1話 縁を断つ、斉しく夜の降る下で1
短くも永い天領学院での日々で、自然とすれ違う事も幾度かあった。
日向で笑う颯馬と、列を連ねる雨月郎党の子弟たち。
相手は意識も向けなかっただろう。そもそも、廊下の脇に寄った相手のことなど、視界にも入れなかったに違いない。
――仮令、相手が学院生のそれではなく、防人の制服を纏っていたとしても。
――直前の成績で、颯馬に届くほどの点数を上げていたとしても。
きっと、相手を理解する事も無かったはずだ。
だからこそ誰も見られぬ山中で、互いへの憎しみを吐き合う羽目に陥っているのだろう。
その行方は神柱も知らぬまま、決着の発端が夜闇の奥で落とされようとしていた。
「雨月、 、颯、馬ァァァッ!!」
「穢レ擬き風情が人並みにっ、」
突如として斬りかかった颯馬に対し、晶は水界符の障壁を挟んで睨み合う。
晶に満ちる水気がうねり、鬩ぎ合う精霊力から大気が悲鳴を上げた。
「ちっ」
「――吼えてくれるなぁっ」
玄麗の威光を背に、水界符を励起しただけの障壁が颯馬の精霊力を圧し返す。
その重圧に競り負けたか、爆ぜる足元が拮抗の跡を残した。
障壁の崩壊が身体を浚い、堪らず晶は踏鞴を踏む。
次撃に構えた撃符が、剣指から擦り抜けて虚空へ踊った。
「くそっ」
「死ね!!」
悪罵を吐いた晶の脳天へと、颯馬の太刀が落散る。
晶の手に精霊器は無い。
頼みとする寂炎雅燿と落陽柘榴も、ラーヴァナとの戦闘で敗北の呪いに封じられ、
――畢竟、その果てに迎えた弟との戦闘で、晶に抗う術は殆ど残されていなかった。
悔恨を振り切り、新たな呪符を引き抜く。
「疾!」
刹那、精霊光が夜闇を彩った。
轟音を厭ったか、爆圧に紛れて颯馬が太刀ごと後方へと逃れる。
生まれた間合いは、僅かに2間。
稼げた貴重な二呼吸分に、晶は天を仰いだ。
「天を透れ――!!?」
神器を希う声。
瞬後。天に翳した晶の掌が、嘗て憶えのない重圧に弾かれ――。
破音が響き、夜天に儚く晶の集中が途切れた。
――九蓋瀑布は、周天そのものを象と鍛えた世界最大の神器である。
常よりそこに在り、仰げば誰もが目にする空そのもの。
その本質は、星辰と現世を隔てる距離だ。
如何な神無の御坐であろうとも、それを自身の裡に納刀めるは能わない。
当然にしてその重圧さは、他の神器のそれと隔絶している。
――知ろ示す天意そのもの、恣意の侭に振るうは赦されていなかった。
「獲ったり!」
「――させない!!」
がら空きの懐へ踏み込んだ颯馬の眼前に、咲の放った呪符が舞った。
火撃符。轟音と共に爆ぜる紅蓮が木立を舐め、熱波が地表を浚う。
衝撃で2人の間合いが開き、その中央へと咲が立った。
熱波に煽られ、背中の家紋が大きく翻る。
――五角紋に竜胆一輪。特徴的なそれを目に、颯馬の双眸が眇められた。
「この狼藉は如何な料簡で? 雨月颯馬。一先ず退かねば、今の立場まで喪われるわよ」
「その家紋を見るに、輪堂家か。穢レ擬きが、何処までも祟ってくれるな」
「――あ、こらっ」
興奮から普段の冷静さを失ったか、応える事なく颯馬は晶へと踊りかかる。
一瞬の隙に傍らを抜かれ、焦りも隠せず咲が叫んだ。
「待ちなさい!」
「穢レの浄滅が済むまで待っていろ! 輪堂家には、後から正式に抗議をくれてやる」
「浄滅? あのね、何か勘違いしているわよ!」
咲の引き留める声が背中を追うも、返る応えは無く。
颯馬と晶の姿は、互いに夜闇へ紛れて消えた。
次第に深みを増す夜闇の斜面を、滑り落ちるように晶は駆ける。
一歩遅れた颯馬が、その斜め後ろで砂利を蹴立てた。
「逃げるだけか、穢レ擬き。
裏で這いずるなど、主家を誑かした貴様には似合いの所業だろうがな」
「何の話だ。云っておくがこの3年、貴様らの願い通り國天洲に近づいてすらいないぞ!」
「は、何を白々しい。
――大方、静美さまの御好意を嵩に着て、仕官の情けにありついたのだろうがっ」
吐き捨てる声をその場に残し、颯馬は一息に加速。
地を踏み砕く足元で、迸る水気が波紋を刻んだ。
「!」
流離と軌跡を残し、刹那の内に晶の懐へと到達。
――鋭い視線が、晶の至近から再び射抜く。
脇構え。息を呑む晶を見据え、颯馬は己の太刀を水平に振り抜いた。
義王院流精霊技、初伝――。
「偃月!」「このおっ」
颯馬の太刀を捲く水気が、鋭利な刃へと削り出される。
その光景に晶は抗う叫びを残し、無手のまま精霊力を練り上げた。
奇鳳院流精霊技、初伝、――燕牙。
錬磨された攻め足から飛斬の精霊技を放とうと――、
その瞬間、晶の腕が抵抗と違和感に襲われた。
「ぐぅっ!?」
無手で精霊技を放つ無茶は承知の上である。
それでも燕牙を放とうとした刹那、脆く腕で練り上げた術式が崩壊した。
反動から呻き、晶の構えが完全に崩れる。
その隙を逃すことなく、迸る水気の凶刃が晶の喉元へ牙を剥いた。
「誅ェリアアァァッ!
