閑話 嵐の去る後に、老躯は騒めく狭間を帰り
――央洲央都、天領駅。
遠く鳴り響く汽笛を背に、それなりの老境だろう年頃の男性が改札を過ぎた。
冬支度の色を深めた山嵐が、乾いた首筋を総毛立たせて過ぎて行く。
懐かしい寒さに口元の皺を深め、老人は雑多に過ぎる人混みへと眼差しを眇めた。
移ろう歩みの遅い央都だが、繁華の赤線前にあって浮沈はそれなりに目立つ。
以前は無かった真新しい店が幾つか、老人の視界に雑然と軒を連ねていた。
木造のそれでは無く、煉瓦で装われた外海よりの壁。
舶来のものか。歪みの見えない板硝子越しに、透けた店内が垣間見える。
「……ふん。央都も、目新しさには飛びつくものか」
皮肉に嗤って一歩。常よりも多い雑踏へと、老人はその足を踏み出した。
繁華を混沌と行き交う雑踏の熱気が、直ぐさまに老爺の身体を呑み干していく。
木材を山と積んだ大八車が、車輪を軋ませて老人を追い抜いた。
茫漠と蹴立てられる砂煙。鬱陶しく肩を叩き、袂から取り出した手巾で鼻腔を抑える。
「平民が我が物に高御座のお膝を闊歩するとは、守備隊の凋落も明らか。
儂が治安を掌握した暁に、このような無様は欠片として赦しもせん」
苛立ちに任せた悪罵から、その足取りを僅かに速めた。
外套が翻り、着物の上からも判る鍛えた後背はやがて、群衆のうねりに紛れて消える。
――央都華族たる旧家の一角。御厨家の前当主であった御厨至心は、数年ぶりとなる帰参をその日に果たした。
央都の上洛。西の大路から山巓陵のやや上へ向かった一画に、御厨家の屋敷はある。
大路の喧騒も遠く、至心は慣れた帰り道を悠然と歩いた。
正門を避け、黒渋塗りの板壁伝えに裏手へと抜ける。
御用門を軋ませる音が届いたか、初老の家人が顔を覗かせた。
「御先代さま、何時にお戻りで?」
「先刻だ。在扶、屋敷に変わりは無いか」
「こちらは静かなもので。……御一報を戴ければ、迎えを手配致しましたものを」
嘗て仕えていた主人が見せた突然の帰還に意表を突かれ、屋敷へ向かう老人の後背に慌てて続く。
山高帽。次いで外套の裾から老躯の厚みが喪われ、在扶の腕へと積まれていった。
「蒸気絡繰りはどうも好かん。頼まれれば乗りもするが、徒歩の方が性に合う。
――弘忠は?」
「丁度、折り良く。本日の予定は夕刻の集会のみですので、御在所にあられます」
「ふん」
返事の代わりに鼻を鳴らし、屋敷の奥へと大股の歩を刻む。
薄暗い廊下を抜けて中広間へ。滑らかな音で襖を開けた先、弘忠が啞然と視線を上げた。
手から零れる書類を一瞥すると、何らかの陳情書か。
興味も薄く、広間の上座脇へ勢いよく腰を下ろした。
後方に控える在扶が外套を手に、中広間を後にする
「これは父上。外套だけとはいえ洋装とは、――宗旨替えでも決意されましたか」
「鴨津で腕利きの仕立てと云えば、洋装の専門しか無くてな。仕方なくだ。
――央都の百鬼夜行襲撃に案じられた久我殿より、急遽であるが帰還が提案された。神嘗祭を前にして、暫くは学院に集中されたいそうだ」
「それは、御立派に御座いますな。――ははぁ。その様子からして、大路の惨状をご覧になられましたか」
その呟きだけで気を取り直し、御厨弘忠は書類へ視線を戻した。
至心からの応えを待つことはなく、半紙が捲られる音だけが響く。
そのまま暫く、壁時計の分針が一目盛りだけを刻んだ。
「――西の大路が、通りの向こうまで良く見えた。下民共が瓦礫へ群がる様の、何と浅ましい事よ」
