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「――葉山くん。明日の土曜日って、空いてる?」

 論文の手を止めて振り向くと、何やら機嫌が良さそうな先輩の姿があった。ということは、つまり、何か面倒なことであるに違いない。溜息を吐いて、素直に応じる。残念ながら、土曜日の予定は入っていなかった。嘘をついて後で知れると大変だし、予定があると言ったら言ったで、色々と詮索されるに決まっている。

「一応、空いてますけど……、何ですか?」

「実験、手伝ってくれないかな。お礼はするから。こないだ、話したやつ」

 なんのことだろう。僕は首を傾げて、先輩に疑問の視線を向ける。それで、先輩の機嫌は幾らか悪くなったようだった。

「動物と話せる装置! 試作品が出来たから、付き合ってよ」

 僕は、目を丸くした。ここ最近、ずっとパソコンをいじっていると思ったら、そんなものを作っていたのか。ちなみに、僕らが所属しているのは理学部生物物理学科の研究室で、教授の専門は分子生物物理学だった。確かに生物に関することかもしれないが、いささかどうかと思われるほど、研究室で扱うテーマから外れている。

「……いや、先輩。学会の準備はいいんですか。九月の年会で、ポスター発表するんじゃ」

「ああ、あれ? 終わったよ、とうに。だから、趣味のことで遊んでるんじゃん」

 ぐうの音も出なかった。ごもっともです。

「でも、装置って……」

「これだよ!」

 ちゃらららっちゃちゃーん、と。国民的アニメの青い猫型ロボットが道具を出すときのエフェクト音を楽しげに口ずさんで、先輩はばっと指差した。残念なことに、僕には、ただのノートパソコンにしか見えなかった。きっと、他の誰でもそうだろう。

「……これは?」

「だから、動物と話せる装置。外付けマイクで声を拾って、パソコンで分析するの。昔、バウリンガルって玩具があったでしょ。あんな感じ」

 その例えは判りやすかったものの、僕は感銘を受けなかった。それでは、車輪の再発明じゃないか。僕の考えていることを察したのか、先輩は得意げに鼻を鳴らした。

「これはね、どんな動物の声でもいけるんだよ」

 そんな莫迦な。もしかしたら、声に出ていたかもしれない。先輩の顔は、ようやく期待どおりの反応を得たようで、にたりと歪んでいたからだ。

 しかし、それは変でしょう。僕は続けた。バウリンガルは様々な犬種の何千匹もの犬の鳴き声を研究し、声紋分析をした結果のデータを利用しているという。そんなデータベースもないのに、どうやって。最後の問いに、先輩の笑みはますます楽しげになった。ああ、しまった。

「聞きたい?」

 その笑みに頷くのは癪だったけれど、気になるのは確かだった。それに、どちらにせよ先輩は数十分の大演説を始めるだろう。結果が同じなら、先輩が期待している反応を返して、ご機嫌を取っておくほうがいい。僕は頷き、説明を促した。

「よろしい。じゃあ――葉山くんはさ、バベルの塔って知ってる?」

「はい? え、ええ、まあ。話のさわりくらいなら。旧約聖書ですよね?」

 突拍子もない単語に驚きながらも、僕は応じた。バベルの塔。創世記に描かれた、ニムロド王の挑戦。かつて大洪水を起こした神に挑もうと、天に届く塔を築かんとした試み。それは成功しそうに思われたが、人間の増長に怒った神が罰を下して、神の座へ達することは叶わなかった。概要は、そんなところだろうか。

「うん、まあ、そうだね。だけど、肝心なところが抜けてるよ。神様は、どうやって塔の建築を失敗させたのか?」

「人間の話す言葉をバラバラにしたんですよね。それで人間は団結できなくなって、二度と天に挑むような大それた真似をできなくなった」

 もっとも、千メートルにも届きそうな超高層ビルが世界の各地で計画されているような現代の建築事情を思えば、それもどうだか判らない。

 まあ、千九百六十一年の四月十二日にユーリィ・ガガーリンとかいうソヴィエト連邦の宇宙飛行士が神の不在を確かめているから、神様が下した罰の効果が薄れているということかもしれないけれど。

「そう。さて、そこで私は閃いたんだ。人間の言葉は、なるほど、バラバラになった――ま、私は|エスペラント(世界共通)語も判るけど。ちなみに、エスペラント語っていうのは――、」

