この中に一人、不審者がいる!
僕は、衆議院選挙の投票が行われる小学校へと続く道を歩いていた。
空は一面晴れ渡っているが、頬を撫でる朝の風は思いのほか冷たい。上着を着て来ればよかったかもしれない。
だが、そんなことは些細な問題だった。
遂に、この日がやってきたのだ。
僕が二十歳になって初めての、衆議院選挙の日が。
僕の目的は、ただ一つ。
「駆逐……じゃなかった、確認してやる……箱の中身を!」
そう、零票確認である。
零票確認とは、文字通り、零票であることを確認することだ。
よりわかりやすく言うと、選挙を行う際、最初に投票する人間が行わなければならない、投票箱の中に何も入っていないことを確認する行為のことである。
初めての選挙だ。何が何でもこの両眼で箱の中を確認したい。
そこに理由などない。
理由などないが。
もしかしたら、箱の中を覗き込んだ途端に意識が飛んで、目が覚めると、目の前に異世界が広がっているかもしれない。
トラック転生も考えたが、リスクが高すぎる。
……つまり、そういうことだ。
「おっと。着いたな」
そんなことを考えて歩いている間に、投票が行われる小学校の正門前に到着した。
……うん。
到着、したのはいいのだが。
正門前に既に十人ぐらい並んでました。
「……えー」
理解出来ない。新型あいぽんとかならまだしも、ただの選挙だぞ。
もちろん、自分のことは棚に上げての発言である。
「これじゃ、箱の中見れないじゃん……」
そうなのだ。
行列の先頭がいるということは、そいつが最初に投票をするのは自明の理。
そして、箱の中身を確認する権利を持つのは、最初に投票する人間だけだ。
……僕の野望は、早くもここで潰えてしまった。
「はぁ……」
仕方ない。
残念だが、一回来てしまったし、折角だからこのまま普通に投票をして帰ることにしよう。
僕が、心の中でそう決めた瞬間だった。
「貴様も、挑戦者か?」
「え?」
異様なほど野太い声が、後ろから聞こえた。
声がした方を反射的に振り向く。
「うわっ!?」
見知らぬオッサンが、仁王立ちして僕を見下ろしていた。
デカい。2mに届こうかというほどの身長である。威圧感が半端ではない。
肌は日焼けして黒っぽく、その肉体は筋肉に包まれておりムッキムキである。腕相撲をしたら勝てる気がしない。僕の腕なんて簡単にへし折られそうだ。
ちなみに頭部の毛根は死滅している。
いや、そんなことは些細なことだ。
問題はこいつの格好だ。
上半身には無地の白Tシャツを着ている。
こっちはまあいい。
そして、下半身。
何故か白のニーソックスに、赤いスニーカー、そして黄色と赤のストライプのミニスカートを装備していた。
うん。装備という表現が一番適切な気がする。今時誰もこんな派手なスカート着けてないよ。
極めつけに、背中に赤いランドセルを背負っていた。オッサンの広い背中のおかげで限界まで引き伸ばされ、今にもはち切れそうである。
色々おかしい。
ここは秋葉原ではないのだ。
「いや、皆まで言わずとも良い。我には判る。貴様から迸る、熱き魂の奔流が闘いを求めているのであろう?」
わかっちゃうのか。
僕は、このオッサンが何を言っているのかさっぱりわからないのだが。
「だが小僧。今回の戦いは熾烈を極めるぞ。半端な覚悟で来たのならば、帰るんだな」
でもまぁ、とりあえず。
「焦らず騒がず、警察に通報だな」
小学校の前に、奇っ怪な格好で彷徨いている変態がいる。
これは由々しき事態だ。
この辺りは比較的治安がいいと思っていたのだが、やはり不審者というのは、いるときにはいるものらしい。
「え? 警察?」
「あ、お構いなく。というかあなた、それ以上僕に近づいたら大声で叫びますよ?」
僕はオッサンのほうをチラ見してそう言いながら、一歩後ずさりした。
僕一人の力で敵わなくても、近くには投票に来ている大人が十人くらいいる。僕が大声で叫べば、騒ぎにならないとは考えにくい。
それが理解出来たのだろう。
オッサンは目に見えるほど慌て始めた。
「ちょ、ちょっと待ってもらえないかな少年。これには深いわけが……」
オッサンがこちらに一歩踏み出す。
「近づかないでください! ……話なら署でゆっくり聞いてもらえますよ。僕はこれから投票に行かないといけないので」
「そう、投票! 私も選挙の投票に来たんだよ!」
一人称が我から私に変わっていた。キャラの崩壊が異常に早い。
「こんな時間に投票に来たっていうことは、キミも零票確認を狙っているんだろう?」
あれ。
このオッサンも、零票確認を狙っていたのか。
それなら、まぁ、仕方ない……か?
