序 春に羽撃く、燕の跡を追って
――高天原、珠門洲東部、名瀬領。
冬は遠く、啓蟄も過ぎて春の麗かが深みを帯び始める。
鶯が気も早く囀り、朱に綻ぶ寒梅の蕾を揺らして消えた。
一陣の東風が吹き荒れ、庭から軒下に朽葉が舞う日のこと。
名瀬領は梧桐山の中腹にある輪堂本邸の書斎では、丁度、輪堂孝三郎が万年筆を卓上に置いたところであった。
「冬越えの被害は、……まぁ、例年通りか」
己が処理した陳情の束を眺め、疲れと安堵を吐いた。
縒れた藁半紙に残る、雪染みに泥の跡。名瀬領の各地から寄せられた陳情は、見た目からも冬の労苦が窺い知れる。
――とは云え、その多くは、雪解けの地滑りに道が断たれた、や、水防の堤が崩れたなど。ある意味で平和なものばかり。
瘴気溜まりと共に生きる名瀬領の領主にとって、それは実に穏やかな不満と云えた。
この島国に犇く五つの龍穴が齎す霊気の奔流は同時に、無数の瘴気溜まりをも生み出す。
高天原の冬は恐らく、他国よりも過酷である。
過酷な越冬に、腹を空かせた穢獣の暴走。それは龍脈に坐す神柱の加護深き、負の側面だ。
特に昨年の後半から、各洲で混乱を引き摺っている。
潘国の神柱たるラーヴァナの来襲に、八家第一位の陥落。頭痛のタネが引っ切り無しに思考の扉を叩き、孝三郎は生温く春俟ちの庭を見遣った。
名瀬の領主の悩みなど我関せずとばかりに、苔に滴る清水を啄む雀が幾羽か。
その様を羨ましく、孝三郎は袂の冷えた温石を火桶に放り込んだ。
「――貴方。お茶を淹れました」
「ああ、戴くとするか。邇子」
孝三郎が一息を入れる頃を見計らっていたのだろう。孝三郎の妻である輪堂邇子が、盆に急須と茶杯を持って入室した。
仄かに温を帯びた茶杯に、黄金を帯びた緑茶が注がれる。
邇子の所作を横に、孝三郎は今朝方に届いた封筒を開いた。
茶封筒には素っ気なく、長谷部領の領都である鴨津とのみ認められている。
――久我家。宛名が無い辺り、法理殿からか。
内心でそうとだけ呟き、孝三郎は封の端を指で破った。
宛名が無い理由は、機密に抵触する重要な何かが掛かれているから。
差出人を曖昧にすることで、余人が不用意に情報へ接触する事が無いようにするためだ。
「久我家に何かありましたか?」
「並べて世は事も無し、と。
論国の詩人の一文だったか、何時にもまして御仁の言に皮肉が効いている」
素っ気ない三つ折りをぞんざいに広げ、認められた一文を呟く。暗号でも何でもない。ただそれだけの文に、輪堂家の当主は肩を揺らして笑った。
手紙の内容は、鴨津侵攻を狙った論国の偽装戦艦を拿捕し、目当てであった多連装砲の完成品を入手したと云う、時節の挨拶に隠した情報共有だ。
高天原に於ける懸念は多く、国家の現状は笹船のように頼りない。
北は侑国、南から西巴大陸諸国の欲望が群がる。不安定な大陸情勢に、高天原の国家運営が追い付いていないのは、以前から指摘されてきた現実だ。
加えて、西巴大陸の原動力でもある、科学技術の躍進は目覚ましい。とりわけ銃の持つ潜在能力が精霊技の威力を凌駕せんたる事は、孝三郎をして黙して尚、認めるしかなかった。
論国の産業革命に追いつかんとする風潮が、高天原全土で捲き上がるのは、ごく自然の流れだろう。この機運が冷める前に、その先が示せたのは幸運以外の何ものでもない。
――多連装砲は間違いなく、論国の最新兵器の1つだ。あれの解析が叶えば、高天原が論国の水準に到達するのも叶うだろうな。
捕らぬ狸と知りつつも、孝三郎はその皮算用を胎の裡で弾いた。
神柱と精霊が未だ健在な高天原の戦力は、中位精霊以上の華族によって構成されている。
強大な加護を齎す精霊は確かに頼もしいが、どうしようもない欠点もある。
それは、属人的であること。精霊は飽く迄も個であり、その戦力の平均化と量産が難しいと云う1点だ。
西巴大陸の軍事教義と発展思想を読み解くに、大陸軍事の方向性は、平均化された戦力の大規模運用に肝要が置かれているのは間違いない。
そこに精霊遣いと云うムラのある戦力を並べても、運用自体が不可能だろう。
――しかし、連射による制圧力を、個に秀でた精霊遣いの指揮官で統率させるなら?
