『犬奉』の悲鳴だ。跳びかかりをかわされ、空中で無防備な腹を突かれた『犬奉』は、もんどりうって地面へ落下する。
「――はあぁっ!!」
寧守は立ち上がるとカラキリを振り上げ、地に転がる妖犬を斬りつけた。しかし一瞬早く態勢を立て直した犬奉が後ろへと飛び退り、刀は空を切る。
そう見えた。だが。
(な――何、今の感じ……刀が、全然、重たくなかった……)
刀を振り抜いた姿勢のまま、寧守は妙な高揚感に全身が包まれてくのを感じた。ただでさえ軽いカラキリの刀身が、一切の重みを失い、まるで空気のように闇を薙いだ。この感覚には覚えがある。ついさっき、始めてこの刀を持たされ、犬奉の眷属を斬り伏せたあの時だ。
刹那、警戒するように遠巻きにしていた犬奉の肉体が、血飛沫を上げて眉間から真っ二つに裂けた。断末魔もなく、二つに分かれた犬奉の体が、ずるり……と分かれて藪の中へと倒れていく。
斬っていたのだ。明らかに間合いを外されていたにも関わらず――まるで距離など問題ではないというように、妖刀は犬奉を容易く両断していた。
「今みたいなのが連発できれば、もっと楽に勝てそうなんだけど……って、おっと」
刀を手にぼやきながら、寧守は軽いめまいを感じてその場でたたらを踏んだ。頭痛などはないが、軽い吐き気を感じる。
めまいから回復して、寧守はふとあたりを見回す。
いつの間にか、彼女は室内にいた。鈍い太陽の光が差し込む、机のないがらんとした教室である。野外でもないし、闇夜でもない。犬人間たちもいない。ただ、犬奉の死体だけは残っていた。
「『カラキリ』を使いこなせているみたいじゃない。感心感心」
横たわる犬奉の亡骸――動かずにいると、ただの毛髪の塊にしか見えない――その一つに、パーカー姿の金髪少女が腰かけている。
「お疲れ様、寧守。お腹は大丈夫? 手酷くやられたみたいだけど」
「お腹?」
クノカの言葉をおうむ返しにして、それからようやく思い出す。ついさっき、犬奉の前足に内臓から背骨まで踏み砕かれたのだ。一瞬で治ってしまったためすっかり忘れていたが。全身にも噛み傷や打撲を受けたはずだが、それも治っている。
「カラキリには斬った相手の邪気を吸収して、霊力に変換するからね。その霊力をさらに回復力に転化して、刀の持ち主であるあなたを守ったのよ」
「そう……だったんだ」
「それがなければ死んでたかもね」
あっさりと恐ろしいことを言いながら、クノカは犬奉の断面に手を突っ込んだ。邪霊の体内から少女が引っぱり出したのは、赤く透き通ったゼリーのような物体である。少し歪な形をしたその物体は、日の光にさらされて、微かに脈動しているように見えた。
「……それが悪魔の肉?」
寧守の疑問に答えるかわりに、クノカは小振りな口を開き、まさかと思う間もなく赤い物体をつるりと飲み込んでしまった。
「ごちそうさま」
クノカは唇を手で押さえながら、満ち足りた表情で言った。