俯いた答え
「な、なンだァ!?」
「!?」
アカシアの周りには脇腹を殴打されてうずくまったり気絶している者は大勢いるが、息をしていない者は一人も居なかった。
その様子を歯痒い顔で見届けていたセマードが突然素っ頓狂な声を上げたので、アカシアも何事かとそちらを見たのだ。
広場の奥から悲鳴を上げて走ってくる者達はここの団員。
その様子は一度は全力で挑み、敗れて残党狩りから逃れる敗走兵と言うよりは、むしろ傍若無人な傭兵から逃げ惑う寒村の村人に近い。
一切の勝ち目のない恐怖を映した目をアカシアは思い出した。
その経験から彼女は正体不明の脅威が近付いてくると判断し、咄嗟に剣を納めると門の外まで下がってから広場の状況を見定めようとした。
しかし突然の背後からの大声にそれは阻まれた。
「アカシア! 逃げるぞ、乗れ!」
「!」
街道から矢のように駆けてきた馬にクラーストの姿を捉えると、すれ違いざまに馬具にしがみ付いて広場から離脱した。
「――もういいのか?」
「ああ。どういうつもりかは知らんが、誰かがサーカスの猛獣を解き放ったらしい。俺のいた正面門もそいつらが暴れまわっていて収拾が付かなくなってる」
「……カルルかな」
「かもな。だとしたら見た目に寄らず派手なことをするじゃないか。それだけ余裕があったのだろう」
「だといいが。それで、今どこに向かっている?」
「あの坊主の出口に先回りする。場所も離れているから大丈夫だろう」
「追手が、という意味か? しつこいのがまだ後ろにいるぞ」
クラーストもふり返ると、後方の暗闇の中に二頭の馬を見つけた。それぞれの騎手が長い棒のようなものを持っている。槍ではないようだが、まともに喰らえば落馬の危険はある。
「大丈夫なのか? この態勢では剣は使えないぞ」
「心配するな。この町は俺の庭みたいなもんだ。あんたは振り落とされないようにだけ気を遣ってくれ」
長い街道を駆け続け、町の中央の広場で大きく弧を描くとクラーストは舵を右に取った。
地図で見た限り、こっちは確か――
「こっちで大丈夫なのか!? 居住区だろう!」
そしておそらく貧困層の。それは治安の悪さと比例する。
それまでは十分に道幅があった街道が、いくつもの狭い分岐に別れ、その先では塗装が朽ちて剥がれた建物や路上で夜を明かしている者達が、まるでこれからの悪夢の予兆しているかのように不気味に映った。
それらを気にも留めずクラーストは、物乞いの帽子を蹴っとばし、落ちているのか売っているのかさえわからないネズミの死骸を蹴散らし、ただその奥を目指してひたすらに馬を走らせ続けた。
本当にこの一帯の地理を熟知しているからだろう。分岐を選ぶ手綱の動きに迷いがないのはとても頼もしい。
異常に長く感じられた数分の後、馬の足音に紛れてクラーストの声が聞こえた。
「もう抜けるぞ」
そしてようやく視界が開ける。
建物が密集した圧迫感がなくなり、星空は広く、川が近いのか水気を感じさせる風が心地よく首筋の汗を冷やしていった。
「……まだ、追手は来ているか?」
そこでようやくアカシアは後方を確認した。道なき道を走る激しさのせいでふりかえる余裕すらなかった。
「…………。いや、大丈夫だ。撒いたらしい」
「そうか……。さすがに少しばかり疲れたぞ。俺は、休む」
緊張から解けた疲れもあってか、体格の良いクラーストも川沿いの道で馬を止めると鈍い動作で地に足を下ろした。
「この場所にでてくる道は限られている。追いついてこないところを見るに連中、今ごろは俺たちを見失って立ち往生だろう。ここの住人に身ぐるみを剥がれてなければいいが」
意地悪く笑うとポケットを弄り、顔をしかめた。
「くそ……煙草を落とした。アンタ、持ってないか?」
「煙は苦手なんだ。それで、これからどうする」
「坊主との合流地点がここだからな……それまで待つ。――おっ、ポケットに飴が入ってた。いるか?」
「……いただこう」
小さな紙包みを指で剥がしながら、彼女の瞳はまだ夜明けは遠そうな空を映していた。
「カルルっ!」
少女が自力で腕の拘束を解いて叫んだ時には、今度はカルルが身動きの取れない状態に陥っていた。
一体普段は何を食わされているんだ、と訊ねてみたいくらい臭い息が顔にかかる。大きな毛むくじゃらの前足が胸の上に乗っていて息が苦しい。
「どけよ……」
あの獣のようにこいつが人の言葉が理解できるのかは知る由もないが、その表情が人でいう卑しい部類に入るのは、つまりそういうことなのだろう。
視界の端に見えるあの娘が泣いているのは自分のせいだ。
左の肩から腕にかけてがもう自分の感覚ではどうなっているのかわからない。武器を持っているほうの手を狙ってくるという予想は大当りだった。
そして、そんな後ろ向きな考えをするからには、もちろん反撃の手も用意してある。
この獣がいくら体が大きくて力があるといっても、人の細い腕がする一瞬の動きには対応できないはずだ。先手さえ打てればいい。
さっき彼女から奪ったナイフをばら撒いた場所にわざわざ倒れこむような位置取りをしたのも、始めからそれを狙ってのことだ。
今のこの状況にまで持ち込みさえすれば、落ちているナイフを拾ってその目玉に突き立てるくらいは、きっと出来るはずと信じていた。
「――――――――っ!」
鎖骨をゴリゴリと齧ってくれた礼だ――と、声までは流石に出なかった。
