迷路の果てに
「にぃちゃん!」
梯子を下りるとすぐに異変に気付いたメーネがすがり付いてきた。
「腕――どうしたの!?」
血の匂いにクラーストの娘も不安げな顔をしている。
「たいしたことはないよ。あとで手当てさえすればどうにかなるから」
「え……でも、……そうなの?」
「ああ。さ、ほら。掴まって」
「は、はい……」
背中を差し出すとクラーストの娘はおずおずと腕をカルルの首に回してきた。
「あの……ほんとうに大丈夫なんですか?」
もちろん大丈夫ではない。今でも嫌な汗が全身を包んで気持ちが悪い。彼女はそれに気が付いたのかもしれない。
「こういうのは慣れてるから。ああ、そういえば君の名前は?」
右腕で少女の脚を支えると、カルルは少し歩いてみて安定を確かめた。
「エ、エリスです。カルルさん」
「エリス、か。じゃあエリス。走るからしっかり掴まっててくれよ。あと、できたらあんまり左腕には触らないように」
「は、はい」
その時、頭上で慌ただしい足音が響いた。一人や二人のものではない。
「急ごう」
カルルが走りだし、メーネもそれに続いた。
できるだけ早く、尚且つ長い距離を走れる速さで走らなければならない。おまけに今は重りがある。体力だって万全ではない。ただ、道だけはしっかりと頭に叩き込んである。あの二人と合流さえできれば大体はなんとかしてくれるはずだ。――問題ない。
そう心に言い聞かせる。まだこんなところで折れてはいけないと。
「にぃちゃん、この先、道が分かれてるよ。どっち?」
明かりといえばランプの頼りない炎のみ。カルルに見えているのは少し先の足元程度でしかないにも拘らず、その先を走るメーネにはまるで昼間と同じように見えている雰囲気がある。
記憶によれば、確かにこの先には分かれ道がある。このまま真っ直ぐに続く道と、左方向に直角に曲がる分岐だ。合流地点まではこのまま真っ直ぐの道を辿る。
「左から足音がするよ、たぶんサーカスの……」
メーネはそう言うが、もちろんカルルには自分達の足音以外は何も聞こえない。
「問題ない、まっすぐ行けばいい」
分岐の道なりに続くほうを選びながら、カルルは思った。
――先回りされた。
彼らがこの分岐まで来て、自分たちが来た道からの追っ手と合流すれば当然、今のこの道を追いかけ始めるはずだ。……それだけならまだいい。
最悪は、この道の前方からも追っ手が来ること。
挟まれれば逃げ場のない地下水路で、それは『詰み』を示している。
「メーネ、大丈夫か?」
「……うん。けどこんなに走るの久しぶりだから……ううん、大丈夫だよ」
もう体力を温存して走ることなど考えていなかった。追っ手が来てしまう前に分岐を過ぎなければ、いくら体力が残っていてもどうにもならない。
「もうちょっとだ、頑張れ。あとで何でも好きな物買ってやるから」
「……もう、メーネそんなに小さい子じゃないよっ」
「そうか。――エリスも、大丈夫か?」
「私は平気です。けど、カルルさん……?」
「何?」
「その……こんなこと、言わないほうがいいのかもしれませんが……」
「いや、言ってみて。心配事でも知ってるに……越したことはないから」
頭の後ろから聞こえてくるエリスの声がひどく申し訳なさそうなのは、それが自分のせいであるとでも思っているからだろうか。
「……カルルさんの、汗がすごいです。あと……さっきより、体が冷たく……」
「……まいったな……」
笑って流すしかなかった。
火事場の馬鹿力、という言葉があるが……今がその状態なのかもしれない。
自分の体のことは自分が一番よくわかる。
左腕の怪我、骨まで達している箇所もある。かなりの血を失ったに違いない。頭がくらくらするのは貧血の症状だろう。加えて、子供とはいえ人間を一人背中に担いで走り続けているのだ。追い続けられて精神的にも参っている。その上で冷静な判断を迫られているのも疲労の一因になっているはずだ。
それなのにしっかりと頭と体が動いているのは、不思議というより不気味だ。
アカシアとクラーストに合流するまでは、という執念がそうさせているのだろう。その後のことは考えたくない。
「にぃちゃん、また分かれ道」
この先は三差路。やはり気になるのは追っ手のこと。
「足音は?」
しない。けど、後ろからの足音がさっきより増えてる。
そういう答えを期待していた。
「真ん中と右側から、合わせて十人くらい。左の道が空いてるよ」
「――右の道から?」
カルルは戦慄した。
走る足の動きが鈍る。
祈る思いでメーネの答えを待った。
「う、うん……。もしかしてこっちに行きたいの?」
最悪の事態の足音が聞こえた気がした。
「左に行こう」
それしかなかった。
右の道を進み、最後の分岐を過ぎればあの二人との合流場所だったのだ。
心の支えが潰えたことで一気に状況は悪化した。
この先の道がどのようになっているのか、まったく把握していない。下手をするとすぐそこで行き止まりになっている可能性すらある。
だが他に道も無く走り続けるしかなかった。
頼む――。
と、その時。
――明るい?
曲がり角を曲がった瞬間に、カルルの目に飛び込んできた景色。
小部屋のようになったその場所は他とは違い、壁に松明の炎が燈されて煌々と辺りを照らしていた。
そして正面には槍のような物を持った人影が二つ。距離はそう遠くないが、体調の悪化で視界が不明瞭になってきていた。
もう戦う気力は枯れ果てていた。すぐにでも膝を折ってしまいたい。
皆に謝りたかった。
「止まれっ、貴様ら!」
怒号が意味する悪夢をカルルは薄れゆく意識の中で、それだけはっきりと理解していた。
もうちょっと続きます。