4話 伽藍に在りて、少女は微笑む2
――ふと、胸騒ぎがした。
潮騒のような虫の知らせに、少女の意識が深い眠りの淵から浮かび上がる。
窓越しの外はまだ暗く、東の空が白んでいる様子も無い。
「……ん」
寝台から降りて、卓上の置時計を見た。
……5時。
少女の朝は早い方であるが、それでもこの時間は早すぎる。
央洲の天領学院から帰ったばかりの疲れと、埋め火に似た睡魔の残り香が寝台へと少女を誘い続けているが、相反する胸騒ぎがそれを許してはくれなかった。
勘、第六感とでもいうべきものの警告を無視はしていけないことを、彼女は経験から知っている。
特に少女のそれは、予言ともいうべき精度を誇っているため、尚更であった。
――とは云え、悪意や呪詛の感じもしない。緊急性も低かろう。
慌てる事は無いと落ち着いて、渡来物の鏡台を覗いた。
肩をやや超えるほどの長髪と長い睫に彩られた瞳、次いで血色の良い唇。
12年間慣れ親しんだ自分の顔で健康状態を確認してから、寝間着代わりの白襦袢の奥襟を締め直す。
お気に入りの桜染めの上着を肩から羽織ってから、慣れ親しんだ自室を出た。
少女の自邸となるこの屋敷は、鳳山の中腹でも高い位置に建てられている。そのため、初夏の猛りとは程遠い高台特有の夜気の肌寒さが、廊下に出た少女の産毛を総立たせた。
「――姫さま。何かございましたか?」
少女が起きてくる物音を聞いたのだろう。宿直の番についていた側役の少女が2人、詰めていた隣室から慌てて出てきた。
「……胸騒ぎがして目が覚めたの。何か異変はあった?」
「!! ……賊ですか?」
少女たちが気色ばんだ。
侵入者を見過ごしたとなったら、彼女たちの責任問題もそうだが、最悪の場合、物理的に首が飛ぶ可能性も有るからだ。
「大丈夫よ、悪い感じはしないわ」
安心させるために、少女はくすりと笑ってみせる。
姫さまと呼ばれた少女の勘が並外れているのを知っている2人は、その笑みに緊張の面持ちを一気に緩めた。
「気を緩めては駄目よ。奈津、念のために警戒は続けて」
「はい」
2人の内、新川奈津が気を引き締め直して頷く。
「和音、あかさまの元に参内します、供回りをお願い」
「そのご格好で、ですか!?
――せめて、清めた白衣にお着替えしてください!」
もう片方の少女、名張和音が、慌てて少女にそう進言した。
彼女がこれから向かうと云っている場所は屋敷の最深奧、神域である。
おいそれと正者が立ち入ることはできない領域へ足を踏み入れるのだ、いくら急いでいるとしても最低限の清めは行うべきという和音の主張はそう的外れなものではない。
「急ぎではないとは思うけど、確証では無いの。胸騒ぎが消えない以上、あかさまの元に参じるのに余分な手間を取る訳にはいかないわ」
しかし、和音の主張を、少女は首を振って却下する。
そして、慌てて追従する和音すら待たずに、はしたなく見えないぎりぎりの足運びで透渡殿を歩き始めた。
遠く東の空が白み始めるのを横目に透渡殿を東に向かって渡り切り、東の釣殿へと入る。
「和音はここで待っていて頂戴」
釣殿の入り口で和音にそう指示を伝えてから、少女は一人で釣殿の内部へと足を踏み入れた。
「畏まりました。……姫さま、お気をつけてください」
本来ならば何としてでも少女に同道を願い出るのが側役としての在り方なのだろうが、和音はこの先へと進む資格が無いため、一礼して少女を見送るに留まる。
釣殿の建物としての規模は、そこまでではない。外観から見れば、歩けば直ぐに奥詰まりへと突き当たる程度の大きさしかない。
しかしそんな外観とは裏腹に、内側に足を踏み入れた少女の眼前には、どこまでも続く長い廊下が広がっていた。
等間隔に据え付けられたろうそくの揺らめく灯りが照らすだけの廊下に、少女は恐れる事なく足を踏み入れる。次期当主と見做された頃から、屋敷にいる時の政務以外の時間はこの神域にいるため、少女にとってこの廊下を通るのは慣れたものであった。
果ての見えない廊下を、ただ只管に歩調を変えずに進む。
相変わらず廊下の終わりは見えないが、歩く少女の表情に焦りは見えなかった。
神域は、物理法則とは別の法則が支配している。距離や時間はあまり意味を持っていないのだ。
少女は、この神域の主との邂逅に確信が持てるまでの僅かな時間、黙々と歩き続けた。
体感の時間にして、数分も歩いていないだろう。
――気付けば、少女の目の前に豪奢な蒔絵風の襖が存在していた。
目的の場所に至ったのだ。少女は息を整えてから、襖を開けた。
穏やかな朝の微風が、少女の髪を宙に攫う。
瞳を眇めた少女の鼻腔を、何処までも甘い残り香が僅かに擽った。
変若水の香りだ。
――誰ぞ、来客でもあったの?