片目を刺された獣は悲鳴を上げてカルルの体から飛び退いた。が、無理な体勢から力が入りきらなかった。傷は浅かったようだ。
興奮した獣はすぐに体勢を立て直すと怒りの反撃を仕掛けようと再び仰向けのカルルに襲い掛かってきた。
刀折れ、矢も尽きた。後は獣に喰われるのみか。
――本当に一矢報いただけで終わりか……。おかしいじゃないか。人を殺せる癖に、守ることはできないなんて。あの二人を殺した時よりも強く、彼女を助けたいと願っているのに。
情けないやら、不甲斐なさを自分で同情しながら苦笑いで締めくくる人生とは。
精も根も尽き果て、カルルは最期の景色をぼんやりと眺めていた。
「……?」
突然の流れ星。
ふっ、と。何かが光る。
続いて獣の呻き声。それはすぐに叫び声に変わった。
ようやくわかったのは、カルルが突き刺したのと同じナイフが獣の耳を穿っていたことだった。
柔らかい場所から刺さった刃はそのまま頭の中心に柄まで深々と刺さり、狂ったような咆哮を繰り返した後、獣は膝を折り、やがて身を横たえた。
その様子を横目で見ながらカルルは起き上がる気力もなければ、娘に声をかけることもできなかった。
代わりに首だけ彼女のほうに動かすと、
「女には……隠し場所が多いんだよ」
まったく肝の据わった少女である。
カルルが安堵する間もなく、テントに何者かが駆け込んでくる足音がした。
「おい、大丈夫か!? 今の鳴き声は――うっ、こ、これは……!」
入り口で驚いているのは団員か。半身血みどろの自分か、同じくしてぐったりと横たわる獣のどちらを見てそう言ったのかは定かではないが。
だが、早く逃げなければいけないのは間違いない。
返事のない体を無理やり起こす。これほど『気合』という言葉がぴったりなことも今までになかった。
「カルル、動かないで! 血が!」
そんなことを言っていられる場合でもないのだ。言わずにはいられなかったのだろうが。
「ヴィタ、彼は? うちの者ではないようだが……」
ほっといてくれ、と言いたかったが声が出ない。それでも何とか立ち上がることはできた。
「っ……」
「き、君、無理に動かないほうが」
力なくぶら下がる左手からソードブレイカ―を右手で引き離すと、ヴィタと呼ばれた娘の首に腕をまわした。
「カ、カルル……!?」
団員にむけて声を絞り出した。実際に出ていた声は聞き取れるかどうかぎりぎりのものだったが。
「動くな、こいつは人質だ……! そこから動くなよ、そうすれば、……っ、放してやる」
最後で咽た。ヴィタの肩に赤い唾が散ったが見なかったことにした。
誰の目にもこの場で誰が一番弱いのかは明白だ。
団員もそれがサーカスに仇をなす侵入者となれば、傷の心配などせずに組み伏せるべきであると頭ではわかっていた。同じことで、ヴィタが本気で抵抗すれば今のカルルは簡単に振り解けたはずだ。
両者がそれを理解していたにも関わらず、大人しく言うことを聞いたのはカルルの気迫に気圧されたからに他ならなかった。
「カルル……! 無理だよ、もう――」
「うるさい。……ころすぞ」
団員に聞こえるように声を出すのも辛くなってきた。
そんなカルルを見て、諦めたようにヴィタが口を開いた。
「ペリテットさん、この人の言うことを聞いて。お願い」
「し、しかし……」
「私が殺されてもいいの……!? だから……お願いだから……」
「く……」
彼女なりの協力、なのだろうか。意外ながらありがたい。
そのままテントを出て、地下水路の入り口の前までくるのに彼女が抵抗することはなく大人しく従い、むしろカルルが支えられているような状態だった。
カルルが腕を解くと、ヴィタの体がゆっくりと離れる。
「本当に……いいの?」
「? ……なにが」
「捕まったら辛い目には遭うと思うけど……手当だけはしてもらえるよ? うちのお医者さん腕は良いし、そういうのほっとけない人だから」
「…………」
「大丈夫だよ、私を虎から守ってくれたじゃん。それでも……やっぱりお咎めは少しくらいあると思うけど。でも、雑用とか? きっとそんなもんだよ。一緒に居られる、お友達になってよ」
「…………」
それもまた楽しそうではある。軽く痛めつけられて雑用程度なら、以前のハロッサの生活に比べれば何倍も良い待遇だ。おまけに彼女がいればそんな辛さも清涼水のように癒されるに違いない。
サーカスに投降し、難多くとも彼女と過ごす生活を受け入れるか。左腕もすぐに治療を受ければ何とかなるかもしれない。
それとも。
足元で自分を待っているメーネと合流するか。
迷うはずもなかった。
「ごめん」
それを聞いた彼女の顔をカルルは見ないようにした。呼吸の止まったその顔を見てしまえば、きっと自分は答えを覆してしまう。
「……ごめん」
そして、最後の別れを告げたのはカルルでもヴィタでもなく、皮肉にも第三者の大声だった。
「いたぞーっ! 地下に逃げるつもりだ! ヴィタは無事か!?」
叫んでいるのはさっきのペリテットとかいう団員だ。あの後カルル達は追わずに応援を呼びにいったのだろう。こちらにとって一番厄介な判断を取られた。
穴に体を滑り込ませ、カルルは急いで梯子を片手で下りていく。
上のほうから名前を呼ばれた気がしたが、固く目を閉じてもう忘れてしまうことにした。
残業ばっかりで中々書けない……ストック切れたらどーすりゃいいのさ。……どうにかするけど。