【2】この世界のこの時代
ホソダ生体技研株式会社キセナガ開発部運用試験課の事務所では一日中テレビがついている。情報を迅速に得るためだ。
〈ええ、日本でヌエが確認されてから、今日でちょうど20年になるわけですが……〉
「あれから20年か……。早いもんだなあ……。あのときの臨時ニュースはっきりと覚えてらあ……」
タカハシは椅子の背もたれに寄りかかって天井を仰いだ。
椅子がギシと音を立てる。
「江戸ご開府400年の太平どころじゃあなかった。この世の終わりが来たと思ったわ。ペルリが来たとき、泰平の眠りを覚ますなんとやらって狂歌がはやったって話だが、それどころじゃあなかったわ……。死ぬのが当たり前の時代だったからなあ……」
「えっ? それ何のやつでしたっけ?」
タナカが話に入ってきた。
「黒船が来たときの狂歌だよ」
そう言って、サトウは茶の入った湯飲みを両手で口元へ運んだ。
「ふうん……」
話に入っておきながら、タナカは、関心なさそうに返事をした。
サトウから答えがほしかったわけではないからだ。
黒船来航をきっかけに、この世界の日本でも、急速に近代化と富国強兵がはかられた。
世界に類を見ない独自の政治体制を確立しながら、スイスを参考に国民皆兵の〈永世中立国〉という形で鎖国に近い体制を堅持。
その後、外交的にも内政的にも大小さまざまな危機を乗り越えながら、徳川家康の江戸開府以来約400年間の泰平を維持してきた。
それが、ヌエの来襲まで、この世界の日本が築いてきた歴史だ。
「カチョーは、そのころもうホソダにいたんですか?」
タナカはタカハシに話を振る。
「オッサンは、その時32歳の社会人。バリバリの設計士よ」
「ここのカチョーになったのは、やっぱり……」
「大人の事情だよ」
タナカの質問が終わらないうちに、苦笑いのタカハシがさえぎった。
それは、別にタナカが聞きたかった答えではなかった。
「やっぱり、正義の味方になりたかったというのもあるんですよね。人のために役に立つって素晴らしいじゃないですかあ」
もう一度、話を振るタナカ。
「人のため、社会のため、2割。大人の事情8割……。その2割もここに来てからわかったってやつだ」
タカハシはニコリと笑って背もたれにあずけていた体を起こした。
「……やりがい、ないんですか?」
タナカは少し不満そうだ。
「う~ん……どうかな? ただ、どんな仕事でも、いつもプロでありたいと思うね……」
一瞬の沈黙のあと、はっとした表情でタカハシが続けた。
「なんちゃって……」
タカハシは照れ笑いで締めくくった。
タナカの顔にも笑顔が浮かんだ。
テレビの音声が聞こえてくる……。
〈ここで、政府からのお願いです。無許可のヌエ駆除は大変危険です。また、固体数増加の原因となります。自衛以外、自衛以外の駆除はくれぐれも行わないようお願いします〉
ヌエに火や熱は利かない。乾燥にも強い。
たとえば、ヌエを何らかの方法で切り刻むとする。
その後、ある一定の大きさが残っていれば、塩水を注入するなどの処置を施さないと、それぞれの肉片が膜に覆われ、小さいもので1メートル、大きなものでは5~6メートルまで成長し、そこからヌエが誕生する。
つまり、ヌエを通常の方法で破壊しても、増えるだけという結果になる。
また、何もしなくても、ヌエは一定の大きさに成長すると、サナギになり、2~3体に分裂して孵化する。
国際条約の批准国は、ヌエに関する情報を世界中に公開することになっていて、端末があれば誰でも閲覧できる。
しかし、信頼できない情報やうわさにすぎない情報もあり、有益な情報がなかなか集まっていないのが現状だ。
「ヌエは人類初の天敵なのかもしれんな……。いままで人類の天敵は人類だけだったものなあ」
「カチョーのクチグセですね」
タナカが笑顔でいった。
「すまんな。歳を取ると何度も同じこといっちゃうんだわ」
「そんなことないですよ。カチョー」
ジュース瓶を持った手を口元で止めてタナカがいった。
どこかうれしそうだ。