――!!?」
必殺の確信が晶の薄皮一枚まで迫り、
――瞬後、颯馬の精霊器から水気の刃が儚く散った。
義王院流に於いて、偃月は最初期に教わる精霊技だ。
最も馴染み、最も錬磨された基礎の基礎。撃ち損じるなど、颯馬をして想像もできない結果である。
有り得ない事態に、颯馬の感情が混乱を来す。裂帛の気合いは宙に浮き、颯馬の斬撃を鈍らせた。
甘く空薙ぐ颯馬へと、先に体勢を戻した晶が蹴りを叩き込む。
「「く、そぉぉぉっ」」
――同時に崩れる姿勢。
重なる苦鳴と諸共に、2人の身体が山間の底へと転げ落ちた。
――そうだ。今の俺は、水気か……!
本来、ただ人の精霊に五行の変化など有り得ないが、晶は神無の御坐である。
回る視界の中、晶は漸く実感を得た。
一概に精霊力と評しても、その質は千差万別。
朱華から玄麗へ。五行の何れかに特化された門閥流派を越えて行使するなど、意の侭に精霊力を扱える晶をして無茶が過ぎた。
否。先刻に一度だけ、出来たはず。
天啓のように、晶はラーヴァナとの戦闘を思い出した。
ほぼ無意識とは云えあの瞬間、水気の精霊は確かに応えてくれなかったか。
――考えろ。あの刹那とこの瞬間は、いったい何が違うのか。
転げ跳ねる身体を強引に立て直し、獣の如く四肢で慣性を耐える。
振り仰ぐ晶の視界へ、太刀を八相に構える颯馬の姿が落ちた。
波濤打って雪崩れる、何処までも真っ直ぐな弟の斬断。
義王院流精霊技、中伝、――寒月落とし。
その切っ先に合わせ、晶は残る2枚の呪符を引き抜いた。
両手に象る剣指から、励起する精霊力が溢れる。
左に木撃符。――そして、右に火撃符。それぞれ違う五行が励起し、晶の左右で二振りの精霊技と変わる。
一際に輝く水気の両断を、木気の太刀が迎え撃った。
水生木。颯馬の水気が減衰する反対で、晶の木気が猛る。
激突。軋む雷鳴の勢いは鋭くも、颯馬の斬撃は辛うじて拮抗まで持ち堪えた。
「呪符で精霊技を模倣とは、随分な小技で防人気取りか」
「――話のっ、通じないっっ!」
飛び交う罵声もしかし、颯馬の斬撃が次第に晶へと迫る。
颯馬の精霊力に余裕は残っているが、晶の呪符には籠められた精霊力しかない。
行使する精霊力の差が、相生の優位までも覆しているのだ。
じりつく速度で、晶の喉元に敗北が迫る
「――速やかに野垂れ死ねと、父上が傾けて下さった心尽くし。その恩情を仇に、随分と陰で動いてくれたようだな!」
「……それで? 貴様の暴挙にどう落とし前を付ける算段だ。
百鬼夜行中に刃傷沙汰など、正気とも思えんぞ」
「どうせ穢レ一匹、序でに浄滅するだけだ。主家さまも、貴様が死ねば諦めもつく」
上から下へ。斬撃の勢いに踏み敗け、晶の足元に後退の気配が生まれた。
後少し。勝利の確信からか、颯馬の口元が歪む。
――僅かに覗いた、感情の隙間。
間髪逃さず、晶は右掌に用意した火気の刃を重ねた。
木生火。膨れ上がる火気が、2人の至近で猛り上がる。
爆発、轟音。精霊技や術式以前の原始的な熱量が、兄弟の諍いを引き剥がした。
晶の加護が、颯馬の神霊が。互いに黒と瑠璃の輝きを散らして、宿す相手を護る。
黒の精霊光が視界で舞う中、晶は跳ねるように構えを取り戻した。
粗く呼吸を繰り返し、晶は周囲を見渡す。
――ここは何処だ?