変若水は、ただ人の陰陽師どもが扱いきれぬと承知しながらも渇望する神の雫である。
当然、滅多に目にすることが無いそれの価値は計り知れない。振る舞われることが赦されるのは、基本的に神柱とそれに連なる存在のみとなるからだ。
――嫌な感じはしない。相手は何処かの土地神かしら。
つらつらとそう考えながらも、神域の最深奧となる万窮大伽藍の中央に、伽藍の主、朱華の姿を認めて、ほっと取り敢えずの安堵の息を吐いた。
「あかさま、おはよう御座います」
朱華の名前は知っていたが、如何に少女の位階が高かろうとも朱華という名前を口にすることはおいそれと赦されてはいない。故に、少女が朱華を呼ぶ際には、ただあかさまとだけ呼んでいた。
「嗣穂かや。
――今日は随分と早いのう」
「胸騒ぎが致しまして、目が覚めました。――ご来客でしたか?」
朱華の口調がどことなく華やいでいることに安堵しながら、嗣穂と呼ばれた少女はちらりと周囲に視線を走らせる。
朱華の前には、朱華の身長ほどある朱盆が薄く水の張られた状態で一枚、そして、同じく丹塗りの盃が主のいないまま少し離れたところに転がっていた。
「んむ、あれじゃ」
朱華の指先が朱盆に張られた水の表面を走る。僅かに水面が小波を立て、その奥から滲み出るようにここではないどこかの風景が映し出された。
遠見法、千里通とも呼ばれる遠地を覗き見る術の一つだ。
水面の向こう側は、石畳と大の字になって眠りこける嗣穂と同い年辺りの少年の姿が見えた。
――随分と見目のいい少年だ。
間違いなく華族、それも上位の貴種の出であることがその見目の良さから窺い知れる。
やや尖った印象を受ける顔立ちは、どちらかと云えば武家の出であろうと思えるが、実際のところは判らない。
華族だろうけど、なんでこんなにみすぼらしい服を着ているのだろう。
嗣穂は、内心で首を傾げた。
少年は下町の子と比較しても違和感を覚えるほど、ボロボロですり切れた絣模様の小袖を着流しで着ているのだ。
どうにも顔立ちと服装が不釣り合いすぎて違和感が強い。
そこまで考えてから、ある事実に気づいて背筋が総毛だった。
朱華は、この少年を万窮大伽藍に客人として招いたといったのだ。
彼が何者であろうと、ただ人であることは間違いがない。それなのに上位の神柱である朱華がわざわざ神域たる伽藍に招き入れるなど、ただ事とは思えなかった。
「あかさま、彼は…………」
「名は晶じゃ。憶えておきやれ」
何者か、嗣穂が思わず上げた誰何の問いかけに、朱華は端的にそう返した。
「晶さん、ですか」
大急ぎで珠門洲に属する華族の顔を思い浮かべる。しかし、珠門洲だけに絞ってみても華族の数はそれなりであり、珠門洲の頂点に座す少女とても、容易に一致しうるものではなかった。
「昨夜、雀どもが騒いでおっての。
朱沙の地を見てみたら、『禊ぎ祓いの儀』を修めた晶がおったのじゃ」
「みっっ――――――!!???」
重ねて続けられた朱華の言葉に、流石に絶句する。『禊ぎ祓いの儀』、名前だけは聴いたことのある、しかし決して聞き逃してはいけない儀式だ。
『禊ぎ祓いの儀』とは、人の器を強引に昇華させて神の器に限りなく近づける大儀式の事だ。
神の器に近づけるためには、その者がこれまで経験してきた歴史、因果や業が邪魔になる。
儀式の過程でこれらを強制的に削ぎ落とす事になるため、ほぼ絶対的に廃人しか残らないとされている。
この儀式を修めた成功例は4千年前に一例のみがあるとされているが、それ以降は行われた記録が存在しない儀式でもあった。
