1話 移ろう華蓮に、日々を報せて1
珠門洲の洲都である華蓮は、高天原で最も文化開明に著しい都市だ。論国の最新技術は蒸気に留まらず、電気に知識にと伸びやかに広がりつつあった。
――何処に住めど、華蓮の長屋が、世の春よ。
そう今様で謳われるほどに、華蓮住まいが平民たちの憧れなのも宜なるかな。
氏子籤祇によって人の流出入の難しい高天原に在って、華蓮の人口成長は異常なほどに右肩上がりを続けていた。
♢
チンチンと銅鐘が鳴り、路面電車が静かに駆動音を残して動き出した。
人の波が遅れて流れ、繁華の鉄軌上を雑多に行き交う。
そんな雑踏に紛れ、路面電車から夜劔晶が独り降り立った。
防人だけに赦された隊服に、一見無地の羽織が肩で翻る。
防人の羽織は、高天原の門閥流派に於いて中伝に至ったものが赦される。取りも直さずそれは、最低でも華族であると云う意味でもある。
その事実に人々の脚が脇へ寄り、少年に行く道を譲った。
嘗ては譲る立場だった頃を寂しく馳せ、それでも少年の足は止まらない。
繁華を東に抜けて、舘波見川に掛かる大橋を渡る。
更に郊外へと小走りに、田園に伸びる一本の道。やがて、漫ろ歩く晶の視界に、半年近く留守にしていた長屋が見えてきた。
素組みだけの粗末な門を潜り、長屋の奥にある自分の部屋へと歩く。
一歩二歩と歩みを進め、気を取り直してその手前の一角へと足を向けた。
華蓮の騒がしい移ろいを余所に、時間の流れを忘れたかのように静かなそこは、長屋主であるオ婆の住まう処だ。
少年の手元には、真国で買い漁った干貨が幾つか握られていた。
枸杞子、山査子に、霊芝と阿膠など。そのどれもが、高天原では滅多に見ないものである。
「オ婆、居るか」
どんどんと遠慮なしに、晶の拳は掘立の木戸を叩いた。
――だが、返ってくる応えは無く。乱雑に揺れた戸は、直に静けさを取り戻した。
「何だ、野菜売りか? ……土産を買ってきてやったってのに」
未だ少年らしさを残す口元を尖らせ、踵を返す。
ぐるりと長屋を見渡し、漸く、周囲の部屋からも気配が窺えない事に気が付いた。
長屋連中はその日暮らしのものが多く、昼間から長屋前に屯するなど当たり前である。
そうでなくとも、井戸端で世間話に勤しむ女性すら居ないのは、晶の知る限りなかった光景だ。
「山開きだし、総出で山菜採りに行ってんのかな」
カタカタと春風だけが少年の前に騒ぎ、やがて冷えた沈黙を戻す。
日常では見ないその不穏に、覚えた不安を晶は呟きに換えた。
貴重な品を仕舞い服装を整えた晶は、そのまま華蓮の繁華へと足を向けた。
賑やかな雑踏を1区に抜けると、平民の絣着物からやがて高価な着物に袖を通すものが目立つようになる。
一目で華族と判るものたちに紛れると、晶の隊服に羽織は珍しいものでもなくなった。更に中央へと歩くと、やがて華族のみが住まう区画へと。
晶の目的はその先。遠く華族の屋敷が並ぶ先に、珠門洲の頂点である太守の居城、奇鳳院家が坐す鳳山が垣間見えた。
♢
鴨津で帰還の報告を入れた甲斐もあり、奇鳳院家への許可は呆気なく下りた。
何と咎められる事もなく、晶は万窮大伽藍へと一直線に赴く。
半年以上振りとなる広間へと踏み込むと、新緑の薫りを孕んだ一陣が少年の鼻腔を浚うように擽った。
「――――晶!!」
稚くも華やかな童女の燥ぐ声。同時に晶の胸元に、軽い衝撃が奔る。
少年が見下ろすと、珠門洲の大神柱である朱華が、額を擦り付けるように抱きつく姿が見えた。
「あかさま、お久しぶりです」
「朱華で善い。――全くよな。一日が千秋に募る想いとはこの事よ」
