5話 憎悪の濁流、抗うは人の覚悟1
夕刻のまだ明るい内に、晶が自身の所属する8番守備隊の屯所に足を踏み入れると、予想もしていない喧騒に出くわして、晶は思わず面食らった表情を浮かべた。
見てわかる範囲だけでも晶の率いる練兵の班以外で、正規の隊員が所属する3つの分隊が駆り出されているのが見て取れた。
ついでに、そのうちの一つは、本来、今日は非番のはずの分隊もある。
この調子なら、8番隊に所属する全員がここにいる可能性も考えられた。
明らかにただ事じゃない。
戸惑いながら事情を訊こうと屯所の中を見渡すと、副長の勘助が緊張の面持ちで隅の方に立っているのに気付いた。
右手を挙げて、勘助を呼ぶ。
視線に気付いて、明らかにほっとした表情で晶に近寄ってきた。
「あき……あ、いや、班長、漸く来てくれたか」
「漸くって……、いつも通りだろ?」
遅れたのかと不安になったが、壁に掛けられた時計はいつもと同じか早いくらいの時間を指している。
「それより、この騒ぎは何だ?」
「見て判るだろ。
……緊急招集だよ。8番隊だけじゃない、全守備隊に動員が掛かっている」
「理由は?」
「判んね。取り敢えず上も混乱してるっぽい。
正規の隊員を呼び出すのに手一杯で、班長を呼び出すのは後回しになってた」
悪い。軽く謝罪を込めて上げられる右手に、構わないと首を振る。
「どの道、今日は出る予定だったしな。それは構わねぇよ。
――阿僧祇隊長は?」
「本部からの連絡係と会ってる」
親指でこっそりと応接室を指してみせる。常は使われない応接室の扉の磨りガラスに電灯の明かりが灯っているのが見て取れた。
『何だとっ!!』
その時、扉越しでも聴こえる阿僧祇厳次の胴間声が、恫喝混じりにこちらに届く。
『それは総隊長の判断なのか!? 話にならん、こっちの負担を何だと思っている!!』
『私はただの連絡係です。苦情は後程、総隊長にお願いいたします』
『そんな時間があるか! 大体……』
激昂は一時の間で、直ぐに音量は落とされる。
「…………何か、ヤベぇ事になっているっぽいな」
「……だな。何が起こっているんだか」
その時、ガチャリと音を立てて、応接室の扉が開いた。
奥でまだ話し合う厳次を余所目に、副長の新倉信が疲れた様子で出てくる。
そして、屯所に姿を見せている全員を見渡した。
「…………時間がありません。取り敢えず、現在状況を伝えます。
――終わり次第、準備に掛かってください」
「……あの、一体何が」
「質問は受け付けません。
――今夜、百鬼夜行が発生します。舘波見川を遡って華蓮に到達するのが22時、今より5時間後となります」
ざわり。そこに居る全員に緊張が走る。
瘴気が氾濫する事で起きる百鬼夜行。それは、強大な穢レを中心に周囲からありとあらゆる穢レを吸い上げて、一大奔流となって襲い来る暴虐の権化だ。
百年に一度、起きるか分からないような災厄だが、過去には華蓮の半分を焼き尽くしたこともあり、その地に生きるものには恐怖の代名詞として伝承に伝わっていた。
「出し惜しみをする訳にはいきません。
各員に回生符5枚、火撃符5枚を支給します。分隊、及び練兵班の代表は取りこぼしの無いよう、各員分の申告に来てください」
通常の支給される数のほぼ倍だ。
阿僧祇厳次と新倉信が、如何にこの事態を重く見ているのかが言葉の端々から見えてくる。
「……俺たちの担当区画はどの辺りになるんでしょうか?」
質問は受け付けないと云われつつも、訊いておかなければならない必要事項に関して、熟練の正規隊員の一人が食い下がった。
「……先日、折よく我々は、妙覚山の山狩りを成功させました。
衛士見習いが2名、応援に入ってきたこともあって、主の成りかけを狩ることにも成功しています」
流石に答える必要を感じたのか、眉間にしわを寄せながら新倉が口を開く。
「妙覚山の穢レを大きく減らしましたから、南葉根山脈から夜行に釣られる輩はかなり少なくなるはずです。
――本部はこの功を高く評価したらしく、舘波見川中流の防衛を任せると」
新倉の言葉の意味が隊員たちの脳に染み渡るのに、数瞬の時間を要した。
その意味を理解したとたん、抗議混じりのざわめきが一層高く上げられる。
舘波見川中流の防衛はまだいい。
