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1. 開ける地獄



「……なんだろ、これ」

 目の前に開いた穴を見つめながら、安永寧守やすなが ねいすはぼんやりとつぶやいた。

 紺のセーラー服に身を包んだ、小柄な少女である。短く切りそろえられた黒髪は少しくせっ毛のため、毛先が跳ねていた。幼さの残る顔立ちは伏し目がちで、気弱な内面が外見にも表れている。

いつでも人気のない柘榴石高校の旧校舎、その二階の女子トイレの壁に背中を預けながら、寧守はその不思議な穴を見ていた。学校のトイレの洗面台横、漆喰の白い壁に、ぽつりと黒い穴があいている。直径は三センチほどか。だが、見る間にその穴は小さくなって、塞がってしまった。壁に手を当ててみても、なめらかな表面には何の変哲もない。実際に穴があいていたのなら、こんな風に塞がることはないはずだが。幻でも見たのだろうか。

「またここでサボってるの?」

 不意に呼びかけられ、寧守は驚いて入口を振り向いた。トイレの出入口に立って、呆れたように笑っているのは、寧守と同じ制服の女子生徒だ。

 腰まで伸ばした黒髪は艶やかで、白い肌に良く映える。くりっとした大きな瞳は、いつでもまっすぐに前を見つめていた。整った顔立ちに快活な笑みを浮かべた、寧守とは対照的な女子である。

杏匂あんく……どうしたの? 旧校舎まで来て」

「『どうしたの?』じゃ、なーいーでーしょー」

 つかつかとトイレの中に入ってきた長髪の女子――杏勾が、ぴん、と寧守の額を指ではじく。

 羊谷ひつじや杏勾。柘榴石校の一年生であり、寧守の年下の友人である。

「……なんでわかったのよぉ。ここに居るなんて言ってないのに」

 でこぴんされた額を押さえながら、寧守は唇を尖らせる。杏勾はにやりと笑って、

「寧守の避難場所ってだいたい決まってるのよね。図書館と、中庭の池のほとりと、旧校舎のトイレ」

「避難場所?」

「そ。文化祭の準備、またこっそり抜け出してきたんでしょ」

「う……」

 図星を指され、寧守は黙り込んだ。杏勾はそんな寧守の姿に、「仕方ないなあ」という風に笑って、

「行こう」

と、右手を差し出してくる。

 ごく自然に、寧守は杏勾の手をとった。年下の友人に手を引かれ、トイレを出て、廊下を歩く。二人にとってはいつものことだった。

 空き教室の多い柘榴石高校の旧校舎は、放課後間もない今の時間になっても静かだ。寧守はこの校舎に漂う、独特の臭いが好きだった。誰からも忘れ去られたような場所の臭い。

「サボるな、とは言わないけどさ」

 寧守の手を引いて前を歩く杏勾が、振り向いて言う。

「後悔するくらいならやめときなね。意味ないから。サボるんなら楽しくサボらなきゃ」

「……うん」

「具体的には、仮病で学校休んだ日の深夜に電話をかけてきて、そっから何時間も私は駄目な奴だと愚痴るくらいならやめていただきたい」

「そ、そのせつはご迷惑を」

「いいけどさ。そんなに嫌なの? 文化祭の準備って」

「……嫌、というよりは」

 自分自身に確認するような口調で、寧守はつぶやいた。

「私が居ない方が、全部うまく回るんじゃないかって気がするの。だったら居なくてもいいのかな、って」

「ばっかばかしい」

 本気で怒ったように、杏勾。

「他人を気にしすぎだよ、寧守。自分がやりたいならやる、嫌ならやらない、それでいいでしょ」

「……でも、ほ、他の人の迷惑にならないかな」

「迷惑なんて気にしだしたら、月に移住するしかなくなるよ? 月にさえ居場所はないかもね。人間なんて、生きてるだけで誰かの邪魔者なんだから」

 きっぱりと言い切って、杏勾は廊下を進んでいく。彼女はいつでも迷いがない。寧守は、杏勾のそんなところが好きだった。

 無人の校舎を、杏勾に先導されて足早に進む。寧守は廊下の窓にちらりと目をやった。隣接する新校舎では、寧守や杏勾の級友が一丸となって文化祭の準備、その大詰めを行っているはずだ。

 寧守はすぐに窓から視線を外した。級友に対して罪悪感をおぼえないわけではない。申し訳なく思うからこそ、こうしてサボるたびに負い目が増える。自分の教室に戻ることを考えただけで気が重い。

「どこ行く気? こっちよ」

「え?」

 手を引かれる感覚が変化して、寧守は思わず声を上げた。てっきり新校舎に戻されるのかと思っていたが、杏勾が寧守を連れてきたそこは、旧校舎の一階の空き教室だった。

「さっき、鍵が開いてるのを見つけてね。誰か閉め忘れたのよ、きっと。ここなら、しばらくは見つからないでしょ」

「……あの、なんで?」

「なんでって、サボるんでしょ?」

 当たり前のように言って、杏勾はさっさと教室の中に入っていった。寧守が後を追って教室の扉をくぐると、杏勾はいつのまにやら窓際の席に腰掛けている。寧守はそのひとつ前の席に座って、同じように窓をながめた。

「杏勾のクラスは、もう終わったの? 文化祭の劇の準備――えっと、演目は『マルコ・チッビの穴』だっけ」

 寧守が聞くと、杏勾はあっさり首を横に振った。

「うんにゃ。今ちょうどラストスパート。劇のクライマックスで使うマルコ・チッビの顔のマスク製作が遅れててさー。なにせ演者全員分だし」

「……いいの? 抜け出してきて」

「言ったでしょ。サボりたかったらサボればいいのよ」

 悪びれずにそう言って「ん~っ」と伸びをする杏勾に、寧守は苦笑する。こうも堂々とされては笑うしかない。同じ職場放棄でも、寧守と杏勾ではこの違いである。

 黙っていれば品行方正なお嬢様にしか見えないこの少女、羊谷杏勾は、いわゆる文武両道――勉強・運動共に並ぶ者のいない、柘榴石高校始まって以来の天才とまで言われる生徒だが、同時に、柘榴石校の歴史上類を見ない問題児でもあった。まさしく先ほど彼女自身が言った通り、やりたければやるし、やりたくないことはてこでもやらない。一学期の期末テスト当日の朝に、「気になる作家の個展を見に行くので休みます」と担任に連絡してのけたというエピソードが、彼女の性格を端的に表している。『百点か零点か(オールオアナッシング)』と揶揄される彼女のこうした性質に、先生方は正直頭を抱えている、というのが実情だ。

