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【6】必至と必死、夢中と霧中

 その日の夜、格納庫で運用試験課全体の親睦会があった。


 来週からは3交代制になる。3つの班に所属する全員が同時に顔を合わせることは、今後ほとんどないだろう。

 キセナガ開発部部長のヤマモトを上座に、次長のタカハシ、整備士長、班長3名などが続き、残りの席を他の課員たちが自由に座っていた。


 しかし、2時間も経つと席に変化が見られた。たとえば、タナカは自分の椅子をタカハシの後ろに持ち込み、エライ人たちの談笑に首を突っ込んでいる。


 席から離れたところでは、整備員と班員の一部がふざけあってる。

〈ヤマダァァァァァ、脱げえぇぇぇぇぇ!〉

〈スミレ! 歌います!!〉

 などの声が聞こえてくる。

 生体甲殻機の模擬訓練装置にこもっているのはナカムラだ。酔いを覚ますと言って入ってから30分以上経つ。その外部モニターを同じ壱班の女性班員コバヤシがじっと見ている。


 ワタナベがサトウのところに来たのもちょうど30分くらい前。ワタナベは、そのときエライ人席に座っていたスズキをちらちら見ながら、サトウと談笑していた。

 人のいいサトウはついついワタナベの話に乗ってしまう。やがて15分くらいすると、たまりかねたスズキが、いかにもワタナベのそばに来るという体を装って、サトウのそばに座った。

 椅子は自分のところから持ってきたらしい。


「あらあらぁぁぁあ? アヤメ先生のご登場だわ。ナニ? ヤキモチ焼いちゃった!?」

 ワタナベがニヤニヤしながら言った。

「そんなんじゃないよぉ。様子を見に来ただけ」

 スズキも笑っている。

「イスもってきてんじゃん」

「うっざいわねぇ。クルミは……。いちいち」

「冗談、冗談。ま、座って座って!」

 会話はワタナベのペースで進んでいく。


 時折、ワタナベがスズキとサトウの仲を冷やかす。

「まあ、今度のアヤメとのデート、悔しいけど、サトウさんに譲るわぁ。邪魔になっちゃうしね……」

「まだ、行くって決まったわけじゃないわよ」

 スズキが顔を赤らめる。

「ああ、そういう話はもうあるわけねえ」

「ひどい、誘導尋問じゃない!」

「ねえ、サトウさんさぁ……」

 ワタナベの顔がいたずらっ子の表情になる。

「耳を貸さなくていいわよ。サトウさん!」

 慌ててそれを遮るスズキ。

「えっ……? ああ、はい!」

 としか、サトウの口から出てこなかった。

「いやあ、アツい、アツい」

 右手で顔を仰ぐまねをするワタナベ。

 スズキもサトウも悪い気持ちはしなかった。


 しかし、離れたところから、参班班長ヨシダの話が聞こえてくると、スズキの表情が少し曇った。

〈タナカ君んん、は、実ぅぅぅに素晴らしい。わが班にぃ、欲しいくらいダ。アノ班長んところじゃぁ、モッタイナイ……。カトウ班長モッ、ヤマダ君とナカムラ君んん、っを、交換したいって、言っていたじゃあないかぁぁぁア?〉

 ヨシダの声は、誰が聞いても、だいぶ酔っているのは明らかだった。

「ヨシダさん、あれは酒の席の冗談ですよ。冗談。困るなあ」

 弐班の班長カトウがヨシダをいさめるように言った。

(私を巻き込まないでくれ)

