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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
171/217

閑話 焦寂を俟つ、雪灯りに過ごして1

 ――きしり。

 寝静まる廊下に射す、白襦袢から伸びる爪先。

 冷え切った冬の静寂に、床板の悲鳴が幽かと響いた。


「……わ、と」


 意外な響きに呟きを残し、少女が昏く明け方に沈む木戸を開ける。


 視界に散る、白い吐息。

 時刻は卯の刻(明け六ツ)の少し前か、東の空も白々明けにはまだ遠い。

 星の残る夜空は高く、視界一面に白く名残惜し気に雪が残っていた。


 國天洲(こくてんしゅう)の冬は深い。未だ、これからが雪の本番なのだろう。

 凍みる寒さに肩掛けを直しつつ、輪堂(りんどう)咲は逗留先の母屋を抜け出た。


 中庭を一面に覆う雪から、黒く覗く飛び石を渡る。


 人の気配もなく、はしたなくも軽やかに。

 訥々と軋む雪の()き声に、咲の口元は自然と綻んだ。


 ――かん、かん。

 中庭を越えて山の斜面まで、(うずたか)く積まれた黒石の狭間を抜けた。

 その先に建つ小屋の木戸を引き開けた途端、火の粉と膨大な熱量が咲の頬を撫でる。


 ――かぁんっ。


 年季の刻まれた腕が鎚を打ち落とす都度、舞い踊る精霊光。

 咲の視線の先で、静かに白装束の老人が己の仕事に沈む背を向けていた。


「お早う御座います、御老」

「これは輪堂(りんどう)様。良くお休みになられましたか?」

「充分に。御老は夜を徹されたのですか」

「気遣いは無用にて。一度、鋼を鍛えれば、刃を休ませるまでが鍛治(かぬち)なれば。

 ――それに一段落は迎えたので、朝餉にしようと思っておった処です」


 休まぬ鎚の撃つ音に案じる少女へ、呵々(カカ)と老躯の肩が揺れる。


 冷まし油へと刃金を浸す途端、重く揺れる波紋から噴き上がる焔。

 黒く染む手拭いで頬を拭い、鍛治司の長である果心具貫(かしんともつら)は咲へ向き直った。


 鉄を浸す波紋から奔る焔は、時折りだが終わる気配もない。


心鉄(しんがね)が休み切るまで、半刻(1時間)辺りですな。

 ――丁度、輪堂(りんどう)様にお話しもしようと」

「はい。……やはり、駄目でしたか」


 白い包みを差し出した鍛治長の老人へ、咲は神妙に肯いを返した。

 受け取った布包みから覗く、己が薙刀(焼尽雛)の刀身。物心ついた頃から傍らに在ったその切っ先へ、咲は優しく触れた。


「他ならぬ義王院(ぎおういん)さまたっての願いなれば、この果心も鎚を尽くすに否やもありませんが。

 ――失礼」

「あ」


 溜息を漏らす咲から刀身だけのそれを受け取り、老人は(かさね)の突端を叩きつけた。

 崩と脆く折れるその断面から、粗く鋼の欠片が零れる。


「硬い皮鉄(かわがね)は無事に見えますが、心鉄(しんがね)である霊鋼が劣化し切っておりますな。

 正直、此処(ここ)まで能く保ったものかと」

「精霊力の通りが悪くなっていたので、覚悟はしていました。

 ――御老でも鍛え直せませんか」

「残念ですが」


 義王院(ぎおういん)家からの(たの)みでもあるが、残念そうに果心は頸を横へ振った。

 (ひず)み等では無い。要となる精霊力の器が、文字通り大きく欠損しているのだ。


 どれだけの腕利きであろうと、この状態から元の刀身へ鍛え直すのは不可能。

 義王院(ぎおういん)家の抱える鍛治司の長である果心具貫(かしんともつら)は、己の自負を掛けて断言した。


「重くも滑らかな均質は、南部でも東寄りで採れる霊鋼と観ました。

 河掬いの砂鉄に造作(つくり)からして、佐分利(さぶり)の流れを汲む刀匠の手に依るものでは?」

佐分利辰淳(さぶりたつあつ)の作と聞いています。

 ――まだ無名の時代に打った一振りを、輪堂(りんどう)の祖が惚れ込んで買い享けたと」