しかし、嗣穂が絶句した理由はそこではない。『禊ぎ祓いの儀』を行うには、対象者になるための前提条件がなければならないのだ。
――神無の御坐、ただ人から産まれる正真正銘の奇跡。
神無の御坐を成功率の少ない儀式に投じる。それがこの儀式を行う最低条件なのである。
「神無の御坐!? 彼は神無の御坐なのですか!!???」
「然り、妾も目を疑ったわ。されど見たものは事実、急ぎ伽藍へと招聘した」
「神無の御坐。…………それも、空の位に至った!?」
それが本当なら、間違いなく晶の価値は計り知れないほどに高まっている事となる。
次に気になったのは、晶の家系はどこなのだろうという事だった。
「彼の親元は何処なのです? 久我、それとも輪堂ですか?」
口にしつつ、その可能性は低いな、と嗣穂は思い直した。
珠門洲で神無の御坐が産まれたのであるならば、まず間違いなく朱華が見逃す訳はないからだ。
それに久我家の当主、久我法理は危機感を覚えるほどに功名心が高い。それ故に、神無の御坐を手中に収めたのであるならば、彼を公に出して自身の発言力を高めるための蠢動を始めるはずだ。
逆に、輪堂家の当主、輪堂孝三郎は功名心が呆れるほどに低く、神無の御坐を得た場合、厄介事から逃れるために進んで朱華の元へと送り出すことだろう。
神無の御坐は、その価値を理解している者たちにとっては最大の交渉札となりうるが、同時に厄介事を際限なく呼び込む鬼札でもあるからだ。
「何処ぞかは、終ぞ云わなんだ。
――訊く気もなかったしのう」
「それは、……何故、で御座いましょうか?」
「――啼いておったからじゃ」
「え?」
「群れから逸れた仔狼のように、精一杯に可愛らしい牙を剥き出して、のう。
――氏子になりたい、死にたくない、力が欲しい、となあ」
朱華の頬に朱が差して、瞳が情欲に潤む。
何処までも愛おしい宝物を眺めるように、朱盆越しの晶を見つめた。
「……氏子? 氏子になりたいと、神無の御坐が願ったのですか!?」
「然り。奇妙な話であろう?
……流石に無理な願いじゃからなぁ、見た目のみ氏子と誤魔化す事で納得させたがの」
それは当然であろう。それに仮に出来たとしても、決して朱華がそれを行う事は無い。
何故ならば、朱華が本質的に執着しているのは、神無の御坐であって晶ではないのだ。
神無の御坐を喪うと云う愚挙を、目の前の神柱が許すはずが無かった。
「故に嗣穂よ、お願いじゃ。
晶の氏子を過怠無く認めよ。変更したのは表面だけゆえの、後に問題が起きるかも知れん」
「畏まりました。この後にでも行いましょう。
――それで最初の疑問ですが、彼の親元は何処でしょう? 後顧の憂いになっても困ります、見当だけでもつけておきたいのですが」
嗣穂の疑問も尤もであった。久我でも輪堂でもない、ならば他洲の出身なのであろうが、他洲には他洲の神柱がいる。他洲の神柱であっても、朱華同様に神無の御坐を見落とす真似をするとは思えなかった。
それに他洲の出身であるならば、より大きな問題が持ち上がる。
「……久我と輪堂を除けばのこり六家、晶さんの親元を推測しておかなければなりません」
「先刻も云ったが、晶は終ぞ答えなかった。じゃが、どの洲かは判る。
――國天洲が晶の出身じゃ」
「國天洲!! ………………それはどうして判ったのですか?」
「晶はくろのお手付きじゃったからな。」
「くろさまの!? あかさま! くろさまのものを横取りしたのですか!」
