序 縁に戴け、六踏が訪う地に
――伯道洲領海、内洋上。
――さん、さざん。
遠く穏やかに、廻船の舳先へと打ちつける波の音。
潮風の凪ぐ気配に、この船の船頭を務める兼吉助方は片眉を上げた。
視界の向こう。青く広がる海原を別け断つ黒い稜線に、白枯れた眼差しを眇める。
「一寸と、近ぇな。
――鎌二ぃっ。錨を落として帆を畳め!」
「潮の境目はまだ遠いぞ、叔父貴」
「海猫共が群がってねぇだろうが。
潮の下は、魚も落ち着かないくらいにゃ荒れ模様だわ」
次期船頭である甥をそう叱りつけ、兼吉は最近めっきりと痛む腰を上げた。
体格のいい鎌二を伴い、船尾へと降りる。
「……だけんど、伯道洲の港が近い。咎められたら事じゃあ」
「華族方なんぞ、吠えるだけ放っておけ。
土地に縛られとる腑抜け揃い。――何だったら、金子を眼前に積み上げて黙らせたらぁ」
経験も若い鎌二の落ち着かない態度を、兼吉は豪胆に嗤い飛ばした。
見える海際は青く広い。僅かな雲からちらつく雪に、兼吉は船尾に設えられた火鉢へ手を翳した。
「それはそうと。
――國天洲の洲議。ありゃあ、如何なったか?」
「……芳しくない。
半年前は随分と脂の乗っている勢いだったが、先日に連絡しても梨の礫じゃ」
「ふん。羽振り良く侑国の甘い汁を吸って、義王院に目をつけられたな。
良えわ。三ヶ岬領は惜しいが、北辺は棄てる」
「叔父貴。此処で北土から手を退けば、國天洲に貢いだ金子が無駄になるぞ」
――確かに。
鎌二の指摘に頤を揺らし、兼吉は煙管の吸い口を噛んだ。
内洋を回って物資を商う廻船は高天原にあって貴重だが、船数が少ないために寄港地も限られてしまう。
効率よく廻船の航続を維持する為の寄港地。その建設が、兼吉助方が温めてきた長年の野望であった。
國天洲北端の三ヶ岬領。そこの建設が叶えば、高天原を効率よく廻る交易路が確立できたはずである。
「一寸とは期待したが、國天洲は雨月家を見事に絶やして立ち直りを早めた。
寧ろ、八家の後釜を巡っとる伯道洲の方が付け入り易い。
陸に上がったら、八家騒動の筆頭株を二、三程度、適当に見繕っとけ」
「取り入るのか」
「全員に、な。誰が勝とうが、損をしようが構わん。
儂らが垂らす甘い汁を覚えれば、恩着せがましく囀りながら権利を投げる」
その意味では、國天洲の洲議。
――井實何某とかは、随分と能く踊ってくれた。
火鉢にちらつく赤炭は心許なく。だがその確かな熱に、兼吉の老躯は愉悦と揺れた。
侑国との仲介に転んだ結果、出来上がったのは金子の無心だけのありふれた洲議である。
良く監査方などと謳っていたが、結局、港湾の建設から運営まで兼吉助方の手に依るを理解すらしなかった。
「そろそろ刻限じゃな。鎌二、周囲に船影は在るか」
「無い。穏やかなもんよ」
「ふん。……まぁ、向こうは潮を越えるなら、多少の誤差もあるか。
――総員、聴くがぁっ! 暫く此処に停まるけ、交代で休息ばとりゃあ!」
暫くの停船を覚悟して、兼吉が甲板へと声を張り上げる。
解放感からか一声の唱和。現金なものだと苦笑を返して、兼吉は腰を下ろした。
「鎌二。お前ェは此処で警戒じゃ。船影があれば、直ぐに船員共の気を引き締めろ」
「分かっている」
鎌二を脇に留め置き、兼吉は厚手の褞袍を羽織る。
赤炭へと煙管を近づけ、再び熱を戻したそれを短く吸った。
兼吉助方の年齢は、今年で60も後半。
思考に巡らせるのは、今後百年に渡る兼吉家の安泰だけであった。
「久我家の栄光に認めるのは癪じゃが、あれの鉄道事業に食い込むのは不可能か?」
「鉄道事業は華族さまが利権を貪っている。
――やはり、廻船は将来が視えているか」
「仕方あるめぇ。……内地の販路を向こうに奪われたままではな。
真国と侑国の交易で立ち回れても、財貨を内地に回せんでは腐るだけじゃあ」
――かつり。
鎌二の宥める声に兼吉は苛立つ侭、煙管を火鉢に叩き付ける。
煙草の吸いさしが埋め火の上で踊り、一頻りに火の粉を舞い散らした。
「華族さまが八家の序列に目舞ってくれとん裡に、儂らは諸国との繋がりを盤石にする。
今回の取引はその足掛かりじゃけ、心して掛かれ」
「今日の相手は真国の幇だったか。