 そんな身勝手で無茶苦茶な、言ってしまえば変人の杏勾だが、友達は多い。彼女の自由奔放さにほれ込んだファンは、一年生のみならず、寧守の学年である二学年や、三学年にもいる。というより、寧守自身も似たようなものだが。

 寧守にとって杏勾はかけがえのない唯一無二の友人だが、杏勾にとっての寧守は、大勢の友人のうちの一人に過ぎない。そんな彼女が、サボっているだけとはいえ、何のとりえもない自分と共にいてくれることが寧守はうれしかった。

(それってつまり、杏勾にとって、私は嫌な相手じゃないってことだよね……)

 杏勾は、嫌なことは絶対にやらない。百点か零点か――選択肢の正解がどちらだろうと、杏勾は必ず自分の好きな方に丸をつける。だから、寧守は彼女とこうして一緒にいられる時間が、何よりも誇らしいことに思えた。

「あれ?」

 寧守と雑談に興じていた杏勾が、ふと何かに気が付いたように頭を巡らせた。

「あんなの、あったっけ」

 杏勾が指差したのは、黒板だった。大きな黒板の一杯に、白いチョークで描かれた真円が出現している。機械で描かれたかのような正確な円が大小二つ、ドーナツ状に重なっていた。二つの円の内側には、見たことのない文字のような模様が一定のパターンで並び、幾何学的な像を描いていた。ただの落書きには見えない、精密な筆致でだ。

 明らかに何者かの意図を感じさせる白いサークル。それを見た瞬間、寧守は不吉な予感に襲われた。遠い昔に、あの円を見たことがあるような気がする。そしてそれは、何かとてつもなく恐ろしい事態を引き連れてくるのだ。

「ねえ杏勾、もう出よう――」

「ちょっと待って。気にならないの? さっきまではなかったよ、あんな扉なんて」

 寧守の制止を振り切って、杏勾は黒板まで小走りに駆けていく。

「ま、待って、杏勾!」

 わけのわからない不安に突き動かされ、寧守は声を上げていた。杏勾の元まで駆け寄り、止めようとするが、間に合わない。

 少女の、細い指先が、白い真円に向けて伸ばされる。それを止めなければならないとわかっているのに、寧守は杏勾の元までたどり着けない。なぜか、それを確信していた。

(私は……思い出す。これから先、この光景を、幾度も……)

 訪れる結末に涙を流しながら、それでも寧守は走る。だが、間に合うこともなく。

 杏勾の手が、円に触れた。



「……あれ?」

 気が付くと、そこはトイレの個室だった。周囲の明かりの加減から時間帯を察するに、放課後間もなくといったところか。

 携帯端末を握りしめたまま、寧守はぼんやりと天井を見上げている。薄汚れたクリーム色の塗料、今にも落ちて来そうな古びた蛍光灯。寧守にとってはすっかり見慣れた、旧校舎二階のトイレの天井だった。

「夢……?」

 頭を押さえて、寧守はかぶりを振る。どうしてここにいるのか、いつから眠っていたのかよく思い出せない。ひどく悲しい夢を見ていたような気もするが……

『……ちょっと寧守、…えてるの? ね……』

 右手の携帯から、とぎれとぎれに声が漏れている。ディスプレイを見ると、杏勾の名が表示されていた。どうやら、通話中に寝てしまったらしい。

「ごめん、寝ちゃってた」

『……てるね。よかった。…の教室……まで……』

「えっ? あの、もしもし?」

 電波が悪いのか、杏勾の言葉は途切れ途切れで、よく聞き取れない。

『……す…だから。わた…………に来て………寧守』

 その言葉を最後に、通話は途切れた。かけ直そうとして、圏外表示に気が付く。

(旧校舎、電波悪いのかな。まあ、あとでかけ直せばいいか)

 その時は軽く考えて、寧守はトイレを出た。



 廊下はひどく薄暗かった。窓から差し込む光は弱く、さっきまで晴れていた空は、灰色の雲で覆われている。

 柘榴石高校新校舎。寧守は重たい足取りで、自分の教室へと向かっていた。今、教室内では文化祭の催しである喫茶店の準備が、いよいよ大詰めを迎えているはずだ。今更、どんな顔をしてそこに加わればいいのか。

と、明かりも届かない廊下の奥で、何かが動くのが見えた。ほんの一瞬だけ視界に映ったそれは、すぐに曲がり角の向こうへと姿を消した。

 寧守のいる位置からは、それが何なのかまでは分からない。ただ、遠目にぼんやりとだけ見えたそれは、妙に不安を掻き立てられる姿をしていた。肌色で、四つん這いの……なにか。

 例えば。やせ細った全裸の人間が、犬のように手をついて歩けば、あんな風に見えるかもしれない。もし、そんな人間が学校の校舎内にいるとすれば一大事だが。

(ひょっとして、へ、変質者かな。やだな……)

 寧守の所属する二年一組の教室は、曲がり角の手前にあった。教室へ向かうには、あそこに近づかなくてはならない。嫌な気分だが、すぐに教室に入ってしまえば安全だろう。少なくとも、人気のない廊下に一人でいるよりは。

 問題ない。寧守は自分にそう言い聞かせる。そもそも、今見たものだって、何かの見間違いということは十分ありうるのだ。迷い込んだ野良犬かもしれない。つまらない事を考えている前に、さっさと廊下を歩いて、すぐそこに見えている教室の扉を開けるべきだ。

