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土曜日の朝。僕はそれなりに早く起きて、朝からシャワーを浴びた。きっちり髭を剃って、暫く使っていなかった整髪料を引っ張り出し、髪を整えた。実験の手伝いとはいえ、美人のお供をするには違いない。別に何を期待しているわけでもないけれど、礼儀として、最低限の身嗜みは整えるつもりだった。いつものジーンズではなく黒のスラックスを穿き、白のVネックに袖を通したあと、一番まともな状態だった、白地に黒のピンストライプが入ったシャツを羽織る。鏡の前で、笑顔を作ってみた。まあ、最低限の格好にはなったはずだ、たぶん。
――が、現実というやつは、得てして期待を裏切るもので。
「……なんだか、遊び慣れてない理系男子の典型ファッション……って、感じだねえ。その、モノトーン具合」
開口一番、先輩はそのようにのたまった。薄く紅が差された唇が、微苦笑のかたちになる。僕のほんの少しの自信は、一瞬で打ち砕かれたといってもいい。パリッとした白いシャツと、開いた胸元にはゆるく垂らされた黒のカレッジネクタイ。それに、細身の深い青のジーンズ。簡素なようでいて、きっちり計算されているんだろう。少なくとも、大きめのサングラスをかけた先輩は、僕よりも余程に格好いいのは確かだった。
「……すいません」
「ま、いいよいいよ。普段の格好で来たら、どうしようかと思ったけど」
じゃ、行こうか。先輩の促すのに従って、改札を通る。ふと、目の前に見えた項に、首を傾げ。
「あ。今日はポニテなんですね、髪」
「うん? まあ、結構、外を歩き回るからね」
「割と似合ってます」
「……割と、ってのが余計だよ。減点イチね、葉山くん」
そんな言葉と共に、実験用のパソコンが入っているのだろうボストンバッグを押し付けられた。僕は返す言葉もなく、甘んじて荷物持ちを引き受けたのだった。
「――大人二枚で」
先輩が財布から一万円札を取り出したとき、チケット売り場の女性の視線が一瞬こちらを見たような気がした。僕だって落ち着かないが、先輩の実験の手伝いで来ているのだから、そんな視線を向けられる謂れはない。それとも、もしかしたら、姉弟だと思われたかもしれなかった。
「動物園なんて、十年振りくらいですよ」
仄かに畜獣の匂いが漂う空気に、どこか懐かしさを感じる。獣の体臭と、掃除しても完全には消すことのできない糞尿の臭い。
「へえ。でも、残念。純粋に楽しむ暇はないからね、たぶん」
まあ、実験の手伝いだから、そうだろう。そのつもりで来ていますと、そう答えた。
「そういう意味じゃなくて……まあ、いつでも走れるようにしといてね」
そういう意味でなければ、どういう意味だろう。首を傾げると、先輩は続けた。
「いや、ホラ。無許可でこっそり、だから。捕まっても、お互いの名前は出さないように」
僕は頭を抱えた。なんだそれは。まるで犯罪結社だ。
「でも、パソコン持って見物してるだけで、捕まります?」
「それだけなら、まあ、ねえ」
歯切れの悪い先輩に、まさかと視線を向ける。ごめんねー、と。にこり笑って、両手を合わせられた。
「言ってなかったけど。こっちからも音を出して、会話する実験なんだ」
そんなの、聞いていない。そりゃ、動物に向かって妙な音を出してたら、怒られるに決まっている。
「まあまあ……私に考えがあるから、大丈夫」
どうせ、ロクなものじゃない。ほとんど確信を持って、その先を聞いた。やっぱり、ロクなものではなかった。
「――……こちら葉山、位置に付きました」
『感度良好、よく聴こえるよ』
イヤフォンからの声に振り返ると、遠くのベンチでノートパソコンを腿に載せた先輩が、手を振っていた。気楽なものだった。