――叔父貴。手広く遣り過ぎじゃあ、そろそろ華族さま方に目をつけられかねんぞ」
潮を越えて外洋に出る事はできない廻船問屋は、関税の調査を多く免除されていた。
つまり廻船に荷役を積み込みさえすれば、容易く高天原へと持ち込めてしまうのだ。
――確かに、廻船は外洋に出る事はできない。だが、潮の流れを越えるのは、兼吉達でなくとも構わない。
真国や侑国との関税すらない海上の密貿易こそ、廻船問屋である兼吉助方の主な財源であった。
「構わん。その為の布石は、全て打っとる。華族共への袖の下、交易路の確立。――そして鎌二。お前ェがいれば、高天原の大洋は兼吉家が握れる」
傍らで警戒を続ける鎌二が肯い、応じるようにその腰で匕首の柄が揺れた。
高天原の支配は、華族に依って牛耳られている。
だが、一漕ぎでも大洋に出れば、そこは華族の支配が及ばない無尽が広がるだけだ。
三宮四院でも無ければ、高天原の玄関口でもない。
平民から一代で興した兼吉家こそが、その王となる。
「――ふん。鶏口牛後と云うが、小人の野卑は度し難いな」
「何じゃと!」
その確信を握り締める老いた背に投げられた嘲りに、兼吉は嚇怒と振り向いた。
2人の位置は船尾最後方である。誰もいないはずの視線の先で、何時の間にか1人の影が佇む姿。
高天原では見ない長髪を潮風に泳がせた、赤地に黒の袍を着た美貌の少年であった。
兼吉助方を庇い、鎌二が前へと出る。
「――誰だ、貴様」
「誰だとは、ご挨拶だろうが。
港舟幇の先遣である。この廻船の主、兼吉会頭は貴様か?
――老头子」
鎌二の誰何を頭越しに無視し、薄い唇が挑発と歪んだ。
最後に呟かれた言葉を、そこに立つ誰もが正確に理解した訳ではない。
だが、隠しようもなく滲む蔑みに鎌二が一歩を踏み出そうと、
――兼吉の上げた右手に思い直した。
「よせ。
――港舟幇の先遣と抜かしたな、証明は在るか?」
「潮の瀬に、帰る御霊の、惑い路を」
「何?」
「老いさらばえて忘れたか? 合わせ歌だろうが、詠み返せよ」
流暢に詠まれたその一節は、確かに港舟幇と交わした密約の証明である。
詠まれないとの確信に裏切られ、兼吉は完全に呆けた表情を返した。
少年の嘲りに周囲の焦る表情を、兼吉は1つ咳払いで散らす。
「……影を隠て、海嘯の冥へ」
「結構。互いの確認も終えたし、後方の本隊を呼ぶ」
「その前に、少し訊きたい」
顎をしゃくる少年へ、兼吉は慎重に言葉を紡いだ。
相手の正体が予想通りならば、この先の言葉を一つ間違えただけで死ぬ可能性がある。
「周囲に船は影一つ見えん。――どうやって、廻船に乗り込んだ?」
「歩いて来たに決まっているだろう」
崩れない少年の余裕に、兼吉は最悪の予想が当たったことを確信した。
「波を踏むは、地の如く。確か武の技術に、その類を訊いた事があったわ。
――踏浪穩如とか云ったか」
「驚いた、意外と博学じゃないか」
「伊達に永くは生きとらん。
武技とその服装からして、芳雨省辺りの武林だろう。――何時、港舟幇に加入が赦された?」
曖昧に質問を重ね、鎌二よりも前に出る。外見と裏腹の気風に、少年の意識が老躯へと集中した。
――兼吉助方の死は然程に重要ではない。
己の家系と組織が明確に護られるならば。老い先の知れた肉塊が支払う危険と武に棲む人外が引き換えは、破格と云っても良い取引である。
「1ヶ月ほど前だが。――それが、そんなに重要か?」
「ああ、重要だとも。
――潮落夜沉、水影幽幽、」
「…………何?」
老人の皺枯れた口が紡いだ流暢と云い難い唄に、少年は虚を突かれた表情を返した。
高天原の合わせ歌だけを聴いて、真国の合わせ歌は告げられていなかったのだろう。
返す言葉の無い侭に少年は無為に口を開こうと、
――鋭く踏み込んだ鎌二とがっぷり四つに組み合った。
「梁の奴めとは、これでも付き合いが永くてな。
あれの武侠嫌いは筋金入りだぞ。――少なくとも、己の幇とは絶対に認めん」
「ちぃっ」「――至ィッ」
吐き捨てる少年と鎌二の呼気が交差。
間合いを仕切り直そうとした少年へと、鎌二は鋭く腰の精霊器を抜き放った。
陣楼院流精霊技、初伝、――円烈。