 内心怯えながらも、寧守は歩き出す。なるべく足音をたてないように、足を踵から地面につけるよう意識しながら、早足で教室の扉までたどり着いた。

 結局、何も起こらなかった。ほっと安堵して、自分の臆病さに苦笑いしながら、寧守は教室の引き戸に手をかける。

 いつもなら騒がしいはずの放課後の教室から、同級生たちの話し声どころか、物音ひとつ聞こえて来ない。その異常さに気が付くこともなく、寧守は扉を開けた。



 二年一組の教室には、惨憺たる光景が広がっていた。

 机や椅子の多くが横倒しになっていて、原型を留めぬほど破壊されたものもいくつかある。そしてそれは、机の持ち主たちにしても同じだった。

赤黒い、人間大の肉の塊が、無造作に転がっていた。そのどれもが、学ランや、寧守と同じセーラー服を着ている。柘榴石高校の制服を着た、肉の塊たち。

 教室の床のそこかしこに広がる血だまりを、寧守は、現実感なく見つめる。それが血であることはわかった――しかし、それがどういうことなのか、すぐには理解できなかったのだ。

 だが、生臭い空気が、開け放した扉の向こうから漂ってくるにつれ、寧守の麻痺した頭にもようやく事態が飲み込めてきた。

 赤く濡れた肉塊は、死体だ。獣にでも喰いちぎられた様に手酷く破壊され、人の形を留めているものがほとんどない。

 足から力が抜け、寧守はその場にへたり込む。頭の位置が低くなったせいか、むせ返るような血の臭いが鼻腔に流れ込み、吐き気を覚えた。教室の外まで漏れださなかったのが不可解なほどの、血生臭く澱んだ空気。

 口元を押さえて、尻もちをついた姿勢のまま、寧守は後ずさる。頭がちゃんと働かない。わけもわからず泣き出しそうになっている自分を、もう一人の自分がどこか遠くから、他人事のようにながめている。

 廊下の壁に手をつき、よろよろと立ち上がる。助けを求めて、寧守は隣りの教室の戸へと近づき、開けた。

だが、開いた扉から漏れ出してきた血の臭いに、すぐ戸を閉める。一瞬だけ見えたのは、床に広がる血の海と、散乱する肉塊。まるで同じ惨状だった。

 震える手で、ポケットから携帯電話を取り出す。警察か救急車か、なんでもいい、とにかく助けを求めるのだ。

 だが、携帯の真っ黒なディスプレイ画面を見て、寧守は息を詰まらせた。まさかと思い、電源のキーを何度も押すが、まるで反応がない。バッテリー切れか、壊れたのか。確かなのは、これでは助けが呼べないということだ。

「なんでよぉっ……さっきまで、点いたのにっ……!」

 半泣きになりながら、寧守は必死で携帯のキーを押し続けた。

 寧守の指がやたらめったらにキーを押すカチカチという音が、あたりに響く。それ以外の物音といえば、恐怖と焦りにうわずった寧守の荒い息と、彼女がときどきしゃくり上げる声だけだ。そんな音が聞こえるほどに、気が付けば学校全体が、まるで無人の廃墟のように静かだった。

 何かに襲われたのか? あんな惨状をもたらすような、何か。たとえば、どこかから野犬の群れが教室の中に雪崩れこんできて、生徒たちを襲う。十何人かが犠牲になり、残りの生徒たちは逃げ出した――悲鳴一つ上げず、大きな足音も立てずに。そんなことが有りうるのか? そもそも、ここは校舎の二階だ。野犬の群れだろうがなんだろうが、そんなものが押し寄せてきて、途中で騒ぎにならないはずがない。

(ち、違う……そんなこと、考えてる場合じゃなくって)

 力の入らない足を奮い立たせ、寧守は歩き出した。目指すのは一階にある職員室だ。そこには先生たちが、寧守から見れば頼りになる大人が何人もいる。彼らに助けてもらわなくては。

 この異常な事態の解決は後回しでもいい。ひとまずの安全と安心、それと暖かい飲み物が今は必要だ。震えの止まらない体を両腕で押さえつけながら、本気で寧守はそう考えていた。

 ほうほうの体で階段の前までたどり着いた寧守の視界に、奇妙なものが映った。

階段の踊り場に、人間の両足が見えている。紺のタイトスカートに黒いパンプス姿の、女性のものとおぼしき足だった。寧守の位置からはまだ全身までは見えないが、どうやら誰かが、踊り場に仰向けに倒れて、両足を投げ出しているらしかった。

「網穂先生……?」

 寧守は自然と、担任の池田網穂いけだ あみほの名をつぶやいていた。ここから見える靴とスカートが、彼女のいつもの格好と似ている気がしたのだ。おそらく寧守たちのクラスがきちんと作業をしているかどうかの見回りだろう。問題は、なぜ仰向けに倒れているのかということだが。

 しかし、寧守はそれ以上深く考えず、ぱっと表情を明るくして階段をかけ下りていった。ようやく頼れそうな誰かと出会えたという事実が安堵となって、彼女の胸を満たしていた。二年一組の担任であり、「あみちゃん先生」の愛称で親しまれる英語教師・池田網穂は、やや天然で抜けたところがあって、寧守から見ても頼れる大人とは言い難かったが、このさい背に腹は代えられない。とにかく事情を話して、職員室まで一緒に戻ってもらうのだ。

「先生!」

 階段を一息にかけ下りて、寧守は、網穂教師の方へと振り向いた。

 肌色のボールのような、髪も耳もない、つるりとした頭。それが、初めに見えたものだった。

 階段の上からは、ちょうど死角になる位置――仰向けに倒れた網穂教師の上半身に覆いかぶさった、全裸の人間、のようなもの。犬のように四つん這いになったそいつは、丸い球のごときその頭を網穂の喉元に近づけ、盛んに震わせている。肌色の頭が震えるたび、くちゃ、べちゃ、と粘り気のある水音が響いた。