「片付けに必要なのです。使ってやっている下働きに、不満も無いでしょう」
「弱腰だな、弘忠! 五行結界の崩壊を見過ごした愚断。放置すれば、何れ都が内から蚕食されるぞ」
激昂する自身の父親を、弘忠は感情も無く見返した。
云わんとしたい処は理解できる。旧家の共通認識として、大路の役割は華族の往来を支える為にこそ存在している。
山巓陵の北。上洛周辺に於いて下民が大路を通る理由は、旧家が仕方なく荷物持ちで往来を赦してやっているのが常識であった。
神使や巫女の家系が多い旧家にあって、御厨家は代々が衛士を輩出する家系だ。
古くは北面を護る衛士であり、月宮流の筆頭武家としても知られている。
政争に敗け凋落の憂き目を具にした至心にとって、央都に於ける復権は悲願の一つ。
「近衛色軍や央都守備隊の堕落は瞭然に御座います。
特に近衛央軍。山巓陵守護を言い訳に、鐘楼山守護を放棄したとか。色軍にも、央都内部に引っ込んだものたちがちらほら目立ったと聞き及んでいます」
「く。武威も与れぬ俗物に意見侭を赦したが、儂の不明よ。
守備隊の総隊長は、何処が与っているか」
「確か、 、二曲輪殿の直系次男では無かったでしょうか」
「旧家の誇りを捨てて西に擦り寄った木っ端の末裔か、旧家の武派が職責を放棄するとは嘆かわしい。――が、使えるな」
顎髭を撫でつけながら、至心は不満を肚に収めた。
旧家連中の犯した失態を巧く利用すれば、御厨家の回天が目前にも叶う。
至心の着眼は、弘忠のそれと当然にして一致をみていた。
「そう仰るだろうと思いまして、神嘗祭で三宮御覧の折りに奏上奉ろうと」
「どれ。 、 、は、成る程。面白いな」
渡された半紙の束を一瞥し、至心は口元を歪めて嗤う。
書類に逐一、論われた項目は、その総てが守備隊の不明不徳を突いたものであったからだ。
功罪を論じる場に於いてそれは、守備隊の、曳いては総隊長である二曲輪昭清の監督権を言及するものに換わる。
二曲輪としては否定か封殺を仕掛けたいだろうが、三宮御覧の元で難しい事も想像に容易かった。
「軍権の手始めに、央都守備隊を二曲輪家より奪還いたします」
「石蕗めを刺せぬは口惜しいが、あれの子郎党を削れるなら一先ずは良い。
――儂も、三宮とのお顔合わせは久方振り。そうとなれば、偶の登殿も良いものか」
「父上が、ですか」
弘忠の口調に、純粋な驚きが混じる。
地方との結びつきこそ央都復権の要。そう断じた御厨至心が、神嘗祭に出席するのは実に数年ぶりだ。
そんな至心の姿勢を嗤っていた宮廷雀の囀りがどう向くか、弘忠には予想も難しい。
だがそれでもと、何時になく至心は登殿へと拘泥した。
「御厨の先代当主たる儂を、三宮の主家さま方に忘れられてもな。
それに雨月家と久我家に通じた儂が神嘗祭に出席するのは、そう変事でもなかろう」
「それは、そうですが」
義理の父子が挨拶を交わし、教導の師として久我と誼を通じる至心を想像してみる。
演出としてかなりの期待はできるが、何処まで周知できるか不明だ。
だが、やらずもさて置き、やって喪うものもない。
その事実だけをして、弘忠は肯いを返した。
「……判りました。父上が出席の旨、宮家へ上申いたします」
「過怠なく済ませよ、弘忠」
明るい展望からか、珍しく機嫌の良い父親の応え。
そう慮れば労苦も些少か、弘忠は深く首を垂れて肯いを返した。
旧家を下すための策動を事務的に済ませた後、至心と弘忠は遅い昼餐を取った。
黒塗りの膳へ並ぶ、酸味の強い漬物と炭に焙られた鮎。
薄く艶の張った鮎の皮が、音も小気味良く噛み砕かれた。
