終 朱の歓喜、玄の慟哭2
朱華が歓喜の声を上げたのと同刻。
――國天洲、洲都、七ツ緒。
神域、黒曜殿にて。
「――――――――あ、ああああぁぁぁぁぁ!!!!」
身を刻まれるかのような、あまりにも悲痛な慟哭が、深闇に沈む空間を揺らす。
ざあ。慄くように空間がうねり、小波が幾重にも連なって、その地を満たす水面を乱した。
「――……くろさま! いかがなさいましたか!?」
常にない焦りの声を聞きつけて、近くに侍っていた義王院静美が息せき切って神域に飛び込んだ。
神域に踏み込むと、静美の足が踝まで水に沈む。
その瞬間、凍てつくような冷たさが、脳を揺らした。
「……………つっっ!」
その痛みに、思わず悲鳴が喉から漏れかける。
足を刺す冷たさは、静美が初めて経験するその水の温度であった。
神域とは、神柱の座所であると同時に、本質そのものである。
それが意味するところは、詰まる所、神域とは神柱そのものと同義であると云うに等しい。
当然、静美の足を苛むこの水も例外ではない。
解りやすく言葉にするなら、この水の温度はこの地を司る神柱の感情に左右されているのだ。
凍てつく真冬の寒さと同時に、神柱の混乱と嘆きが静美の感情を苛む。
ここの神柱は、穏やかで優しい気質の持ち主だ。
それなのにこの取り乱しよう、ただ事とは思えなかった。
「くろさま! くろさま!? 何処に居わしますか!!?」
必死になって呼びかける静美だが、返ってくるのは水を揺らす小波の音だけ。
応えも無く、しばらくの間、身が切られるほどの静寂だけが静美の呼びかけに答えるのみの時間が過ぎた。
――やがて、
「……………静美、かや?」
暗闇の向こうから、朱華と同じ年頃の童女が姿を見せた。
「はい。静美は御前に控えて御座います」
見た感じそこまで異常が見えなかったことに、内心大きく安堵しながら静美は童女に駆け寄った。
「くろさま、いかがなさいましたか?
斯様にも心を乱されては、精霊も怯えてしまいます」
くろ。そう呼ばれた童女は、悲痛の表情を浮かべたまま、僅かに視線を上げて静美を見据えた。
肩口で切り揃えられた艶のある黒髪が、動きに合わせてそぞろに揺れ、虹彩の見えない漆黒の瞳が悲し気に歪む。
「……静美や。
晶は何処じゃ?」
「晶さん、ですか?
先だっての文には、五月雨領での当主教育がようやく終わりそうだとありましたが」
静美は、唐突に問われたその名前に戸惑いながらも、つい数日前の近況を伝える文の内容を伝えた。
応えながらも、そういえば、と思考の片隅で考える。
晶が当主教育のために洲都に足を運ばなくなって、もうすぐ3年だ。
晶を迎え入れる準備のために、黒曜殿の改修に着手しなければならなかったためしばらくの都合は良かったものの、そろそろ改修の目途がついたため、晶の登城を雨月に要請を続けている最中であった。
ここ数ヶ月、雨月からの返答はのらりくらりとした曖昧なもので、色好いそれは貰えていない。
当主、雨月天山の言い分として、晶の無能ぶりに教育の進捗もままならず、苦労が絶えないとあったが。
反面、次男の雨月颯馬を声高に自慢するその姿勢に、最近は静美も疑問に思っていた。
晶に無駄に耳目が寄せられるよりは、適当に優秀な次男に余所の注目を集めさせておく方が何かと都合がいいため、取り分け、天山にその事を指摘はしなかったが……。
そもそも、神無の御坐とそれ以外を比べること自体が傲慢なのだ。
優秀さという事実など、奇跡そのものと比べること自体が烏滸がましいとさえ云えるだろうに。
そう考えているうちに、くろがぽつりと零すように呟いた。
「…………居らぬ」
「は?」
「晶が、何処にも居らぬ」
「なっっ!!?」
「い、今し方、晶の中に満たしておった吾の神気が、喪失した」
小刻みに肩が震えるくろが告げたその言葉に、静美は脳天を殴られたかのような衝撃を覚えた。
3年もの間、一度も晶と顔を合わせていないにも拘らず、義王院はその息災を心配していなかった。
その理由は単純で、晶の中には神気が満ちていたからだ。
神気とは、神柱を構成する霊質であり、有り体に言ってしまえば神柱そのものでもある。
これに異常があれば、場所や距離に関係なく神気の大元たるくろの知るところとなる。
それこそ、病気や怪我なども知ろうと思えばつぶさに知れるはずだった。
「ど、どこで喪失したか分かりますか?」
力なく横に頭が振られる。
それだけで、絶望的な状況が知れた。
「分からぬ。
常は晶の居場所を追うておらんだし、突然、繋がりが切れたのじゃ。
慌てて晶を追ったが、痕跡も感じられん」
國天洲を遍く知ろしめす大神柱、玄麗の言葉だ。
事が晶に関わる以上、過ちや誤魔化しは万に一つも有り得ない。
それに契約下にある神柱の神気が、突然に断ち切られる事などあり得ない。
その大前提が覆されたのだ、玄麗や静美の狼狽は当然の事であった。
晶は、ただの神無の御坐ではない。
おおよそ百年に一度の間隔で何処かの八家で生を受ける神無の御坐だが、何故かこれまで國天洲で産まれた事実は無い。
高天原の興りより数えて4千年。
これまでの現実を覆して、國天洲に産まれた初めての神無の御坐だ。
