少女の決断
一人市場に着いたカルルは、まず食料を売る一帯へと足を延ばしていた。
「あのおっさん、自分の分も作れなんて言っといて好き嫌いとかないだろうな……。――ん、ここは根野菜か。これもかなり食べてないなぁ……」
片手では掴みきれないほど太くずっしりとした大根をカルルが手に取った時だった。
「食事なンてのは、自分で作るより人に作らせたほうが美味い。そうは思いませンか?」
憶えのある喋り方にカルルは凍りついた。
隣を見なくてもわかる。あの男がいるのだ。
一瞬の間の後、無言で走り去ろうとした。
「逃げられやしませンよ。人を雇うのは得意なもンでね」
遠巻きにこちらを窺っている者が数名。どれも性質の悪そうな悪党顔である。
「……従業員にしちゃあ物々しい感じの人たちですね」
メーネがこの場に居なくて本当に良かった。そのことが今のカルルに余裕を持たせているたった一つの命綱だった。
「お茶でもどうです? もちろん、アナタの奢りですが」
ヒッヒと笑う声は悪魔のような響きだった。
「……断ったら?」
自分だけで済むのならいい。
「指名手配犯のことはよろしいので?」
予想通りの答えにカルルは沈黙した。そして、
「……近いところにしてくれ」
「ええ。この近くに良い店があるンですよ」
満面の笑みでセマードはカルルを促し、その後ろを目の据わった数名が付いて歩いた。
……まだ手はある。
懐の感触を確かめ、カルルは胸の動悸を顔に出さないようにセマードの後を追った。
「――まァ、用件はわかっているかと思いますが」
店の敷地にテントを張り、そこに椅子とテーブルを並べた屋外の軽食屋だった。
相変わらず上機嫌に話すのはサーカス団のオーナー、セマード。隣に座る大男はどうやら弟らしい。
「兄貴ィ、ケーキ食ってもいい?」
「――うるさいな、勝手に頼ンでろ。いま商談中だから邪魔をするな」
「ごめんよォ……。おーい、店員さーん!」
カルルに向けられているセマードの商談用の笑顔が面白いほどに引き攣っている。別の形で出会っていればもう少し良好な関係を築けていたかもしれない。
だが。
「……こっちとしてはやっぱり見逃してほしいんですがね」
カルルも強気の姿勢は崩さない。
風船のような男は別にして、お互いに目だけが笑っていない交渉が始まった。
セマードは懐からパイプを取り出して火をつけ、言った。
「……私はね、人を見る目はあるって自負してるンですよ」
「……?」
「売れるかどうかの値踏み、って意味合いですけどネ。ンでもって、アンタはきっと高く売れる。少なくとも、馬鹿じゃない。出来のイイ頭してンのがわかる」
何が言いたい? と頭に浮かんだが口にはしなかった。
「そう、ですか。それで……?」
セマードの腹が読めないカルルは当たり障りのない返事をして続けさせる。
「そんなアンタが、無理と承知で見逃して欲しいなンて言うってことは、ナニか用意してるンでしョ?」
お見通し、ということらしい。
「……ええ」
首から下げていたこぶし大の皮袋を服の中から取り出して机に置いた。ずちゃり、と金の音を思わせるそれにセマードの視線が向けられる。
「これでどうか忘れて欲しい」
セマードの手が皮袋に伸びて、その口を開いて覗き込んだ。
「……どこでこれだけの金を?」
「あんたがこちらの立場だったらそれを教えるとは思えない。情報料としてまけてくれるんなら話してもいいが」
「……はは、なるほど。――ですが、これでは足りませんね」
「な……っ!」
馬鹿な、としか思えない。それだけの金貨にどれほどの価値があるかくらいカルルにもわかっている。
「獣人の相場はもっと高いンですよ。それだけのことで」
きゅっと皮袋の口紐を結ぶとカルルのほうに押し返した。
「…………っ」
「大丈夫ですよ。これは『取引』ですから。商談が成立すれば、こちらもちゃーんとメーネちゃんに見合うだけの金額をお支払いします。なにも、手前どもは強盗をしようというのではありませン。ただ、どのような選択がお互いにとって一番なのか、ということです」
「……お互いに? ふざけるなよ」
もう我慢が出来なかった。
降って湧いたあまりにも大きな理不尽に、理性が限界だった。
無言ですっくと立ち上がり――
この後に具体的にどうこう考えていたわけではない。ただただ、冷静さが怒りに変わってカルルをけしかけ、目の前のセマードに掴みかかっていた。……のかも知れない。
「……にぃちゃん?」
その声に時が止まったようだった。
立ち上がったままゆっくりと振り返る。
「――、どうして……」
「え? お財布……忘れてったでしょ? これ、届けにきたんだよ」
アカシアの財布を渡そうとメーネが歩み寄る。
来るな――
それがもう間に合わないことと、セマードがとどめを刺した。
「これはこれは。御本人様がいらっしゃるとなれば、話は早い」
「おじさん、だあれ?」
「メーネ」
カルルが強引にメーネの肩を引き寄せる。
「な、なに? にぃちゃん」
「そんなに怖い顔をしないで下さいよ。これではまるでこちらが、ねぇ……うふ」
メーネも好からぬ空気を察したらしい。
「にぃちゃん、なんなの?」
「…………」
「……にぃちゃん?」
「メーネちゃん? おじさんのこと、お兄さんから聞いてるカナ?」