脂の乗った旬の身を愉しむ父子の会話はやがて、百鬼夜行の被害へと移る。
「西の大路は見たが、八の条辺りも壊滅したか」
「はい。五行結界の護持は万全と油断したが故、余計に被害は広がったようで」
「――大店は軒並みであったが、大路の復旧は何時頃の見通しだ?」
「冬支度を目前に控えているので、下民共の住まいを優先すると。軒先までとなれば、宮大工を総出にしても来年は掛かるでしょう」
後ろ向きともとれる弘忠の応えは、至心にとって在るべき央都の理想を汚すものに近い。
その不満からか、老人は口元を歪めた。
「下で這いずる地虫風情が優先とは。央都で呼吸を赦すだけ、旧家が慈悲深いと感謝してほしいものだが」
「お気持ちは分かりますが、此処は堪えていただきたく。
石蕗め等も抗弁されたようですが、藤森宮さまが頑として譲らなかったと」
軍事権を統率する藤森宮が判断したならば、旧家にあって不満を述べる権利など存在しない。
藤森宮は間違いなく、高天原に於ける最高権力の一角なのだから。
「下民にも斉しく慈愛を照らすとは、宮家の心痛は察して余りある。
しかし、その価値すら理解できぬ虫に向けてられてもな」
「父上の御意見は尤もですが、こればかりは如何ともし難く。
――百鬼夜行の顛末は、五行の要山に気を取られたようで。結果として山巓陵への侵攻は防げたようですが」
「となると、要山の守護を放棄した近衛の面目は丸潰れか」
「ご賢察の通り。近衛央軍は疎か色軍すら、山巓陵で震えながら終了の報を聴いたと」
央都が誇る近衛は央洲の精鋭たる央軍と、各洲より供出された精鋭で構成される色軍に分かれる。
至心が掌握していた数十年前まで、近衛は評判に違わない内実を誇っていた。
――しかし、今回の為体を耳へとするに、現在の近衛を統括する石蕗家の専横こそが諸悪と断じるに充分。
「今回の件で、石蕗めは大きく信用を落としただろう。
早い内に近衛を奪還し、綱紀粛正に着手せねばなるまい」
「父上の軒昂ぶり、雨月天山殿も安堵されるでしょう。
――過日、義王院登殿の折りにお会いいたしましたが、頻りと残念がっていました」
「神嘗祭には会わねばなるまいな。儂よりも、義王院家に入る直孫に集中してほしいものだが」
「そちらは充分過ぎるほどに。初めての顔合わせでありましたが、颯馬くんの若武者振りは何とも気の好く風情でした」
「そうか、そうか!」
弘忠からの応えに、顰めた至心の表情も好々爺然と崩れた。
伝え聞く噂話は、ここ百年で届かないほどに讃えるものが多い。
八家と旧家の血筋が撚り編まれた高天原の結晶だ。――話題に確信を覚える度、至心は耐えなく悦に浸った。
義王院家との婚姻が上手く進んでいれば、今年の神嘗祭で公表と相成る。
噂を装い旧家の間に流布し続けた、その努力が結実した格好だ。
央都内部の権力争いにしか能がない旧家であればこそ、この類の俗説を無類に好む。
一縷の望みを賭けて家督を譲った弘忠も、武才はともあれ政治の才覚は能く顕してくれた。
――お陰で、石蕗から近衛実権を奪還するも、目前に期待できる。
己が老躯の朽ちるまでに回天の芽を。一時は半ば諦めていた野望を目前に、老境も終わりに近づいた至心は白米を大きく口に含んだ。
活きの良い鮎の脂を、新米の甘みと共に深く味わう。
老人とは思えない食欲に箸先が踊り、山菜の漬物へと。
ふと浮かび上がる気掛かりに、至心の箸が止まる。
「……そう云えば、弘忠。貴様の進めていた、水利権譲渡の密約はどうなった?