急斜が続いていた足元は、かなり緩くなだらかに変わっていた。
山中から麓へ下りた事だけは判るが、土地勘の無い晶に現在地の想像はつかない。
「随分と生き汚く執着するじゃないか。
――父上が貴様に手向けた下知、もう忘れたのか?」
「!」
――もし國天洲内で見つかった場合、雨月は晶を追討する。
忘れていない。晶を殺すと明言した、3年前の宣言。
「それが? 此処は國天洲でも無いぞ」
「雨月の恥が明白に眼前を這い回ったんだ。その事実だけで、貴様の処分には充分だろうさ。
僕が手ずから首級を落とす事、感謝して貰いたいね」
「誰が!」
吐き合う悪罵を残し、晶は態勢を整えた。
何が足りないのか、神器は行使できない。呪符は尽き、満身創痍。
だが雨月を前にして、もう俯くだけの自分は考えたく無かった
攻め足から、徒手のまま拳を正中に構える。
間合いに渡る静寂。――瞬後、両者は一息に間合いを詰めた。
晶の裡で、水気は潤沢に渦を捲いている。
――それは事実だ。何よりも、尽きず溢れる現神降ろしの効力がそれを証明している。
しかし、晶が水気の利用に叶うのは、そこまでが限界であった。
理由は単純。
これまで晶が正式に修めた門閥流派は、主として奇鳳院流である。
目にしてきた精霊技は、玻璃院流と陣楼院流のそれ。月宮流が僅かに劣る程度か。
――皮肉な事に、晶にとって義王院流は最も縁遠い精霊技であった。
数度視れば精霊技を模倣できる晶の才覚も、全く見た事が無いのなら活かす事は不可能。
現時点で晶は、莫大な水気を持て余すだけであった。
山肌も露わだった戦場は、何時しか雑木の合間を縫うように。
太刀と拳が、互いの間合いで夜気を貫いた――。
「勢ェイッ」「疾ッ」
互いに呼気を吐き、再び至近で睨み合う。
斬り上げる颯馬の太刀を躱し、体を落としつつ正拳を撃つ。
晶の拳を太刀の鎬で流し、精霊光が爆ぜて散る。
呼吸の隙を突き、返す太刀が晶の頸を――。
雑木の陰に晶の身体が隠れ、颯馬は舌打ちを残して後退した。
「穢レ風情がちょこまかと。地を這うだけが能のくせに」
「吼えてろよ!」
立ち回りを雑木に制限され、颯馬の台詞に苛立ちが混じる。
夜の向こうから返る晶の声に、眦を眇めて精霊力を練り上げた。
「貴様相手が味わう身分でなかろうが。
――光栄に思え、尊きの輝きをくれてやる」
闇に沈む木立へと、瑠璃の輝きが澄み渡る。
志尊の輝き。昇華した神気を、颯馬は己の精霊器に限界まで込めた。
幾条もの精霊光が解けて踊り、束ねて太刀に還る。
義王院流精霊技、中伝。
「くそ!」
「――月明星稀」
闇夜も静か、白銀が閃いた。
微風すら、戦とも起てる事は無く。
直後。吹き荒れる凍てつく暴風に、斬り飛ばされた雑木が宙を舞った。
既で回避した晶が、雑木に紛れて虚空を踊る。
「無茶苦茶だ、あいつ。莫迦みたいに強靭いぞ!」
颯馬を見下ろし、理不尽から晶は不満を漏らした。
弱いと思ったことは無い。『北辺の至宝』、そう謳われるだけの実力を持ち合わせている事は知っていた。
対峙する己の不甲斐なさに、天を仰ぐ。
広がる周天、玄麗の九蓋瀑布そのものが瞳に落ちた。
鏤められた黒曜に浮かぶ、少し欠けただけの月。
――ああ。神無の御坐とは、そういう存在か。
それを目の当たりに、晶の胃腑に少しだけ納得が落ちた。
♢
もう随分と麓が近かったのだろう。
雑木が弧を描いて一塊に、山を抜けて平地へと落ちた。
雪崩れる地響きと共に、茫漠と土煙が周囲を舐める。
立ち込めるそれから抜け出し、晶は咳き込みながら構えを直した。
騒めく声に、周囲を見渡す。
羽織を着た防人らしき少年たちが、遠巻きに晶へと視線を向ける光景。
激戦を語るかのように、鼻腔を突く血臭。
何処かの戦場。旗幟を求めて周囲を見渡す晶の背へ、唐突に影が落ちた。
―――餓、亜ァァアッッ!!