晶の誕生を知った時の義王院の慶びは、筆舌に尽し難く、待望の存在に大いに沸いた。
当然、雨月の取り込みにややもすると強引とも取れるほどに動き、様々な面で優遇を施してきた。
他洲の干渉を恐れて、他洲はおろか國天洲での情報統制も強行し、晶と云う存在が揺ぎ無く義王院のものであると周知できるまで秘匿の存在としてきた。
そこまでの労力を払って、周知される事無くあと数ヵ月のお披露目の時を数えるまでに来たというのに、それらの努力が目前でご破算となったのだ。
晶の身体から神気が消える事態などある訳がない。
あるとしたら神気を封じるか、晶の意思で神気を封じたか、晶が死んだか。
「まさか……」
晶の死。静美の脳裏に、最悪の想像がよぎる。
そんな事態になれば國天洲にどんな災いが降りかかるか、予想すら恐ろしくてできない。
最もマシな原因は、晶が己の意思で神気を封じたという状況くらいか。
そうであれば、晶は何らかの隔意を義王院に対して抱いているという事になるが、その他の取り返しの利かない事態よりかは話し合いで何とかなる余地が残っているはずだ。
ぶんぶんと乱雑に頭を振って、執拗に思考を苛む嫌な想像を振り払う。
瘧に罹ったかのように震える身体を無理に押さえつけて、努めて何でもないように平静な声で玄麗に語りかけた。
「くろさま、きっと何でもございませんよ。
晶さんも、当主教育で少し気が滅入っていただけでしょう。
もしかしたら、明日にも神気の繋がりが戻るかもしれません。
そうなった時に、くろさまがそのような体たらくでは、晶さんもお笑いになるでしょう」
「…………そう、かの?」
普段であれば、静美の押し隠す感情などお見通しであったろうが、流石に玄麗も彼我を慮る余裕も無いのか、不安に揺れる瞳を静美に向けるのみとなる。
「そうですとも。
さ、今宵はゆるりとお休みくださいませ。
晶さんには、こちらから連絡を取って置きますゆえ」
「ん…………。
静美や、善きに図らってたもれ…………」
そう言葉を残して、ゆらりと玄麗の姿が暗闇に沈むかのように消えていった。
首を垂れて静美は玄麗を見送ってから、足早に黒曜殿から外へと出る。
不安だけしか残せなかった玄麗とは裏腹に、静美は焦りを隠そうともせずに眉間にしわを寄せて神域と本邸を渡る透渡殿を歩くと、その向こうから、異変に気付いた側役が二人、慌てふためいて静美の元へと走り寄ってきた。
「姫さま! これはいったい何事ですか!?」
「……悠長に話をする余裕がありません。
そのみ、楓、宿直の任を解きます。
急ぎ、出立の準備をして頂戴」
「出立!? こんな時分に? いったい何処にですか?」
「五月雨領です。
極力、雨月にこちらの動向を悟られないように、別用で出向いた形にして」
「姫さま、下知は拝命いたしますが、少々、強引では?
この大事な時期に、雨月を変な形で刺激しかねませんが」
「――晶さんを満たしていたくろさまの神気が、先ほど喪失しました」
その言葉に一拍置いてから、側役の少女たちから血の気が失せた。
側役に就く者たちには、神無の御坐を含む様々な機密が教えられている。
それ故に、雨月に対して過剰なまでに配慮をみせる義王院の現状も理解をしていた。
そして、晶の神気が失われた原因を想像して、それがどれだけ致命的な出来事なのかを理解したのだ。
「く、くろさまは……?」
「まだ、荒神にはなっていません。ですが、時間の問題でしょう。
…………これで分かりましたね、ここで問答する時間も惜しいのです。
すぐにでも準備を終えて、無理をしてでも急いで晶さんの安否を確認してちょうだい」
「畏まりました」
「楓、貴女の実家は木材商を営んでいたわね。
五月雨領に支社はあったかしら?」
「確か、在ったはずです。
五月雨杉は、あの領の特産ですから」
「結構。
実家に連絡して、そちらの用向きとして出向いてちょうだい」
千々石楓の首肯を余所に、静美はそのみに視線を移した。
「そのみ、同行家に何か動きはあった?」
「……数ヵ月前の帰省の際には、特に二心を隠し持っている様子はありませんでした。
それに、父さ、同行の当主は、神無の御坐に手を出すほど愚かではありません」
硬い表情で、八家第七位、同行の末席に名を連ねる同行そのみは頭を振った。
同行家に、雨月家が神無の御坐を得たという情報は漏れていないはずである。
そもそも、当主に選ばれた以上、血筋に加えて能力もあるという事だ。
権勢に興味があろうがどんな理由があろうが、神無の御坐に手を出すようなものは端から選ばれていない。
「…………そうね、疑ってごめんなさい」
「いえ。
――五月雨領の後になりますが、実家の方も探ってみます。
どの道、こうなった以上、華族全てに疑いを掛けねばならないでしょうから」
「……でしょうね。
五月雨領にどれくらいで入れるかしら?」
「朝に出る洲鉄の汽車に乗れれば、その翌日の昼には着けるかと。
妨害が無いことが前提ですが」
「むしろ、妨害してくれた方がいいわ。
相手に叛意ありと確信できる。
――たしか、諭国経由で輸入した蒸気自動車があったわね?