だが、舘波見川の中流はかなりの広さがあり、8番隊だけでは全域の防衛は不可能なはずだ。
それなのに、新倉の言をそのまま聴くならば、8番隊だけで中流の防衛をしろという風に聴こえるではないか。
「……あの、中流の防衛を8番隊で担え、と聴こえたのですが」
勇気のある問い返しを、分隊の誰かが声に上げた。
まさか、や、そんなはずはあるまい、と云った希望的観測が多分に混じった響きであったが、新倉の返答は非情なものであった。
「その通りです。
大まかに分けて、4番隊以上の隊は河川の上流を、9と10番隊は下流を。
それ以外は夜行に釣られた周辺の掃討を担うよう指示が出されたと聞いています」
「そんな!? いくら何でも無茶です!!」
「無茶は百も承知です。
ですが、周辺の穢レ共を夜行に合流させる訳にはいきません。少なくとも、華蓮の防衛を目的とした布陣としては順当なものです」
至極もっともな、分隊の隊長が上げた抗議を、新倉は表情を変えずに切って捨てた。
「ですが、8番隊の負担が大きいのは、阿僧祇隊長も十全にご理解いただいています。
現在、上流に詰めている隊をもう少し下に下げてもらうよう、隊長に交渉いただいています」
隊員たちの喧騒は、止む気配が無くどちらかといえば大きくなってゆく。
慰めにも似た新倉の台詞は、それでも隊員たちの心に些少なりともの救いにはなりはしなかった。
晶たちの時代、電話は開発されていたもののようやく普及が始まったばかりで、その普及率は守備隊であっても主要とされている守備隊への線が辛うじて通っている程度であった。
勿論のこと、晶たちの8番隊に電話線は通っておらず、厳次が総隊長に話をつけるためには本部へと出向く必要がある。
百鬼夜行の到達まで後5時間と限界が迫る中、のんびりと本部へ出向く猶予などある訳が無い事は、晶たちをしても自明の理であった。
生死が掛かっているのだ。隊員たちの文句は当然であったが、
「――時間がありません、配備の詳細は後で通達します。
各員、準備に取り掛かってください」
新倉は、それでもなお表情を変えずにそう云い切った。
「……とんでもない事になったな」
肩を並べて歩きながら、勘助がぼそりと呟いた。
「……あぁ。
百鬼夜行かよ。よりにもよって、俺たちの時に起きなくてもいいだろうに」
「同感だよ。
――班の振り分けはどうする?」
「妙覚山から下りてくる穢レは少ないだろうが、いないって訳じゃないはずだ。
なら、どちらにしろ山の警備は必要になってくる。
所属3年を境として、熟練と新入りの2班に分ける。
熟練班は全員が盾持ちとして舘波見川の支援守備を、新入りは妙覚山のすそ野で警備だ。
どうせ、新入りが百鬼夜行に当たっても、磨り潰されるのがオチだ。
足を引っ張られるくらいなら、妙覚山の警備をさせておいた方がいい。
――悪いが、振り分けの塩梅は任せる。代わりと云っちゃ何だが、新入り班の引率を頼む」
晶は、付き合いの長い勘助に、少しでも安全なところに行くように暗に告げる。
直ぐにその意図は理解できたのか、勘助は表情を強張らせた。
「班長……」
「昨日さ、
――『氏子籤祇』を受けてきた」
勘助の顔色を窺ってしまいそうになるから、努めて前方から視線を動かさず、脚が刻む歩調を緩めず、晶は端的にそう告げた。
勘助が息を呑む。
氏子になる。それは、練兵たち全員の夢であり、守備隊に所属して安価で自身の命を量り売りする最大の動機だからだ。
晶が守備隊に入隊して3年、まだ年季までは3年残っているはずだ。
「なんで」
「回気符が作れたから。
隊長たちも呪符に余裕が欲しかったらしいしな、時機が良かったってのもあるんだろ」
呪符が作れる晶は、練兵の中でも恵まれている存在だった。
それゆえか、練兵たちからかなり妬まれていた。
勘助が関わったことはないが、かなりのやっかみを公然と受けていたことも知っている。
それでも、晶は努力していた。
呪符を作れるという立ち位置を無視しても、3年で頭角を現して練兵を率いる班長に抜擢されたくらいには。
だから気にするな、心置きなく安全なところに逃げておけ。そう言外に告げてくる晶に、震える息を吐き出して整えてから、努めて平坦な口調を心掛けながら口を開いた。
「――俺さ、お前が羨ましかったんだ。