兼吉の切り札にして懐刀。人別省に登録されていない防人である甥の鎌二が、圧倒的な遠距離を誇る飛斬を放つ。
烈風の飛斬が少年へと激突。轟音と共に、水蒸気が茫漠と視界を潰した。
「見たか」
「阿呆ぅ。――あれで傷の一筋でも負わせられたら、それこそ奇跡よ。
儂が殺されている間に、お前ェはとっとと逃げろ」
「――やってくれるじゃないか。走火入魔も未熟擬きと、侮ったことは詫びてやる」
期待を込める鎌二へと、苦く兼吉が返す。その呟きを肯定するかのように、剛風が水蒸気を吹き飛ばした。
その向こう側から躍り出る少年が手にした呪符を投げつけようと――、
「――鋒俊!」
玲瓏と。諍いに荒れる甲板へと降る、涼やかな制止。
慌てて踏み込もうとした足を退き、鋒俊と呼ばれた少年が抱拳礼を取る。
「全く。先遣を恃んだと云うに、幾ら待てども返ってこないと思ったら」
「だって玲瑛師姐。この程度の小物が、 、 、」
不満気に反駁する鋒俊を、小柄な少女の背が追い越した。
少年もそうだが、現世の生身とも思えない未成熟の美貌が映す、儚い微笑み。
年相応でしかなくなった少年の口調に、兼吉たちの毒気も一気に抜ける。
「先に信を偽り、礼を欠いたは私たちの方です
――師弟の非礼に重ねて謝罪を。兼吉会頭と見受けましたが、如何?」
「……然り。それで、港舟幇はどうなった?
正直、梁の奴が武林に屈すると思えんのだが」
兼吉の窺う呟きに、玲瑛と呼ばれた少女の桜色の唇が心地良く微笑んだ。
仮令、彼らの行為が違法であっても、潮を越えて結ばれた信の堅さは敬意に値する。
「出会い頭は不幸でありましたが、梁大人も健勝ですよ。
鋒俊が先遣に向かった後で、貴方に伝言だと」
――孤舟無声隠雲流。
船は独り、閑に雲へと消える。
意外なほどに雅な歌を耳に、兼吉は漸く緊張を解いた。
港舟幇と兼吉廻船問屋の将来を謳ったというその歌は、確かに港舟幇の幇首である梁定海のもの。
朋友の影を歌に見止め、嘆息を一つ。その場へと老いた腰を下ろした。
「合わせ歌を知っているなら、拒む理由もないな。
――真国の武侠が、商い人でしかない儂らに何の用か」
「無論、商いです。荷を幾つか、高天原に運んでいただきたい」
ふむ。玲瑛の言葉に、兼吉は頻りと顎を擦った。
申し出そのものは、それほど珍しいものではない。とは云えど、中身が何かを訊かなければ、兼吉としても受ける訳にはいかなかった。
「荷役は構わん。多少値は張るが、高天原の何処でも運んでやる。
――だが、中身は検めさせてもらうぞ。故郷に仇成す類は、これでも受けた事が無いのでね」
「ええ、勿論です。
――港湾を抜けさせて頂けたら、歩いていくだけなのでお構いなく」
「何?」
未だ発展途上の胸に手を当てて、旗袍に身を包んだ少女は薄く微笑みだけを返す。
藍にも見える黒髪が揺れ、滑らかな一礼を見せた。
「兼吉会頭にお願いする荷役の中身は、衛護である鋒俊とこの私。
戴天家が継嗣、玲瑛です」
♢
――半月の後。
歓声が沸き立ち、踏み込みも鋭く斬閃が奔る。
少年が退き足に間合いを取り直そうと、晶はその分だけを踏み込んだ。
「なんで!?」
「勢ィィッッ」
攻防は刹那。後方へと跳ねたのに晶ごとついて来たのだ。相手からすれば、動いていない錯覚に陥ったのだろう。
詐欺を責めるような悲鳴は、だが次の瞬間に決着の号声に消えた。
「――勝者、夜劔晶!!」
さらに一層の歓声が、晶の勝利を言祝ぐ。
老若男女に身分の差も無く。今年から導入されたラヂオが、遠く高天原の隅々まで天覧試合の緒戦を解説していった。
残心からの納刀。一礼に頭を下げる晶の傍らで、次の試合の参加者が壇上へ上がっていく。
晶の一つ前で久我諒太が。最初の方では、奈切迅が危なげなく勝利を収めたと聞いていた。
友人たちと会話を交わしながら、晶は竹筒から水を一口。
久し振りに訪れた央都の空を、懐かしく仰ぎ見た。
――激動の年が明けて、統紀4000年の睦月朔日。
央都の正月は、3年振りとなる天覧試合の開催に、只大きく沸き立っていた。
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