そこまで思考し、孝三郎は緑茶を一口。微かな甘みへと潜む苦みに、眉を顰めた。
――必要以上に深煎りした茶葉か?
邇子の茶の腕前は、その道の先達をして唸らせたほどのものだ。
初歩的な手落ちではなく、これは孝三郎に一言あると云う、無言の圧力に他ならない。
冷や汗を一筋浮かべ、輪堂当主は横に座る妻を眇め見た。
穏やかに微笑む妻に、これは胎を煮え繰り返しているなと予想をつける。
「貴方、時間が宜しければ、少しお話があります」
「うむ」
予感が的中した喜びも無く、孝三郎は妻へと膝ごと向き合った。
――買い物か、金子で賄えるものであれば良いのだが。
無理だろ~な。と内心だけで子供じみた愚痴を零し、表情を取り繕った。
「夜劔晶さんの事です」
「邇子……」
そっちか。面倒な話題を振られたと、吐く息も曖昧に妻へと厳しい視線を向ける。
「説明しただろう。夜劔当主と輪堂家に血縁など無いと。
彼を後見に認めたのは、偏に奇鳳院家の意向ゆえだ」
「それは理解しています。奇鳳院家の御威光なればこそ、輪堂家も外れ籤を選ばざるを得んことは仕方ないとも」
「外れ籤とは云いすぎであろう」
「これでも口当たりを良くしております。
陪臣たちなど、貴方の優しい性根に付け込まれたと、口さがなく囁いておりますから」
未だ納得はしていない。如実に眼差しへ籠められた妻の本音を、孝三郎は呆れもそこそこに窘めた。
実際、周囲が神無の御坐を知らないだけで、夜劔晶の後見は外れ籤などではない。
当たりと云うには刺激が強すぎるが、神無の御坐個人に恩を売れる価値を考えるなら、それこそ買い物としても破格の値段だ。
特に、晶の才覚は、歴代の神無の御坐を圧して余りある。
初見の精霊技を模倣する器用さに加え、知恵と機転の冴え。国家の要衝に据えても、一線級は間違いない。
更には、奇鳳院家と義王院家の縁故続きは確定しているのだ。
上手く舵取りができるならば、後見の興行主としてこれ以上の相手は有り得ないだろう。
――問題は、神無の御坐と云う劇物の詳細は、八家の当主に限られた口伝だと云う事だ。
「凋落した雨月家の後釜と赦されましたが、夜劔晶さんは所詮、見做し。
このようなぽっと出に咲さんを宛がうなど、如何にも輪堂家を軽んじていると云わんばかりの主家の采配。私は悔しくてなりませんっ」
「新興の八家に、苦労はつきものだろう。
二家の橋渡しに軽んじられぬ箔としても、咲なら役に立ってくれる」
感情に任せぬよう孝三郎は必死に宥めるも、邇子の激昂に衰える様子はない。
「当然です。咲さんは久我諒太さんの筆頭側室に、特にと恃まれた自慢の娘ですよ。それなのに、北辺でも指折りの雪濠に嫁がせよなどと。
主家とは云え、このような勝手横暴を罷り通すなど、咲さんが不憫で不憫で」
「確かに、晶くんが治める五月雨領は雪が深いと聞くが、辺土と断じるのは筋が違うだろう。
――それに面倒な田舎という点では、名瀬領も引けを取っとらん」
呆れと宥めが綯い交ぜのまま、孝三郎は現実逃避気味に庭の向こうに広がるだろう名瀬の光景を幻視した。
内陸である五月雨領と違い、南西に細長く伸びる名瀬の領地は大洋に面している。
温暖な気候に雪は浅いものの、夏には毎年のように台風が通過するのだ。