「あっ」

 思わず声を上げて、寧守は口を押さえた。肌色の連想から来る反射的な思考で、見てはいけないものを見てしまったと思ったのだ。見てはいけないもの――例えばそれは、男女の情事などだ。

 結果として、ある意味でそれは正しかった。その光景は確かに『見てはいけないもの』だった――しかしそれは、寧守が思ったような秘め事ではなかったが。

「……え、…………っ!」

 状況を呑み込むにつれ、赤面した寧守の頬から、次第に赤みが失せ、今度は蒼ざめていく。

 四つん這いの男が顔を震わせるたびに、水音を立てているのは、血だった。網穂教師の喉元から噴き出す血が、男の顔に当たってべちゃべちゃと跳ね返り、したたり落ちる音。彼女の白く細い指先が、水音のたびにびくり、びくりと痙攣し、床を掻いた。

 喰いちぎられている。生きたまま、喉を。

 そう理解して、寧守は自分の口元を押さえたまま、深く息を吸った。そのまま息を止め、静かに後ずさりする。四つん這いの肌色の男は、視界から消える最後まで寧守に一切反応せず、夢中で頭を震わせては、肉を食いちぎり、水音を立てていた。

 後ろ向きで階段を上って、廊下まで戻る。寧守はそこで立ち止まり、吸いこんでいた息をゆっくりと吐いた。悲鳴を上げたりはしなかった――そんなことをして、あの四つん這いがこちらに襲いかかって来たらどうする?

(なん、なの、あれ)

 体の筋が緊張でこわばって、上手く動かせない。寧守はぎくしゃくと足を動かし、廊下を来た方へと戻る。

だが、廊下の向こうから、肌色の四つん這いが歩いて来るのを見て、寧守は今度こそ動きを止めた。階段の下にいたのとは別の、だが明らかに同じ種類の生き物。ひたひたと、手をついて獣のように歩きながら、寧守へ近づいて来る――

(助けて)

 逃げようにも、完全に体が硬直してしまっている。寧守は頭の中で、唯一の友人に助けを求めた。年下で、だけどいつでも落ち着いている、寧守が誰よりも尊敬し頼りにする存在。

(助けて、杏勾――)

 その時。迫りつつあった怪物の目の前に、べちゃ、と白っぽい何かが落ちてくる。階段の上の方から、粘着質な音を立て投げ入れられたのは、口の部分がくくられたコンビニ袋だった。薄いビニールの向こうに、赤黒い中身が透けている。何が入っているのか、想像したくもないが。

 怪物は袋に興味を持ったようだった。前足で押さえつけて袋を噛みちぎる。そいつの歯は、肉食の獣とは違い、人間のように先が平たくなっていた。

 状況が飲み込めず立ちつくす寧守の耳に、ささやく声が聞こえた。

「寧守、こっち」

 袋の投げいれられた階段の上の方から聞こえてくる、危うく聞き逃してしまいそうな小さな声。寧守の耳にその声が届いた瞬間、呪いを解かれたように体が動くようになった。袋の中の肉を食うのに夢中になっている四つん這いの隣りをすり抜け、ささやきに導かれるようにして、寧守は階段を上る。

 踊り場にいたのは、長い髪の少女だった。寧守の髪と同じ色とは思えない、艶やかな黒髪。その黒に映える、白く透き通った肌。整った美しさはそのまま人形のように飾っておきたくなるが、本人はいたって活動的な性格である。彼女は大きな瞳を、獲物を狙う猫のようにきらりと輝かせ、寧守に向かって右手を差し出した。

「行こう」

 その一言で、寧守には充分だった。彼女に手を引かれて、階段を駆け上がる。

 四足の怪物が追って来る気配はなかった。上階まで辿り着き、二人、大きく安堵の息をつく。

「危ないとこだったね」

 そう言って笑う少女の顔を見て、寧守はふと自分が泣き出しそうになっていると気が付いた。慌てて息を整える。一応寧守にも、年上の意地というものがある。一つ年下の彼女が泣いていないのに、自分だけ涙を見せるわけにはいかない。

「……うん。ありがとう、杏勾。助かった」

 黒髪の少女――杏勾は、そんな寧守の意地すらも見抜いているかのように、優しくうなずきかえした。



「よっと」

 杏勾は軽い掛け声と共に、廊下に備え付けられている消火器を持ち上げた。

「消火器なんて何に使うの?」

「さっきの犬人間、追いかけてくるかもしれないでしょ?」

 寧守の質問に、杏勾は視線で階下を示す。犬人間とはさっきの四つ這いの怪物のことらしい。

「もちろん戦いは避けたいけど、万一ってこともあるし、武器はあったほうがいいからね。さ、移動しよ」

 平然とそう言って、消火器を抱えたまま杏勾は廊下を歩き出す。寧守はあわてて後を追った。

「ま、待って、私が持つよ。重いでしょ」

「これくらい大丈夫だよ。そのかわり、他に使えそうなものがないか探しておいて」

 あっさりと寧守の提案を蹴って、杏勾はすたすた歩いて行く。寧守ほどではないものの、杏勾もまた小柄な方ではあるのだが、そこそこ重たいはずの消火器を危なげなく抱えていた。

