2話 焼塵に舞うは、竜胆一輪5
「そうか。なら、後で後見人としての紹介状を渡しておく。明日までは休日だな、早めに『氏子籤祇』を受けて於け」
「……え?」
何てことは無い口調で放たれた台詞の、しかしその内容は晶にとって看過し得ないものだった。
涙で滲む視界、磨り潰される心の痛み。何も書かれていない真白い籤紙の記憶が、晶の心の傷を抉る。
「な、何で『氏子籤祇』を受ける必要があるんですか?」
知らず震える口調が、晶の動揺を示していた。
「何故って…必要だからだが?」
何の疑問も持っていない厳次の返答に、晶は『氏子籤祇』を回避する言い訳を必死に考える。説明の足りない厳次に代わって、フォローに入った新倉が『氏子籤祇』が必要な理由を説いて見せた。
「隊長、仕方ありませんよ。本来、そんなに必要な事柄でもないですから。
――晶君、『氏子籤祇』は、土地神の庇護を受ける代わりに住まう土地を変えないという誓言の呪術です。
氏子抜けはこの誓言を一時的に緩めるものであって、完全にその土地から無くなるというものじゃあ無いんです。
晶君は魂石を知っていますか?」
「……いえ、寡聞にして知りません」
「人間は生まれた時点で魂染という儀式を行います。赤子が宿した精霊を確認するためですが、魂石と呼ばれる石に赤子の魂魄の輝きを写すためのものでもあります」
「…何でそんな事を?」
「魂石は、その者の死と同時に輝きを喪うからです。
魂石は、魂染の後に人別省に収められて厳重に管理されます。これは、山佳の民でもない限り、如何なるものでも変わりはありません。
人別省は、魂石の輝きの有無でそのものの生死を管理してるんです」
「じゃあ、魂石を砕けば、その人は死ぬってことですか?」
その情報に、晶が顔色を失った。あの一族は、おそらく晶が未だ生存している事は把握しているのだろう。晶の生存に焦れた雨月天山なら、魂石に手を出してもおかしくは無い。
「それは違います。人別省は、如何なる理由があっても余人が魂石に干渉する事を赦しません。
まあ、そもそも、砕けないんですけどね」
「砕けない、ですか?」
「伝え聞く限りでは。魂染の影響下にある魂石は、人間の手で砕く事は出来ないと聞いています」
ほぅ。厳次たちに悟られないように、安堵の息を吐く。
一先ずの安心を手に入れたが、問題が解決されている訳ではない。
「……その魂石が、どう関わってくるんですか?」
「晶君の魂石は、産まれた土地の人別省に収められています。これを此方の人別省に移動させるために、氏子移りしたという証明が必要なんですよ」
ぐ。拳を握りしめる。確かにそれなら『氏子籤祇』が必要になってくるのも頷ける。
「わ、判りました。ですが、氏子として認められなかったらどうすればいいんですか?」
そう。それが晶の問題だ。
「あぁ。氏子抜けした子供は、必ずそれを心配するよな。
――だが、安心しろ。土地の相性で受け入れられない神社があるってのは聞いたことがあるが、そもそも、氏子に認められない奴など、聞いた事も無い。受け入れられなくとも別の神社で受け直せばいいだけの話だ」
「そ…そうですか。安心しました」
晶の心配を勘違いした厳次が、安心させるようにそう云った。
問題は全く別のところに在るのだが、それでも晶は自身の問題を口にする訳に行かず、言葉を続けられなくなった。
それに、初めて聴いたが、新たに魂石の問題も生まれた。
早めに対処しないと、雨月天山がどんな行動を起こすのか晶には読めなかったからだ。
しかし、吉報もあった。雨月は國天洲に対してある程度以上の影響を持っているが、洲を越えたらその影響もかなり下がる筈だ。
ならば、どんな手を使っても自身の魂石を珠門洲に移す必要がある。
「ま、氏子移りなんざ滅多にするようなもんじゃないからな、知らなくても無理はないか。
――なんだ。まだ心配か?」
「……はい。『氏子籤祇』にはいい思い出もないので、余計に気後れというか、その……」
「ははっ。まぁ、よく聴く話しではあるな。
事のついでだ。そんなに心配なら、神社も紹介してやろう」
「いいんですか? 紹介の負担が増えると思いますが」
気さくに笑う厳次を新倉は気遣うが、どのみち紹介文は書かなくてはいけないから手間はさして変わらないと軽く手を振った。
「そうだな…。高等神学校に進学となれば、氏子くらいは箔を付けといたほうがいいだろう。1区にあるから少し遠出になるが、茅之輪神社に行ってみろ」
