飲み会の後に
『母さん、おれフランスいきたい』
『就活やめてアジアにいってくるわ』
『おれ、会社辞めるわ』
…変化は突如としてひとを襲い、彼自身、そして彼を取り巻く人々を混乱に陥れる。
「はぁ? どうしてそうしたいわけ?」 「なんで急にそんなことするの」 「やった後どうすんの?」
なぜ? なんのために? 果たしてそこに答えは求められるべきなのだろうか。果たしてそこに正解はひつようなのだろうか。旅人を志したひとにとってはそうした問はただの愚問なのであろう。
人生を大きく変化させること、そのことにわたしたちは描写しようもない不安、恐怖を抱く。だが考えてみてほしい。今日の夕食の献立、休日予定もない日の起床時刻、常煙者の一日に吸う本数…。これらは長期的な視野で見れば自身に多大な影響を及ぼすであろうが、事実、極めて些細な選択である。
思うに、いったいこれとどう違うというのだろう。
「そうしたいから、そうする」 「ふとそうう思ったから」
そう、あらゆるものは恣意的なのである。その時あなたが思うように、感じるままに、小川の流水のように、動くがままに任せられているのである。そうした流れは個々によって異なり、あなたの発した突然な行いが反発を受けるのも、他者の自然な流れによるものなのだ。その反発に流れ元ある流れに戻るもよし、また抗い独自の、新たな流れを創るもまた一興なのである。
ここまで最低限分かってほしいと願うことは、「恣意的」であるという点に尽きる。
いまあなたが居る部屋には、ごらん、天井があるだろう。腰を上げ立ち上がろうとも、手をのばそうとも、その場から天井に手が届くことはない。ばかげた教授が講義室で繰り広げる持論は、その大きな黒板に十二分におさまり、余白が残ることだろう。偉大な画家の作品の細部を彼に尋ねてみれば、そこには批評家らが口々に言う小難しい表象などはさして見当たらないはず。―――人が生活できる範囲以上に天井が高いのはなぜなのか? 必要以上に黒板が大きいのはどうしてか? 絵画のありとあらゆる点すべてには作者の隠された意図が隠されているのか?
…つまりは、人間を含めてその周りの事々の多くは恣意的に決定されており、なぜそうなった? なにを目的にそうなったのか? そんなことは大方どこかの理論好きな輩に後付けされていて、それを造り上げた当の本人は知らぬ顔なのだ。
やりたいと思ったことをやる、やり続ける、とことんまでやる。このことが人を人たらしめ、ふと後ろを振り返れば、到底無理だと決め切っていた巨大な山脈なんぞもぽつんと背にあるわけなのだ。
飲み会終わりの寂れた大学生は、このように思うのであった。