「……使えそうなものって、たとえば?」

「なんでもいいよ、その気になればなんだって使い道はあるものだから」

「うーん……。あ、そういえば。さっき杏勾が投げたコンビニ袋の中身って、なんだったの?」

「聞きたい?」

「………」

 振り向かないまま、ぼそりと聞き返してくる杏勾に、寧守は口をつぐむ。あまり深く考えない方がよさそうだ。

 さっきから、寧守にとってはわけのわからないことだらけだ。だが、杏勾はこんな状況でも動じていないように見える。迷いなく足を進める杏勾に、寧守は聞いてみた。

「……ねえ、杏勾。これって、一体、何が起きてるの?」

「私に聞かれても」

 寧守の質問に、杏勾は苦笑する。

「何もわかってないのは、私も同じ。教室にあの犬人間が飛び込んできて、大騒ぎになって。とにかく逃げなきゃって無我夢中で、気が付いたらここまで来てた」

「さっき電話してくれたのは、その後?」

「電話?」

 聞き返しながら、杏勾が振り向く。いぶかしげに眉根を寄せて、

「電話って、何の話」

「え……だからその、さっき私がトイレにいる時、電話してくれたよね? 私を心配して、かけてきてくれたん……じゃ、ないの?」

「いや、心配はしてたけど。電話はしてないよ。ていうか、犬人間の群れから逃げ出した後、なんでか携帯自体が繋がらなくなっちゃったし」

「あれ? ……や、やっぱり私の勘違いかも。なんだか電波の調子も悪い感じで、何を言ってるのかもよくわからない電話だったし」

「ねえ、それってさ――」

言葉の途中で、杏勾はふと何かに感付いたように、窓の方を向いた。

「ど、どうしたの?」

「下がって」

 窓に近寄っていこうとした寧守を手で制して、杏勾は消火器を床に下ろし、ハンドルを握る。次の瞬間――

 バリィィン!!

「ひっ!?」

 窓ガラスをぶち破って、肌色の怪物が飛び込んでくる。それは床に手足をつけて着地すると、口しかない顔をこちらに向けて、威嚇するように歯を見せた。ぐっと足を曲げ、怪物は跳躍の姿勢を見せる――

「……ふっ!!」

 息吹と共に、杏勾がその場で一回転した。右足を軸に、消火器を握ったままで、である。飛びかかって来る犬人間のその頭に、狙いあやまたず消火器の底が直撃した。大きく開かれた怪物の顎が衝撃でひしゃげ、成人男性ほどもある体が空中を舞う。犬人間はくるくると回りながら地面に打ちつけられ、動かなくなった。

 がこん、と消火器を下ろして、杏勾はふぅ、と汗をぬぐう。

「やれやれだぜ」

「……杏勾って、たまに凄いことするよね」

 感心したような呆れたような気持ちで、寧守はぴくりともしない犬人間を見下ろす。

「消火器、鈍器として使うんだ……てっきり消火剤を噴射して倒すのかと思ってた」

「消火剤じゃ倒せないでしょ。それより、見てよ、寧守」

 いつの間にか窓際まで移動していた杏勾が、犬人間の割った窓を覗き込みながら寧守を呼んだ。隣りから同じように窓の下を覗き込んだ寧守は、思わず悲鳴を上げかける。

 寧守たちがいるのは、三階建ての柘榴石高校の二階である。窓の下の光景は本来、一階の窓がある校舎の壁と、校庭が見えているはずだ。しかし、寧守が見たのは、下に向かってどこまでも伸びる校舎の壁面だった。地面は見えない。限りなく深い谷底のような、太陽の光の届かない真っ暗な闇の中に、塔のように伸びる校舎が突き立っている。異様なのは、その壁面全てに窓が等間隔に並んでいることだった。無限に続く建物の全てにフロアがあり、教室が収納されているように見える。

「……なに、これ……」

「さあね……校舎のリフォームなんだとしたら、施工した匠に病院をおすすめしたいところだけど。ひとつ言えるのは、外に逃げられるという可能性が、これで薄くなったってことよ。もちろん、試してはみるべきだけど……もしあの窓の分だけ階層があるんだとしたら、それを全部降りるっていうのはぞっとしないね」

 消火器にあごの先を当てて考え込みながら、杏勾が言う。

「とりあえず下に降りて、一階以降がどうなっているのか確かめよう。本来地上に通じているはずの出入口はどうなっているのか、地下への階段は増えているか、増えているとしたらそれはどのような変化によって起こったのか。すべてわかるとは限らないけど、なにかこの状況の手掛かりが得られるかもしれない」

 異様な状況下でも、杏勾はあくまで落ち着いていた。寧守は改めて、この年下の友人を頼もしく感じる。

 杏勾と一緒なら、どんなことが起きてもきっと大丈夫だと、そう思えた。



「駄目だ。塞がれてる」

 校舎の一階――「元」一階というべきか――まで下りてきた杏勾は、出入り口の前に立ってため息をついた。地上へ続く出入り口は、埋め固められたように跡形もない。

「そして、新たに増えているのは、地下へと続く階段か。どう思う? 寧守」

「いやもう、私には……何が何だか」

 どう考えても手に余る問いかけに、寧守は首を振る。杏勾は「だよね」と苦笑して、少しへこんだ消火器を、重くなってきたのか肩に担ぎ直した。

 その時。たたたたっ……という軽い足音と共に、小さな人影が二人の目の前を横切る。

「えっ!?」

 驚きの声を上げる寧守の前を横切っていったのは、子供だった。目立つ赤いパーカを着てフードを被った、小学校低学年くらいの背丈の子供が、異様な速さで廊下を走りぬけて行く。突き辺りから、寧守たちのいる出入り口の前を横切って、反対側の廊下の奥へと。

「待って!」

 ここでも杏勾の行動は素早かった。ぱっと身をひるがえすと、赤いパーカーの背中を追って走り出す。例の消火器を抱えたままである。一拍遅れて、寧守もあわてて杏勾の後を追う。

 赤いパーカーの子供は、寧守たちがいたのとは反対側の階段付近まで来ると、ぱっと下り階段の方へ姿を消した。ためらうことなく杏勾も後を追う。

 二人からかなり遅れて、息せき切らしながら寧守も階段まで辿り着く。階段には二人の姿はない。ぱたぱた、と急いで段を下るような足音が二人分、遠く聞こえてくる。

「え、ちょっと、……杏勾? ま、待って!」

 一人とりのこされ、寧守は急に心細い気持ちになった。急いで杏勾に合流しようと寧守は階段を降りる。

 だが、降り始めてすぐに、寧守は異変に気が付いた。踊り場で折り返した瞬間、目に飛び込んできたのは、次の踊り場。

「……えっ?」

 二つ目の踊り場まで降りて振り向くと、またもや同じ光景。フロアに通じる出入り口がない。どこまでも階段が続いている。

 わけもわからないまま、寧守はただ杏勾を追いかけて、階段を下り続けた。どれほど降りただろうか――疲労で足の感覚がなくなってきた頃、ようやく階段は終わった。そこは、一見すると上階と同じ作りの、教室につながる廊下。しかし、その雰囲気はひどく不気味だった。

