プロローグ
「三十分経ちました。先行部隊からの連絡は、ありません」
苦い思いで、明良は通信機に報告を吹きこんだ。
とある高架下、コンクリート製の橋桁に据え付けられた、鉄製の扉の前。張りつめた表情の少年が、小型の通信機を耳に当てている。掌に収まるほどの大きさのそれを、少年がぎゅっと握りしめているのは、時折上を通る電車の音が返事をかき消さないようにか。
通信機のスピーカーから返ってきたのは、いつにもまして緊張した上司の声だった。
『了解した。すぐに増援を送る。明良、君はそこで待機していてくれ』
「僕も行きます」
『駄目だ。増援部隊の到着を待て』
「どうして! 先輩たち、苦戦してるのかもしれません、今すぐ助けに行けばまだ――」
『駄目だ。明良、よく考えろ。飛鳥隊長が君を置いて行ったのはなぜだ』
「……それは。……僕が、未熟だからです」
歯ぎしりしながら、答える。
『そうだ。君は未熟だ。だが、それは未来があるということだ。今ここで君を失うわけにはいかない。飛鳥隊長も、そう判断したからこそ君を置いて行ったのだろう。違うかね』
「……いいえ」
上司の言葉は、真っ当ではあった。人間としても、明良の上司としても。
感情的な反論ならいくらでもできただろう。だが、上司を納得させる言葉を見つけられず、明良はうなずいた。
通信を切り、少年は天を見上げる。巨大な陸橋が小雨交じりの曇り空を真っぷたつにして、黒々とした影を天に落としていた。
「……先輩。僕なんかが助けに行っても、邪魔になるだけですよね」
自嘲交じりにつぶやいて、明良は――何かを決意した表情で、背後の扉へと振り向く。
「それでも、行きます。待っていてください」
明良は扉を開けた。錆ついた鉄の扉は、思ったよりも抵抗なく開く。
扉の奥には、地下へと続く階段があった。扉と同じく鉄製で、よりひどく錆が浮いた、忘れ去られたような階段が、闇の奥へと続いている。それだけだった。明かりすらない。
躊躇することなく、明良は闇の中へと降りていった。開け放した扉から差し込む外の光が、やがて届かなくなると、ポケットから取り出した小型ライトで足元を照らし、さらに奥へと進む。
迷い無い足取りで、二十分ほど進んだだろうか。くすんだ灰色のコンクリートの壁、滲み出す水分と歳月の作用によって錆び切った階段。ライトの光に照らされるそれら周囲の景色は、まるで変わる様子を見せない。明良の表情に、少しづつ、焦りが浮かび始めた。
おかしい。この階段が、こんなに長いわけはないのだ。事前に把握している情報によれば、今、明良が降りている階段は、元は地下水道の様子を見るためのもので、ものの数分もあれば最下層までたどり着ける。そのはずだ。
降り続けて、このまま地獄まで辿りついてしまうのではないかと明良が危ぶみ始めたころ、唐突に階段は終わった。目の前には、また扉。
とりあえず階段を降りられたことにほっとして、明良は扉を開いた。だが、そこには目指していた地下水道はなく、四方をコンクリートで囲まれた小さな部屋があるだけだった。
天井も床も区別がつかないような、正方体の部屋。広さは、一辺が四メートルほどか。明良の開けた扉のほかに出入り口はなく、家具のたぐいも何もない。
またも異常事態だ。ここに来るまで、わかれ道など無かった。これでは完全に行き止まりだ。だというのに、明良より先に階段を下りていったはずの先行部隊は、影も形もない。
「先輩……?」
呼びかけながら、明良は一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。そこでふと、正面の壁に、黒い小さな『穴』が開いていることに気が付く。その穴のある壁に近づこうとして――
「あなたも、誰かを探しているんだね」
唐突に背後から呼びかけられ、明良はあわてて振り向いた。だが、そこには誰もいない。
慎重に部屋の中を見まわして、明良は再び仰天する。
向かって正面の壁、黒い穴の隣りに、さっきまではいなかったはずの少女がいた。黒い雨合羽のようなものをまとった、小柄な少女である。手足は細く、肌は病的なまでに青白い。目深にかぶったフードのせいで表情は伺いづらいが、化粧気のない薄い唇をきゅっと引き結んでいるのが見えた。
「き、君は誰だ? こんなところで、何をしている?」
動揺を隠せず、声を上ずらせながら、明良は少女を問いただした。彼女に懐中電灯の明かりを向けて、はっとする。彼女のすぐ後ろ、灰色コンクリートの壁にぽっかりと空いた黒い穴が、少しづつ……大きくなっていく。
「いったい、何が……何が起きてるんだ?」
状況に理解が追いつかず、明良は呆然とつぶやいた。
彼の質問の答えなのか、あるいは独り言かそれすら判断のつかない虚ろな声音で、少女がささやく。
「扉を、開くの。もう一度。大切なものを、取り戻すために」
ようやく、明良はすべてを理解した。
あれは、地獄へと続く穴だ。