26、あの真っ白頭を泥まみれの靴で踏みつけてやるんだ
皇都の南側にあるランヴェール公爵の別邸で、ディリートは夜を迎えていた。
「奥様。旦那様はまだお戻りにならず……代わりにメッセージカードが届いています」
メイドのエマがメッセージカードを差し出した。
夫であるランヴェール公爵は、呼び出されて事情聴取を受けているらしい。朝に家を出て、夜になってもまだ戻らない。
ディリートはカードを見た。
『私は浮気をしていません。アシルより』
メッセージは簡潔だった。
(ふふっ、あなたが浮気なんて、全然疑っていませんわよ、公爵様)
夫に返事を書くべきだろうか。ディリートが迷っていると、エマがまたメッセージカードを持ってくる。
「あのう、またカードが」
「あら?」
ディリートが2枚目のカードを見た。
『今夜は星がとても綺麗です。美しいそなたが星空の下で私を想う姿を想像すると健康によい。バルコニーに出て、星を眺めてみませんか』
「このメッセージ、ちょっと変じゃなくて?」
ディリートはカードに違和感を覚えた。そこにエマがなんと3枚目のメッセージカードを運んでくる。
「ま、また来たというの……? なぜ一枚で済まさないの……?」
ディリートは恐る恐るメッセージを見た。
『帰りは遅くなります。先にお休みください。アシルより』
「……?」
夫はどうしてしまったのだろう。
震える手で3枚のカードを見比べるディリートの元に、ついに4枚目のカードが届けられた。
『今夜は月も美しい。離れた場所にいる私たちが同じ月を眺めて過ごす夜は素敵だと思いませんか。ぜひバルコニーに出て月をごらんください』
ディリートは4枚のカードを不気味な気分で見比べた。そして、気付いた。
(筆跡を似せているけど2枚目と4枚目は別人からのなりすましレターでは?)
(というか、この筆跡はエミュール皇子に似ていないかしら?)
なりすましレターは、エミュール皇子のイタズラではないだろうか。そう思いながらディリートはバルコニーに出た。
バルコニーから見える夜景は、美しかった。
皇都中央にそびえる時計塔が、南側の側面に設置された大きな時計で夜の時間を刻んでいる。
花の都と呼ばれる街並みが、「まだまだ眠らないぞ」と人工の灯りを輝かせている。
視線を上に向けると、吸い込まれるような星空が広がっている。黒いビロードの上に宝石箱をひっくり返したように、星が無数に煌めいていた。星々に囲まれる月は白く、清らかだ。
「それにしても花街の娼館なんて……似合わない場所」
夫は女嫌いで有名だったのだ。
ディリートが嫁いでからも、唯一夫婦の夜の営みに意欲を見せた初夜が流れてからは艶っぽい気配は見せていない。
(一番、縁がなさそうな場所じゃなくて?)
事件は、19時頃に起きたらしい。
第一皇子派はその夜、皇都の北側にある皇城で親睦会をひらいていたようなのだが、ランヴェール公爵はちょうどその頃、不在だったという。
そして、南側の花街でランヴェール派を名乗る数人と、彼らに公爵閣下と呼ばれる仮面の男が炎を使い、ゼクセン派と喧嘩をして花街に被害を出したというのだ。
「おい。俺だ。俺だよ俺」
ふいにバルコニーの下から声がかけられて、ディリートはハッとした。
視線を落とすと、庭の樹木に身を隠すようにして、赤毛の青年が立っていた。
ひょろりと背の高い青年は、暗い緑色の瞳にディリートを映している。
「イゼキウス!」
そこにいたのは、イゼキウスだった。
「ふふん。ランヴェール公爵は女遊びに興じて酔っぱらって火を放って捕まったな。俺がハメてやったんだ。配下を使って」
(そうだと思ったわ。それにしても、罪状が本当に公爵様に似合わないわね……イゼキウスになら、ぴったりだけど)
ディリートが呆れていると、イゼキウスは時間を惜しむように早口で事情を語った。
「まあ、第一皇子があいつを釈放させるだろうが、こうしてお前に会う隙ができただけでも上出来だ。……迎えにきた。俺は一時的に国外に逃げる。皇帝は亡き皇妹に引け目を感じていて、ママの息子である俺に甘い。だが、第一皇子がこれでもかと罪状を調べ上げてやがる。さすがに形勢が悪い。いずれ戻るが、今はいったん避難だ」
「私が一緒に?」
「お前は俺の女なんだから、置いていったりしないさ」
バルコニーの上と下で会話するうち、ディリートは地上の茂みや物陰に武装した者が何人も潜んでいることに気づいてヒヤリとした。
イゼキウスの手勢も潜んでいるし、ランヴェール公爵家の私兵も見覚えのない兵も潜んでいる。
(こ、この状況は……一触即発といった雰囲気ではなくて?)
ディリートは平静を装いつつ、視線をイゼキウスに固定した。聞かれているとなると、言葉には気をつけた方がいいのかもしれない。
視線の先で、イゼキウスは悔しそうに口元を歪めて愚痴をこぼしている。
「レイクランドだ。あいつが情報を流しやがった。首飾りも、あいつがすり替えたのかもしれん」
(あなたは、私のことを疑わないのね)
背後の寝室に、人の気配を感じる。振り返って確認したりはしないが、寝室にも恐らく兵士が来ているのだ。ディリートはハラハラした。
そして、イゼキウスが発した言葉に驚いた。
「レイクランドには暗殺者を手配した。報復だ」
「えっ?」
(イゼキウスはレイクランド卿の愛娘ティファーヌちゃんと仲が良いのに)
「レ、レイクランド卿を暗殺したら、ティファーヌちゃんが悲しみますわよ……?」
ふわふわと夜風が吹いて、髪を揺らす。
風に流された雲が、頭上で月を覆い隠している。
イゼキウスは傲慢に声を放った。
「ティファーヌのパパは俺だろ?」
イゼキウスの瞳は、燃え盛る炎のようだった。
鮮やかで、爛々としていて、生命力にあふれていて、野心にギラギラしていて。
自分の考えがどれだけ他人と違っても、絶対に自分は譲らない、他の全員を屈服させてやる、というような瞳だった。
「わかるだろ。ディリート? お前なら、わかるだろ? わからないなら、わかれ。悲しませてやればいい。悲しんでいるティファーヌを俺が慰めてやればいい。優しくしてやればいい。そうすれば、ティファーヌはもっと俺に懐く」
ディリートの背筋にゾッとした悪寒が走った。
「第一皇子は正義ヅラで褒められてるが、あんな奴こそ虫唾が走るぜ。な、お前もそう思うだろ。お前も家族が嫌いだよな? お前の心には怒りがある……お前の心は、俺と似てる……」
イゼキウスは唇を三日月のように笑ませた。
「そんなお前だから、安心する。綺麗なだけじゃないお前が好きだ。お前も、善良ではない俺が好きだろう?」
芝居がかった仕草で、両腕が上に広げられる。
まるで「そこから降りてこい、受け止めてやる」というように。
放たれる声には、恍惚と酔いしれるような響きがあった。
「お綺麗ぶった第一皇子みたいな奴が憎い、あんな奴こそ殴ってやりたいって俺の気持ちが、お前ならわかるだろう?」
「ああいう奴を縛り上げて、目の前で民を虐殺してやりたいんだ。あの善良な目が悲痛と屈辱と絶望に染まるのを見たいのさ」
「ざまぁみろって笑って、あの真っ白頭を泥まみれの靴で踏みつけてやるぜ。ああっ……想像しただけで高揚する!」
 




