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 蝉の声がうるさかった。耳鳴りのように、響く音。その意味だって判るはずだと、彼女は豪語した。


「無理だと思いますけどね」僕は、いたって常識的な意見を口にした。

 勿論、僕の返答は、目をきらきらさせて新しいアイディアを語っていた彼女のお気に召すものではなかった。

「なんで?」輝いていた目が、じとりとした湿ったものになって、僕を睨み付ける。

 なんでもなにも、それが普通の感覚というものだ。第一、蝉の言葉が判ったところで何になるのだろう。僕は、そんなようなことを答えた。それがいけなかった。

「夢がないよね、夢が……研究者には、夢が大事だよ?」

 研究者である前に、僕は学生だった。研究室の先輩に卒業論文のアドバイスを求めたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。僕が彼女の話に捕まっているあいだ、友人たちはいかにも自分の論文に集中していますといった様子を装って、無言でパソコンに向かっていた。


「今日の講演会は、四十六分か。新記録達成だな、おめでとう」

「どこがおめでたいのか、馬鹿な俺にも判るように説明してくれないか、田村」

 学食の列に並びながら、げんなりした気持ちで応じる。時間を計っているくらいなら、助け舟を出してくれても良さそうなものだ。横合いから、別の話題を振るだとか。

「そうしたら、川瀬先輩、その話についてまたイチから始めるぞ?」

「それもそうか……いや、よく静かに見守っててくれたよ、ありがとう」

 本音と皮肉が半々に入り混じった言葉を返す。判ってはいても、恨めしいものは恨めしい。

「んー、迷うな。葉山、お前は何食う?」

 列の途中、今日のメニューを眺める田村が唸った。つられるように、視線を向ける。ふむ。

「まあ、B定食はないな……」

 ぱっと見て、ひとつを弾く。いかにも美味そうに見えるトンカツではあるが、ここ第一食堂のトンカツは、いわゆる地雷メニューだ。薄さの限界に挑戦したのじゃないかというほどペラペラの肉に、何重にも衣をつけてある。あまりに肉が薄すぎて、分厚い衣に染みた油とソースの味だけしかしない。本当に豚肉を使用しているのかさえ疑わしいような代物だった。よって、自動的に丼物も除外される。今日の丼物は、やはりというべきか、カツ丼だったからだ。

 続いて、パスタも選択肢から消える。余程の味音痴でもなければ、伸びたゴムのような食感のパスタを一皿分も食べるのは拷問に近い。パスタを食べたければ第三食堂に行けというのは、ここの学生の共通認識であると思う。

「ソバにする。野菜掻き揚げなら、ハズレはないだろ」

「俺はC定にしようかな。サバ味噌、美味そうだ」

 それぞれの食券を買って、料理を受け取って。適当な席に腰を落とせば、どちらともなく食べ始める。つるつるとソバをすすり、掻き揚げを齧る。揚げたてというほどではないけれど、まだサクリとした感触。油の通った人参や玉葱の甘味が、口のなかに広がる。悪くない。

「それで、お前、論文は?」

「ああ……詰まってたとこは、どうにかなりそう」

「なんのかので、やっぱり凄いわな、あの人」

 そうなのだ。あの先輩は、僕が三日間悩んでいた点について、僅か三分で適切な助言をくれた。問題は、そのあとの四十三分が、僕の卒業論文とは全く関係のない話題だったということだ。

「あれで、無駄話さえなけりゃね。お前、いつも捕まるもんな」

 博士課程一年目の川瀬先輩は、いわゆる天才という人種だ。勉強はもちろん出来るし、専門分野以外の知識も該博。発想力も実行力も凄まじく、幾つか特許を持っているという。その上、学部生の頃には学園祭のミスコンに推薦されたほどの美人というのだから、天は二物も三物も与えるという実例だ。もっとも、僕らが話しているように、完全無欠というわけではない。

「なんでいつも、僕ばっかりなんだろう」

「ウチの研究室で院に進むの、お前だけだろ。だからじゃないのか。お前が聞き上手ってのも、あるだろうけど」

「確かに、話は面白いけどね。ちょっとヘンだけど、悪い人でもないし」

「あれで、ちょっとか? 天才には変人が多いっていうけど、そのクチじゃないの」

 否定は出来なかった。その最たる例は、人類の歴史上でもっとも有名な科学者、アルバート・アインシュタインだろう。一般人には出来ないことを容易くやってのける反面、非常識なことを平気でやったりする。

「あんまり変人変人言うなよ。僕はあと二年間、一緒なんだから。研究っていう意味では、頼りになるけど」

「それはありがとう。じゃあ、どういう意味だと、頼りにならない?」

「教授の付き添いとか学会の準備とかは、全然ダメそうだよな。片付けも出来そうにないし、それに――、」

 はっと、口を噤む。正面に座る田村が、目を逸らした。隣の椅子が、ぎっと音を立てて引かれる。

「――ハァイ、葉山くん田村くん。ご一緒していいかしら、変人の川瀬です」

 気付けば、周囲の視線が集まっていた。アクアブルーのキャミソールと、デニムのショートパンツ。そんな格好の上から白衣を羽織った川瀬先輩は、百七十センチ台の長身とロングの黒髪もあって、よく目立つ。

 僕らはなんともいえず、頷くしかなかった。付け加えるなら、先輩の盆に載っていたのは本日のパスタ、ミートソースのスパゲティだった。それをいかにも美味しそうに食べ始めた先輩の姿に、僕と田村は、顔を見合わせた。天才は、味覚も常人とは違うのだろう。付け加えるなら、先輩はテーブル備え付けの粉チーズを、ミートソースの赤が見えなくなるほど大量に振りかけていた。

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