ここ最近、その辺りの進捗を聞かないが」
「ご指摘の通り、それに関して芳しくはありません」密かに悩み心中を突かれ、弘忠は眉根を顰めた。
「井實殿との密約は確かに。洲議の長へ躍り出る支援と引き換えに、央都へとつながる水脈を譲ると。
――ですがここ最近は、連絡を入れようにも梨の礫。七ツ緒に潜ませた間諜の反応も、鈍い有り様でして」
不満の残る応えに憂う息を吐き、至心は思案を遊ばせる。
「所詮は辺土の俗物か。……四方や、儂らの狙いが露見でもしたか」
「御懸念は御尤もにて。ただ、その辺りは問題ないでしょう。
國天洲に動きが無いならば、水利権の齎す利益に目が向いているだけです」
苦く深読みした至心の危惧に、弘忠は笑顔を返した。
井實業兼には、目先の利益へ喰い付く能しかない。
――万が一に露見したとても、央都へ水脈を売り渡す事を井實は躊躇いもしなかっただろう。
あれにとって水脈はその程度の価値であり、燦然と輝く洲議の頂しか見えていなかったのだから。
央洲は水脈に乏しく、安定した水脈の独占は永く央都華族の悲願でもあった。
それは一側面に於いて、確かに事実であろう。――だが、御厨家にとっては、別の側面もあるのだ。
「――水気の龍脈に細工を施せるのは、もう少し遅れるか」
「今暫しの辛抱を。これに成功すれば、陰陽省を抑える事が叶います」
水脈は確かに。だがその裏で、水脈は水行の龍脈を兼ねている事実も併せ持っていた。
土克水。水行に克ち得る央都は、非常に水気の龍脈が少ない。
ともすれば華蓮よりも数が無く、水行の要山が最大のものであると聞けば実状も判るだろう。
手に入れた水脈に孔を穿つ事で、水気を汲み上げる井戸を央都に建てる。
私的に利用できる水気の龍脈。それは央都に在って、陰陽師たちが求める垂涎の代物だ。
それこそが、水利権を欲した御厨弘忠の本当の狙い。
目論見が完遂した暁には、石蕗家すら弘忠に配慮せざるを得なくなるはずであった。
胸の空く想いと共に、山菜の漬物を口に運ぶ。
からし菜の刺激と共に広がる、独特の苦味。なんとも苦手な味わいに、至心の口元が不機嫌に歪んだ。
「――余り旨くないな」
「意味の方が重要ですので、味は態と落としてあります。そう聞けば、味わいも深く思えるかと」
弘忠の指摘に、改めて漬物へと視線を向けた。
からし菜に混じって覗く、濃い緑色の菜物。
――その正体を悟る。
「そう云う事か。為らば美味よな」
くつくつと咽喉を鳴らし、至心は大きくその漬物を奥歯で磨り潰した。
えぐ味の強い青臭さが、咽喉に残る。構うことなく憎しみから、至心は石蕗とからし菜の漬物を呑み込んだ。
「――颯馬くんの婚姻を幸いに、私の策動には余裕が生まれました。
最悪あっても、井戸の完了は颯馬くんの卒業まで遅らせる事が叶います」
「出来た孫よ。雨月は当然、これで御厨家の尊きも証明されたというもの。
――百鬼夜行の顛末は知らされておるか?」
元とはいえ、近衛総代の意地は健在か。鋭く問われて、弘忠は頭を下げた。
「鐘楼山から侵入した百鬼夜行は二つ。その意図は詳らかにされていませんが、何らかの謀で動いていたのは明白です」
「一直線に、茅之輪山と玖珂太刀山へか。近衛が引き上げたなら、残っているのは各州の手下のみ。
せめて、國天洲での動き程度は探れぬものか」
「そちらも混乱しているようで、申し訳なく。……ただ、近衛に残した遠縁が伝聞を。
――水行の要で義王院をお守りし、化生を瀬戸際で止めた衛士がいるらしいと」
く。息子の伝聞口調に、至心の咽喉が快く鳴る。
義王院家の傍で控えることが赦されているものは、側役2名と非常に限られている。
賦役が伝わらないならば、残る可能性は義王院静美が傍に近づく事を赦したという事だ。
至心にとって、該当する人物はたった一人。
「颯馬の活躍は順調か。うむ。神嘗祭で初の顔合わせなど、義王院家に戸惑いを笑われてもいかんな。弘忠。天領学院へ直接頼んでも、事前の顔合わせは願えんか」
「勇み足ですよ、父上。――向こうも忙しい最中、頼みだけは入れておきましょう」
「それで良い。旧家の言葉を容れぬなど、華族として言語道断よ。
請われれば、多少の無理も通すのが当然じゃ」
小気味良く首肯を返して、御厨家の会話はこれで終わった。
残る会話は、日常に細々としたもの。
――神無月の中旬、央都上洛。
それは、神嘗祭を控えた、肌寒い日。
数年ぶりに御厨家の父子が交わした、穏やかな昼下がりの一幕であった。
御厨弘忠は間違いなく、その日の内に要望を学院に通した。
本来であれば、容易く通る程度の我儘。
だが、想定とは裏腹に、些細なその願い出の返答が返ることは無く。
無慈悲に数日を過ぎる後、状況が変わる事の無いままに神嘗祭を迎えた。
お待たせしました、四章の開幕です。
章題は帰月懐呼篇。
投稿の時間に変更はありません。
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