くふりと咽喉を鳴らす童女の躰を、晶の腕が軽く抱え上げた。
朱に金糸を織り込んだ単衣が衣擦れを立て、零れるように素足の爪先が覗く。
「大きくなったのう。見ぬうちに、また背丈が育ったのではないか?」
「芳雨省でお呼びした頃から、まだそれほどに経ってはいませんが」
「否。育っておるさ。産霊も恙なく、妾が先んじれたしの」
弾むように神無の御坐である少年へと囁き、童女は欄干の際を指差す。
誘われるまま腰を下ろすと、営々と人の営みが息衝く華蓮の眺望が一望できた。
「國天洲はどうであった」
「……懐かしいの一言だけですね。事が総て済むと、故郷もそう悪い記憶ばかりではなかったと気付きました」
「当然よな。良し悪しも一塊に、晶の記憶には違いが無かろう。
其方の見方次第で、光景は万華に彩りを変えるものじゃ」
五月雨領の雨月の屋敷、毎日通った在野の尋常小学校。祖母が居て、気に掛けてくれた教師が居て。
意外と苦しいばかりではなかった、幼い頃の日常。
当たり前の事だろう。悪い記憶が有るのなら、少なくとも確かに貴重な良い記憶も有るものだ。
悪い記憶ばかりだったとすれば、きっと良し悪しの分水嶺すらも見えなかったから。
それが判っただけでも、雨月との決着はきっと必要な経験であったのだろう。
そう晶は、漸く過去の泥濘を呑み込んだ。
春に麗かな日中とはいえ、小高い鳳山の中腹は未だ肌寒い。神柱であっても人肌の温もりは恋しいものか、童女が頭を少年の肩に預けた。
2人だけの時間が流れる静寂の後、やがて奇鳳院嗣穂が現れて一礼。
深く首を下げる少女に対し、朱華は明け透けと桜色の唇を尖らせる。
「些事にて遅れました、あかさま」
「構わぬ。妾はもう暫し、晶との逢瀬を愉しみたいが」
「その代わりに、晶さんから葦切り餅を切り分けますので、御賞味くださいな」
「……相変わらず、其方はその餅が好きじゃのう。ま、善いわ」
固めに蒸した餅に餡子を挟んだ葦切り餅は、華蓮でも高名な御菓子処が手掛ける一品だ。
が、そればかりともなると、神柱であろうと流石に飽きが回ってくるもの。
溜息交じりの朱華はしかし、気を取り直して伽藍の奥座へと戻った。
餡子と桜色の餅へ楊枝を刺し、少年少女たちは一斉に頬張る。葦切りのさくりとした歯応えと広がる懐かしい甘さに、どうしようもなく頬が綻んだ。
深煎りの茶葉が軽く薫り、ほうと咽喉から安らぐ熱を逃す。
その合間にも会話は確かに、真国での報告が絶える事は無かった。
話題はやがて、各国の情勢と動向に興味が移る。
「ならば、救世の象は論国に移った。――その認識で宜しいでしょうか?」
「はい。何時になるかは判りませんが、論国における神柱の再臨は時間の問題かと」
成る程。晶の断言に頤を揺らし、嗣穂は双眸を少しだけ思案に翳らせた。
最も気掛かりだったのは、今回の1件を表向き主導していた論国の扱いだ。
シータに踊らされたとはいえ、何もお咎め無しでは流石に筋が通らない。
それに加え、事は既に論国だけでは収める事も不可能だからだ。
「論国の勢力は2つ。神柱を得て喪った加護を恢復する王権派か、
――若しくは、自分たちで神柱を造り出して次代の礎たらんとする復権派です」
「神去りで加護を喪ったものたちは、何時の時代も同じ事を考えるものよの」
晶の言葉に、朱華が肩を竦めて肯いを返す。
それは、神代を越えて永く時代を眺めてきた、神柱ならではの呟きであった。
シータは復権派を裏から指示する事で良いように動かしていたが、晶に敗れたことで、神柱の雛型となって密議であった王権派のエドウィン・モンタギューへと渡っている。