暴風か積雪か。何方が面倒かと考えれば、どっこいなのは間違いない。
晶を巡っての孝三郎と邇子の言い争いは、これまでも幾度か交わされてきた。
それでもこれまでは、この論点に持ち込めば、邇子は引き下がってくれていたのだ。
自然の驚異に比する説得力はない。
今日もそうだろうと孝三郎は楽観視していたが、予想を裏切り邇子に退く様子はなかった。
「先だって、久我家の琳子さんより、私宛てに謝罪の文を頂きました。
久我の御当主殿と貴方が結んだ約定が果たされぬ由、お詫び申し上げます、と。
八家第二位の正室に謝罪を忍ばせたこと、恥ずかしくてもう」
「邇子……」
遂には泣き出した妻を前に、孝三郎は辟易と妻の名前だけを舌へ乗せた。
そう云えば、邇子と久我正室である久我琳子は従妹同士、仲が良い事で有名だったな。
そう、益体も無く思考を明後日で遊ばせる。
やがて泣き暮れるに気が済んだのか、邇子は屹然と相貌を上げた。
「夜劔家が八家第一位の後釜として入り、八家第五位がその後見として護持に立つ由。上意有ればこそ、善しといたしましょう。
ですが、晶さんの箔付けに咲さんを嫁がせるまで応じる訳には参りません」
「では、どうしろと? どれも奇鳳院の勅旨だぞ。無視は不敬だと承知の上だろう」
「いいえ、御意向に逆らう必要はありません。
輪堂家が後見を得て尚、この程度なのだと証明されれば善いのです」
「夜劔家に恥を掻かせる心算か」
邇子の発言の意図を悟り、孝三郎も口調を荒げて叱責する。
彼女の策は目新しいものではない。寧ろ、その逆だ。
華族の評価は大きく、貢と功の2つ。その内、貢は当然の義務で評価されないが、功は努力義務である。
無功の罰則が規定されている訳ではないが、大きく失敗でもすれば、世間の目が厳しくなるのは避けられない。
絶対ではないが、華族の評価は比例制だ。上がるものが居れば、相対的に周囲は下がる。
晶の躍進を善しとしない華族たちは、必死になって晶の足を引っ張りだすのは想像に難くなかった。
奇鳳院にも、これを止める術はない。
結局のところ、これは早いか遅いかの違いしかないからだ。
「止めておけ。新興の、それも後見に対してなどと、醜聞以前の失笑にされるぞ」
「恥を掻かせる意図はありません。ただ、功を立てる機会を、海外から帰還してきた彼に与えるだけです。
……それに、」
引き留めようとする孝三郎に、それでも邇子の口調は揺るがない。
話は終わりとばかりに会話と断ち切り、盆を手に嫋やかな所作で立ち上がった。
「奇鳳院家も、この件に関しては口を噤まざるを得ないはずです。
長年に渡り放置してきた、珠門洲東部の問題の解決を願うのですから」
「全く。誰の入れ知恵だ? ……お前の考えではないだろう」
「それは」
応えようとする邇子を、孝三郎は片手を振って遮った。
ここまで用意周到な相手。間違いなく、自分を辿る線を慎重に消しているからだ。
華族であれば当然の動きに人の欲も織り込んで、この策は立案されている。
輪堂邇子は勿論、久我琳子でも有り得ない。主導しているのは奇鳳院の宮廷内情に通じた、輪堂家と久我家以外の誰かだろう。
判った事はただ1つ。