判ってっか? お前、かなり恵まれてんだぜ。
俺は、身一つで故郷から追い出された。
俺の故郷は穢レが少なかったから、守備隊はいつも人が溢れてたしさ。
優先されんのは華族の連中筋ばかりだし、歩いて漸く華蓮に着いたら、守備隊の練兵は使い捨て同然の扱いだし」
知っている。
内心で晶も頷いた。
昨日までは理解する余裕すらなかったが、氏子になれた今なら判る。
どう言葉を飾ろうと、晶は恵まれていた。
読み書きに苦労せず呪符が作れて、故郷ではひどい扱いを受けていたとしても、剣術の基礎は教えてもらっていた。
精霊がいない。その不利以外は、他の練兵たちよりも遥かに恵まれていたのだ。
「――だからさ、俺は、年季明けまで死ぬ気はないからな。
有り難く俺は安全な警備に回らせてもらう。」
勘助の憎まれ口めいたその言葉に、晶は少しだけ救われた。
歪に嗤って、そうしろ、と呟いてやる。
何だか遺言みたいだな。そんな感情から、軽口を装って晶は言葉を続けた。
「云っとくが、俺も死ぬ気は無ぇよ。
どうせ俺たちは、真打ち連中の前座に過ぎないはずだ。
本部の思惑だって、阿僧祇隊長の戦力と穢レの数を減らす事が目的だろうしな。
向こうだって、本音、たいしてこちらに期待はしてないさ」
「阿僧祇隊長と総隊長の不仲って本当だったのか」
「噂だったけど、現況から考えるに事実だったんじゃね?
上層部の人間関係に巻き込まれるなんて、とんだ迷惑だ」
昨日にすっかりと捨てたはずのどろどろとした薄暗い感情を腹の奥底に覚えて、自然と足を速める。
「俺は班員分の呪符を申告してくる。
勘助は、状況の説明と班の振り分けをやっといてくれ」
「判った。早めに戻ってくれ。
――俺じゃ、班を抑えきれん」
「あぁ」
時間が無い。そして、やるべきことは判っている。
互いに背を向けて、二人はそれぞれの担当に分かれていった。
――――――――――――――――
輪堂孝三郎の付き添いとして1番隊に赴いていた咲は、状況と概要を聞いた後、その足で8番隊の屯所に向かった。
緊急招集を受けて咲が8番隊の屯所に姿を見せた時、詰め所内では隊員たちの喧騒が飛び交い、少し気圧されて壁際に寄る。
自身の地位がどうであろうと、咲は8番隊に一時的に腰を下ろしているに過ぎない。
目立たないようにするのが、現状の最善であると判断した結果だ。
そして、新倉が姿を見せて現在状況を伝えた後は、喧騒が上意下達を旨とする守備隊には似つかわしくない怒号混じりのそれになっていた。
気持ちは分かる。口に出さないものの、咲は内心で彼らにこっそりと同意した。
荒事に慣れている武家の娘とは云え、百鬼夜行は初めての経験である。
八家として協力を要請された輪堂孝三郎は、流石は武家頂点の当主であるとばかりの落ち着きを見せていたが、咲は内心の緊張を押し隠すことはできていなかった。
「よう、咲」
同じく壁際に寄っていた久我諒太が、何時ものように馴れ馴れしく近寄ってきた。
「久我君、状況は理解している?」
組んだのはここ最近であるが、家格と年齢が同じこともあってか、咲と諒太は顔を合わせてからの付き合いは長い。
そのためか、諒太の性格の癖を熟知している一人が咲であった。
神童と呼ばれるだけはあって諒太の実力は確かであるものの、やや地力に胡坐を掛いているのか、穢レの脅威や状況を軽く見る癖がある。
掛けてきた声の調子から、その癖が表面に出ている事を感じ取り、咲は少し声を尖らせた。
「当然だろ? 1番隊の本営で概要は聴いている、沓名ヶ原の怪異が百年ぶりに受肉したってな。
ったく、多少でっかい穢レの群れ程度に、小者どもがぎゃあぎゃあとうるせぇんだよ。
要は、ちっとばかり強い穢レが一匹と、主狩りの功が獲り放題って事だろ」
やはり。諒太の言葉に、抱いていた危機感がさらに強くなる。
これを放置すると、功を焦っての独断専行で場の状況を掻き回しかねない。
「百鬼夜行はただの穢レの群れじゃないわ、怪異に引き摺られた無数の穢レの濁流。
久我君は、主を狩った事があるの?」
「何度もな。楽勝だったよ」
「怪異は?」
「そっちは片手に余る程度だが」
サバを読んでなければ、3か4度程度か。
流石に、神童と呼ばれるだけはあって、同年代の中で実力は頭一つ抜きんでている。
