愛しき妻よ……どうやら俺は異世界でマーマンに転生してしまったようだ
「お父さん、私達を育ててくれてありがとう……大好きよ」
長女の美幸が俺の手を握って、泣き笑いしながら言ってくれた言葉を最後に全てが真っ暗になった。
───その瞬間に俺は死んだ。
……もうすぐ死ぬと分かっていた。もう充分に生きたから悔いは無い。
娘を三人産んでくれて、仕事で疲れた俺をいつも笑顔で迎えてくれた、若くして交通事故で亡くなってしまった妻の夏樹に漸く会えると思えば、死など怖くは無かった。
仕事中に突然携帯が鳴って、警察から奥さんが事故で亡くなったと知らされた時の絶望感は今でもありありと憶えている。
最近はスマートフォンが多いが、夏樹が生きていた時にそんな物はなかった。
簡単に登録内容が見れたからこそ、「旦那様」って登録されてた俺に真っ先に連絡が入った。
もうこれ以上、当時の事は思い出したくもない。
夏樹…………愛しい俺の妻。
愛して愛して、結婚出来た時は幸せ過ぎて、今なら死んでも良いって思った。
それなのに、見る影もなく、傷付いて息絶えた君を抱き締めて泣いた時、俺も一緒に死にたかった。
……二度と開かない瞼。もう永遠に微笑まない唇の冷たさが俺の心を殺しかけたが、君によく似た娘達が俺を辛うじて生かした。
あぁ……だが、それも全ては過去だ。
きっと夏樹が迎えに来てくれると信じて、最期の息を吐いた俺は、夏樹の笑顔だけを思い浮かべてた。
「……おい!おい!!起きろチビ!!!」
……煩いなぁ。夏樹以外の声は断固拒否する!
夏樹はいつも可愛い声で、「陸さん、朝ですよー!」って起こしてくれた。
尾てい骨に響くような低い声はお呼びじゃねぇ!!!
頭の隅で考えて、ハッと目が覚めた。
老衰で死んだ俺を、可愛い夏樹以外の誰が呼んでるんだ?
ガバッ!!っと勢い良く起き上がった俺の眼前にいたのは、夏樹じゃなかった……。
…………は?
…………サメ?
どう見てもサメとしか思えねぇ、大きい魚……。
仰天して周囲を見渡してみたが、視界に入った何もかもが、海としか思えねぇ要素満載!!!
そしてどうやら俺は珊瑚の根元にいる。
不思議な事に息はちっとも苦しくない。
「俺は内藤陸だチビではないぞ。享年89歳。ついさっき死んだ筈だがお前は何だ?」
あまりの意味不明さにサメが話しかけているという珍事をスルーして真面目に名乗ったら、目の前にいるサメも真面目としか思えない口調で喋った。
「俺はイタチだ。お前はマーマンか?」
「……は?」
マーマンとは何ぞやと思いながら手を持ち上げてみたら、五本指に変わりはなかったが、指の間に水掻きらしいものがあった。
驚いて己の身体を見下ろしてみたら……、足が無い。
二本脚の代わりに、真珠色の鱗の尾びれが…………。
「何だこれはくぁwせdrftgyふじこlp!!?」
大混乱だ。
魚!?俺は魚になったのか!?
いやしかし手は一応ある。
顔を触ってみたら、目鼻の凹凸もきちんとあり、人間の顔のようだったが、耳の部分がヒレらしきものになってる……!
「おい落ち着け。何も取って食おうって訳じゃねぇ。マーマンかって訊いてるんだ」
「俺は人間だ!」
「……ニンゲン?何だそれは?個体名を言われても分からねぇぞ」
人間を知らないだと!?
あぁいやでもそうか……海の生物が人間という言葉を知らなくてもおかしくはない。
……そもそも、今の状況の方がもっとおかしいな。
「ったく……産まれたばっかりで未熟らしいな。もういいから歌ってみろ」
「は……?歌?」
「そうだ。マーマンなら歌えるだろ。何でもいいから歌え。歌えねぇならマーマンじゃねぇから食う」
俺の周囲をずっと泳いでるイタチ……恐らくはイタチザメだろう。
悪食で有名なサメじゃねぇか!