この策は夜劔晶個人に恨みを持って、執拗に潰すための最初の一歩だと云うこと。
何の意図かも判らぬままに、孝三郎は奇鳳院へ急を報せるべく筆を取った。
♢
――珠門洲南部、長谷部領、領都鴨津。
微かに軋む渡り廊下の途中で、夜劔晶は足を止めた。
巡る視線の先では丁度、庭師が松の藁を解いている最中であった。
「どうしたの?」
「啓蟄は過ぎたのに、今頃、藁を剥がしているのだなと」
肩を並べて怪訝と問う輪堂咲に、指でその様子を指し示す。
今は弥生の下旬。肌寒さもなくなり、冬の厚着には汗ばむ気候だ。
「毎年、こんぐらいじゃねぇか? 庭が趣味なのは父上だけだから、詳しくないが」
「――ええ。啓蟄に剥ぐと松が傷つく恐れがあるので、少し遅らせたのでしょう」
2人の会話に、後ろからついてきた久我諒太と帶刀埜乃香も加わる。
埒も無く議論を交わし、やがて晶は庭師たちが藁を燃やす一画に足を向けた。
ばち、ぱ、ち。松脂の焼ける音に紛れて、会話の詳細は聞こえない。
だがやがて、少年は銭貨を支払い、何かを受け取ったのが垣間見えた。
「……なにあれ?」
「知るかよ」
思わず疑問を漏らした咲に、諒太が肩を竦めて返す。
やがて戻ってきた少年の手元を覗き込むと、そこには幾匹かの芋虫が蠢いていた。
「芋虫?」
「松食いです。庭師から別けて貰いました」
「――どうすんだ、それ?」
少年の端的な説明に、諒太が厭そうな表情を浮かべる。
虫を受け付けない訳ではないが、長い海上生活から帰還して直ぐに見たいものでもない。
「食べるんですよ。今夜の一品に加えます」
「食うのかよ!?」
「ああ、そっか。ああやって藁に逃げてきた幼虫はそれなりに大きいから、食べ応えがあるのね」
「基本的に庭師の仕事に興味が無いから、向こうも幼虫を食べ放題だったんでしょう。――盲点でした」
平然と答えた晶へと、諒太が慄く様に一歩退いた。
だが、周囲の女性陣も、平静に芋虫を摘まんで頷く。
「何で平気なんだよ、お前ら」
「や、だって。芋虫なら普通に美味しいでしょ?
蝗は佃煮にしても苦くて固いだけだけどさ、蜂の子なら甘くて美味しいじゃない」
「タガメもいけますよ。苦いですが、匂いが少し甘いですし」
平然と話す少女たちを、諒太だけが信じられない面持ちで見渡した。
高天原で昆虫は、意外と当たり前に食べられている。
理由は単純で、四季を問わずに入手可能な食料だからだ。
貧しく生活してきた晶にとって、生木を割らねば入手できない松食いの幼虫は貴重な美味の1つ。芋虫を慎重に手袋へ詰めて、晶たちは再び歩き出す。
所々が解れた羽織が翻り、背の家紋が誇らしげに揺れる。
五角紋に竜胆が一輪、二重囲いに芒、
――そして、檜扇に見立てた六曜紋。
次代を背負う八家の少年少女たちの錚々たる歩みを、居合わせた家人たちが見送る。
統紀4000年、弥生下旬。
晶たちは、鴨津の地で高天原に漸くの帰還を果たした。
明けましておめでとうございます。
新章の開幕を、年度初めの挨拶と換えさせていただきます。
長い冬の章も終わり、一気に暖かい季節へと向かっていきます。
新章の章題は、塞道回峰篇
晶たち共々、今年もよろしくお願いいたします。
安田のら