ヌエの出現以来、国民皆兵の日本では、国防のために各家庭に常備されていた小銃は、小型の塩水注入弾〈ホネクイ弾〉を発射する〈ホネクイ銃〉に代わった。
ヘルメット、人間の身体能力を強化する防刃仕様の〈装甲強化服〉通称〈強化服〉、護身用のホネクイ銃、救援要請用の小型発信機が、日常の出勤姿の一部になっている。
しかし、ヌエの攻撃から命を守るために大切な装備だ。
〈それでは、本日の地下鉄と装甲バスの運行状況です〉
テレビの音声が聞こえてくる。
(あと3年、あと3年で引退だ……)
手でポケットのタバコの箱とライターを確認し、タカハシは席を立った。
経済活動をぎりぎりのところで維持している日本。しかし、世界的に見れば〈経済活動ができる〉数少ない国である。
ヌエの出現が世界中に社会不安をもたらし、国によっては、暴動や紛争、政変などが発生し、国家としての体をなしていない国も少なくない。
日本にヌエが出現して以来、人々が死の恐怖におびえていたのは最初の数年間。
今ではだいぶ落ち着いてきたが、ヌエを警戒しながらの生活は、今やすっかり日常の一部になってしまっていた。
都市部では地下道や地下街が発達。
新たな施設が建つといえば、高層建築ではなく、厚いコンクリートの壁と小さな強化ガラスの窓で構成された低層の建物か、地下施設を意味していた。
赤茶けた風景も都市部の特徴。
これは、ヌエを都市部から遠ざけるために、航空機を使って高高度から高濃度の塩水を定期的に散布しているためだ。
都市部の地上では、国軍や州軍の生体甲殻機をはじめ、強化服を身に着けた哨兵たちが市民たちの安全に目を光らせている。
一方、ヌエに無防備だった地方の農村部や山間部は完全に崩壊。日本の人口は著しく減少した。
また、生活を豊かにする文明の進歩は20年前で完全に停止してしまった。それ以降、人類の存亡をかけて、自らの文明をヌエ撃退の一点に集中させていた。
そのため、この世界のこの時代の文明は、われわれの世界と違った進化をたどっている。たとえば、携帯電話の類はない。
われわれの世界のインターネットに近い情報共有インフラはヌエの出現以降に発展した。
また、機械工学の代わりに生物工学と生体工学が劇的に発達した。
タカハシは、小さな窓の向こう側を眺めながら、タバコに火をつけた。小さな窓とはいえ、この建物の窓の中では比較的大きいほうだ。
先客も何人かいる。
「タッさん、聞いた?」
白衣を着て、いかにも研究職らしい身なりの中年男性が小さな声で話しかけた。
「何を?」
「あ、すまん。民間を前線に出すって話」
「ああ」
タカハシの口から煙が漏れた。
「今度軍に制式採用されるキセナガの話。うちの〈ヨリマサ〉も、一、二を争う候補になるって話だ。本社も張り切ってる」
と白衣の男。
「カトさんのところも忙しいだろ……」
「キミんところも無茶言われるだろうな。人員が一気に6倍だろ? さばくの大変になるなあ……」
「もう2人プロが入ってくるって話だし……。もう私設の軍隊だわ……」
と、タカハシが皮肉な笑みを浮かべて話を続けた。
「新人も、軍でひと通り訓練を受けているって話だわ。オレらより優秀かもしれん。スズキさんとタナカさんは別モンだが……」
「ああ、あの美人2人……。スズキさんは元プロだろ?」
「そう、頼りになるよ……」
「今はどこも厳しいね……」
「無理させて無理をするなと無理をいい……ってか。本社からやれって言われればやるしかないよなあ」
と、タカハシが皮肉を言って苦笑いした。
「大丈夫、ウチの会社には優秀なのがそろっているから……」
タカハシの皮肉とも本気とも受け取れる言葉に〈カトさん〉と呼ばれた男も苦笑いを浮かべたとき、館内アナウンスが流れた。
〈タカハシ課長、大至急事務所にお戻りください。出動要請が入りました〉
「出動じゃなくて、〈出撃〉だったりしてな……」
タカハシの皮肉は、ほぼ当たっていた。
「タカハシさん! この付近にヌエが1体が出たって駆除要請が入った!」
タカハシが事務所に来るないなや、スズキが声をかけた。事務所に残っているのは、この2人だけで、他の者は出動態勢に入ったようだ。