――だが、神柱を得たというのは、一筋の光明にもなり得る天啓か。
「では論国がこれ以上、植民地政策を拡大する理由を喪ったと」
「喪いはしたでしょうが、植民地政策が止まることは有り得ません」
嗣穂の呟きに、晶は確信を以て断固と頸を横に振った。
それは、平民だった晶でも理解できる、経済の理屈の1つだ。
「――抑々論、植民地政策自体が、論国の商売として成り立ちません。
論国の資本主義とは、徹底的に相性が悪いので」
資産を権力に置き換える資本主義は結局、市場の流動が保証されていればこその思想である。
現地の資源を土地ごと奪う植民地政策は、一国分の停滞した市場を胎に抱えると云う事も意味するのだから、長期で見れば破綻するのは当然の流れ。
晶が玄生として活動していた頃。呪符を買い占めて価格を釣りあげようとした、莫迦な先物商が居たことを思い出した。
何処ぞの華族のお坊ちゃんだったかは知らないが、幾らかの成功を収めて羽振り良く呪符組合に乗り込んできたのを覚えている。
その後はどうなったか。
確か、幼稚な発想の結果は周囲の反発を招き、お坊ちゃんは数万円に上る損失を出して市場から逃げたはずだ。
お坊ちゃん自体のオチは知らない。――運が良ければ、生涯を座敷牢で蟄居辺りか。
似たような事を組合の長が企んでいたと聞いているが、それも消えたと聞いていた。
暫く呪符の価格は荒れ続け、高価な回生符までもが乱高下したのを覚えている。
晶たち在野の符術師にとって幸運だったのは、呪符は消費するものと云う一点。常に不足に悩まされている市場は、一時の荒れを過ぎてやがて安定を取り戻していったのだ。
論国の問題も同じ。否、更に悪くなる。
呪符は消費されるものだが、資本は流れるものだからだ。
植民地政策で呼び込まれるのは、動かせない市場と奴隷と云う消費の赦されない労働力。その果てに残るものは、二極化で身動きの出来なくなった資本市場だけである。
一時的な資源の収奪で息を吐けても、停滞市場はやがて論国の市場を蝕むはずだ。
その次はどうなるか。
――収奪に味を占めただけの上層部が更なる土地の拡大に思考停止するのは、想像に難くなかった。
問題はまだある。
「……それに論国の戦闘ですが、現在は銃火器を主眼に据えたものになっています」
「久我当主より報告は受けています。
多連装砲でしたか、銃弾を秒で数百撃てる代物だとか」
「ええ。兵士全員にあれが行き渡れば、確かに精霊遣い相手でも勝てるかもしれません。
つまり、」
「――今後の大規模戦闘は物量、圧倒的な資源を保有するものこそが勝利するようになる。
そうですね?」
少年の確信の根源を理解し、嗣穂は額を抑えた。
銃は大量に鉛弾と火薬を消費する。つまり武力を維持するには、大量の資源が必要になる。
――その量が論国だけで賄える資源を越えているのは、目に見えていた。
「鉄や鉛。石炭も。国家を維持する為にも、彼らは植民地政策を止められません」
論国は既に、植民地政策の賽を転がしている。資源の為に資源を欲する構造の矛盾から、破綻するまで雪だるま方式で雪崩れていくしかない。
「晶さんは、どう対抗すれば良いと思いますか」
「子供の素人考えですが」
「構いません。八家第一位として、意見侭を赦します」
嗣穂の許可に晶は思考を巡らせた。しかし、上手い言葉は見つからず、視線が泳ぐ。
その先で詰まらない会話に飽いたのか、朱華が晶の膝を枕に見上げてきた。
「波国との同盟に、潘国での協力があった筈です。あれを最大限活用し、西巴大陸の残り諸国との矢面に立って貰います。可能ですか?」