「茅之輪神社、ですか?」
「洲都華蓮の中でも歴史ある神社の一つだ。ここの土地神様は格式が高い割りに懐が深いことでも有名でな、氏子を受け入れないということは想像もつかん」
「華蓮五都神社の一角ですか。隊長にあそこの伝手があるとは、知りませんでしたが」
「五都神社、ですか?」
聞き慣れない名称に首を傾げる晶に、新倉が説明を引き継いだ。
「茅之輪、鐘楼、神籬、三津鳥居、玖珂太刀。華蓮と同じほどに長い歴史を誇る五つの神社を指して華蓮五都神社と云います。その歴史を背負うわけですから、ここの氏子は他の氏子から一目置かれているんですよ」
「どの神社で氏子になったかってのは、お前が思うより世間じゃ重要視される要素の一つだ。
茅之輪神社は、奇鳳院の膝元に在る関係で、五都神社の中でも別格の扱いを受けている。
ここの連中に受け入れられたなら、神学校での肩身の狭さの多少の傘代わりになってくれるはずだ」
厳次の心遣いは嬉しくはあった。高等神学校への不安もあったし、そういう意味では有り難くはある。
だが、晶の問題はそこではない。精霊無しと云う事実からくる氏子になれないという問題が、晶の持つ問題の根底だ。
そして、『氏子籤祇』の結果は確定しているのだ。
氏子になれないものがどう云う扱いを受けるのか、晶は雨月の屋敷で嫌と云うほど理解していた。
――それでも、もう、受けざるを得ない。
ここまでお膳立てされたら、受けない事には厳次の体面に泥を塗る事になるだろう。
「……判りました。今日は休んで、明日、茅之輪神社に行ってきます」
「応、そうしろ。人別省への申請もあるしな、こういったことは早い方がいい。
――日曜まで休みにしてやる、必要な書類なんかを確認しておけ」
「はい」
廿楽では氏子になれなくとも、珠門洲ではまた違う結果が出るかもしれない。
一縷の希望を掛けて、晶はそう頷いた。
――――――――――――――――
「あ、君。身体は大丈夫なの?」
山狩りの際に生まれた幾つかの課題についての話し合いを終えて天幕を出ると、それに気づいた咲が、それまでの久我諒太との会話を強引に断ち切って晶に声を掛けてきた。
諒太もそれを引き留めなかったから、会話の内容は大したことは無かったのだろう。
とは云え、晶を睨み付ける諒太の視線が、殺気混じりの物凄いものになっているのは止めて欲しい。
敢えて諒太を視界から外して、晶は咲に頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます、咲お嬢様。おかげさまで命を拾いました」
「気にしなくていいわ。
……君ならあのままでも大丈夫だったんだろうし」
少し声を潜めて告げられた理由は、瘴気を受け付けない晶の体質に対する配慮なのだろうが、無警戒に顔を近づけるのは止めて欲しい。
傍から見れば仲良く内緒話に興じているように見えるのだろう、久我諒太の気配が殺意に尖っていくのを感じ取れた。
「……それだけでなく、隊長への配慮の件です。
ありがとうございます。お嬢様のおかげで隊長が後見人になっていただけると」
「私も救けてもらったからね。あのままだったら危なかったし、君が私の代わりに主を受け止めてくれたから、被害は広がらずに済んだのよ。
――胸を張りなさい。君の働きに対する正当な報酬なのだから」
「――は。何だよ、咲。主とは云え、猪如きに後れを取ったのか」
何を焦れたのか、諒太が強引に会話に割って入ってきた。
「……えぇ。彼が庇ってくれなかったら、少し危なかったわ」
一瞬、迷惑そうに双眸を眇めるが、直ぐにその気配を消して咲は諒太に応えて見せた。
咲の、晶に対する称賛に不快そうに表情を歪めるが、直ぐに晶に視線を向ける。
「外様モンが出しゃばるなよ。國天洲のヤツが洲境を越えて彷徨くなんざ、碌な事が起きやしねぇ」
妙な威嚇に気圧されて、一歩、後退りかけた。
しかし、僅かな反抗心にぐっと脚に力を籠めてその場に踏みとどまる。
「……申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」
「出過ぎてないわよ、安心なさい。
――それに、もうすぐ外様でもなくなるわ。阿僧祇の叔父様が後見に入ってくれるそうだから」
「あのおっさんが後見に入ったからってどうなるってんだよ。
