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水族館のなかは、真夏の海岸線とはあらゆる意味で別世界だった。適度な薄暗さと、どこかひんやりとした空気。海のなかにいるような、そんな錯覚を覚えるほどで。いや、実際、大したものではあるのだ。相模湾の海中を再現したという大水槽では、悠然と泳ぐサメやエイ、それに何千匹ものイワシの群れが巨大なひとつの生き物であるかのように銀色に輝きうねっている。順路に沿って進んでいけば、クラゲばかりを何十種類も展示している幻想的なコーナーもある。昨日、同じものを見たばかりの僕でもそれなりには楽しめるのだから、初見の先輩については言わずもがなだろう。展示を楽しむ先輩の様子は、まるで、昨日の玲奈のようだった。
ただ、今日の目的を考えれば、そのままというわけにもいかない。頃合を見計らって、すっかりご機嫌の先輩にお伺いを立ててみる。
「……ところで、先輩」
「ん、なに?」
「あの、実験。どうしますか」
先輩は、一瞬、きょとりとした表情を浮かべた。その反応に、僕は頭を抱えたくなった。何のために来たのか、覚えていますか?
「……ああ、うん。そう、そうだったね。もちろん、覚えてるよ。ただ、ほら、なんというか……」
先輩の目は、水槽の魚たちのように泳いでいた。どうやら、楽しむ方向にスイッチが入ってしまっていたらしい。何か言いたげな様子だったが、何を言いたいかは明白だった。実験という名目で来ている手前、自分からは言い出せないに違いない。なんというか、仕方のないひとだと思う。先輩の心の声は、動物の声よりも余程に判り易い。
「……とりあえず、一度、全部見て回ってからにしましょうか。そのあと、どれで実験するかを考えましょう」
ぱっと輝いた先輩の顔が、正解を口にしたことを教えていた。
それにしても――と。興味深げに水槽を覗き込んだり、感嘆したような声を洩らしたり、時には興奮した様子で僕の服を引っ張って泳ぐ魚を指差したり。そんな先輩に付き合って歩きながら、ふと思う。これじゃあ、まるでデートみたいだ。
だけれど、先輩にそういうつもりはないだろう。隣にいるのが僕ではない他の誰かでも、きっと同じようにして、楽しそうに笑うのじゃないだろうか。なんて、情けないことを考えてしまうのは、二日酔いのせいだろう。
「あっち、ペンギンの赤ちゃんがいるそうだよ」
僕がろくでもない思考を回しているのに気付いたわけではないだろうけれど、新たな関心の的を見つけた先輩が、僕の腕を引いた。何匹ものペンギンが泳いでいたり、陸の部分をよちよちと歩いていたりする。そのなかに、まだ、もこもことした毛玉のような雛が混ざっている。生で目にするのは初めてだという先輩に、僕は曖昧に頷いた。可愛いと思わないではなかったが、流石に二日連続では感動も薄れるというものだ。
「……もしかして、ペンギンは嫌いかな?」
「や、そういうわけじゃないですが」
「ですが?」
なんとなしの、罪悪感。本来ならば、同じ感動を一緒に味わえていたのだろうけれど。問うような先輩の視線から逃げるように、今更ながら、ペンギンの雛に目を向けて。前に一度、見たことがあったからと。
「ふうん? まあ、いいけど……演技でもいいから、女に調子を合わせておくものだよ?」
「……覚えておきます」
「なんというか……葉山くんの彼女さんは、苦労しそうだねえ」
予想だにしていなかった言葉に、咳き込んだ。慌てて、問いただす。一体、それはどこからの情報なのか。
「……え、いや。葉山くんが最近、女の子とよく一緒にいるって聞いたけど」
全くといっていいほど、身に覚えがない。彼女と呼べるような相手がいたことなど、これまでの人生のなかで一度きり。中学生の頃、部活の先輩と半年ほど付き合っただけだ。それも、彼女が受験のために部活を止めて疎遠になって、卒業したことで自然消滅した。僕のロマンスなど、その程度のものだ。
それに、自慢じゃないが、僕には目立ったところ、秀でたところが一つもない。中肉中背で、頭蓋骨の内側も外側も平凡そのものの。運動神経だって、平均的。男女比12:1という理系大学の競争率で、僕のような人間に機会が回ってくるはずもない。女性と話すことがあるとすれば、それは先輩くらいのもので――、
「……あの。その女の子って、もしかして」
指差した。先輩は、僕の指が示す先を追って振り向いて。後ろが壁だと知れば、間抜けた声を洩らした。
「――私?」
「まあ、たぶん。大学で親しい女性というと、先輩だけなので……」
大方、実験の手伝いやら卒論の相談やら、このところ接する機会が多かったからだろう。蓋を開けてしまえば、下らない話だ。だけど、先輩は何故か、にやけた笑みを浮かべていた。理由は、よくわからない。
そうして、僕は、新江ノ島水族館のイルカショーを眺めていた。もちろん、今日は土曜日ではなく日曜日だったし、隣にいるのは従妹の玲奈でなく、先輩だ。
もっとも、示す反応は玲奈も先輩も、同じようなものだった。イルカが跳ねるたび、歓声を上げる。僕はといえば、早速、先輩の教えに従ってみた。もっとも、そうやって先輩の隣にいるうちに、楽しんでいる演技をする必要なんて、なくなったのだけど。
「……ちょっと、はしゃぎ過ぎたかな?」
「いいんじゃないですか、別に」
周りの目を気にして遠慮する先輩など、らしくない。自由で気儘で、自分に素直。それが先輩の魅力だと思う。そうフォローすると、先輩は何か言いたげに口を二度三度と開きかけ、結局なにも言わずに深々と帽子を被ってしまった。
よく判らなかったけれど、そういえばと、思い出す。ショーが終わったあとも、イルカたちは暫くプールにいる。実験をするなら、絶好の機会のはずだ。あれだけ賢いイルカたちとは、どのような会話が出来るのか。昨日、そんなことを考えていたのを思い出し。最前列まで下りようと、先輩を促した。
「おお……近いね、これは」
子供連ればかりのなかに大人二人というのが珍しいのか、プールのなかを近付いてきた一匹のイルカを、先輩がまじまじと眺める。先輩の手がポシェットに伸び、タブレット端末を取り出した。先輩が何事か打ち込むと、先週に何度も聞いた、例の音。直ぐに、イルカが反応した。水から頭を出して、ピイピイと鳴いた。
「……なんて?」
タブレットの画面に表示されたログを、覗き込む。『お疲れさま』に対して、『平気。疲れ、少ない。仕事、楽しい』――と。イルカたちは、ショーを仕事だと思っているらしい。まあ、何かをやって餌という対価を貰う行為のことを、仕事と意訳したのだろう。随分と、ソロモンの指輪は性能を上げたようだ。それとも、イルカが賢いためだろうか。
「……凄いもんですね。ちゃんと、順番に話しに来る」
「イルカは群れで暮らす、社会性の高い動物だからね。それに、私たちのところにだけ集まったら、他の子供たちが寂しいでしょ」
ごもっともだった。確かに、昨日のショーのあとも、イルカたちは満遍なくサービスしていたように思う。
「それにしても……まるで、『イルカの島』だね」
その小説は、読んだことがあった。数年前に没したアーサー・C・クラークの作品。彼がまだ生きていて、自分が半世紀前に書いた小説の情景が現実になったと知れば、どう思っただろうか。