いやいや、落ち着けよ、僕。
たとえこのオッサンが選挙の投票のために小学校に来ているのだとしても、こんな格好で小学校の近くを彷徨いていい理由にはならない。
危ない危ない。危うく騙されるところだった。
僕はポケットから携帯電話を取り出した。
「ま、待ってくれ! 話せばわかる!」
「問答無よ――」
う、と言い終わろうとしたまさにそのとき、誰かに後ろから肩を掴まれた。
「その辺にしておいてくれないか。服部さんが困ってるだろう?」
今度は野太いオッサンの声ではなく、どこか柔らかさを感じさせるような透き通った声だった。
振り向くと、イケメンがいた。
「なんだ、男か」
がっかりである。
言葉遣いがアレだったので可能性が薄いとは思っていたが、流れからして可愛い女の子が出てきてもおかしくなかっただろうに。
「声かけただけで、ここまでがっかりされるのも新鮮だな……」
気落ちしたような表情の青年を、改めて見る。
身長は170センチ後半といったところだろうか。僕の身長が170センチちょうどなので、またしても僕が少し見上げる形になっている。
絶妙な長さの艶やかな黒髪に、整った容姿。
黒いポロシャツに色の薄いジーンズという格好だ。腰に装着しているベルトの右の部分には、何に使用するのかは不明だが、小さな黒いケースのようなものが取り付けられていた。靴も黒いし、全体的に黒っぽい印象を受ける。
ぱっと見たところ特徴と言えばそれぐらいで、さっきのオッサンの異常な格好と比べれば、特に目立つ格好でもない。
「あなたはその人の知り合いですか?」
僕はオッサンの方を目で示しながら、イケメンに問いかけた。
「ああ。その人は俺の友人の服部さんだ。……そんな格好だが」
オッサンの名字は服部というらしい。
というか。
「服へのフォローはないんですね」
「ないよ」
そうですか。
「でも、友人として服部さんを見捨てるわけにはいかない」
そいつの目は真剣だった。
……冷静に考えると、その真剣さはどう見ても変態にしか見えない格好をしているオッサンを助けるためのものであるのだが。
「……分かりました。警察は勘弁してあげます」
僕は携帯電話をポケットにしまい込んだ。
なんかもう、どうでもよくなってきた。
「如月くん! いやー助かったよ! この礼はいずれ!」
服部は完全にキャラが崩壊していた。
そして、このイケメンは如月というらしい。名字か名前かは分からないが。
「いえいえ。礼には及びませんよ」
如月は笑顔でそう言うと、
「――連れていけ」
「「はっ!」」
「えっ」
どこからともなく突然現れた黒服の男二人が、服部の両腕に手錠をかけて拘束する。
彼らの異様な佇まいに、僕は戦慄した。
全身黒づくめのそいつらは、変な形の帽子に、口のところから緑色の植物の根のようなものが生えたガスマスクを装着しており、顔を視認することは出来ない。
服部と同じくらい、いや、それ以上かもしれないが、現代の日本においては相応しくない格好である。
「さすがにそんな格好で公道を彷徨かれるのも面倒なので、先に中に入っといて下さい」
「え? あの、ちょっ」
情けない声を上げながら、服部は黒服二人に小学校の中へ引き摺り込まれていった。
僕は呆然とその様子を見ていたが、ふと我に返った。
「な、何ですか今の」
「ん? わさび男を知らないのか君は?」
「わさび男?」
何だそれは。
あ、さっきの黒服の口元についていた緑色の植物は、わさびか。
「いや、知らないならいい。彼らは俺のボディーガードだよ。正直、必要ないんだけどね」
そう言って、如月は微笑む。
「はあ……」
僕は曖昧にうなずいた。
……如月は、どこぞのおぼっちゃまなのだろうか?