 とでも言いたげな表情だ。

「あ~あ~、すまんすまん。真に受けてしまったよ。私は本気だがね。タナカ君んん、きみゎ、スゴイ! 民間にぃ、スゴイ女性がいるとぉ、聞いていたんだがぁぁぁ」

 胃にたまったガスを出したのか、ヨシダの話が一瞬途切れる。


 そして、ひと呼吸置いて続けた。

「いや~、実際にこの目で見ると、スゴイ。スゴイよぉぉぉ」

 ヨシダの巻く“くだ”にとまどうタナカ。タカハシに助けを求めるような視線を向ける。

「ヨシダさん。ど~、ど~。部長もカトウ班長も引いているじゃないですか。タナカも困っちゃってますよ。褒めちぎられちゃって……」


 そのやり取りはワタナベたちの耳にも入ってきた。聞きたくなくても聞こえてしまう。

「タナカさん、この前も広報と一緒にいるところ見たわよ。いっぱい取材受けてるわよねえ。テレビ見た?」

 と、ワタナベ。

「事務所で見ました。みんなで……」

 サトウが答えた。

「アタシも、整備のみんなと一緒に見た。もお、すっかり有名人って感じよね」

「ホソダにしたら、大事な広告塔だもの……。キセナガの受注にもつながるし……」

 猪口をもてあそびながら、スズキがワタナベに応じた。

「でも、タナカさんの実力は本物ですよ。それを鼻にかけることもなく、シレッとしてるし……」

 と言って、徳利を差し出すサトウ。スズキは、聞こえないくらいの声で礼を言うと、猪口を差し出さずに徳利そのものを受け取った。

「タナカ機の記録映像見たけど、あの動きは民間じゃあないね。なんか活劇映画みたいだったわ。もし競技会みたいなのがあったら、間違いなく上位だね。ありゃ、すごいわ」

 腕を組むワタナベ。


 スズキはそ知らぬ顔で酒を飲んでいる。しかし、ヨシダの声が部分的に耳に入ってくる。

〈たかだかぁ、初等士官学校でぇ……。実戦は2年やそこらでしょぉ? ……大丈夫なの?ってことなのよ。命預けられるかってことなのよ〉

 ヨシダの話はたぶん自分のことだと、スズキは思った。

「若い女と同じ立場ってのが、面白くないんだろうねぇ」

 ワタナベもそう受け取ったらしい。そう言って、ぐい飲みに口を付けた。


「……ヨシダさん、ちょっと酔いを覚ましにいきましょう」

 そう言って、カトウはヨシダをかつぐように立たせた。ヨシダの乱れぶりがカトウもたまらなかったのだろう。ほとんど正体を失ったヨシダは抵抗しなかった。


「ホントに個性豊かな面々だな。まあ、われわれ2人でうまくまとめていこうじゃないか……」

 そう言って、部長のヤマモトがぐい飲みを上げた。タカハシはにこりとしてそれに応じた。

「ぐぁんばっっれ、くらさい!」(がんばってください)

 酔いの回ったタナカもぐい飲みを上げる。ヤマモトの言う〈個性豊かな面々〉の一人に自分も数えられていることに気づかずに。


***


 ……タナカの機体におかしなことが起こったのは、それから数日後のことだった。


「タナカさん! ちょっと待って! その機体、なんかおかしいから!」

 それは壱班が出動するときだった。生体甲殻機に搭乗しようとするタナカを整備員のひとりが呼び止めた。

「えっ? オカシイってどういう意味?」

「操作系も制御系も起動しないんだよ」

 と言って、整備員がタナカを手招きする。タナカは整備員の端末画面をのぞきこんだ。その隣には整備士長もいる。

「ナニこれ、どういうこと? 〈ナンチャラ〉異常ってのが並んでるけど」

「わからないんだよ」

「わからないってどういうことよお」

 不満げな表情を隠さないタナカ。

「昨日までは問題なかったんだよ。おかしいなあ」

 整備士長は、腕を組んだまま、そのやり取りを黙って聞いている。

「おかしいなって、どういうことよお。出られるの? 出られないの? って、アタシは出たいんですけど!」

「誰かが意図的に操作しないと、こうはならないんだよなあ」

「おい、ヤマグチ、次長と班長にすぐに報告してこい! タナカ君、今日は悪いが、あきらめてくれんか。原因を突き止めなきゃならん」

「ええぇぇぇぇぇ? んもう! ……分かりました」

 タナカは、その怒りを床にぶつけるように歩きながら、事務所に戻って行った。


 結局、その日は、タナカを除く3名が生体甲殻機に搭乗。イトウが事務所でごねるタナカをなだめすかし、指揮車に載せて現場に向かった。

 新体制になってから、次長のタカハシは管理業務のため事務所詰めとなっていた。つまり内勤である


***


 壱班が地下都市建設現場で警備をしているころ、一方で整備士長のマツモトがタカハシのところへ報告に来ていた。

「ありゃ、ずいぶんと悪質だ。時限装置だからよ」

 と言ってマツモトが茶をすする。

「と言うと……?」

「一定時間が経つと、機体が急に動かなくなるように仕込まれていた。しかも、意図的にだ。機体の安全装置が働いて事前に察知することができたがよ」

「う~ん……」

 タカハシは、握っていたペンを離して虚空を見つめた。

「部長さんにも申し送り頼むよ。詳しいことは書類にまとめて提出するからよ」


 〈おかしなこと〉は、それだけではなかった。さらにその数日後、今度はタナカ機の栄養液に薬物が混入されていた。栄養液は生体甲殻機の維持に不可欠な液体だ。

「アタシのキセナガが殺されるところだったの!?」

 タナカの〈殺される〉という表現は決して間違っていない。


 生体甲殻機は〈ある意味〉生きている。生体甲殻機は待機中、ホースをつなげられている。

 そのホースを通して、生体組織の維持に必要な栄養液が送り込まれている。また、別のホースからは排泄物が液体で出される。もちろん、その排泄物は自然界の動物のものとは全く異なる。

 その栄養液に、毒物、生体甲殻機に異常をもたらす何らかの薬物が混入されていたわけだ。

 しかし、これも整備員によって事前に発見されたため、タナカ自身は全く無事だった。生体甲殻機に搭乗できなかったこと以外は……。


「これは明らかに事件だねえ……」

 部長のヤマモトが言った。勤務交代の引き継ぎ時間を利用してヤマモトとタカハシのふたりが小さな応接室で話している。

「タナカ君をねたむ者の犯行かねえ……。タナカ君だけ、ちょっと甘やかしていたところもあったからなあ……」

 ヤマモトが続けた。

「そういう可能性もありますが、もっと組織的なものを感じます……」

 と、タカハシが口を開き、話を続けた。

「キセナガの操作設定も、毒も、個人の力では難しいと思うんです。整備班の誰かなら、できないことはないですが……。まず最初に疑われるのに、整備班がそんな見え透いたことをするとは思えませんし……。ましてや、毒物は、成分を分析すれば入手先を特定することも可能です。ただ、われわれだけの力でするのは難しいでしょう。同一犯の犯行とも限りませんし……」

「警察を入れるかね……」

 と、ヤマモト。

「う~ん。まだ、新しい班員が入ってそんなに経っていませんから……。信頼がしっかりと築けていないうちは、互いに疑心暗鬼におちいります。全員をうかがってかかる特定方法は避けたほうがいいでしょう……。私に考えがあります。それで駄目なら警察にお願いするということでもいいでしょうか」