 脱線の気配を感じたが、制止は間に合わなかった。エスペラント語の歴史や理念、はては簡単な日常会話のレッスンまで始めそうになった先輩を元の話に引き戻すのに、約七分間を必要とした。

「――ああ、どこまで話したっけ?」

「先輩が、何かを閃いたところまでです」

 はっきり言って、まだ話のとば口にもいたっていない気がする。早くもげんなりしながら、先を促した。

「そうだった、そうだった。でね、私は思ったんだ。じゃあ、動物の言葉はどうだろう――ってね」

 この人は何を言っているのか。僕は首を傾げた。

「神様だって、暇じゃない。人間を罰するのに、他の動物の言葉まで一緒くたに乱すことはしないんじゃないかな。何しろ、六日働いたら一日休むような神様なんだから、余計な仕事はしないでしょ」

 こめかみを押さえて、僕は唸った。本当に、この人は何を言っているのか。確か、何かの試作品についての説明を聞いていたはずじゃなかったか。それがどうして、聖書の解釈について語られているんだろう。これは、久しぶりの大型地雷かもしれない。先輩は確かに天才だが、やることなすこと全てが成功するわけではない。イグノーベル賞でも狙うつもりなのか、先輩は。

「それで――あ、マコーレー・ライブラリ・カタログって知ってる?」

 知るわけがなかった。しかし、そこで訊ねると、また脱線しそうな気配があったので、名前だけはと答えておいた。あとで調べたら、六万五千種類以上の動物の鳴き声や、二万種類近い動物の動画を揃えたサイトらしかった。

「そこの鳴き声ダウンロードしてさ、色々と試してみたんだ。そうしたら、大当たりを引いてさ」

「大当たり?」

「うん、そう。動物の鳴き声って色々あるけど、基本的には全部、方言みたいなものだった」

「……んな、莫迦な。犬と猫が意思疎通出来るってんですか!?」

 あまりに突拍子もないことに、つい、大声をあげてしまった。けれど、先輩の自信に満ちた表情は崩れない。あっさりと、先輩は頷いた。

「まあ、出来るんじゃない?」

 曰く、こういうことだった。鳴き声はそれぞれ違うが、人間の耳に聞こえる音、つまりワンワンだとかニャーニャーだとか、そういう鳴き方の違いには、あまり意味がないのだという。

「……でも、種族が全然違うじゃないですか。それで通じるんですか?」

「うん。詳しい説明は、たぶん理解できないと思うから省くけど。音程というか周波数というかね。その振れ幅とリズムに特徴的な波形が――」

 かいつまんだ説明でも、僕には理解できなかった。どうにか把握できたのは、先輩は動物の鳴き声には共通する何かの要素があると主張していて、それを応用した全動物対応の翻訳機を試作したらしいということだけだ。

「つまりね。いまの生物はみんな、共通祖先から枝分かれした系統樹の末端にある。葉山くん、流石に系統樹は判るよね?」

 当然のように、僕は頷いた。無論、生物物理学科の講義で習うようなものではない。生物分野に興味を持つ人間としては、常識に類する部類の知識だ。先輩は頷いて、言葉を続ける。

「枝分かれのどの段階かは判らないけど、コミュニケーションを取るようになったんじゃないかな。で、そこから下の系統群(クレード)には、DNAレベルで共通のコミュニケーション手段が刻まれているとかさ。実際、人間でもたまにいるでしょ。動物の気持ちが判る――とか。あのテレビに出てるオバさんは、インチキだと思うけど」

 そのあたりを突き詰める気は、先輩にはないようだった。けれど、それはそれで疑問がある。いや、混ぜっ返したくなったというべきか。

「じゃあ、蝉の鳴き声はどうでした?」

 自信満々でしたよね、と。訊ねると、ここまで流暢に喋ってきた先輩が、はじめて言葉に詰まった。

「……私は動物と言ったんであって、昆虫とは言ってないよ」

 どうやら、自信はないらしい。まあ、蝉の鳴き声は、動物の鳴き声とはまったく原理が違うから、仕方ないのかもしれない。鈴虫やら蟋蟀(コオロギ)やらに至っては、声ではなくて羽を鳴らしている音なのだし。

「……まあ、それはいいから。そんなわけで、明日、十時に駅の改札に来てよ。あ、一応これ、私のケータイ」

 さらさら走らせたメモを、握らされた。ふむ。まあ、美人から連絡先を教えられて、悪い気分がする男はいないだろう。

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