嗣穂の台詞に悲鳴が混じるようになる。しかし、こればかりは彼女を責められないだろう。朱華の行動は、國天洲の神柱を間違いなく激怒させるからだ。
國天洲に知られた場合、冗談でも可能性でもなく、晶の処遇を巡って間違いなく高天原を二分する内乱が起きる。
「横取りした訳ではない」痛いところを突かれて、僅かに朱華の口が尖った。「晶が望んだのじゃ。華蓮の片隅で、氏子として生きていきたいとな。
――妾たちは、神無の御坐の願いを断らん。神無の御坐を満たす、それは妾たちの欲求そのものであるからな」
「それは知っています。知っていましたが、それでも……」
理解は出来るが、納得は出来ない。どうしてこうなったのか、厄介事が処理できないままに積み上がってゆく。
悪意は全く無いのだろうがと、僅かに恨みがましい視線を水面越しに眠る晶にぶつけた。
嗣穂が見ている前で、その晶に変化が現れる。
否、容姿に変化は無い。しかし、どんどんと認識が変化していった。
貴種と判る容姿が、見た目そのままに印象が薄くなっていく。平凡に、容姿が記憶に残らないように変化していく。
隠形術。隠れ潜むための術の一つに、そこに居るのに意識を逸らせるというものがあるが、晶の変化はその術の行使によく似ていた。
しかし、意識の無い晶が、隠形術を行使しているとは考え辛い。なら、別のものが手を貸していると見るべきであった。
「目立ちたくないと、無意識に晶が精霊に願っているのであろうな」
朱華の推測に、嗣穂も頷いて同意した。
朱華たち同様に、精霊も晶の願いを断らない。寧ろ、自身を犠牲にしてでも晶の願いを叶えようと、我先に動くはずである。
つまり、この隠形は晶が願った結果という事だ。
日常を過ごすうえで、こんな隠形が必要になる場面は全くといってないだろう。
……つまり、晶はこんな隠形が必要な日常を強いられてきたと想像できる。
ふと、何年か前に聞いた与太話を、嗣穂は思い出した。
「……何時だったか、輪堂の当主が首を傾げていた話を聞いたことがあります」
「ほう?」
「八家の会合後の宴席で、雨月の当主がぼやいていたそうです。
――曰く、雨月の嫡男はとんだ無能で、教育するにもほとほと手を焼いていると」
「よく聞く話じゃの」
「奇妙なのはここからです。
――その翌年の会合で、雨月の当主は上機嫌で己の息子を自慢していたそうです。
どちらも深酒に酔いを任せていたらしく、本当の事を口にしているとしか思えなかった、と」
云いながら、随分と情けない理由だが、恐らくはこれが正解なのだろうと嗣穂は推測した。
「雨月は一人息子と聴いていましたが、本当は2人いたのでは? 無能と思っている嫡男と有能と思っている次男。無能と思っている嫡男を排して、その座に有能な方を座らせた。
問題となるのは年齢ですが、母胎に無理をかけてでも年子を産めば、周囲への誤魔化しは効くかと。
――これなら、話の辻褄も合います」
「面白い想像じゃが、無理があるのう。そも、神無の御坐であるならば、それだけで有能じゃ。排除する理由にすらならんぞ」
「今年、天領学院に入学した雨月颯馬は、天才と誉れ高いと云う触れ込みです。加えて、彼は数十年ぶりに顕れた神霊遣い。
巷では、北辺の至宝と謳われているとか。
絵に描いたような『有能さ』ではありませんか?」
「有能であるのは認めよう。じゃが、それは所詮、有能どまりじゃ。
神無の御坐とは、比べる事が憐れなほどじゃぞ?」
そう。神無の御坐の重みを知っていたら、そんな愚挙には走らないはずだ。
――つまり、
「……雨月は、神無の御坐に関する事項を失伝しているのでは?