「後の名匠が打った、無銘の大業物(さく)とは。

 ……成る程。折り返す度、精妙に整えられた鋼の具合は納得です」


 ざらりと断面へ指を添わせ、幾度と老人が同意を返した。


「大業物と云えど此処(ここ)まで破損してしまえば、鋳熔かすしか他に無いかと。

 ――充分にご理解頂けていると思いますが、それはもう佐分利辰淳(さぶりたつあつ)の作に非ず、儂の造作でしかありません」


 銘刀であろうが、精霊器の構造にそれほどの違いはない。だが、そこに籠められた技術は桁が違う。

 家門秘伝から一家相伝まで。籠められている技術と歴史は、銘刀と呼ばれるその数だけ違いが隠されているのだ。


「……もう一度、存分に振るってやりたかったのですが」

「百鬼夜行を三度。生涯に遭うも稀な相手を前に、主君を護り抜いた大業物。

 もう休ませてやるのが、慈悲かと存じます」

「では、せめて霊鋼を別けていただけますか。

 慣れた霊鋼を心鉄(しんがね)に打ち直せば、精霊力の通りも似てくれるかもしれませんし」

「畏まりました、そのように」


 寂寥に自嘲する少女の願いを予想していたのか、果心は快く肯ってみせた。

 立ち上がった果心の背に、奥の棚を探る音が響く。


「――そう云えば輪堂(りんどう)様は、過日に五月雨領(さみだれりょう)を襲った蜘蛛の怪異を討滅したとか?」

「はい。強大な、そう、とても強大な蜘蛛の怪異でした」

「本来ならば(ケガ)れた風穴ごと廃領せねばならぬ際、土地ごと浄滅して事無きに収めたとか。

 あの雨月を喰らい尽くした怪異を鎮めたとあれば、輪堂(りんどう)様へこれを託すに相応しいと自負いたします」


 探し物を見つけたのだろう、振り返る老躯の手に握られる一振りの刀身。

 その蒼く浮かぶ刃筋に奔る乱れの刃文を、咲は差し出される侭に確かめた。


「これは?」

佐分利辰淳(さぶりたつあつ)の作には見劣りするでしょうが、儂の鍛えた業物にて。

 ――護国と立っていただけた輪堂(りんどう)様に、せめてもの代わりとして振っていただきたい」

「…………有り難く」


 珠門洲(しゅもんしゅう)の名匠に謙遜する果心具貫(かしんともつら)だったが、咲の目には何ら見劣りはない。

 鍛治司の長である老爺の気遣いごと、咲は大切そうに刀身を押し頂いた。


 ♢


 ――五月雨領(さみだれりょう)の怪異事変を解決した後。

 晶と咲が國天洲(こくてんしゅう)の洲都である七ツ緒(ななつお)に辿り着いて、既に半月(はんげつ)が経とうとしていた。


 月は既に巡って、師走(12月)の上旬。

 果心の屋敷での所用を終えた咲は、雪の覆う帰り路に足を巡らせていた。


 さりさり。さり。凍てつく青天の下で細雪は舞い、頬を撫でる熱に雫と変わる。

 冬に赤らむ少女の吐息が白く、視界を茫漠と染め上げた。


 緩やかに続く下り坂を、ゆっくりと歩く。その視線の先で、古色蒼然と街並みが明けの靄に沈んでいる。


 着物の老婦人が歩く向こうを、路面電車(トラム)がゆっくりと追い越す。

 チンチン。霧笛の鳴る響きを遺し、咲の後方へと朝靄に消えて去った。


 高層建築や瀟洒主義(モダニズム)の建物が見当たらない、土塀と堀の続く大路を抜ける。

 歴史に取り残されたかのような街並みは、洲都の中央駅を過ぎてもそのままであった。


 華族の住まう閑静な区画を前に建つ、七ツ緒(ななつお)守備隊の総本部。

 解放された正門を通れば、打って変わった喧騒が咲を迎えた。


 不寝番の防人達が戻ってきたのだろう。行き交う男たちを邪魔しないよう、咲は壁伝いに裏手へと抜けた。


 その先に佇む、守備隊に備え付けの道場。

 ここ最近の常ならば、そこで晶が練武に汗を流しているはずであった。




 咲が樫材の重い引き戸を開けると、途端に沸き立つ男女の別ない歓声。

 (ひしめ)く防人たちの隙間から、道場の中央で竹刀を構える晶の背が映る。