「私も警察沙汰は早いと思っている。タカハシ君に任せるよ。協力できることがあったら、遠慮なく言ってくれ……」


 タナカも折に触れて思い出したようにぼんやりと考えていた。

(アタシをねたんでのシワザね。いったい誰……? サトウさんはありえないとして、あのナカムラとかいう新人……? ナカムラといつも一緒にいてだま~っている、あの気持ち悪い女のコバヤシ……? 他の班の人……? あのヨシダっていうイヤな感じのタイチョー? ライバル企業!? 私の活躍を阻止するために……!? ん~、ん~……。分からん……)

 そして、最後にはいつも自分の考えを次のように締めくくる。

(まあ、いいわ……。ジチョーが任せとけって言っていたから……)

 とはいえ、ふとした拍子に同じことを思い巡らしてしまうのだった。


 タナカには焦りがあった。それはナカムラの存在だ。生体甲殻機を操るタナカの長所を〈思い切りの良さ〉とすれば、ナカムラの長所は〈慎重さ〉だ。

 タナカを剛とすればナカムラは柔。タナカを陽とすればナカムラは陰とも形容できる。同じ優秀な操縦士でもその特徴は極めて対象的であった。

 ナカムラの動きは、教本に忠実だ。また、無駄がない。さらに、攻撃に集中するナカムラと、支援に徹するコバヤシが常に連携して動く。

 たとえば、ヌエと対峙している最中、ホネクイのカートリッジ〈塩水筒〉を交換する際は常に危険が伴う。

 そこで、ナカムラは、コバヤシから武器を受け取ることで継ぎ目なくヌエに対処し、交換時に生まれる〈隙〉を少なくしている。

 コバヤシが武器の受け渡し役にまわっているのは、軍で訓練を受けているときかららしい。

 ナカムラの攻撃の正確さはタナカ並みだ。アツい攻撃をするタナカに対し、ナカムラの攻撃は冷静だ。


 タナカとサトウの間でも、そのような連携をはかることがあるが、ナカムラとコバヤシのようにはうまくいかない。

 無意識にスタンドプレーをしてしまう性格、言い換えれば、何から何まで自分でしてしまいがちなタナカには、連係プレーはあまり向いていないからだ。


 話をタカハシに戻そう。部長のヤマモトと話し合った後、タカハシはある仕掛けを施しておいた。犯人を特定し、その証拠をつかむためだ。

 その仕掛けとはこうだ。

 操縦室にヘルメットを入れておく。ヘルメットには映像を記録する機能があるので、それを常時稼動させておけば、犯人が操縦室に入った瞬間をとらえるというわけだ。

 しかも、操縦室は非常に狭いので都合がいい。

 また、タナカ機の整備担当は当面の間1名だけにしておいた。

 さらに、生体甲殻機の重量の変化を日ごろから記録しているのを利用し、生体甲殻機の体の一部に何者かが載れば分かるようにもしておいた。

 生体甲殻機の操縦室には前側からしか行けないからだ。タナカと担当整備員以外の何者かが載った場合、記録を調べればすぐに分かる。

 しかし、それ以降、タナカ機へのいたずらはなかった。通常業務である常駐警備は、日々問題なく行われた。


 ある日の夕方、部長のヤマモトから通達があった。次長のタカハシはいない。早番から上がり、帰宅していたためだ。

 ヤマモトは咳払いをしてメモを読み上げた。

「え~、〈神の使い〉と名乗る反社会組織が名古屋で地下都市建設現場を襲撃。建屋等を破壊し、ヌエが侵入。多数の死者が出たとのこと。一方、軍と民間支援企業は反撃可能な通常兵器を所持しておらず、一時撤退。反社会組織は、建設作業員に避難を呼びかけた上で気化爆弾を使用。大量のヌエが発生するおそれがあるので、おのおの十分警戒されたい。ヌエが大量発生する場合、小型のものなら2~3日、大型のものなら1~2週間でここ江戸にも到達するおそれがあるとしている。無用な外出を控えるよう、今日にも全国報道があるらしい」

「軍はその後どうしたんですか?」

 スズキが質問した。

「通常兵器で武装した隊を派遣したときには、もういなかったそうだ……。やむを得ず高高度から塩水を散水したらしいが……、まあ、大量発生は避けられないだろうな」


 ヌエに火や熱は利かない。乾燥にも強い。

 たとえば、ヌエを何らかの方法で切り刻むとする。

 その後、ある一定の大きささえ、残っていれば、塩水を注入するなどの処置を施さないと、それぞれの肉片が膜に覆われ、小さいもので1メートル、大きなものでは5~6メートルまで成長し、そこからヌエが誕生する。