歌えねぇなら食うとは、意味不明で理不尽過ぎる。
とにかく、何が起きているのか把握する前にサメに食われてジ・エンドになるのは真っ平御免だ。
カラオケは苦手だが、娘達の結婚式で歌った「娘よ」を破れかぶれで歌ってやった。
歌い終わって暫く、イタチは黙って俺の周りを泳いでいたが、俺に顔を向けて「良い歌だった」と呟いた。
「俺達の知らない歌を歌うお前は、間違いなくマーマンだ。今日から俺がお前のガーディアンになろう」
「……は?」
どうしたものか、更に意味不明さに拍車がかかったぞ。
だがガーディアンだと言うなら、少なくともイタチに食われる危機は回避出来たって事だろう。
「それでお前の個体名はナイトウリクとニンゲンのどっちだ?」
「……陸だ」
「リクか。ではリク、俺に個体名を付けてくれ。マーマンはマーメイドに捨てられた子とはいえ、貴重な海王の子である事に変わりはない。確かな繋がりを作っておかねぇと、万が一離れ離れになった時に厄介だからな」
……今さらっと凄い情報が齎されたぞ。
マーメイドに海王!?
追及して分かった事は、この海には「人魚」ではなく「マーメイド」と呼ばれる種族がいる事。
人間って単語が通じないのだから、そりゃ人魚とは呼ばれないだろう。
マーメイドは海の生物の中で最も美しい種族であり、海の神である海王に仕える為に、深海の宮殿にのみ生息している。
そしてマーメイドは基本的にメスしか生まれず、稀にオスが生まれると不吉だという理由で浅い海に捨てられるらしい。
それが俺だと。
つまり、俺はそのマーマンとやらに転生したという事なのか?
死んだ筈なのに、内藤陸の記憶を持ったまま、半魚人みたいな生物に。
唖然とした。
89年の長い人生の中でもこんなに信じ難い出来事はなかった。
だが水掻きのある手は俺の意思で動き、泳ごうと思えば驚く程簡単に泳げた。
まるでイルカにでもなったように、スイスイと自由自在だ。
海面から降って来る光を見上げれば、あまりの美しさに感動も覚えた。
地球……ではないんだろうな。
マーメイドもマーマンも、喋るイタチザメも地球の海には存在しない。
娘や孫達が好きだったアニメの中の架空の存在だ。
「おいリク、チョロチョロしてねぇで早く俺に名前を付けろ。近海に俺より強い奴はいねぇが、ホオジロやマッコウに出くわしたら何があるか分かんねぇからな」
……地球ではなさそうなのに、生物の名前がそのままなのが不思議だ。やはり地球なんだろうか?
「イタチでは駄目なのか」
「それは俺個体の名前じゃねぇ。もし助けが必要な時にお前は他のイタチまで呼び寄せる気か?捨てられて最初に遭遇した俺以外は、誰もお前のガーディアンにはなってくれねぇぞ。血を目当てにパクッと食われちまうか、甚振られて無理矢理歌わされるかのどっちかだ」
「……聞き捨てならない言葉が交じってたが、血を目当てとはどういう事だ?」
「そんな事も知らねぇのか。マーメイドとマーマンの肉を食うと、混じった海王の血の力で不老不死になれる」
あぁ……成程。その伝説知ってるぞ。八百比丘尼だな。
いやいや納得してる場合か!?
俺を食ったら不老不死になるだって!?
「分かったイタチ。お前の名はジョーズだ!!」
サメの名前でそれ以外に思い付く筈ねぇよな。
ネーミングセンスがないのはよく分かってる。自慢にもならんが、娘達の名前は最終的に全て夏樹が決めたからな。
夏樹がこうしたいって言う事には全て頷くイエスマンだったのが俺だ。尻に敷かれてた?いいや違う。愛する嫁の言う事なす事全部可愛いから許すんだよ!
……あぁ、あの世で夏樹に再会する筈だったのに。
「強そうで良い名前じゃねぇか。よし!今日から俺はジョーズだ!!!」
牙剥き出して笑うという、恐ろしい表情のサメに頭で掬われ、珊瑚礁から連れ出された俺のマーマン生がどうなるのか不安しかない。
背ビレに掴まった自分の手があまりに小さくて、チビと呼ばれた事に納得しつつ、そういえば声も幼かったと今更気付き、落ち込んだ俺の行く手には澄み切った海がどこまでも広がってた。