しかし、懸念した通り、百鬼夜行を軽く見過ぎている。
「なら分かるでしょ? そんなのが大群で華蓮に侵入ってくるの、間違いなく8番隊だけでは抑えきれないし、足並みをそろえておかなければ、衛士だって命を落としかねないわ」
「怪異は何度か狩ったことがあるって云ったろ。問題ねぇよ」
問題はある。咲は、内心でため息と共にそう反論した。
しかし、当の本人が、その問題を理解する気が無いのが最大の問題なのだ。
「――お嬢の云う通りだ、百鬼夜行を侮るな」
何とか説得しようと口を開いた時、咲の背後から厳しい声が飛んできた。
いつの間にか、厳次が咲の後ろに立っていたのだ。
「叔父様!」
厳次は返事の代わりに咲の頭を撫でてから、代わって諒太に厳しい視線を向けた。
「久我の坊主。
怪異を狩ったことがあるといったな。狩ったのは何の怪異だ?」
「……狂い熊と般若狐っす」
流石に、守備隊を率いる厳次の威風には一歩譲らざるを得ないのか、やや気圧された風に勢いを無くしながらも、しっかりとそう答えて見せる。
「ほぉ、長谷部領では、名の通った中堅どころの怪異か。
そいつらを単独で下したんなら、確かに凄い」
「…………………………」
厳次は、一旦は諒太を持ち上げて見せた。
しかし、諒太がこっそりと拳を握り締めたのを、咲は見逃さなかった。
なるほど、サバを読んでいたのは、狩った数ではなく狩った時の人数だった訳か。
厳次は諒太に対して、中堅どころの怪異を単独で狩ったこともない半人前が、大言壮語を吐くなと暗に告げたのだと、咲は悟った。
「怪異は、その核となった歴史次第で、強さの次元ががらりと変わる。
狂い熊と般若狐は、一匹で発生しただろう?」
「……はい」
「資料は読んだことがある。
奴らの核となったのは、かつて住んでいた山の主だったはずだ。
山の主が核になった怪異はそれなりに存在するし、確かに在野の穢獣よりも強大ではあるが、はっきり云って、それ止まりだ。
特にそいつらは群れない習性の獣だったから、尚更に断言できる。
本当に脅威となる怪異は、人間が核となったそれの事を指す」
「叔父様、人間が核になった場合、何がそんなに脅威になるの?」
それらの知識が足りていないのは、咲も同様であった。
純粋な疑問が厳次への質問となって、相手にぶつかる。
「人間が核になった場合、知恵が回るようになる。
猿が知恵を持ったのとは、根本が違うぞ。
群れを作り、戦術を組み、呪術まで操る。
しかも、無尽蔵と云ってもいいほどの瘴気を持っているから、体力は限界知らずときた。
――今から我々が相手をする沓名ヶ原の怪異も、人間が核となったもっとも厄介な部類に入る怪異だ」
いつしか、三々五々、分隊の隊長たちが集まりだしているのに、咲は気付いた。
そんな彼らにも言い聞かせるように、厳次は声を張り上げて伝えていく。
「いいか。英雄になろうとして無駄に一歩、足を踏み出すな。
陣形からはみ出た瞬間、奴らにとってそいつはただの蹴り飛ばすだけの小石に過ぎなくなる。
舘波見川にも近づくな。
怪異は河川敷を通るからな、余計な刺激さえ与えなければ、よそ見せずに上流を目指すはずだ」
「「「はいっ!!」」」
声を揃える自身の部下たちを、満足そうに見渡す。
「俺たちの仕事は、百鬼夜行からはぐれた穢レどもを削ることだけだ。
それ以外は考えなくていい。そうすれば、そこまで無茶な仕事でもないはずだ。
――久我の坊主も分かったな」
「……承知しました」
やや不満そうなのが咲には気にかかる。
しかし、目上のものには大きく出られない性格ゆえに、それでも不承不承頷く諒太を見て、取り敢えず追及する矛先を、彼女も収めた。
説得の支援をしてくれた厳次に、こっそりと目線だけを下げて感謝を示す。
――そして、それに厳次が頷きを返した時、
「信号弾、確認!!」
物見櫓に上っていた隊員の報告が、伝声菅から伝わってきた。
「色と順番っ!!」
「緊急、11番隊、接敵!!」
「中流に到達するまで2刻ってところか。
……神託通りだな。
――総員、準備を終えたら、炊き出しの握り飯を食って配置につけ!!」
「「「はいっ!!!」」」
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