 つまり、ヌエを通常兵器で破壊しても、増えるだけという結果になる。また、何もしなくても、ヌエはサナギになり、2~3体に分裂して孵化する。

 国際条約の批准国は、ヌエに関する情報を世界中に公開することになっていて、端末があれば誰でも閲覧できるようになっている。

 しかし、信頼できない情報やうわさにすぎない情報もあり、有益な情報がなかなか集まっていないのが現状だ。


***


 中1日おいて、壱班が早番のとき、ついに出動依頼がきた。


「われわれの担当場所は、地下都市開発地区、12のイ!」

 と、皆に知らせたスズキをはじめ、壱班の班員が格納庫に向かう。


 ……やがて、出動した壱班の一行は、指揮車の索敵装置がヌエの一団を捕捉する場所まで来た。


「全機降車。左右並列縦隊!」

 スズキの指示が飛ぶ。各車両を軸に生体甲殻機が左右交互に並ぶ隊形だ。


「前進!」

 隊形が整ったところでスズキが再び指示を出す。


 この工事区は6車線。片側の3車線は空けておく。別の車両が通る場合があるからだ。

 錆びて赤茶けたビルが立ち並ぶ。以前の反社会組織の空爆により、損壊している箇所が多数目に付く。

 〈この世の終わり〉とはこういう風景なのだろうか……と、この時代のこの世界に住んでいる者なら、誰でも思う。


 一行は静かに進む。どこからか機銃の音やヌエの叫び声が聞こえてくる。


 イトウの乗る指揮車の索敵装置は、直近のヌエが半径200メートル付近にいることを示していた。

「十数体のヌエが接近中。ほとんど小型の個体。正確な数は現在計測中……」

 150メートルまで近づいたところで、イトウが無線を入れた。

「数が多い。網は使わずに、塩水弾とホネクイを使用。サトウとコバヤシは主に支援。タナカとナカムラは攻撃。予備のホネクイはすぐに使えるよう、塩水筒を全て装填して車両の荷台に置いておくこと……。車両は主に散水支援。水はなるべく長持ちさせるように散水すること。なお、隊列の中にヌエを絶対に入れさせないように」


〈ヒョー、ヒョー〉

 ヌエの鳴き声が近づいてくる。


 見慣れない生体甲殻機が2体、トラックが2台……。

 別の支援企業の隊が、壱班から少し離れたところに停止した。

 海外メーカーの機体だろうか、生体甲殻機はギリシャ神話のケンタウロスのような形をしている。上半身には、中世の騎士の甲冑のような装甲を着けている。


『牽制射撃用意!』

『距離、100』

 スズキとイトウの無線が交互に入ってくる。

『分散散水開始!』

 〈分散散水〉とは、ヌエを牽制しながら、できるだけ水量を長持ちさせるために塩水を小刻みに噴霧する方法だ。

『50……30……』

『テェェェッ!』

〈ダダダダダダン……ダダダダダダン……〉

 サトウ機とコバヤシ機が牽制射撃を始める。ヌエの大きさはいずれも2メートル前後。


 3交代制常駐警備の開始にともない、彼らが搭乗する生体甲殻機の塩水弾機銃は、以前よりもやや大きな口径なった。

 政府の指示により、軍用機体との弾薬の共通化を図ったためだ。

 ただし、発射速度は軍の最新式よりも遅い。

 民間機は単砲身の機銃を内蔵しているのに対し、軍は回転式の多砲身機銃、われわれの世界で言う〈ガトリングガン〉を内蔵しているためである。


 空中でバランスを失ったヌエに、タナカ機とナカムラ機がホネクイを突き立てる。

「くぉぉぉぉぉのぉぉぉぉぉ!」

 ホネクイを左右の手に1本ずつ短く持ち、巧みに操るタナカ機。ナカムラに対するライバル意識が働いていた。

 ナカムラは、タナカに感化されることなく、コバヤシと息を合わせて淡々とヌエを処理している。


 その見事な連携がタナカにはなぜかいらだたしかった。2人のやり取りが無線から聞こえてこない。2人とも黙って黙々と息を合わせている。

(ナニあの2人……? 気持ち悪い……)

 1匹倒す。

(テレパシーか何か……?)

 また1匹。

(野生動物か何か……!?)

 さらに1匹倒す。

(宇宙人か何か……!?)

 またまた、もう1匹……。

「サトウさん! みぎぃぃぃ!」

 タナカは、ヌエをリズムよく倒していきながら、そのいらだちをサトウにぶつけてみる。

「だから、遅いんだって!」

 さらに、そのいらだちをサトウにぶつけてみる。


 一方、スズキはタナカ機の動きに小さな異変があることに気づいた。また、同時に、あのタナカ自身が気づいていないはずはないとも思った。

「タナカさん! 無理しないで! 機体の動きがおかしいの分かってるんでしょ!?」

『分かってます! 大丈夫です! 整備の人たち、みっっっちり叱ってくださいね!!』

 タナカが元気よく答えた。スズキの忠告を気にもとめない様子だ。


 直立しているときは傍から見ても違和感はないが、タナカ機の動きは確かにおかしい。

 身をかがめたり起こしたりする瞬間、腰を落としたり伸ばしたりする瞬間にぎこちなさが目立つ。姿勢によってはふらつくことがある。


 スズキの心配をよそに、タナカは後方にいる別会社の一団が危険な状態に陥っていることに気づいた。あのケンタウロスのような生体甲殻機を使用している民間企業だ。

 大きさ2メートル前後の小さなヌエを数多く相手にし、かなり苦戦しているようだ。

 苦戦しているのはこの会社だけではない。スズキ率いる壱班も例外ではなかった。身長9メートルの生体甲殻機の大きさにかみ合わないのだ。

 たとえば、タナカとうまく連携が取れていないサトウを見ると、浮遊するヌエの後足や尾を左手で強引につかみ、右手で短く持ったホネクイでヌエの体を差している。

 そのため、ヌエの鋭い爪や尾の攻撃を受け、その左手と左腕から出血している。


 ヌエが出現した当初は、尾を除く体長が2~3メートルのヌエが多く、生体甲殻機ではなく装甲強化服を装備した人間で十分対応できた。

 しかし、時が経つにつれてヌエ、特に日本に生息するヌエは大型化し、その結果、生体甲殻機の誕生につながった。ヌエは〈生き物〉を無差別に襲う。その習性も利用した駆除方法だった。