あれを使ったら多少の時間短縮はできるかしら?」
「速度で汽車には敵いませんが、一晩で中継駅のある宇城領に着ければ、明日の夕刻に五月雨領に侵入できるかもしれません。
ですが、かなり目立つかと」
蒸気自動車は、石炭で駆動する小型の蒸気機関を搭載した、最近になってようやく輸入が始まった外国の最新技術だ。
値段も張るし、個人で保有しているものなど数えるほどもいない。
海外との窓口を持っていない國天洲でこれを乗り回している時点で、どこの誰かの関係者など周囲に喧伝しているも同然となる。
――だが、それでも、
「構わないわ。今は時間が惜しいの、使い潰す気で走らせて。
動かせるのは馬丁の吉守さんだけだったわね。
今の時分なら、帰って寝てるわね。
――構わないから、叩き起こして」
馬丁の吉守は、数十年、義王院に仕える実直な男である。
その、長年、義王院に忠を尽くしてくれたものを、配慮も見せずに酷使する。
静美らしからぬ言動に、義王院の余裕の無さ、そして、國天洲の危機的状況を二人は改めて理解した。
「経費は幾ら掛かってもいいわ。
確実に、晶さんの現状を掴んで。
――何事もなければそれでいいけれど、神気が喪失するなんて普通じゃあり得ないもの、絶対に何かあったはず」
「あの、現状の把握には、確実に晶さまが存在していたと確信できる時点が必要です。
その、それで、最後に晶さまに逢われたのは、何時ぐらいでしょうか?」
「…………ぇ、と」
おずおずと右手を挙げて訊かれたその言葉に、静美は言葉を詰まらせた。
「……実際に逢ったのは、2……3年前かしらね。
文のやり取りはあったし、私たちも晶さんを迎え入れる準備で精一杯なところはあったけど」
そう云ってから、現状の不自然さにようやく思考が追いついた。
天山は当主教育に難航していると云う言い分で洲都に晶を連れて来なかったが、いくら何でも新年の挨拶にも連れて来ないと云うのはどう考えてもおかし過ぎる。
晶が無事であるのは神気で分かっていたし、徒らに雨月を刺激する事を避けた結果とはいえ、この異常を見過ごしたのは、あまりにも義王院も迂闊過ぎた。
「……そうね、確かに怪しいところが多すぎるわ。
そちらの方は、私が探りましょう。雨月天山が洲都に滞在しているときに親しくしていたものが居れば、何らかの情報は得られるでしょう」
「お願いいたします。
連絡はどうしますか」
「できる限り毎日、電報を使って。詳報があれば、何時でも寄越して。
――葉月の中旬頭に雨月の登殿が予定されているから、それまでにこちらの方で状況の把握をしておきたいわ」
「畏まりました。直ぐにでも出立いたします」
「お願いね。
――他のものも、これから当家は戦となります」
何事かと集まってきた屋敷住まいの家臣たちに向けて、静美は大きく声を張り上げた。
「雨月が叛意を見せた可能性があります。
相手に悟られぬよう、雨月の情報を集めてちょうだい」
雨月は、八家筆頭であり、義王院の信頼も篤い歴史ある一族だ。
それが叛意。およそ考えられない事態にどよめく家臣を見渡し、努めて平静に静美は噛んで含めるように言い渡す。
「重ねて注意します。
叛意は可能性であり、確信ではないわ。
相手を刺激する事は厳禁です。
こちらは、現状を正確に把握するまで公に動くのを禁じます」
そう云いながら、静美は頭痛を堪えるかのように額に指を当てた。
自分が云っている言葉が、どれほどの慰めにもなっていない事を自覚しているからだ。
「これから、碌に寝られる余裕も無いと思ってちょうだい。
雨月の登殿まで、あと一ヶ月。みんな、直ぐに動いてちょうだい」
静美の勅令に、家臣たちがすぐさまに動き出す。
それにわずかな頼もしさを覚えながらも、静美はぽつりと漏れる言葉を抑えられなかった。
「………………晶さん、無事でいてください」
この時から、義王院の歴史で最も昏迷した日々が始まった。
これで一章の終了となります。
閑話を挟み、2章に移ります。
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