「晶さんとの約定に出し抜かれましたので、反故と見られているかもしれませんが。
向こうの申し立てもありませんので、口八丁で何とかしてみましょう。
ただ、晶さんには少し苦労を願わなければならないかもしれませんが」
「それは」
「ベネデッタ・カザリーニの口振りからは、潘国への興味が窺えませんでした。
理由は不明でしたが、恐らくは晶さんと同じ結論に至っていたんでしょうね」
ベネデッタの要請は、徹頭徹尾、晶を引き込むためのものであると、嗣穂は覚えていた。
理由が晶と同じで、潘国は負債に変わると理解していたのなら納得も行く。
破綻する結末が見えていたからこそ、波国の主権を奪回すると云う無茶を冒してでも、軍権を掌握したのだろう。
問題は、今回の要請変更で、彼女がどれだけの無茶を捻じ込んでくるか。その辺りが一切、見えてこない。
晶の機嫌を損ねないためにも、早々の無茶は云い出さないと思いたいが。
「勝手で申し訳ありませんが、真国の狙いを敢えて見逃しました」
「真国の狙い、ですか? シータの封印とラーヴァナの解放は達成したのでは?」
「それだけだと、分配できる戦功はありません。
幽嶄魔教と源林武教が陥落した現在、半壊した信顕天教を立て直すほどの余力は無いはずです」
要は論国と同じで、極端な市場の衰退に合っている状態である。
つまり真国には後が無い。褒賞と別けるものが枯渇したなら、余所から引っ張ってくるしかないのだ。
つまり、
「信顕天教から南下して直ぐに、南方塞外と呼ばれる無主の地が在ります。
潘国が表向きに、そして実効権を論国が握っているはずですが、名目上、誰の土地でもありません」
何故ならば、潘国が崩壊し、真国は行動不能にまで陥っているからだ。
これは想像でしかないが、東巴鉄道に乗り込んでいた論国人たちは、本当の意味での非戦闘員だったのだろう。
客船に偽装した戦艦が高天原の鴨津を陥落した後、本国に帰還するまでを、南方塞外で安全に過ごす予定だったのだ。
だが、それはもう叶わない。
高天原で偽装戦艦が沈み、残っているのは防衛や戦闘にすら覚束ない素人だけだ。
――信顕天教の武侠が相手となれば、数日も持たずに白旗を上げるのは目に見えていた。
だが、論国は動かない。そう晶は確信をしていた。
条約により真国と論国の同盟は保持され、潘国は敵対の立場を維持しているのだから。
幾ら抗議を上げても、知らなかったの一言が返されればそれまでだ。
「南方塞外が陥落れば、論国も黙っている訳にはいきません。
議員による二院制を採っているあの国は、市民の声を無視できないですから」
エドウィン・モンタギューを始め、論国の王権派もそろそろ気付き始めた頃だろう。
散々、自分たちが楯に使ってきた論理を、これは相手が振り翳しただけだ。
自縄自縛、彼らに選べる手段はそう多く残っていない。
「真国を見て見ぬふりで、潘国の地盤を固める。その為には、波国の協力が絶対に必要になります」
「破門されたアリアドネ聖教との関係を恢復する。その名目で支持を集める心算だから、ですか?」
恐らくは。嗣穂の確認に晶も同意を返した。
潘国の掌握に方針転換しても、壊れた市場が元通りになるまで相当な時間がかかるはず。神柱の再臨も含めると、動き出すのには数十年単位では効かない可能性まである。
詰まる処、外交権限のない晶の打てた手段は、何も云わず見逃した1つだけだ。
時間稼ぎ。それが吉と出るか凶と出るか、判明するのは数年後の己次第であった。
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