春雨プレゼンツ
月でいえば3月から5月くらいまでの間、その期間に降る柔らかな雨を春雨と呼ぶらしい。
「……」
シャッターの降りた古い商店に背に預け、濃い灰色の空を軒先から見上げる。音もなく降る白線、透明な雨粒の連続は地面へとぶつかり砕けて跳ねて、流れる水流へと変わると道路の溝に消えて行く。
「はぁ」
漏らす自身の溜息に私は今日の『失敗』を痛感していた……家を出る時に本の少しでも天気予報を気にしていれば、外へと出たらすぐに分かるような暗い空に何故気付かなかったのか、玄関に置いてある傘差しの内の一本でも見ていれば……全て後の祭りだが悔い始めてしまうとキリがない。
「……」
普段であればこの程度の雨でも走ってしまう。3月も中盤に差し掛かり通り抜ける風に少しずつ温かみを感じられるようになって来た季節だ。濡れて凍える事を恐れずに構わず走り抜けてしまう事だって出来なくはないが、今日に限ってどうしてもそうしたくない理由があった。
「参ったな」
意地の悪い空は見上げ続けるこちらの気も知らず止ませる気配すら見せてくれない。春と呼べる間だけに降る特別な雨の下。忘れてしまった傘に、惚けて立ち往生している自分の姿。
「……」
やけに記憶の隅に引っ掛かるこれらの条件に、なんだったかと頭を捻るよりも先に忘れられない情景が鮮烈な思い出となって胸に浮かび上がってくる。
――まだ私が中学生くらいだった時の話しだ。涙を飲んで見送った先輩達卒業式も無事終わり。あの時の私も今と同じような状況で静かな雨に足止めをされていた。
古い校舎の玄関口から見上げるいくつもの白い線、当時学校から家までの距離が遠かった私は無闇やたらと雨の中に飛び出していく事が躊躇われ。どうしようもなく呆然と、晴れる事を待ってただただ待っていた。
そんな時に、唐突といってもいい形で彼女は現れる。
『そういう所、いつも抜けてるんだから』
「そういう所は、いつまで経っても抜けているんだから」
「……え」
「はい」
「あ、ああ、うん」
掛けられた声に私は思考を戻す。
突然横から飛び出して来たようにしか見えなかったその人物は笑顔と共に私へ向け一本の黒い傘を差し出してくれる。私が愛用している折り畳み傘だ。
人を脅かすという事に人一倍気合を入れている彼女はいつでもどこでも突然の行動で私を脅かす事を狙っている。今もそう目を見開いて見つめ返す私に対して彼女は茶目っ気のある笑みを覗かせ自分は持ってきた白い傘を開いて見せる……どうやら相合傘をして帰ろうなんてそんな甘酸っぱい考えは持ち合わせてないらしい、そんな所も以前から同じだ。
「帰りましょう」
不承不承に私が傘を受け取ると彼女は私を置いてさっさと雨の下へと進み出る。慌てて続く私が隣に並び広げた白黒の傘が並んで歩き出す。
空から振り続ける無数の白線、水滴に煙る周りの景色は晴れの日とは大きく異なり耳喧しい雨の音がしない分、妙に不思議な気分に私をさせた。
整備された歩道、左側を歩く彼女の傘越しに見える花咲く花壇。傘同士がぶつからないように変に距離を取って歩く私に小さく含み笑う彼女の声が聞こえてくる。
なんだか見透かされているみたいで嫌な気分だ。
「わざわざ傘二つ持ってこなくたって」
「え?」
「一個でも、いいんじゃないかな」
「あら、私と相合傘したかった?」
「え、い、いや別にそういう訳じゃ……」
「ふふふ」
「……」
目を合わせられなくなりそっぽを向いて言う私だったが今日は少しだけの自信を隠している。
今はいい。今は仕方ないと勝負も諦めるが問題は家に帰った後だ。隣を歩く彼女に見えないよう小脇に抱えた小さな紙袋を奥に押し込み。少し待てばやってくるだろう、今度は自分に驚かされて目を見開く彼女の姿を想像して笑みを浮かべる。
「帰ったらね」
「ああ」
「帰ったらそのクッキー、一緒に食べましょうね」
「……え」
「丁度向かいの佐々木さんに珍しいお茶を頂いたの、私飲む機会をずっと窺って待ってたんだから」
「……」
「だから早く帰りましょう。アナタ」
「……うん」
私の口からは最早乾いた笑いしか出てこない。
用意がよすぎるというのも可愛気がないというかなんというか……
「はぁ」
私が彼女を驚かせられるようになるのは当分先かも知れなかった。
自分への課題:本文中にホワイトデー、お返し、ありがとうの三単語は使わずにそれっぽく仕上げる事。
春雨っておいしいですよね