 現在では尾を除く体長は平均7~8メートル、特に大きなものでは12~13メートルの個体も確認されている。


 壱班の後方に、もこもこした白い塊が2つ……。ケンタウロスのような生体甲殻機2機が、全身ヌエまみれになっているのだった。ヌエはどの個体も2~3メートル。

 うち1機は、手をあわただしく動かし、小さな虫を払うような動きをしている。パニック状態といった感じだ。

 もう1機は、地面の上に倒れ、たくさんのヌエに覆いかぶさられている。中には大きなヌエもいる。

 その状況の深刻さは、生体甲殻機から流れ出た大量の血液が道路を染めていることからも分かる。

 トラック2台も、浮遊するヌエに囲まれて尾の攻撃を繰り返し受けていた。2台あるトラックのうち、1台は全く沈黙している。

 もう1台は、空中のヌエに向かって機銃を掃射している。自分の車を守るのが精一杯といった感じだ。


『タイチョー、後方の支援に行きます!』

「いけません!」

 スズキは強い口調でタナカを制止した。タナカ機の動きがおかしいからだ。

『黙って見ていろって言うんですか!?』

「ナカムラさんに行かせます!」

『ダメ! 私が行きます! 大丈夫です!!』

「これは命令です!」

『ダイジョウブ、ダイジョウブ! 〈いつものとおりに〉やりますから!』

 以前、タナカとタカハシ、イトウの3人で支援出動したときのタカハシの言葉を引っ張ってきて、快活な口調で答えると、タナカは、スズキの忠告に耳を貸さずに突っ込んでいった。


「どりゃぁぁぁぁぁ!」

 声を上げながら、倒れているケンタウロス機を覆う多数のヌエに駆け寄る。ホネクイを握った左右の手を交差させて、左から右、右から左へとなぎ払おうとしたとき、それは起こった。

 氷上で転倒したように、尻餅をついたのだった。

(!!!!!)

 一瞬戦慄が走ったものの、タナカは声を上げずに機体の姿勢を立て直す。しかし、その動きはひどく緩慢だ。人間にたとえれば〈ヨッコラショ〉と声が聞こえてきそうな動きだ。

「あれっ!? 言うこと聞かない……」

 タナカが焦りの気持ちを言葉にしたときだった。


 その隙を逃さず、数匹のヌエがタナカ機のアキレス腱に襲い掛かる。1匹が噛み付き、バランスを失ったタナカ機はバランスを失って再び仰向けに倒れた。

「キャァァァァァ!」

 大きな衝撃がタナカを襲う。タナカ機が受け身を取れなかったためだ。


 タナカの悲鳴を無線越しに聞いた班員が一斉に振り向く。

「各機、目の前のヌエに集中せよ! 下手に動くな!! タナカは何とかする!」

 スズキが冷静な口調で叫んだ。確かに、残りの3機も周囲をヌエに囲まれ、手一杯といった感じだ。どの機体も一瞬態勢を崩したが、すぐに持ち直した。

 ヌエが小さいだけでなく、その数があまりに多すぎる。スズキは、下手に誰かをタナカの支援に回すと、同じ状況に陥ると瞬時に判断したのだった。


〈ヒョー、ヒョー〉

 何匹かのヌエが鳴く。遠くにいる仲間を呼んでいるようだ。


「3号車、4号車、散水したままバック! タナカのそばへ!!」

 スズキが指示を飛ばす。

『3号車、水が持ちません!』

「じゃあ、機銃に切り替えて現在の2機の援護を継続! 4号車は!?」

『イケます!』

「バックして、他社のキセナガに散水! まだ立っているほう、動いているほうのキセナガね! 細かいヌエを〈剥がして〉あげて!」

『機銃と併用でいいかな!?』

「お願い!」

(さすが、シンガリのイトウさん。頼りになる!)

 指示を出したスズキは、そう思った。4号車にいるのはイトウ。散水を有効活用し、かつ水量を長持ちさせるには、特に経験とコツがものをいう。


 今回、スズキがイトウをシンガリに起用したのは、班員の中でも経験豊富だからだ。不測の事態が起きても、冷静に対処し、提案もしてくれる。

 スズキは、自分の判断が功を奏したと思い、わずかだが気持ちが和らいだ。


『くっっっそおぉぉぉぉぉ! 動け! 動けぇぇぇ!』

 タナカの叫びが無線を通して入ってくる。


〈ドスッ……。ズズズッ……〉

〈クチャッ、クチャッ……。ズズッ……〉

〈ドスッ……。バリバリ……〉

 タナカが今感じているは、そばに倒れているケンタウロス機の操縦士と同じ恐怖だ。ヌエの尾先がタナカ機を差す音、ヌエがその牙で生体甲殻機の表面を引き裂き、噛み砕く音……。