「杏勾ー……?」

 おそるおそる呼びかけるが、返事はない。寧守は廊下の真ん中へ進み出て、周囲を見回した。ぱっと目に飛び込んできたのは、赤い色――最も奥にある教室の扉の前に、消火器が転がっている。寧守はすぐに、杏勾の持っていた消火器を思い出した。だが目前に見えている消火器の缶は、寧守の記憶にあるものよりもへこみが多く、折れ曲がった状態で放置されている。

 不吉なものを感じて、寧守はその教室の前まで駆け寄ろうとした。だが、その手前にある教室の扉の前で、ぴたりと足を止める。赤い消火器が無造作に転がる扉の前までは、あと数歩という距離だ。

 それでも寧守は、足を止めざるを得なかった。教室の中から、声が聞こえてきたのだ。

「まったく――冗談じゃないよ! あの犬っころときたら――」

 ひどく気の短かそうな、女の怒鳴り声。続いて、どすどす、と重たい音が連続して聞こえてくる。足音のようだが、よほど体重があるのか、廊下の蛍光灯がわずかに揺れるほどの振動が起きた。

「なんでもかんでも飲み込んじまいやがって! 物の価値ってもんをわかってないのさ! 共食いがお得意のけだものが――」

「あれに知性など期待するな」

 ヒステリックにわめき散らす女の声とは対照的に、いたって冷静な男の声も聞こえてきた。

「『犬奉いぬほうじ』の五感で有用なものは鼻だけだ。味覚すらあるまい。その分、嗅ぎつけるのは早いというだけの話だ」

「その馬鹿犬に先を越されてんじゃないのさ! ああ腹が立つ、悪魔の肉なんて『犬奉』にゃもったいない御馳走だよ!」

 寧守はそっと身をかがめ、教室の戸に張り付いた。なるべく音をたてないよう慎重に、引き戸をわずかに開ける。できた扉の隙間から、寧守は教室の中を覗き見た。

 死体の散乱する教室の真ん中に、巨大な体躯の裸の女が一人、こちらに背を向けて立っている。女は異様に太っていて、小山のような体を、肉のひだが何層にも覆っているのが視認できた。肌色は非常に悪く、死体のような土気色をしている。ところどころ、体の肉が腐り落ちているようにも見えた。

 ぼさぼさの長い黒髪を振り乱し、巨躯の女は憤懣やるかたない様子で地団駄を踏む。

「悪魔の肉は、ぜーんぶアタシのもんだ! 馬鹿犬が消化しちまう前に、見つけ出して、吐き戻させてやる! とっとと探すんだよ、『針刺はりさし』!」

「我はお前の使い魔ではない――ゆえにお前の命に従う道理もない。犬奉を見つけたければ、自分で探すのだな、『膨女ふくれめ』」

 いらだった様子で足踏みする巨大な怪女のすぐ隣りに、白いマント姿の男がいた。顔の上半分を舞踏会のような仮面で隠し、どこか宗教的なものを漂わせる白い衣服を身にまとっている。下半分だけ覗く顔は整っていて、かなりの美形であるようだ。

 だが、その男――『針刺』と呼ばれていたそいつの、全身からにじみ出る嫌な気配は、離れた位置から様子をうかがっている寧守にもはっきりと感じ取れた。絶対に近寄りたくない、うっかり関わってしまえば何をされるかわからない不気味さが、その男にはある。

「『血洗ちあらい』はどうした? 奴も悪魔の肉を喰らったのだろう」

「はっ! どこかに隠れてやがるのさ、いつもみたいに。逃げ回るしか能のない、臆病者の屑さ、あいつは! 屑がどこの隙間に詰まってるかなんて、アタシの知ったこっちゃないね!」

 巨体の怪女――『膨女』もまた同じだった。女の異様な風態から、かすれた怒鳴り声から、怨念じみた悪意が無差別に周囲へ撒き散らされている。

針刺と膨女、二人のかわしている言葉の意味は寧守にはまるで理解できなかったが、彼らから漂ってくる尋常ではない邪悪さに、絶対に気づかれてはならないと確信した。死体の転がる教室の真ん中で平然と会話をするあの二人は、学校の関係者でも、何も知らず迷い込んでしまった部外者でもない。恐らくは……人間ですら、ない。

「ならば、血洗の奪った肉はあきらめるのだな?」

「だったらなんだい? あんな根暗の相手をするのはごめんさ――馬鹿犬の頭蓋骨を叩き潰す方が、まだ清々するってもんだ。血洗とかくれんぼがしたいってんなら、好きにしな、針刺」

「ならば我は血洗を追い、残りの肉も回収させてもらうとしよう」

 そう言って、針刺は膨女にくるりと背を向け、窓の方へ向かって一歩踏み出す。揺れるマントが、ちゃり、と金属音を奏でた。

 針刺はそれで会話を終わらせたかったようだが、膨女は納得がいかなかったらしい。白いマントの後ろ姿に向けて、巨体の怪女は威嚇するように低くうなった。

「悪魔の肉は、全部アタシのもんだって言ったろ。厄介な血洗を消してくれるのはいいけど、他の肉に手を出していいとは言ってない。邪魔するってんなら、アンタから潰すよ」

「犬奉の様なけだものに残りの肉を拾い喰われるよりは、我が所有していた方が、お前にとっても都合が良いのではないか――なにしろ、地獄は広い。飛び散った全ての肉片を、お前だけで集めることはできまい?」