――憶えとけよ、氏子になろうが人別省に登録しようが、手前ェは終生、外様モンだ。譜代モンじゃねェ事は心に刻んどけ」
云いたいだけ威圧を放ち、踵を返して去っていく諒太に何を云ったものか。
出る言葉もなく立ち尽くす晶に、同じく困惑顔の咲がそのフォローに回った。
「ごめんね。彼は、その、普段はそれなりに人当たりも柔らかいんだけど。
山狩りで少し気が張ってたみたい」
「そうなんですか、久我様の気分を害してしまったようで申し訳ありません」
最初の印象が印象だけに、諒太が人当たりが良い場面が想像できずに曖昧に頷くに留める。
――それに、あれは気が張ってたというより、縄張りに踏み込んだオスを威嚇する飼い犬のような……。
「……あぁ」
納得して、思わず声を上げた。
晶はあまり興味が無かったものの、守備隊の内々でもそう云った会話はよく交わされたから、そこまで疎い訳でもない。
ちらり、横目で咲を見る。去っていく諒太を見る咲の視線には、困惑はあれど、それ以外の感情が浮いているようには見えない。
「……あの、不躾ですが、お二人は組まれて長いんですか」
「私と久我君が? ううん、今回が初めて。彼とはよく顔を合わせるんだけど、よく絡まれてちょっと苦手なのよ。
……あ、これは内緒でお願いね」
――ご愁傷さまとしか云えないが、これは脈無しだろう。
どうやら、諒太の独り相撲のようだ。
しかし、上流階級の恋愛は実際のところ純粋な恋愛では成り立っていないことを、かつて八家であり義王院と婚約関係にあった晶は知っていた。
八家の親同士が意気投合して婚約関係になる事を目論んでいるとなれば、まだ諒太にも勝ちの目は残っているはずだ。
精々、そうなる事を願っておいてやろう。心に余裕が出来れば、こっちの人当たりも少しは丸くなるだろうから――。
じわりと暑さを増す初夏の陽気が妙覚山の空気を塗り替える中、人知れず嘆息して、晶は嫌になるくらい青い空を仰ぎ見た。
――――――――――――――――
早朝も明けた頃、晶からオ婆と呼ばれているハルは、干した大根や、茄子、胡瓜を長屋の軒先に並べて、腰を落ち着けて一息ついた。
煎餅売りは小遣い稼ぎであり、ハルの本業は自身の畑で採れた野菜を長屋前で売ることだった。
ハルは視界が閉ざされて長かったためか、それ以外の感覚はかなり鋭敏である。
通りの向こうから、自身が拾ってきた少年が不寝番を終えて帰ってきたのを、足音で聴きとっていた。
「――……オ婆、ただいま」
「お帰り、晶坊。
……何が有ったい?」
ここ最近では珍しく歯に物が挟まったかのような口調に、ハルは内心で首を傾げた。
晶は世間を妙にひねて見る癖はあるものの、基本的には物静かで素直に物事を見る性格をしている。
こうまで思考の底に澱む晶を見るのは、3年前、華蓮に流れてきた晶を拾って以来だ。
「オ婆、少しいいか?」
「構わんよ」
唐突な晶の願いだが、客足の少ない時分だったこともあり躊躇う事も無くハルは承諾をしてみせた。
――晶は口にする言葉を探しているのか、自分の感情に折り合いをつけているのか、暫く静かな時間が流れる。
そうした後、ややあって晶は重い口を開いた。
「……人別省への早期登録を提案された」
「…ほう。良かったじゃあないか」
どんな悪い話題かと身構えていたら予想の遥か上をいく吉報に、ハルは肩透かしを覚えた。
守備隊での晶の年季は16歳だが、それを早めて人別省への登録を可能にするには、目の眩むような大金と有力者の後見を必要としたはずだ。
私財の保有が認められていない上に、何のコネも持っていない晶が大金を用意できたとは思えない。
となると、誰ぞかが後見に入ってくれたとみるべきだ。
「後見は誰だい?」
「守備隊の阿僧祇隊長が、後見人になってくれると云われた」
なら、問題は無いだろう。阿僧祇厳次は珠門洲の防人の中でも音に聞こえた武傑であり、平民から人気の高い人情派だ。
そこに信頼を寄せすぎるのは危険だが、練兵一人嵌めるのに小細工をするような人物とも思えない。
「どう考えてもいい話じゃないか。何を悩んでいる?」
「悩んでいる訳じゃないよ。
……人別省の登録には、『氏子籤祇』が必要と云われたから」
「……あぁ。なるほどねぇ」
ハルは以前、晶が追放された理由は、故郷で『氏子籤祇』に認められず、氏子になれなかったと云う経緯を聞いたことが有った。