 近寄ろうとした咲の爪先が、遠慮がちに三和土越しの外で留まった。

 興奮に近い熱気と、晶を取り囲む防人たちの気配。


 ――試合の最中か。


「次ぃっ、三輪田ァッ」

「押ぉぉっ忍っ!!」


 審判役の促しに、意気軒昂と大柄な男が晶の前に立った。

 年齢は20を超えた辺りか、壮健な背丈は晶の頭3つ分は高い。


「始めェッ」「――ちぇりゃあぁぁっ」


 審判役の号声と同時。雄々しく威勢を上げて、男が一歩踏み込んだ。

 晶の肩口へと、鋭く木刀(・・)が袈裟に叩き落される。


 風圧さえも叩き潰さんその威声は然し、合わせるように叩き落ちた晶の竹刀に弾かれた。

 男から見れば小兵でしかない晶に、斬撃が明後日へ去なされる。残心すら忘れた男の脇を、鋭く衝撃が奔り抜けた。


「う、 、 、げぇほっ、げほ」

「おい、三輪田ぁっ。手前ェ、何時もの頑丈(ガタイ)自慢はどうしたぁ。

 へたれてんじゃ無ェぞ」


 その場で嘔吐(えづ)く男の醜態を、周囲の防人たちが一斉に囃し立てる。

 ――三輪田と呼ばれた男は悔し気に、すごすごと道場の片隅へと引き下がった。


 次ぃっ! 再び促される号声に、周囲の男たちからまた一人と晶の前に立つ。

 開始の合図と同時に、裂帛の気合いが道場へと響き渡った。


 周囲の熱気は際限が窺えず、どうにも嫌な気炎が漂う。


「これは輪堂(りんどう)様。今日は少し、遅くありましたな」

「はい、師範。昨日は雪も深く、南部の出身は戸惑うばかりなので」

珠門洲(しゅもんしゅう)は文明開化に沸き立つ侭、蒸気の熱も高いと聞きます。

 降った端から溶ける雪しか知らねば、北辺の風土は少し厳しいでしょうな」

故郷(名瀬領)は山間も近かったのですけど、これほどとは。

 ――それで、この騒ぎは一体、 、 ?」


 呆気にとられた咲が声に振り返ると、國天洲(こくてんしゅう)の総本部で師範を与る男がにこやかに会釈をみせた。

 肩を並べる師範と咲の視界で、また一人と晶の竹刀が鋭く哭る。


 道場の片隅で蹲る男たちの人数も、そろそろ10を越えようとしていた。

 稽古かとも思ったが、それにしては違和感も強く残る。


「血気盛んな門下共が、夜劔殿に手合わせを(たの)んだ次第に御座います。

 ――乱取り。を名目にして、少しの息抜きですな」

「息抜きと云うには、妙に熱を入れ過ぎておられるようですが」


 彼我の。特に晶の限界を考慮していないのでは、ただの泥仕合(シゴキ)と変わりない。

 言外でそう指摘しつつ、少女は師範を横目に睨んだ。


 ――実の処、問い返す体裁は取ったが、咲には大方の想像がついていた。


 晶。夜劔家が雨月家の後釜と入ったは、三宮四院八家よりの勅旨である。

 本来、異議申し立てなど赦されない決定だが、扱いが違えば青く整って見えるのが他人の庭というものだ。


 神嘗祭で八家から零れた家は、雨月家ともう一つ。 ――その八家第六位であった真崎(さねざき)家の後継を巡り、伯道洲(はくどうしゅう)は政変の真っ最中である。


「上意に憚られながら。――武功すら無下と退けられた、我らの無念も寛恕頂きたく」

「負け試合に武功を求めようと、嗤われて終わるでしょうに」

(しか)れども。南部華族を北部の八家に迎えよ、などを軽々に肯おうならば、北辺華族が重いのは精霊力のみかと不満も持たれてしまうでしょうな」


 辛辣な咲の感想を、壮年の師範が鷹揚に首肯した。


 政変の裏を返せば、下剋上の大義そのもの。何でもない一家門が、三宮四院に次ぐ地位に立つ、千載一遇の機会でもあるのだ。


 伯道洲(はくどうしゅう)に与えられた栄達の機会が、國天洲(こくてんしゅう)には考慮さえされなかった不満。

 更に加えて、選ばれた家門が特に仲の悪い珠門洲(ぽっと出)の無名となれば一入である。


 埋め火の如く燻っていたそれが、夜劔晶と試合う機会を得て噴出したのだろう。