 振り向きもせずにそう言って、針刺は教室の窓に歩み寄った。絹の手袋に包まれた指を、窓ガラスに押し当て、血のような赤い線で、複雑な模様――例えるなら、邪教団が怪しげな儀式に使う印のようなもの――を描き始める。

 だが、印を描く作業の途中で、ふと思い出したように針刺は振り向いて、言った。

「我はもう行く。扉の外の子供は、お前の好きにするがいい」

 針刺の言葉の意味を、寧守は一瞬、理解できなかった――だが、膨女の巨体がぐりんと振り向き、扉の隙間越しに覗く寧守と目が合った瞬間に、遅すぎる戦慄が全身を駆け巡る。

 皮膚が腐り、鼻の削げ落ちた膨女の顔。水死体のようなその顔の真ん中で、充血して黒目と白目の区別がつかないほど真っ赤に膨れ上がった眼球が、寧守の姿を捉えた。

「……なぁにを覗いてんだ、お前ええええええええっ!!!」

 耳をつんざく絶叫に、寧守は飛び上がった。体が反射的に後ろへと跳ね、廊下の壁にしこたま後頭部を打ちつける。

 教室のドアの向こうから、どす、どす、どすっ!! と重たい足音が近づいてくる。飛び退いた際にしりもちをついていた寧守は、あわてて起き上がろうとした。が、足に力が入らず、上手く立ち上がれない。膨女の叫びに腰が抜けてしまっていた。

(殺される)

 迫りくる膨女の足音に、頭の中が恐怖でまっ白になる。教室の扉が、ガタン! と大きく揺れた――

 突然、誰かに右腕を掴まれ、寧守は思わず引きつった悲鳴をもらす。

だが、いつのまにか寧守の隣りに居たのは、怪物ではなく、赤いパーカー姿の少女だった。座り込んだ寧守に視線を合わせてしゃがんでいるその少女の、くりっとした蒼い瞳が、寧守を覗きこんでいる。頭まで被ったパーカーのフードの隙間からのぞく少女の髪は、透き通るような金髪だ。

「静かに」

 人さし指を唇に当て、パーカー姿の少女は静かにささやいた。謎の少女の言葉に、寧守がわけもわからずうなずいた、その直後。

 ばぎんっ!

 頑丈なはずの樹脂製の教室扉が、音を立ててひしゃげながら『手前に』開いた。

「糞餓鬼があぁああ! コソコソと覗きやがってぇええ!!」

 バキッ! メキメキ、バキッ!

 引き戸を無理やり押し開きながら、膨女の巨大な体が廊下へと這い出てきた。あきらかに体躯よりも出入口の方が小さいが、膨女にはどうやらその程度なんの問題もないらしい。ぶじゅぶじゅと気味の悪い音を立てながら全身の肉が変形し、戸口をくぐりぬけていく。

 扉をくぐり、目の前に立った膨女の異様に、寧守は少女の忠告を聞くまでもなく、言葉を失ってしまった。死肉をこねて作ったようなその怪物の体からは、生ゴミの臭いが香水に思えるような凄まじい悪臭が漂い、根こそぎに気力を奪っていく。

「どこへ行ったんだい、覗き野郎が! 逃げたって無駄さ、探し出して、体の端からぐちゃぐちゃに潰してやるからねェ!!」

 だが、膨女が続けて言ったのは妙な台詞だった。彼女は寧守と、隣りに居るパーカー少女が見えていないかのように廊下を見まわし、赤い瞳をぐるぐるとあちこちに動かしている。

 少女が声をひそめて言った。

「さ、今のうちに逃げよう。多少物音立てても気づかれないとは思うけど、なるべく静かにね」

 うながされて、寧守はよろよろと立ち上がった。どう見ても自分より年下の少女に手をひかれ、もう片方の手を壁につきながら、おぼつかない足取りで隣りの教室の方へと歩き出す。寧守が移動しても、膨女は気付かずに悪態をつき続けていた。

 教室の扉の前まで来ると、少女は寧守の手を離し、音もたてず扉を開けるとその中へ滑り込んだ。寧守もあわてて後を追う。

 だが、教室の中にはあの少女の姿はなかった。確かに先んじて部屋の中に入ったはずだが、影も形もない。

 無人の教室で、寧守は途方に暮れた。ここは、あの消火器が落ちていた扉から続く部屋のはずだ。なら、まずは杏勾の手掛かりを探すべきかもしれない。

 上の階とは異なり、この教室には荒らされた形跡がない。死体もなかった。にもかかわらず、むせ返るほど濃い血の臭いが、空気を満たしている。杏勾の姿を探して教室を見まわした寧守は、あるものを発見した瞬間はっと息を止めた。

 正面の黒板に、丸い印章が描かれていた。白いチョークで描かれた、真円で構成される紋様。幾何学的な文字が、まるで呪いのようにびっしりと書き込まれている。見たこともないはずのそれが……なぜか、ひどく不吉なものに思えた。

 寧守はふらふらと教室の中を歩き出す。黒板の方へ向けて足を進めるにつれ、血の臭いはますます濃度を増していった。

 熱に浮かされて、悪い夢を見ているような。ふわふわと現実味の失せた視界の中で、寧守は、黒板の前に据え付けられた教卓の後ろを覗き込む。そして、黒板に描かれた真っ白な円の下、壁にもたれかかるようにして死んでいる、羊谷杏勾の姿を見つけた。



 黒板の下の壁に上半身を預け、両足を投げ出して、黒髪の少女は人形のように座って事切れている。教壇に広がる自らの血だまりを、虚ろな瞳が見つめていた。血の気が失せて蒼ざめた顔には涙の痕が。血は、体に空いた大きな穴から零れていた。鎖骨の下、胸部から下腹部にかけて、えぐれるほど深く開いた穴。剥き出しの肋骨の下から、はみ出した内臓が紐のようによじれているのが見えた。臓器の大半が喰いちぎられて、残ったものもずたずたに引き裂かれている。

 杏勾の死体を前に、寧守は力なくへたり込んだ。スカートが床の血で汚れる。もう気にならなくなったと思っていた血の臭いが、強烈に鼻腔を侵した。

 生き延びることも、怪物のことも謎の少女のことも、どうでもよかった。無意味だ。すべて手遅れだ。

 今の寧守には生きる意味がなかった。死ぬ意味すら。かろうじて起こしていた上半身が、ゆっくりと仰向けに倒れていくのも止められない。ぱしゃん、と血だまりの中に倒れ込んで、もう二度と立ち上がれない。立ち上がっても、向かうべき場所がないのなら、それは立ち上がれないのと同じことではないか?