 ヘルメットの画面には、ヌエの顎からはみ出た牙や足からのぞく爪が、せわしなく動いている。

「うぅ、動いて、動いてぇぇぇぇぇ」

 タナカの声は、泣き声に変わっていた。


 しかし、タナカが操縦する生体甲殻機は、小さな子どもが駄々をこねるように、手と足をじたばたさせるだけだった。その周りには生体甲殻機の血がどんどん広がっている。

 操縦室の隔壁からも血がにじんでくる。体液の流出は相当な量だ。タナカは強化服を着ているが、左右のレバーが血でぬるぬるになっていることが分かる。

「ポンコツがぁぁぁぁぁ!」

 タナカは半ベソをかきながら、機体に毒づく。


「待ってて! タナカさん!」

『しっかり!』

『ふんばれ!』

『がんばって!』

 スズキの励ましを皮切りに、他の班員からも無線が入る。

 タナカへの励ましの声を聞きながら、スズキは指揮車の後部を振り返り、ホネクイ弾を発射する機関砲と高濃度塩水の入った大型の携帯タンクを確認した。


「各機、目の前のヌエに集中! トラック、散水怠るな!!」

 と、強い語調で班員に念を押すと、スズキは指揮車を後方に走らせた。

〈ダダダダダダン、ダダダダダダン、ダダダダダダン……〉

 タナカ機を襲っているヌエからやや距離を取って停車し、機銃を小刻みに浴びせる。


 現在使用中の指揮車の屋根には機銃か放水銃のどちらか一方しか搭載できない。折悪しく今の指揮車には機銃しかなかった。


『コ、コイツら……。ゼッタイ……。ゼッッッタイ……。許さない……』

 無線にタナカの声が入ってくる。

「各員、絶対に持ち場を離れるな! 集中!!」

 スズキから見て、誰もタナカの支援に向かえる状況ではなかったが、念のため念を押しておいた。

「2号車、指揮車に分散散水頼む!」

『了解!』

 スズキは、その返事を聞いて、指揮車の後部に移動した。2号車からの散水を確認すると、塩水タンク2基の散水機能を入れ、指揮車からずり落とす。そして1基を自分で背負う。

 2基のタンクから塩水が霧状に放出された。それを確認して、次は、ありったけの機関砲の弾倉〈ホネクイ弾〉4つを車外に出す。

 指揮車に向けて散水されるのを確認すると、スズキは、弾倉を装填した機関砲のレバーを引き、薬室にホネクイ弾を送り込むと、大きく深呼吸した。


 このような状況で車から降りるのは、極めて危険だ。それは、スズキも承知している。


(小型のヌエなら、何とかなる……)

 スズキをそのような危険な行動に駆り立てたのは、飲み会のときに聞こえてきたヨシダの言葉かもしれない。心のどこかで引っかかる。心のどこかで意識してしまう。

 そのことが、班員からケガ人を出したくないという気持ちを焦りにも似た感情に変え、スズキをせきたてた。


 スズキは車を降り、背中の散水タンクのスイッチを入れた。スズキが霧に包まれる。

 そして、塩水の霧を吹き出しているタンクを2つ、さらに弾倉を4つを、次々と指揮車の前に滑らすように放り投げた。生身の人間ならほぼ無理だが、強化服を着ていればそれが可能だ。


 しかし、装備は十分とは言えない。強化服は、ヌエを倒すものではなく、ヌエから身を守り、万一の際に命をつなぐのが目的だ。

 確かに、生体甲殻機が登場する前は、軍の兵士なら誰もが、この〈装甲強化服〉、通称〈強化服〉を着用してヌエを駆除した。スズキもその経験がある。

 ただし、対ヌエ用の隊形を組んで、状況に応じた戦術で戦う上での話だ。それでも数多くの死傷者を出した。生体甲殻機が登場する前は、兵士の死傷率は非常に高かった。


 スズキは、機関砲を腰に構え、指揮車の前に位置を取る。背後の安全を確保するためだ。

 スズキの視線の先では、空に舞い上がった大型のヌエが急降下、急停止し、その反動を使って、自分の体長より長い尾先をタナカ機の腹に叩き込む画がスローモーションのように映った。


「キャァァァァァッ! ァァァアアア? ッアッハッハッハ あああああ、もおおおおお殺せええええ! ひと思いに殺せえええええ」

 悲鳴、笑い、泣き声、怒号にも似たタナカの声が無線から聞こえてくる。

 ヌエに装甲を引き剥がされたところに、急降下してきた別の大型のヌエの尾先が、タナカの操縦室を貫通したのだった。

 幸い、タナカにケガはなかった。しかし、鋭い尾の先がヘルメットをかすり、自分の背後に突き抜けていくのを確かに感じた。


「タナカさん、しっかり。今助けるから……」

 スズキは、静かな口調で言うと、ヘルメットに表示された照準をその大型のヌエに定めた。相手は体長10メートルはあろうかというヌエだ。

(大きいのさえ先に仕留めれば、タナカさんが死なずにすむ)

 機関砲のホネクイ弾の数は3発。引き金を引く。

〈ドカッ、ドカッ、ドカッ〉

〈ピキイイイイイ!!!!!!〉

 3発全弾命中。大型のヌエがのけぞる。すぐに機関砲の弾倉を交換するスズキ。


 被弾した大型のヌエが新たな敵の存在に気づき、他の小型のヌエ数匹を率いてスズキに向かってきた。

 スズキは、動揺することなく、次の発射体勢に入る。体勢に入った瞬間、数匹を率いて襲ってきたその大型のヌエは、スズキの目の前で転がるように倒れた。


 今度は、7~8メートルの大きさのヌエが、タナカ機の膝から下を口にくわえて宙を舞った。

「ごろずぅぅぅぅぅ。殺してやるうぅぅぅぅぅ!」

 自機の脚が食いちぎられる映像が、タナカにも見えたのだろう。


(もう一度襲われたら、マズい……)