頭上から降る嚇怒。赤銅の肌から隆々と盛り上がる、暴力の権化。
――落ちる拳を寸前に躱し、その懐へと晶は踏み込んだ。
土地の精霊に助力を願う。
歓喜を返す木行の精霊を即座に統御。
玻璃院流精霊技、初伝、――唸り猫柳。
屠ン。その踏み込みに、晶の足元で地面が抉れる。
激甚に跳ね上げられた身体能力任せに、晶は正中から拳を叩き込んだ。
―――亜餓!?
少年の見た目しかない晶の一撃に、しかし大鬼の躯がくの字に折れ曲がる。
ただの一撃で崩れ落ちる大鬼の姿。異常でしかない光景に、周囲が静まり返った。
暫くの静寂――。
「逃げ回る時間は終わりか、穢レ擬き」
「別に逃げた訳じゃ無ぇよ」
だが、背中に追いつく憎悪が、僅かな時間に終わりを告げた。
当然、晶もあれで撒けたと楽観していない。うんざりとした面持ちで、嘆息だけを相手に返した。
「警告しておく、雨月。――勘違いは兎も角、此処で手を退いた方が得策だぞ」
木行の精霊が大半を占める戦場。眼前が神籬山と見据えて、晶は最後の慈悲を口にした。
――別に颯馬を案じた訳でもない。
うんざりとした晶の口調が挑発と見えたのか、颯馬は太刀を中段に構えた。
「今更になって命乞いか。
真逆、生成り一匹を下した程度で、僕と対等に渡り合えるとでも?」
「――真逆。雨月の嫡男が周囲の状況を理解できないなど、三下振る舞いが似合いだと思いたくも無いだけだ」
「……云ったな、下郎。」
幾度となく下に見られ続けた晶にとって、稚拙なだけの応酬。
しかしそれは、颯馬の感情を抉るほどに逆撫でた。
下に見られる経験が殆ど無かったのだろう。
明白な嘲りに、颯馬の額へ青筋が覗いた。
激昂するまま、颯馬の太刀が水気を捲き上げる。
その姿を見止め、晶は精霊力を静かに練り上げた。
手元に神器は無く、呪符も既に尽きている。
――だが、それで充分。
互いに呼気を吐き、2人は同時に間合いを詰めた。
「誅ェイッ」「疾ィッ」
先んじたのは颯馬の一撃。刹那の踏み込みからの、手加減抜きの突き。
――その攻勢を充分に見極め、晶は相手に合わせて右手を振り抜いた
義王院流精霊技、初伝――。
それまでと違い滑らかに、黒の精霊光が尾を曳いて飛斬を象る。
狙いは、颯馬が振り抜く太刀の切っ先。
――精霊技!?
激突。生身には有り得ない硬質の手応えに、颯馬の身体が後方へと弾かれる。
驚愕に見開く颯馬の視界が、手刀を振り抜いたまま残心を保つ晶の姿を漸く認めた。
――いいや。それよりも、穢レ擬きが見せた今の所作!
颯馬の思考が、有り得ないと否定を願う。
混乱する理性と裏腹に、颯馬の本能は確信を訴えた。
「お前、僕の精霊技を、」
「感謝するよ、雨月颯馬」
崩れる体勢を寸前で堪えた颯馬の耳朶を、晶の嘲りが追い打つ。
「偃月と云ったか? ――先ずは一つだ」
「穢レ擬き風情が盗人の真似事とは、堕ちるところまで堕ちたかぁっ!!」
晶にとって義王院流は、これまで縁遠い門閥流派であった。
だが、知らないなら学べば良い。
認め難くも、颯馬の技量は同年代のそれを隔絶している事は確かだ。
その技量を観尽くして、この下らない諍いの内に修得する。
激昂する颯馬から、精霊力が解けて踊る。
――漸く義王院流の入り口に立てた確信に、晶は再び間合いを詰めるべく地を蹴った。
11月9日、「泡沫に神は微睡む」コミカライズ版の1巻が発売されました。
晶や咲の躍動する鮮烈な絵に、僕も驚きました。
伊禮ゆきとしさまの手で蘇る晶や咲の姿を、楽しんでいただければ嬉しく思います。
読んでいただきありがとうございます。
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