 義王院(ぎおういん)家へ表立った反意は無いけど。 ――って処かな。

 政治的な背景を見透かし、咲は野次り立てる防人たちを視界に映した。


 聞く分の武功は認めざるを得なくとも、晶の体躯は見るからに年弱なそれでしかない。

 だが、連戦を仕掛けた末の棚ぼたの勝利でも、八家を再考慮する一端になると思い込みたいのか。


 だとすれば本命は、晶が疲れ切ってくれたと思い込んだ頃に仕掛けるはず。

 防人たちの群れに隠れていた男が、静かに晶の前へと進み出た。




「この守備隊で師範を執ります六郷是近(ろくごうこれちか)と申す。一手御指南頂きたく所存」

「夜劔晶です。

 ――師範殿が相手なれば、これで最後と見て宜しいでしょうか?」


 成長途上の未だ小兵でしかない晶は、皮肉を舌にぐるりと周囲を見遣った。


 六郷の背丈は先刻の三輪田と同じほどか、頭半分低いだけ。

 だが技量は別格か、巍々と錬磨された佇まいに隙は窺えない。


「はは。御覧の通り囃し立てようが、攻める気概など疾うの遠うに。

 防人を10人も平らげて呼吸(いき)も乱さないとは、我らも認めざるを得んでしょうな」

「では、止めですか」

「何の。仕掛けた我らの云い分ではないでしょうが、ここで打ち止めも面子が立たん」

「――でしょうね」


 晶の最終確認に、六郷は木刀を中段に構えた。

 途端、纏う威勢(くうき)が桁違いに重質く圧し掛かり、晶の攻め足を僅かに潰す。


 ――開始の合図は無かった。


 ふ。呼気を一つ残した瞬後、晶は六郷の懐深くで竹刀を振り抜いた。

 軽く竹の戟音が響き、晶の切っ先が木刀の鎬で弾かれる。


 泳ぎかける上半身を腰で抑え、晶は上段から落ちる一撃を竹刀で受け――。

 ばぎ。鈍くも軽い音と共に、晶の竹刀が爆ぜ折れ飛んだ。

 本来なら退いて竹刀の交換を待つが礼儀。しかし制止の声も無く、六郷は木刀を逆袈裟に反した。


「勢ぃえ、あぁぁっ」「――ふ」


 交差する、威声と呼気。

 誰もが確信に及んだだろう六郷の勝利はしかし、晶の掌中に遺った竹刀の残骸と鍔に遮られた。


 竹刀の破片が道場の床へ散らばり、六郷の放つ渾身であろう斬撃が虚空へと去なされる。


 攻め足ではなく、退き足から繰り出される柔い防御の斬撃。

 それは晶が見せてきた奇鳳院流(くほういんりゅう)のそれではない。 ――義王院流(ぎおういんりゅう)が得意とする、受けて返す剣術(わざ)であった。


「移り気な小手先を、門閥志士の風上にも置けんっ」「――充分に、見せて貰いましたので」


 悔し紛れに放たれる悪罵の隙を縫い、密着した姿勢から晶の拳が螺旋を描く。

 轟音。充分に練られた内功が道場の床を伝い、轟音が居合わせた者たちの耳朶を打ち据えた。


 ――呆気と。誰もが見守る前で、六郷の体躯が静かに床へと沈む。


 言葉は無い。ただこの日より、実力だけを以て晶は國天洲(こくてんしゅう)の防人たちに受け容れられた。



 一ヶ月のお休みをいただきまして、再開いたします。

 

 章題は濫海浄罪篇、よろしくお願いいたします。

 最初に閑話を2話。晶たちの現状とその後です。


 読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 雨月颯馬に兄が存在している事実など、平民たちにも伝わっているだろう と書きつつ一方で 選ばれた家門が特に仲の悪い珠門洲出の無名 いるのかいないのか。シュレディンガーの晶か、鵺の一…
[良い点] 國天州は良く言えば素朴な町並みみたいですね。 それが知れただけでも良かったです。 晶は強くなっていますね。 [気になる点] 大蜘蛛は咲が倒したという話になっているようですが 晶の活躍は伝わ…
[良い点] 更新ありがとうございます。 晶君が受け入れられたのは良かったですが、やはり気になるのは颯馬達のことですね。
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