スズキは、オレンジ色を基調にデザインされた強化服をすでに着用している。
この強化服は、ヌエの牙や爪から守れるよう防刃加工が施され、腕力・脚力・瞬発力など、人間の身体能力を補助する機能(パワーアシスト機能)を備えている。
〈――民間人が着用する強化服の色は、橙色を基調とすること〉
……と、定められていたのは数年前までのことだ。
1人1着以上は強化服を所有し、その性能も向上した現在、自由な色の仕様が認められている。飽和状態となった市場を活性化するための国の政策だ。
私服では割と身なりにこだわる妙齢のスズキ。
しかし、業務では今でもオレンジという基本色の服を着用する。その理由は仲間の誰も知らないが、誰かが聞いたことも、自分からわざわざ話したこともない。
「生体機2機は徒歩で直接現地に向かわせています! 急いでください」
スズキが言った。
「イトォっちゃんは?」
「格納庫のトラックで待機しています。要請があれば出動というカタチです」
「ホントに近くなんだなあ……。俺はこの格好でいいや……」
ネクタイに作業着姿のタカハシは、サンダルをブーツに履き替えた。
***
……やがて2人を乗せた指揮車は、道を先行して走る2機の生体甲殻機に追いついた。
道路を走る一般車はまばらだ。
指揮車のサイレンが聞こえ、生体機の姿を認めると、誰もが素早く路肩に停めて道を譲る。
生体甲殻機は、人型以外のどんな特殊な形態でも、2車線の道路に2機並んで立てるように規格されている。それ以上の大きさは現在の法律で認められていない。
「うん。1体だけのようだな」
タカハシは指揮車のパネルで周囲を確認した。
『ヌエ1体目視! 上空30メートル付近に浮遊!!』
先行するタナカ機からの報告。
「サトウ機はホネクイ弾、タナカ機は拘束弾を装填。駆除開始!」
と、スズキの指示。
「釣るのか? 弾幕で追い払うだけでいいんじゃないの?」
と、いうタカハシをスズキはにらんだ。
(私の指示に横やりを入れないでもらいたい)
そういうスズキの気持ちを、タカハシはすぐにくみ取った。
「え~、周囲、ヌエ1体以外問題なし……」
タナカ機もサトウ機も走りながら、肩に提げていた〈銃身のない銃のようなもの〉を手に取り、そこに〈矢のようなもの〉を差し込んだ。
それが拘束弾とホネクイ弾だ。
ヌエを射程距離に捉えたタナカ機が足を止め、銃を構える。
標的のヌエが不意に赤茶けたビルの陰に隠れる。
タナカ機は、ビルの陰に狙いを定めたまま動かない。
タナカ機の少し後ろで、サトウ機も銃を構えた。
その様子を見てスズキが指示を出す。
「サトウ機、投網弾に換装!」
『了解!』
サトウ機が指示に従い〈矢〉を入れ替える。
その間、ビルの陰から飛び出したヌエにタナカ機が発砲した。
タナカ機の銛は見事ヌエの臀部に刺さり、刺さった銛からワイヤーが伸びてヌエの下半身を拘束した。
翼をばたつかせながらもがいているヌエ。銛から伸びたもう一方のワイヤーは、タナカ機が腰に構えている銃の先端とつながっている。
タナカ機は〈巻き取り〉を開始した。槍状の武器であるホネクイで攻撃できる距離まで、ヌエを引き寄せるためだ。
この一連の動作を、軍隊でも民間でも一般に〈釣り〉と呼んでいる。
空中で暴れるヌエが、少しずつ2機に近づいてくる。
今度は、サトウ機がタナカ機の前に出て発砲した。
〈先端が球状になった矢〉が発射され、ヌエに当たる寸前で破裂、網が広がってヌエをくるんだ。拘束弾と同様に矢の端にはワイヤーが付いている。
翼の自由を奪われたヌエが墜落する。
サトウ機も〈巻き取り〉を開始した。
「サトウさん、任せていい?」
「えっ? ああ、大丈夫……」
「タイチョー! とどめさします! 許可ください!」
タナカ機は、左手で自機の銃をサトウ機に預けながら、背中に背負っていたホネクイを右手で取り出す。
ホネクイは3段に収納された状態だ。
「許可する!」
と、スズキがいうのと同時に、タカハシが叫んだ。
「3時(方向)、(進入角)63度! もう1体、急速接近!!」