 どこかから、荒い息づかいが聞こえた。複数の呼吸音が、ぺたぺた、という足音と共に寧守へ近づいてくる。それが聞こえても、寧守は反応しなかった。

 仰向けの視界の中に、顔のない人間の顔がいくつも見えた。肌色の球体に、口だけが開いて涎をたらしていた。

 そいつらは寧守の手足を押さえて、思い思いの場所に噛みついた。手の甲や、内腿や、首筋や、腹に。そいつらの歯並びは人間と同じで、鋭くはなかったが、その鈍さがかえって痛みを増幅させた。

「ああ……ううぁあ」

 寧守はうめき声を上げて身をよじった。皮膚が喰い破られ、鮮血が噴き出す。どこかの肉を喰いちぎられるたび、これまでの人生で感じたこともないような激痛が背筋を駆け抜け、押さえ付けられた体が跳ねあがった。

 生きたまま喰われながら、それでも寧守が思うのは、杏勾のことだった。彼女も、こんな風にして殺されたのだろうか。ならばこれは、彼女が味わったのと同じ苦痛なのだろうか、と。

 痛み。自分の血の臭い。自分の血の味。顔のない怪物たちと天井、それも少しづつ暗くなっていく。肉を、骨をかみ砕かれる咀嚼音。五感の全てが、遠くない死を告げていた。その中で――

「死なないで。あなたにはまだ、果たすべき役割がある」

 あの金髪の少女の声が、聞こえたような気がした。



 目を覚ますと、寧守は保健室に居た。

寝起きの頭はぼやけていて、ピントがずれたカメラのように、思考に焦点が合わない。

 ベッドの上で体を起こし、あたりを見回す。それほどなじみのある場所というわけでもないが、それでも寧守にはそこが柘榴石高校の保健室だとわかった。室内に明かりはなく、曇天の光が窓から差し込んでいるだけだ。窓の向こうの景色は、いつもと変わらない。人工芝の敷かれた中庭が見える。校舎が塔のように直立していたりはしない。いや、中庭の地面だけが、霜柱に持ち上げられる土のように二つの校舎塔に挟まれているのかも……馬鹿げた想像を振り払うように、寧守は頭を振った。

(夢……だったの?)

 脳裏に焼きつく、悪夢のような光景を思い出しながら、寧守は胸中でつぶやいた。体を見下ろしてみても、顔のない怪物に喰いちぎられた傷跡など一つも残っていない。だが、ならばなぜ自分はこんなところで寝ているのだろう?

 診療机には、飲みかけのコーヒーが置かれている。保険医の姿はなかった。室内にいるのは寧守だけ――いや、隣りのベッドに、寧守と同じように誰かが寝ていることに気が付く。

 両手足を綺麗にそろえた姿勢でマネキンのように寝かされている、長い黒髪の女。その顔を見た瞬間、寧守はベッドから跳ね起きた。

「杏勾!!」

 駆け寄って、顔を覗き込む。確かに杏勾だった。静かに目を閉じたその顔は、眠っているように見えた。

 だが、おそるおそる伸ばした手が、杏勾の頬に触れると、指先から冷たさが伝わってくる。生きている人間ではあり得ない、氷のような体温。

「………う、う……」

 親友の死を再度突き付けられ、寧守の喉から嗚咽がこぼれた。その場にくずおれ、杏勾の横たわるベッドに顔を伏せて涙を流す。全ては夢だったのかもしれない、杏勾は死んでなどいなかったのかもしれない――一瞬でもそう思わされただけに、絶望は大きかった。

(どうしてだろう。どうして、こんなことに)

 保健室に、寧守のしゃくりあげる声だけが響いている。寧守は涙にまみれた顔を上げて、杏勾の横顔を見つめた。

(私が死ねばよかった)

 寧守の胸中に浮かぶのは、そんな言葉だった。杏勾が死んで、自分は生きている。それがひどく不自然で、許されないことのように思えた。

(杏勾の代わりに、私が死ねばよかったんだ。私なんて、なんの取り柄もないのに。生きてたって、誰の役にも立たないのに。私なんかより、杏勾が生きていてくれれば……)

「あなたに、運命をあげるわ」

 唐突に響いたその声の方へ、寧守は緩慢な動きで振り向いた。彼女と杏勾以外、誰もいなかったはずの部屋に響いた声。もっと驚くべきだったのかもしれないが、寧守にはもう、すべてが遠い世界のでき事のように思えたのだ。

 振り向いた先――扉の前に立っていたのは、あの赤いパーカーの少女だった。少女の後ろの扉は開いていない、たった今開けて閉めたという気配もない。だが、煙のように現れたこの少女の正体が幽霊であったとしても、もはや寧守にとってはどうでもいい、取るに足らないことだ。

 寧守の気のない反応を面白がるように、少女はにやりと笑った。

「今のあなたには、こう言った方がいいのかしら――わたしなら、羊谷杏勾を生き返らせることができる」

「っ!?」

 少女の言葉に、電流を流されたような気持ちで寧守は立ち上がった。

「ほ、本当に!?」

「あなたの傷を治したのが、一体誰だと思っているの?」

 超然とした表情で、少女は告げる――その瞳が、薄闇の中で、蒼く輝いた。

「わたしは精霊……精霊クノカネルナ。運命を司るもの。人の願いを叶えるもの。あなたの望む奇跡を、起こしてあげる」



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