それとも、ボディーガードをつけられるほどの要人?
それにさっき、まだ立ち入り禁止のはずの小学校の中に自分のボディーガード入れていたような。
なら、投票の関係者だろうか?
……わからない。
如月が何者なのかもわからなければ、さっきの黒服たちが何故口元にわさびをつけていたのかもわからないし、もっと言えば服部が何であんな変態みたいな格好をしていたのかもわからない。
わからないが、何にせよ、この如月という男はあまり関わらない方がいい類の人間のような気が……。
「俺は如月だ。よろしく、工藤くん」
「いや僕、工藤じゃないですけど」
どこから出てきたんだよ。工藤って誰だよ。
僕がそう答えると、如月は心底驚いた、といった様子で僕を見た。
「え? 服部の横にいるのは工藤って、相場が決まってるだろう?」
「いや知らんよ!? 何だその決まりは!?」
「工藤くん。ちょっと『バーロー!』って言ってみてくれないかい?」
「バーロー! ――はっ」
しまった。ついうっかり。
「ほら、やっぱり工藤くんじゃないか。あまり自分に嘘をつかないほうがいい」
「うう……」
マズイな。
このままでは、背後から近づいてくるもう一人の仲間に気づかない。
「で」
如月が僕を試すような目で見つめる。
「工藤くんも、挑戦者なんだろう?」
「……そういえばそれ、服部さんも言ってましたけど」
狂人の戯言かと思って聞き流していたが、確かに服部も、挑戦者という言葉を口にしていた。
「挑戦者って、一体なんのことなんですか?」
僕の言葉を聞いた如月は頷いた。
「うん、じゃあそこから詳しく説明しようか……と、思ったんだけど。どうやら時間が来ちゃったみたいだね」
「時間?」
腕時計を見ると、時計の針は、ちょうど午前六時二十五分を示していた。
まだ投票が開始される午前七時まで、三十五分ある。
「まだ投票開始まで三十五分ありますよ」
僕が、そう言った瞬間だった。
ピーンポーンパーンポーン、というあの懐かしいお知らせ音が鳴った。
『おはようございます。ただいまより、第四十八回衆議院議員総選挙におけます、零票確認者決定戦予選を行います。参加を希望される方は……』
「……予選? どゆこと?」
「そういうことだよ」
いや、どういうことだよ。
「……もしかして、“予選”っていう言葉の意味がわからないのかな?」
「いや、そういうことじゃなくてですね」
予選という言葉の意味はもちろん知っている。
知っているが、少なくともそれは選挙の投票において使われることはない言葉のはずだ。
「……選挙だよね? 僕、選挙の投票しに、ここに来たんだよね?」
自信が無くなってきた。
僕は本当に、選挙の会場に辿り着いているのだろうか。
もしかしたらここは会場によく似た、違う場所なんじゃないだろうか。
「ああ、工藤くんは初めてだから戸惑うかもしれないけど、この選挙区では零票確認者を競争で決めるのは、かなり昔から続けられてきたことだよ」
「マジすか」
全然知らなかった。
いや、知らなくて当然だろうか。
僕は今回が選挙権を得てから初めての選挙なのだから。
……切り替えよう。
そうだ。
これはチャンスじゃないか。
「で、どうするんだい?」
微笑みを浮かべながら、如月が僕に問いかけてくる。
だが、愚問だ。
「行くに、決まってるじゃないですか」
諦めかけていた異世界トリ……零票確認が、できるかもしれないのだから。
「……そう来なくちゃね」
如月は、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「如月さんも来るんですか?」
「もちろんだよ。じゃあ、行こうか」
如月が僕に向かって手を伸ばす。
僕は、その手をしっかり掴んだ。
「はい!」
負けられない戦いが、今、始まろうとしていた。