今回の『氏子籤祇』も、氏子に認められないか恐怖があるのだろう。
実のところ、本当にごく稀にだが氏子に認められないもの、というのは存在はしている。
それは、宿った精霊と土地神の相性に起因するものだが、問題は、神性が知ろしめすこの高天原に於いて、氏子に認められないものは一人前と認められない風潮がある事だった。
氏子になれないものの辿る末路は晶同様に土地を追われるのが常だが、土地神との相性の悪さなどそうそう起こる事は無いし、隣の神社に詣でれば呆気なく氏子になれたなどざらに聞くためそこまでの問題は起きる事も無い。
だが、それでも追放された事実は、『氏子籤祇』への恐怖を残すのだろう。
「怖いのかい?」
「怖い? ……うん。怖い。
何よりも、氏子になれないと知られた時の周りの目が凄く怖い」
それは、晶の本心だった。
晶は期待のされない子であった。いない存在だった。雨月の屋敷の片隅で、息を殺して這い蹲って生きてきた。
そうしなければ、息をすることすら赦されない生であった。
――しかし、華蓮では違う。
事情も訊かずに受け入れてくれたものがいる。境遇の似た守備隊の仲間がいる。呪符を売って対価を支払う対等な相手がいる。
その全ては、晶がこの社会に組み込まれている実感と安心感を与えてきた。
その全てが壊れ去る可能性を、晶は恐れていた。
ハルは、懐を弄って長煙管を取り出した。
燐寸で火皿に直火で点し、ぷかり、一息吸い込んだ。
野菜売りに脂の臭いは不味かろうが、無性に吸いたくなったのだ。
「……諭国の言葉に、”幸運の女神は睫の上に宿る”なんてのがあるそうだ」
猛る暑気が長屋前の通りを容赦なく灼くが、陰になっているこの場所は耐えられないほどではなかった。
「幸運の神さんは、そんな不安定なとこにしかいないからすぐに居なくなってしまうんだと」
「………」
吸い終わった煙草の燃えさしを、ポンと地面に落として草履の裏で踏み消す。
「躊躇っちゃあいけないよ、晶坊」
結局のところ、晶が欲しいのは背中を押す手なのだろう。
強かろうが、弱かろうが、優しくだろうが、厳しかろうが、
「あんたの睫で、今まさに幸運の神さんは踊ってるんだ。居なくなる前に、微笑んでもらわんとな」
一歩踏み出すための、力が欲しいだけなのだ。
短いか長いかすらも判らない静かな時間が流れる。ハルの暗闇に閉ざされた視界では、晶がどんな表情で立っているのかも判らなかった。
「…………胡瓜、くれよ」
どう結論づけたのかなんてことは訊かなくても判っていた。ただ、声音がやや晴れやかなものになったことだけが、ハルには理解できた。
笊に盛った5本のうち、瑞々しく張りのいい1本を掴む。
「2厘だね」
掌の上に1厘玉が2枚落ちる。
「ちょいとお待ち」
手の中の胡瓜を持っていこうとする晶を制して、小壺に入った麦味噌を出してやる。
「ここで喰ってくんだろ? おまけだよ」
「あんがと、オ婆」
短い礼と、晶がぼりぼり音を立てて胡瓜を齧る音が聞こえた。
「……どうするか、決めたかい?」
それは、相談の内容か、今日の事か、今後の事か。
わざと曖昧なまま、ハルは晶に問いを返した。
「……今日、これから『氏子籤祇』を受けてくる。
――幸運の神さんがいるうちに、急いで微笑んでもらうよ」
「行っといで」
不寝番明けの今日これからというのは流石に性急すぎる気もしたが、せっかくのやる気に水を差す心算も無いハルは、頷いて肯定してやった。
どのみち、『氏子籤祇』にはそこまでの時間はかからない。
――結果如何はどうあれ、早めに『氏子籤祇』を受けるというのは、悪い選択肢じゃあないかもねぇ。
長屋には帰らず、紹介されたであろう神社に向かって歩いていく晶を見送って、ハルはもう一度、長煙管に火を点して、ぷかりと一息、煙草を吸った。
TIPS:『氏子籤祇』について。
ただ人と土地神の間で交わされる一種の契約。
これを交わすと、その土地神の領域にいる限り、ある程度優先的に恩寵が与えられるようになる。
ただし、その土地に居続ける必要が出てくるため、その土地に縛られて生きていかざるを得なくなる。
下される結果は、氏子、防人、神使、巫女、衛士の5つ。
それぞれ、自身が宿す精霊の位階によって結果は変化する。
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