 スズキは、先ほど倒した大型のヌエが照準の邪魔にならないように立ち位置を少し変え、機関砲の引き金を引く。

〈ドカッ、ドカッ〉

 今度は、その7~8メートルのヌエに2発見舞った。ヌエが飛びのいた瞬間、くわえていたタナカ機の脚が別会社のトラックの上に落ちる。

 ヌエは、空中に浮かんだままスズキのほうを向き、次の瞬間、墜落した。


 一方、2メートル前後の小型のヌエ数匹が、浮遊しながら、スズキを取り囲んでいた。

 塩水を霧状に散水しているため、ヌエたちはそれ以上近づくことができない。しかし、その尾先は、常に油断なくスズキに向けられている。隙あらば、刺してやろうと思っているようだ。

〈ドカッ〉

 スズキは、その状況に一切動じることなく、正面で浮遊している小型のヌエに発砲した。ヌエがのけぞり倒れる。


 スズキは、機関砲を足元に置き、ホネクイを手にして残りの数匹に向けて繰り出した。

 スズキが操るホネクイの塩水は、タンクと共有されている。つまり、タンクの中身が尽きない限り、何匹でも倒せる。

〈ピキイイイイイ!!!!!!〉

 1匹に刺さった。

〈ピキイイイイイ!!!!!!〉

 また1匹。

 スズキを取り巻くヌエたちが距離を取り始めた。


「フハハハハハッ、死ねえええええ!」

 無線からタナカの声が入ってくる。かろうじて動く両腕で、1匹の脚をつかみ、ホネクイを突き立てたようだ。


 タナカ機の状況に注意を払いながら、予備弾倉に手を伸ばすスズキ。

〈カツッ〉

 ヌエの鋭い尾先が道路のアスファルトを突く。油断はできない。

「2号車! 水はあとどのくらい!?」

 スズキは、慎重に拾い上げた弾倉を装填しながら、2号車の水量を確認した。

『さ……。いえ、2分ちょっとは持ちそうです!』

「了解!」

 と答えて、

(あと1分半がいいところか……)

 と、スズキは判断した。


 新人が塩水残量を見極めるのは非常に難しい。また、経験が浅いと無駄撒きをしてしまう。たいていの場合、散水持続時間の表示通りにはいかないことが多い。

 一方、イトウは、機銃と散水をうまく使い分けて、立っているほうのケンタウロス機からヌエを追い払っている。


(さすが、イトウさん……)

 そう思いながら、照準を定めるスズキ。中型のヌエが浮遊しながら、立っているほうのケンタウロス機に襲い掛かろうと、間合いを測っている。

(あれだけは倒さないと……)

〈ドカッ、ドカッ〉

 スズキから2発受けながらも、そのヌエはよろよろとケンタウロス機に襲い掛かった。バランスを崩すケンタウロス機。

 スズキはもう一度慎重に照準を定めて引き金を絞る。

(当たれっ!)

〈ドカッ〉

 命中。ヌエはケンタウロス機に抱き付くように崩れ落ちていった。


 ようやく自由がきくようになったそのケンタウロス機が、倒れているほうの味方機に覆いかぶさっているヌエを振り払いにかかった。


 イトウも、散水と機銃掃射を続け、倒れているほうの機体からヌエを剥がしにかかった。


「オラァァァ! もう1匹ぃぃぃ!」

 タナカ機も自由がほとんどきかない体で2匹倒したようだ。


(よし……。指揮車に戻ろう。水も足りなくなる……)

 スズキは、状況が好転したのを確認して、指揮車に戻ろうとした。携帯タンクの塩水もいつなくなるか分からない。

 ヘルメットのモニターには、塩水残量2分ちょっとと表示されている。しかし、あくまでも目安だ。

 気が付けば、イトウとケンタウロス機が追い払ったヌエが多数、スズキ自身を取り囲んでいる。一番襲いやすい相手と判断したのだろう。


 スズキは、機関砲を地面に置き、ホネクイに持ち替えた。指揮車に背中を預けながら、車体に沿うように、カニ歩きのような状態で運転席に向かってじりじりと移動する。

〈ピキイイイイイ!!!!!!〉

 移動しながら、一番手前にいた2メートル足らずのヌエにホネクイを突き立てた。

〈ピキイイイイイ!!!!!!〉

 2メートルあまりのをさらに1匹しとめる。


 一斉にスズキと若干距離を取ったヌエたち。しかし、油断なくスズキを狙っている。

 スズキは、そのまま指揮車に背中を預け、体をずらしながら、車の扉を開けようと手を伸ばす。

〈カツッ〉

 ヌエの尾が牽制してくる。スズキはとっさに手を引っ込めた。

 ヘルメットのモニターに映る塩水残量は、赤字の警告表示になっている。残量は極めて少ない。2匹倒したことで水の残量が一気に減ったようだ。

 もし塩水が切れてしまったら、2号車の散水に頼るしかない。


(そうなる前に塩水を確保しなくては……)

 スズキは、指揮車から少し離れたところにある塩水タンクを取りに行くことにした。スズキが背負っているものよりは、まだ塩水が残っているはずだ。

『2号車、水がなくなりそうです!』

「なくなり次第、機銃に切り替えて、引き続き援護を頼む!」

 スズキは冷静に指示を送り、周りのヌエに警戒しながら慎重に塩水タンクへと近づく。


 塩水タンクの霧の中に踏み入れる何歩か手前で、スズキの散水が止まった。その直後、折悪しく、2号車の散水も止まってしまった。そして、その瞬間をヌエは逃さなかった。

 ヌエは塩水を恐れる。しかし、個体差がある。

 取り囲んでいるヌエのうち勇気のある個体が、薄くなった塩水の霧をかいくぐって、スズキに飛び掛かってきた。塩水を浴びる可能性があるにもかかわらずにである。

 側面からヌエに押し倒されたスズキは、反射的にホネクイをそのヌエに突き立てた。しかし、塩水タンクは空だ。


 ホネクイを突き立てた右腕にもう1匹噛み付いてきた。最初の1匹に触発されたのだ。


『班長!』

 その様子を見ていた2号車の班員が声を上げた。

(骨を砕かれたか……)

 スズキはそう思った。痛みは感じない。この危機的状況にアドレナリンが分泌されたのだろう。

 しかし、そのときのスズキがそこまで冷静に受け止めていたわけではない。ただ、痛みを感じなかっただけだ。

(脚をやられたらおしまいだ!)