警戒しつつも、メーネは首を横に振った。
「じゃあ、サーカス、って興味あるカナ。とっても楽しいところなンだけども」
祈るように両手を組んで笑みを浮かべるセマード。
「……昨日、広場の前でやってた?」
「そう、よく知ってるね? だけど、アンなのはまだまだ序の口。ほかにも、海を越えた大陸から集めた、それはそれは珍しい動物達や、聞いたことも見たこともないような芸を披露する達人達まで。とにかく、と~~っても面白くて、刺激的なのがサーカスなンだよ」
「ふぅん……」
興味の色を示したメーネにカルルが落ち着きのない声で言った。
「メーネ、こいつの話を聞くな。すぐに帰れ」
でも、とメーネは続けた。
「昨日の子はとっても悲しそうに見えたよ?」
檻の中で見た獣人のことを言っているのだろう。
「か、彼女はちょっと悪さをしてね。お仕置きをしてたんだよ。普段はよく笑ってるカワイイ看板娘さ」
それが嘘であると見抜けないわけがない。
「……そうなんだ」
なのに。
「……面白そうだね」
「メーネ!?」
「そう思うだろう? なら話は早い」
「おい、メーネ! お前なにを言っ――」
「にぃちゃん」
メーネが真剣な顔をしたのは、たぶんこれが初めてだった。
「自分で面白そうだって言ったのに。どうして怒るの?」
「――――っ」
「……では」
セマードがこちらを見る。何を言うつもりかはわかりきっている。
口がカラカラに渇き、座っているだけで動悸が激しく、胸が破れそうだ。
「よろしいですかな? メーネちゃんに例の話をしても」
やめてくれ――
「………………ああ」
アカシアの秘密を握られ、最後の手段である金の口封じも断られた今、こちらがセマードの言葉を拒絶することはできない。
「では」
そしてセマードがメーネに説明しているのをカルルは横に居ながらどうすることもできずに聞いているしかなかった。
そして。
「……にぃちゃん。メーネ、行ってもいい?」
期待のこもった目を向けてくるメーネを止めたかった。
昨日の広場でサーカスの獣人の少女に対する扱いを目の当たりにして、なぜそんなにも興味を持ってしまったのかまだ理解できなかった。
メーネの問いかけに対して首を横にふれば、明日にでも三人は捕えられてしまうのだろう。
だが、仮に。メーネにうんと頷いたなら――
「二人はそのまま旅を続けることができ、この子は輝かしい未来へと歩き出せる――。……それがあなた方にとっての一番の選択ではないでしょうか」
カルルはテーブルのコーヒーカップに視線を置いたまま、まばたき一つしなかった。
「……にぃちゃん」
「…………」
「にいちゃん……?」
「………………」
「にいちゃん……っ!」
「………………わかっ……た……」
異常に掠れた声だった。それ以上の言葉を紡ぐ必要はなく、セマードが取り次いだ。
「これで成立ですね。……こちらを」
カルルの近くに置かれた皮袋。その中身はおそらく金貨なのだろう。カルルの用意したものとは比べようもない量だと、その威圧的な存在感でわかった。
「よろしければ、明後日の公演にお越しください。……」
そこでセマードは勝ち誇ったように口を笑みの形にし、
「まだメーネちゃんは出れないと思いますが」
それが皮肉で言っているのかさえわからないほどカルルは気が遠かった。
「……そろそろ御暇しましょうかね。――お前らはもういいぞ。報酬はあとで取りに来い」
ゴロツキ者がぞろぞろと退散し、最後に残ったセマードがこう言った。
「メーネちゃん。カルルさんになにか最後に言っておくことはあるかい? いつか会えるかもしれないケド、もう会えないかもしれないからネ」
カルルが生気のない目をメーネに向ける。なぜこんなことに……悪い夢と信じたい。それでも、この何もかも手遅れになりかけているという実感だけは肌に感じていた。
メーネは申し訳なさそうに耳を伏せているのか、フードを通してわかる頭の突起がいつもより低くなっていた。
「にぃちゃん。ごめんね、メーネが勝手に決めて。アカシアにもごめんって……」
メーネがはっと何かを思い出したように言葉を切ったが、小さく首をふって笑った。
「……いいや。にぃちゃん、メーネがんばるから。いつか立派になって、また会おうね!」
メーネが振り返って背を向けると、セマードも会釈をして、踵を返した。
「……じゃ、行きましょうか」
「うん」
その足音が次第に遠ざかっていく。体が椅子に張り付いたように動かない。
メーネの希望を許したのは自分で選択したことのはず。なのに、後悔の念がカルルを飲み込もうとしている。
「…………?」
段々と離れていく砂利を踏む足音が、ぴたりと止まった。
カルルが顔を上げると、メーネもまた振り向いてこちらを見つめていた。
「にぃちゃん」
「メーネ……?」
そこにあったのは期待に満ちたメーネの明るい笑顔ではなく、涙でぐしゃぐしゃの汚い顔だった。
「……………………さよなら」
「メ――」
情けない。
彼女がとっくに気付いていたことに気付けなかった。
その後カルルがいくら叫んでも、メーネが振り向くことは決して無かった。
何度も校閲はしているつもりですが、間違った表現などが残っているかもしれません。
おや? と気になったところがあればどんなことでも参考にしたいのでご指摘いただけると幸いです。