先輩の考えは、こうだ。ノートパソコンを開きながら動物を眺めているから、目立つのだと。それは道理だ。動物園に来て、動物の檻の前で、パソコンの画面を眺めてキーボードを叩いていれば、誰だって怪しむだろう。その上、妙な音まで発するとなれば、尚更だ。
だから、先輩は翻訳機であるパソコン本体と共に離れた位置で待機し、僕の状況をモニターする。そうして、僕がマイクで動物の鳴き声を拾い、先輩が何か話すときは、袖口に仕込んだスピーカーを動物へ向ける。最近のパソコン周辺機器は、無線のものも多い。それを利用したのだった。なるほど、それならば、音の発生源が誰かは直ぐには気付かれない。
「……けど、この格好、なんとかなりません?」
『王道だもの、それが』
先輩に押し付けられたのは、野球帽とサングラスだった。この外見だけで、怪しいことこの上ない。これでマスクが付けば、大三元で役満だ。それに、ジャイアンツの帽子というのが気に入らない。僕はいわゆる、アンチ巨人というやつだった。もっとも、そのことは先輩には言わないでおいた。曰く、政治と野球の話は友人をなくす。
『ま、いいから。じゃ、始めるよ――はい、スピーカーを象に向けて』
指示に従うしかなかった。なるべく自然に見えるよう、スピーカーを仕込んだ腕を、手近な柵についた。もう片方の手には、ビデオを持つ。色々なところで聞こえる動物の鳴き声に混じって目立たないが、聞き慣れない音が確かに流れた。少しの間を置いて、もう一度。ふと、一頭の象がこちらを眺めていた。円い瞳に興味の色があるように思えたのは、気のせいだろうか。
「いまのは、何て?」
『こんにちは、ってとこ。次は、呼んでみるよ』
また、音が流れる。先の音との違いは、僕にはよく判らない。けれど、象は確かにのそり動いて、傍に来て一声鳴いた。
「えっ……本当に来ましたよ!?」
『それは来るさ。彼、面白がってる。二本足、喋る、始めて――だってさ』
二本足は、人間のことか。なるほど。そうして先輩と象が何度かやりとりしたあとで、最後に伸ばされた鼻と握手をして、その場を離れた。
「――やったよ、大成功だ!」
先輩のところに戻るなり、満面に喜色を浮かべた先輩に飛びつかれた。僕はほとんどパニックに陥って、その役得をゆっくり味わう余裕もなかった。なんとも勿体無い話だったけど、それは、仕方がないってものだろう。
「よし、どんどん行くよ! 」
否応はなかった。クマ、ライオン、トラ、ゴリラ、ニホンザル。途中、僕は一度、腰を抜かす羽目になった。先輩が雄ライオン相手に挑発的な言葉を放ったようで、いきなり吼え掛けられたのだった。そのとき、イヤフォンからは先輩の楽しそうな笑い声が響いていた。
そのあとで軽く昼食を取って、カンガルー、シマウマ、カバにサイ、キリンと。ひととおり、いわゆる動物園の王道というようなあたりを、回ったころ。
「あ」
「はい?」
「ノートのバッテリーが、そろそろ保たないみたいだ」
なるほど、無理もなかった。先輩が使っているのは、軽さと稼動時間に定評のあるPanasonicのLet's noteシリーズだけれど、鳴き声の解析のためにCPUをフル回転させ、そのうえ無線の送受信を続けていれば、バッテリーも切れようというものだ。
「困ったな。まだ、全部回ってないのに」
「でも、何種類もの動物で試して、問題なかったじゃあないですか」
僕にとっては、一種類でも成功しただけで、驚くべきことだった。それが、どの動物でも成功したというのだから、このうえ何が不満なのだろうと疑問だった。
「うーん。いや、鳥類とか爬虫類、両生類さ。試してないじゃない」
「ああ。でも、哺乳類がいけるだけで、大したものじゃ?」
「そう? じゃあ、コレでβ版いけるかなぁ……」
僕はこのとき、先輩にもっと詳しい話を聞くべきだったのかもしれない。だけど、目の当たりにした実験の成果に興奮して、先輩の言葉のなかに含まれた単語の意味に気付くことはなかった。