両脇に銃を抱えていて身動きの取れないサトウ機に向かって、別のヌエが急降下してきたのだった。
次の瞬間、タナカ機もサトウ機も大きく吹き飛ばされ、ヌエは地面に激突した。
勝負は決していた。
横ざまから繰り出したタナカ機のホネクイが、ヌエの首筋から胴までを割いていた。
素早く立ち上がるタナカ機。
身体をばたつかせるヌエのそばに、中途半端に伸びた状態のホネクイが転がっている。
タナカ機はそれをすぐに手にすると、ヌエの首筋にもう一度突き立てた。
突き立てて、ぐいっと両脇を締める。
ホネクイはさらに伸び、ヌエに深々と刺さっていった。ヌエは悲鳴も上げない。
続けて、タナカ機は、素早くホネクイ弾だけを取り出し、さらに突き刺す。
念を入れてとどめを刺したのだった。
吹き飛ばされたホネクイが壊れているかもしれないと、タナカは思ったからだ。
さらに、タナカ機は、横たわっているサトウ機を起こし、その背中からホネクイを取り上げると、網の中で暴れるヌエに駆け寄り、突き刺した。
サトウ機が起き上がったときには、全てが終わっていた。
「おいおい……。こんな攻撃もしてくんのか……?」
タカハシはつぶやいた。その声には驚きと衝撃がこもっている。
「降下速度は?」
スズキが冷静に聞いた。
「瞬間最高速度で……、時速322キロ。ハヤブサ並み、いやそれ以上だ……」
「やっぱり、2機だけじゃ限界ね……」
2匹のヌエを見下ろすように立っている2機のキセナガ。
『二人ともケガは?』
タカハシから無線が入る。
「大丈夫です!」
先にタナカが明るい声で答えた。
「サトウは?」
「ヌエがぶつかってきたとき、安全帯が食い込んで体がちぎれるかと……。しばらく息ができませんでしたが……、今は大丈夫です」
生体甲殻機は人間の体の構造とよく似ている。ただし、呼吸器・循環器系の内臓だけで、胃や腸などの消化器系の内臓はない。その腹部の空間に操縦室が設けられている。
操縦室は、縦長で繭のような形状の隔壁で囲まれ、操縦士は〈安全帯〉と呼ばれる拘束具で上半身と下半身を固定される。
生体甲殻機は、主に脳波で操縦するため、操縦室はいたってシンプルだ。操縦席はない。
操縦士を固定する拘束具。脳波を読み取り、生体甲殻機の状態を表示するヘルメット。射撃や放水を行い、その他の細かな動作を補助する左右のレバーくらいしかない。
しかし、そのほかにも、人間特有のきめ細かい動作を反映できるよう、さまざまな工夫が施されている。そうしないと、ヌエの動きに対応できないからだ。
「タナカさん、スゴいね……」
と、サトウ。
「まあね……」
素っ気なく答えるタナカ。
「よかった。お疲れ」
ようやくスズキが言葉をかけた。別回線で本部に報告していたためだ。
「ありがとうございます!」
タナカが応じた。
「ホント、スゴいよ。タナカさん」
「うん……」
これがサトウに対するタナカのいつもの対応だ。
タナカは、タカハシ以外に対しては、いつも素っ気ない。
「〈お見事!〉としかいえないな。いつも美しい立ち回りで、タナカを褒める言葉が見つからん。まあ、二人とも無事で何よりだ。さあ、引き上げの準備だ」
タカハシが言った。
『フフッ。ありがとうございます! ヌエが速度を緩めたところを、思いっきり突いてみましたあ! うまくいってうれしいです!』
タナカの嬉しそうな笑みが無線から漏れ伝わってくるようだ。
***
「アサギちゃんってさあ、課長には優しいよな……」
と、つぶやいたのは、トラックで待機しながら、無線のやり取りを聞いていたイトウ。
〈アサギ〉はタナカの下の名前だ。
「うらやましいっすよ。おじさんがあんな美人系と仲良く話せて」
と、答えたのは、イトウの隣に冷やかしで座っていた整備員だ。
「いやあ、アサギちゃんは、カワイイ系だろ?」
「そっすか? タイチョーとサトにぃも仲イイっすよね」
「ありゃ、アヤちゃんがサトちんに厳しくしてるだけだろ?」
2人の言う〈タイチョー〉と〈アヤちゃん〉はスズキ、〈サトにぃ〉と〈サトちん〉はサトウのことだ。
「そおっすか? タイチョーいつもうれしそうだけどなあ」