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先生の手帳

作者: 緋戸波音

僕の家の近くに、哲学者の先生が住んでいた。

家は見ずぼらしいし、たまに遊びに行っても先生は大体遠い目をしていた。

それでも、僕を異様なほどにかわいがって遊んでくれた先生が僕は好きだった。

だが、先日、家に遊びに行ったら先生は部屋で首を吊って死んでいた。

先生の机の上には、表裏の革のカバーがボロボロになった手帳が置いてあった。

「他人を苦しめずして生あらず。他人を不幸せしめずして幸あらず。他人を殺さずして善なる者にあらず。」


「この世界で幸福に生きるということは、自分自身の幸せのみを考えることだ。それが他者への手助けであったとしても、真なる目的は他者を助け自身の気分がよくなることにある。それが世界の一般的な生き方であり、最も良い生き方だと多くの人は思っている。私はそれでも、他人に苦痛を与えておきながら『私は幸福だ』とほざく者を許す気にはならない。盲目な心は幸せへと導くが、他者へ危害を与えているという過ちに気づけず、反省せず、死する際もなお自分のことばかり口にする。生命としてどちらが自然かといえば、こういう人たちだ。見ないふり、気づかないふり、それで幸せになれる。」


「社会が生きるにあたり、誰かに与えてきた苦しみはやがて増大し、あるいはこの社会に馴染めないものに集約し追い込んだ。それは自殺や無差別テロ、快楽殺人などへ変貌する。より多いほうの考えを持った集団が形成した社会が少数派を炙り出し、ひとたび社会に牙をむけば『一人で死ねばいいのに。』『社会不適合者』『精神病』『残虐な方法で死刑にしろ』『社会から逃げた雑魚』と罵るのみで、どうしてそこに至ったのか、我々に罪はないのか、何か理不尽な点が彼・彼女の周囲にあったのではないか、そう考えるものは殆どいない。全ては『我々に迷惑をかけるな』。誰一人として、社会はその心に寄り添わない。孤独な世界で、辛く苦しい世界で、希望も夢も持てず、社会に絶望し、生まれてきたことすらも後悔する者の気持ちが、あなた達に分かるか!!?想像しろよ!!向き合えよ!!逃げているのは、あなた達じゃないか!!!!」


「…原始時代、人間は何を考えていたのかな、と時々想像する。暮らしは豊かでなかったはずだ。みずぼらしい家、塩も胡椒もない味気ない肉や木の実、虫もいるしまともな服も靴もないから、冬は寒いし足も痛い。

……いや、豊かではないというのは間違いかもしれない。確かに彼らも一日一日を生きるのに精いっぱいな日々を送っていただろうが、だからこそ贅沢も知らず、身分もなく、ただ自然に身を委ねて生きるのみ、自然の中に生きる本来の人間としてのあり様、無知だからこそ、今よりもはるかに『豊か』な日々だったのかもしれない。そのように、思うこともある。考えてみれば、『暮らしは豊かでなかったはずだ。』というのは現代人の尺度で、まさに私が一番嫌っている、自分勝手な物の思いである。やはり私も、人間なのだ。」


「最近はもっぱら、生きているのに生きていない日々を送っている。私は生きていないのだ。どういうことだ、と思うかもしれないが、自分では簡潔で的確な表現だと思っている。わかりやすく言えば、『生き生きとしていない』のだ。生きている状態とは、それすなわち生き生きとした状態、情熱的で、目がキラキラしていて、前に前に進む確固たる意志を持っているような、幸福の絶頂にあるような人のことだ。尤も、彼ら彼女らは自分自身が幸せの最中にいるとは気づかない。気づけない。不思議だと思わないか?幸せな時間の中にいるとき、人はその幸せの価値を感知しえない。だが苦痛の中にいるときはそれがはっきりと感じられて、心の余裕を奪っていく。ようやく幸福の価値に気づいたと思えば、そのすべての思い出は最早苦痛の象徴と化し自分の心を鋭利に傷つける。そう考えれば、幸福なんて存在しないんだろうな、と思える。全部、相対的で、誰かと比較し、自分の過去と比較し、そうやって皆生きている。辛いよな。今の自分より幸福な人が世の中にごまんといて。自分の欲した能力を、人間関係を、環境を、幸せを、自分の手に収めている人がいて。悲しくなってくるな。何が『人の人生は美しい』だよ。世の中はこんなにも、こんなにも、こんなにも、不幸で、不幸で、満ち溢れて、いるのに………………。」