神無の御坐の特徴は、精霊が宿っていないという一点のみです。
はっきり云って神霊遣いと比べると、相当に地味な特徴です。
加えてただ人は、よく分からない異端を嫌います。晶さんが雨月の出身と仮定した場合、この推測なら説明がつきます」
「有り得んじゃろ。神無の御坐は、八家と妾たちの間に交わされた約定。
これを蔑ろにすることは、八家である事を放棄すると同義――」
「はい。ですが、神無の御坐が最後に顕れてから、もう400年です。
400年前の内乱で、神無の御坐に関する事柄の一切は、八家当主の口伝のみと決められました。
あかさま。定命のものたるただ人にとって、400年は余りにも永いです。
失われてはいけないとはいえ、口伝の一つ。何かの拍子に失うことは充分に考えられます」
「万一のための書物はあるはずじゃが?」
「ありますが、神無の御坐に辿り着くまで、最低でも400年前の書物まで遡る必要があります。
それに國天洲は、これまで神無の御坐を出したことがありません。神無の御坐に関する圧倒的な経験不足は間違いなくあるでしょう」
「……なるほどのう。口伝を失う余地は充分にある訳じゃな」
「はい。それに確か義王院は、雨月の嫡男が産まれる前に婚約関係を望んだと。
当時は随分と騒がれたそうですが、理由が神無の御坐であるならば、義王院の勇み足も理解できます。
ですが疑問も残ります。雨月の暴走はこの推測で理屈がつけられますが、義王院が沈黙を保っている理由が分かりません。
状況からみて、晶さんが華蓮に来て数年は経っています。間違いなく義王院は晶さんを探しているはずなのに、國天洲が荒れているという噂すらこちらには届いていません」
「……それなら、おおよその想像は付く。
くろの奴は、つい先ほどまで晶の追放に気付いていなかったのじゃろう」
黒曜殿の改修で手一杯じゃろうからなぁ。朱華は、晶の寝姿を眺めながらそう呟いた。
「……かつての伽藍は、炎が岩肌を舐めるだけの磐座であった。
何故ならば、妾にとってそれがもっとも快適な環境だからじゃ。
じゃが、男女が睦み合うに相応しい環境とは云えぬ。
故に、神無の御坐が初めて伽藍を訪れると決まった際に、妾は現在の伽藍の姿へと改修したのじゃ。
伽藍の改修に一年は掛けたのを憶えておる、色惚けたくろの事じゃ、その数倍は掛けるであろうさ」
「色惚け、にございますか?」
「あやつにとって、待望の神無の御坐ぞ? 高天原の興りより数えて4千年、如何な妾たちとて、色艶を拗らせるわ」
「はあ………………」
色艶めいた話とは縁遠い生を送ってきた嗣穂は、気が長いんだか気が急いてるんだかよく分からないその話題に乗ってこれず、生返事を返すに留まった。
晶が華蓮にいる理由の、凡そのところは推察が立った。
確信するための裏付けは必要だが、何かの謀略に巻き込まれている可能性は低いだろう。
何しろ、相手が神無の御坐だ。何らかの謀略に使うために他洲へと渡らせるなどという、愚にもつかないような行動を普通の八家の人間が取る訳がない。
である以上、やはり雨月は神無の御坐に関する事柄を失伝しているとみるべきだろう。
運が良いのか悪いのか、よく今まで義王院に事の次第が発覚しなかったものだ。
変な形で嗣穂は雨月の隠蔽に感心した。
少なくとも、今の今まで義王院は雨月のしでかした失態に気付いていなかったのだろう。それが雨月の隠蔽工作が高かったゆえか、義王院が神無の御坐を刺激しないように配慮した結果かはさておいて、だ。
しかし、間違いなく雨月の天命は最悪の方向に向かっている。
それは断言できる。
晶の追放がいつ行われたのか詳しい時分までは知れないが、少なくとも年単位であることは間違いない。
晶の追放が義王院にバレるのは、そう遠くない未来のはずだ。
晶の不在と義王院への隠蔽。くろは当然のこと、義王院の激怒も想像に難くなかった。
雨月は軽く考えているのかもしれないが、この後に選び取るのが最善の結果であっても、雨月の郎党に未来は無い。
――まぁ、雨月のことはどうでもいいわ。
至極あっさりと、嗣穂は雨月に見切りをつけた。
当たり前だ。雨月は國天洲にあり、処遇の決定は義王院の預かりである。嗣穂は珠門洲の華族に口出しできるが、雨月に関して口出しする権利は無い。
それに、雨月なんぞはどうでもいい。
それは、嗣穂の偽らざる本音であった。
三宮四院に連なることを許されているとは云え、八家は所詮、替えの利くただ人の集まりだ。
どれほどの歴史を誇ろうとも、どれだけ忠誠を示そうとも、分を弁えない行動には首のすげ替えを辞さないのは三宮四院の為政者としての基本の姿勢であった。
問題なのは晶であった。