 とっさに両脚を引っ込めたスズキ。膝を立てて2匹のふところに収めるような体勢を作る。


 確かに、ヌエに脚をかまれ、塩水の全く届かないところに引きずられたらおしまいだ。また、脚の自由を失うことで、逃げられる可能性はゼロになる。


 痛みを感じない理由は別のところにあるのかもしれない。なぜなら、スズキの思考は、生き残る術〈すべ〉を引き出すために全て注がれていたからだ。

(右腕はもうダメだ。これを〈捨て駒〉にするしかない)

 右腕全体で頭を覆うような姿勢を作る。もう1匹もその腕に噛み付いてきた。

(そうだ……。携帯用の塩水注入機があったはず……)

 左手で腰をまさぐる。ヌエの鼻息でヘルメットが曇る。右腕の感覚は一切ない。ただ、違和感とぐらぐらしているのだけは分かる。

 この極限状態に自分が自分でないような感覚にも襲われていた。


〈ダダダダダダダダダダン、ダダダダダダダダダダン……〉

 2号車は、他のヌエをスズキに近づけまいと懸命に牽制射撃を行う。しかし、それが精一杯だ。スズキに覆いかぶさっている2匹を無理に狙えば、スズキが被弾してしまう。


「ハンチョォォォォォォォォォォ!」

 サトウ機がスズキのそばまで駆け寄り、散水した。

 2匹が飛びのく。

 サトウは、地面で身構えていたヌエの1匹を、怒りをこめて踏み潰した。

 熟れたトマトをつぶしたように血しぶきが散る。


 ヌエの個体を増やすことにつながりかねない〈いけないこと〉だというのは分かっていた。しかし、サトウはその怒りを抑えることができなかった。


 その隙に素早く指揮車に飛び乗り、ぎこちなく左手でドアを閉めるスズキ。

 右腕は、〈右肩に重いものがぶら下がっている〉ような感覚しかなかったが、締め付けられているのは分かる。強化服が自動的に止血処理を行っているのだろう。

「そちらの班! 当社は撤退するが、応援は必要か!」

 と、拡声器で話すスズキ。

「大丈夫です! 乗員は回収しました。ありがとうございます……。ありがとうございます!」

 ひと呼吸おいて、トラックの拡声器から返事が聞こえた。操縦室の隔壁を大事そうに両手で持っているケンタウロス機がその声に合わせるように頭を下げた。


「サトウ機とコバヤシ機でタナカ機を回収! トラックに載せろ。ナカムラ機はヌエを近づけるな! 倒さなくていい、追い払え! タナカ機の回収が済み次第、全機トラックに飛び乗れ!」

 スズキは続けざまに指示を出すと、タイヤを鳴らして指揮車をUターンさせた。


 別会社のトラックも牽制射撃をしながらバックでその場を離れていった。ケンタウロス機もきびすを返す。

 馬体部分の背中と尻には、小型のヌエが1匹ずつ噛み付いてコバンザメのように張り付いていた。


 もう1台のトラックは動かないままだ。また、血まみれでぼろきれのようになったもう1機のケンタウロス機の残骸が生々しい。

 人体部分は左腕が食いちぎられ、僚機が操縦室を取り出したこともあるが、腹部に大きな穴が開いてる。

 馬体部分は左前脚と両後脚、左わき腹が食いちぎられている。何匹かのヌエがまだ肉をむさぼっていた。


 タナカ機を最後尾のトラックに載せるサトウ機とコバヤシ機。2機の体には2メートル前後のヌエが何匹か食いついている。

『タナカ機回収完了!』

「各員、撤収! 全機、トラックの荷台へ! 全車そのまま直進し、左折。指揮車に続け!」

 直進させたのは、Uターンするためにトラック全車を切り返すと時間がかかると判断したためだ。


「本部! 会社に救急車を呼んでおいてくれ! そう、救急車! ……班長が負傷した」

 トラックを駆りながら、イトウが無線で連絡する。

「あと、格納庫の指揮車、あれを放水銃に換装しといて! 戻ってきたときにすぐ出られるように! いいから……! そうだよ……! 救急車を警護するんだよ!」

 無線のスピーカーが割れんばかりのイトウの大きな声が聞こえてくる。


 帰る途中、雨が降ってきた。そして、聞こえてくる飛行機の轟音。しかし、空は青く、雲ひとつない。雨だと思ったのは、空軍が高高度から散水した塩水だった。


 スズキを状態を気遣う無線が、各班員からしきりに入る。しかし、スズキの答えは「大丈夫」を繰り返すだけだった。ただひとり、タナカの声は無線から聞こえてこなかった。


 班員たちが後からきいた話では、このヌエの襲来を沈静化するのに丸2日かかったということだ。また、そのために少なからぬ死傷者も出たらしい。

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