「恋は罪悪だ。誰かが自分の想い人のことを好いていたら、その人を悲しませる。逆の立場なら、自分が悲しくなる。子作りは天罰だ。自分の辿ってきた苦しみの道へ子供を強制的にいざなって、自分は子供をみて、かわいい、生まれてきてくれてありがとうなどとほざく。ああ、『生まれてきてくれてありがとう』という言葉が如何に狂気か!子供をまるでペットとしか見ていない。君のおかげで私が幸せになれる。君のことは、どうでもいい。『生まれる』は受動態だ。自分たちの勝手なる情事の上に産まれてきたかわいそうな被害者に感謝を述べることが、私にはまるで狂気としか思えない。子供に感謝を述べて勝手に気持ちよくなっているその姿はオナニー中毒者同然である。猿のように脳死で子作りした結果だ。子供のことなんか、まるで考えちゃいない!『私が』幸せになるため、『私が』楽しい家庭を過ごしたいため、『私が』快適なる老後を過ごすため、私が、私が、私が、私がああああああ!!!!!!!!!!

エゴの塊、偽善の肉塊が喋って動いてクソと方便を垂らしながら幸せとほざいている!!あり得ない!世の中の人々に苦痛をもたらす社会、その苦痛を受けてなお自己中心的に生きる脳死の猿がその社会を維持し終わりのない苦痛の連鎖を必死になって支えている。それはまるで、家畜が飼い主の世話をするようだ。性善説?笑えない冗談だ。自分のことのみ、自分のエゴばっか、そうやって生きるために他人を犠牲にし他人に苦痛を与えてなにが善なのか。全て見せかけ、偽善に過ぎない。私を含め、世に生きるすべての人間は一人余すことなく悪人だ。真の善とは?まだこの世に産まれていない者たちのために、この世界を滅ぼし、いまだ産まれざる者たちを悪人にすることなく苦痛から救う。なるべく多くの人間を殺し、あわよくば人類を滅する。この世に産まれてしまって生命体としての『生きたいという呪い』にかかった我々はそれを罪としている。確かに、人を殺めるというのは大抵その人とその人にかかわってきた多くの人々に苦痛を与え悲しませることになる。だからただ殺すのは至極愚かだ。それでも功利的に考えれば、これから生まれてくる何十億、何百億の赤ん坊に生きている間の苦痛と、『死』を与えるよりかは、今いる人類がさっさと死んだほうが合計の苦痛量は減る。だから、人類を滅ぼす、これが真なる善なのだ。もっといえば、悪なる善だろう。今の人類と未来の人類を天秤にかけ、未来の人類を救うことにした。現在だけで見れば、悪であろう。だが、やはり子供を産むのは、法律で禁止されていないだけの罪悪であり、天罰だ。不幸にも、私はそう思わざるを得ない。ああ、悲しいなあ。」


「他人を苦しめずして生あらず。他人を不幸せしめずして幸あらず。他人を殺さずして善なる者にあらず。」


――早く、早くしなければ…子供の数が増えていく、人間がどんどん死んでいく。

苦痛を伴って人を殺したくない。一瞬で、安らかに、安楽死をさせてあげたい。

一人じゃ無理だ。仲間が、仲間が必要だ。私には、頭脳も、技術も、お金も足りない。

ああ、苦しいだけの時間だけが無駄に過ぎていく。助けてほしい。苦しい。誰か――。


本当は幸せに生きたかった。人を幸せにしたかった。優しくあり続けたかった。でも無理だった。

何もかも、すべて、私は誰かに形作られた肉塊のままだった。ずっと逃げてるだけだった。そういう自分の姿を認めたくなくて、人類滅亡の夢に向かう哀れな自分像を作り上げただけだった。生きるって素晴らしいって、分かっているのに、自分の中にいるもう一人の自分がそれを認めずして邪魔をする。余計につらくなって、だんだん本気でもう一人の自分に傾倒していく。どんどん闇に落ちていく心地がする。そんな自分へのささやかな、愚かな、無意味な反抗を、末尾に綴る。

あーあ、悲しいなあ。悲しいなあ。生まれてこなければ、悲しまずに済んだのになあ…あーあ。

畢竟、高遠な理想だったよ。

先生のメモはここで終わっていた。

僕にはなぜ先生が僕をかわいがったのか、理解できた気がした。

なるべく人生に楽しさを見出させようとしたのだろう。

苦しかった先生自身の代わりに。


僕はこの手帳をこっそり持って帰り、警察にはそのあとで連絡をした。身内のいない先生のことは、警察がすべて引き受けてくれるそうだ。


僕はこれを、両親のいない家の中で何度も読んだ。そして、満足したのち、両親の墓の前でそれを線香と一緒に燃やした。両親にも読んでもらえただろうか。

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