400年ぶりの神無の御坐、しかも空の位に至っているのだ。
希少さはもとより、その価値は天井知らずに上がっている。
当然、朱華は晶を手放す気などないだろう。
そして、それは晶を手放した気すらないくろとても同様だ。
両者共に譲歩することなく相対するだろうし、その先に有るのは國天洲と珠門洲を巻き込んだ文字通りの潰し合いだろう。
――何としてでも回避せねばならない。
朱華に悟られぬよう決心した時、自身の掌の中に突然の重みが生まれた。
重み自体に驚きは無い、朱華の仕業であろうからだ。
だが、掌を開いて困惑する。そこに在ったのは、魂染をおこなったであろうぼんやりと光る魂石だったからだ。
「あの、あかさま。まさか、これは……」
「晶の魂石じゃ。疾く、人別省に収めてたもれ」
――やっぱり。
思わず額に指をあてて、天を仰ぐ。
今までの推測が正しい場合、晶の魂石は國天洲にある雨月の人別省に収められているはずだ。
つまりここにある魂石は、本来は晶のものではない。
晶と魂石の繋がりを強引に断ち切り、別の魂石に魂染めを施したのだろう。およそ人に可能な御業ではない、朱華だからこそ行えた芸当だ。
「……あかさま、ただ人には、ただ人の規範が存在します。正式に人一人をでっち上げるためには、時間も人手も足りません」
加えて云うなら、人別省は高天原中央の直轄組織だ。ここに手出しをするのは不可能とまでは云わないが、管理されている魂石にいきなり新たな魂石一つを差し込むのは、権限無視の横紙破りも甚だしいと云える。
氏子認定なら嗣穂の権限でどうとでもなるが、人別省に手出しするのはかなり無理があると云えた。
「分かっておる」一応、無理を願っている自覚はあるのか、朱華は唇を少しだけ尖らせて拗ねた様子をみせる。「じゃが、晶の願いの一つが、華蓮に住むことなのじゃ。妾にとっても益のある提案、蹴ってやるなど到底出来ぬ」
――分かっていた事だが、やはり朱華も一歩も引かない。
――譲歩しない。決してしてくれないだろう。
知識としては知っていた。朱華たちは、神無の御坐の願いには狂ったように応えようとすることは。
……正直、ここまでとは思っていなかったが。
無理は押し通せる。しかし、問題はその後だ。
晶の存在を知ってしまった以上、いつまでも隠しておけるというわけではない。
それに、晶が神無の御坐について完全に無知なのも、今後にとっては問題だ。
神無の御坐に関する知識を伝えるためにも、なんとか、周知する前に晶と接点を持たねばならない。
「……承知いたしました。人別省に魂石を収めるのは多少時間をいただきますが、氏子に関しては今日中に」
「うむ。委細、良しなに頼むぞ。
そうじゃ。骨を折ってくれた嗣穂に褒美をやろうのう。
――神託を下す」
「!! ――謹んで、お受けいたします」
驚くも、努めて冷静に嗣穂は頭を下げた。
神託は、ただの占術、予言の類ではない。
良きにしろ悪しきにしろ、必ず起こる事象が告げられる。
この手の未来視に存在する不確実性は無く、その上で、結果如何に干渉して未来を変えることができるのだ。
情報の価値は鮮度が命と云うが、値千金の情報が鮮度どころか芽すら出ていない前に与えられる。
これを十全に活用することで、嗣穂の血筋である奇鳳院の一族は珠門洲での威光を保っていた。
「本日の亥の刻に、夜行が華蓮に攻め入る」
「夜行、……百鬼夜行ですか!」
百鬼夜行。滞った瘴気が氾濫することで起きる、何らかの怪異や妖魔を首魁とした穢レの暴走の事だ。
数十年に1度、発生するかしないかの非常に強大な暴走で、過去の記録では何度か都を半焼させたこともあるといわれていた。
「うむ。華蓮を貫く舘波見川を遡上する、赤酸漿の怨嗟が視える。
――であるならば、首魁はなにか、想像はつこう」
「舘波見川、……あの怪異ですね」
思い当たる節があるのか、朱華の言葉に嗣穂は首肯した。
「神託、確かに承りました。準備がございますので、御前これで失礼させていただきます。
少々忙しくなりますので、夜参は遅れるかと。
宜しいでしょうか?」
「うむ、土産話を楽しみにしておるぞ。
あぁ、そうじゃ。晶は練兵と云っておったな。
晶の属する守備隊を、舘波見川の中流に配せよ。
晶の活躍を見たいでのう」
「――畏まりました」
今まで見たこともないような華やぐ微笑みを向ける朱華に、珠門洲の頂点を支配する少女、奇鳳院嗣穂は苦笑を一つ見せて頭を下げる。
少女たちの向こう、朱盆に映し出されたその先で、晶が身じろぎをして目覚めようとする光景が映っていた
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