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「新しいのが、また来ましたね」
その個体も早速、水面から顔を出して鳴き始める。さて、何と言ってきたのか。けれど、先輩は暫くタブレットを見つめたあと、無言のままでポシェットへ仕舞ってしまった。
「……? ……あ、電池切れですか?」
返ってきたのは、硬い表情だけだった。何も言わず、足早にプールの傍を去っていく。一体、突然、何だというのか。とはいえ、後を追う以外になかった。僕がひとりでイルカと戯れていても、何の意味もない。
「先輩」
歩き続ける背に声をかけても、返事はない。ほとんど、走るような早足。その行く先は、どうやら出口のようで。そのまま、僕らは真夏の野外に出ることになった。直ぐに、汗が噴き出してくる。
「どうしたんですか、急に。実験は――」
「……どうでもいい」
なんだ、それは。それじゃあ、何のために来たんだか、判らない。それとも、イルカだけで十分だということなのか。
「実験のため、それ以外に何もなし、ね。そりゃあ、一人ではしゃいでる私は、さぞ滑稽だったでしょうね」
そんなことはない。ただ、疲れていただけだと否定する。
「――嘘吐き」
本当だと、口にしようとして。突きつけられたタブレット端末に、凍り付いた。その画面には、こうあった。『昨日、一緒、違う雌。どこ、いる』――と。昨日、ショーに出ていたイルカが、玲奈を連れた僕を覚えていたのだろうが――この文面だけを読むと、まるで。
「二日続けて来てれば、そりゃ、面白くもないでしょうよ。……なにが、『前に一度見た』よ……馬鹿にしてるの?」
違うのだと説明しようとしたが、言葉が浮かばなかった。それに、二日連続で来たというのは、紛れもない事実だ。その負い目が、言葉を挟むことを許してくれなかった。
「……わざわざ、前日に同じ場所で彼女とデート? 何それ? なんなのよ、それ。そんなことするほどイヤなら、断ってよ」
タブレットの画面が――いや、端末を持つ先輩の腕が震えていた。それに、声も。
「……楽しみにしてた私が、馬鹿みたいじゃない」
洟を啜る音に、視線を上げる。先輩の瞳には、透明な雫が溢れていた。水族館に来るのを、楽しみにしていた――そうじゃない。それくらいは、僕にだって判る。楽しみだったのは、場所ではなくて。それはつまり、そういうことで。
「すいません、先輩」
謝罪の言葉に、先輩の肩が震える。でも、そういう意味の謝罪じゃない。
「確かに昨日、僕は女の子とここに来ました。黙ってたのは、謝ります。けど、違うんです」
「……なにが」
「一緒だったのは、彼女じゃなくて、従妹です。十歳の、小学生」
先輩が、涙声で笑った。まあ、僕だって逆の立場なら笑うだろう。そんな言い訳を、信じるほうがどうかしている。
「……もしかして、馬鹿にしてる? そんな嘘、幾らなんでも――」
だけど、証拠があれば別だ。携帯電話を開いて、画像のフォルダを示した。昨日の日付。表示したのは、イルカと玲奈とのツーショット。他にも、ペンギンやアシカの前で撮った写真が何枚もある。僕が、見ず知らずの子供を連れ歩いて写真を撮って回ったというのでもないかぎりは、何よりの証拠になるはずだ。
先輩は、示した写真と僕とを交互に眺めている。頭では理解しても、整理が追いつかない。そういう感じだ。
「あー……念のために明言しておくと、僕に彼女はいません」
そこまで告げて、ようやく、勘違いだということに気付いてくれたようで。それのついでに、自分が何を口にしたかも思い出したようだった。先輩の顔が、どんどん、赤くなっていく。
「や……違うの、あれはそういう意味じゃ……」
「そういう意味って、どういう意味ですか?」
先輩が、言葉に詰まる。意地の悪い質問かもしれなかった。別に、疑われた仕返しというわけではない――まあ、たぶん。
「……案外、性格悪いんだね。判ってて、そんなこと」
「いや、そんなことはないです。ただ、なんで僕なんかをって、信じられないだけで」
それはまあ、事実。先輩ほどの器量良しであれば、幾らだって、もっと良い男を捕まえられるだろう。我ながら情けなくはあったが、客観的にみて、そのはずだ。
「……割と普通に接してくれたから、かな」
天才には天才なりの悩みがあった、ということだろうか。そういえば、先輩が友達らしい相手といるようなところを見た記憶は、あまりない。
「そんなもんですか」
「そんなもんなの」
そういうものなら、仕方がない。頷いて、納得することにした。別段、だからといって困ることもないのだから。
「それで――……返事、聞いてない」
「あー……今更、必要ですか?」
「……当たり前でしょ」
咎めるような視線。そもそも、返事以前に言葉にされていないのだけど。判ってしまったし、僕が判っていることを先輩も判っている。退路はなかった。照れ混じりに、最後の抵抗を試みた。タブレット端末を指す。
「……ソロモンの指輪があるんだから、それで判りそうなもんですけど」
「生憎と、人間は対象外なの」
抵抗を一蹴されたので、僕は観念することにした。