不穏な影
描写がものすごく上手い人ってなんなんですかね……飽きないし読ませられる、というか。ちょっとわけてほしい。
「なんだ、わりと良い部屋じゃないか」
安い割には、という言葉が省略されている。
服屋の店主に紹介された宿を訪ねると、二階の最奥、煙突側が空いていると案内された。
部屋に入るとアカシアが何気なく部屋の木窓を開き、そこから見渡せる大通りを行く人々を見下ろして言った。
「……いいな。こういう旅をしてみたかった。木賃宿に泊まるのも楽しみの一つだったんだ」
「木賃宿?」
「ああ。格安の料金で泊まれる仕組みの宿のことをそう呼ぶんだ。途中に大部屋があっただろう? あそこの暖炉で火を借りて持ち寄った食材を料理できる。毛布なんかも自前の場合が多いから、本当に薪代だけの金で泊まらせてくれる。旅にはもってこいの宿さ」
とても楽しそうに話すアカシアに一抹の疑問を抱き、カルルは首を傾げた。
「泊まったことがないのに……随分と詳しいんですね」
そう訊ねると、ふふんと笑みを浮かべながら頬杖をつき、遠い目で呟いた。
「……いつかは旅に出ると決めていた。まあ……こんな形になるとはな。探す手間は省けたが」
「…………?」
その言い回しに興味を持つ前に、カルルの裾が小さな手に引っ張られた。
「ねぇ、お腹すいたよ……」
「……飯にするか」
アカシアがそう言い、断る理由もなくそれに賛同した。
大部屋のある下の階に降りると、他の宿泊客の姿もちらほらと覗え、それぞれがまばらに思い思いの場所に腰を下ろして湯気の立ち昇る皿や鍋を囲んでいた。
メーネがもの欲しそうにそれを見つめるのを注意し、石釜が複数集まったような造りの暖炉の近くに場所を取った。
食材は宿に来る途中で買った野菜が主だ。アカシアが慣れた手つきでナイフを使いタマネギとジャガイモを切り分け、カルルは指示された通りにキャベツの葉を千切って鍋に入れていった。
まともな料理などやったことがないカルルにはすべてが新鮮だった。
「これを水で煮るだけで美味しくなるんですか?」
まさか、とアカシアは笑うと荷物から小瓶を取り出した。
「茹でるだけでは料理とは言えないぞ。味付けは偉大な発明だ。――そこで、これを入れるわけだ」
「それは?」
小瓶の中身は粉末らしい。薄茶色のそれを鍋にふるうと芳ばしい香りが湯気に混じって鼻腔をくすぐった。メーネがそわそわと落ち着かなくなる。
「牛や鳥の骨から取った煮汁を乾燥させてな……それを粉状にして香辛料を加えた調味料だ。これを溶かせば水もそれなりのスープになる。携帯用としては少し高価だがな」
最後に口元がやや吊りあがったのは、おそらくそれも砂糖のようにどこかから失敬したものだからなのだろう。その強かさは見習いたいものだと思った。
「たしかに美味しそうですね……」
粉が溶け出して琥珀色の澄んだスープに喉が鳴った。
「これをそうだな……十五分も煮れば芋も柔らかくなるだろう。それまでは……は――はっぷしゅ」
地声より随分と可愛らしいくしゃみに近くに居た数名が振り返った。
「んん……寒気がしてきた」
「風邪ですか?」
「かもしれない。でも気にするほどではない」
「…………。先にメーネと部屋に戻っててくださいよ。鍋が煮えたら持っていきますから」
暖炉の火があるとはいえ、他の宿泊客の手前いつまでもそこに陣取っているわけにはいかない。他人の気を遣えないものは他人からも軽く扱われる。
そんな何組もの旅人が鍋を囲める広さの部屋の温度は寒い。ここに居るよりは部屋で毛布を羽織っているほうが幾分体にも優しいだろう。
「……すまない。そうさせてもらう。メーネは?」
「うん、私も。にぃちゃんも早く戻ってきてね」
「ああ」
二人が居なくなり、カルルは暖炉の前に腰を降ろして待つことにした。
火の通らないジャガイモにカルルが二度目のフォークを刺した時、後ろから知らない声に話しかけられた。
「美味しそうな匂いですねェ」
「?」
カルルが振りかえるとそこには旅人とは思えない身なりの男が立っていた。カルルより小柄ではあるが、年は三十路の半ば頃だろうか。真っ黒のぴしりとした一張羅はこの木賃宿ではかなり異質な存在だった。それとなく周囲の視線を感じる。
「おっと、これは失礼しました……。わたくし、こういう者でございまして……」
男が差し出した紙には『セマード兄弟のサーカス団』という見出しが大きな文字で書かれ、近々見世物小屋を開催するという旨が記されていた。
「これは昼間の……」
「ええ、そうです。宣伝をご覧になって頂けたようで、なによりです」
この男の笑顔は信用できないとカルルは頭の隅で思った。
「つまりあなたは……?」
「ええ。お察しの通り、長男のセマードにございます」
どこの誰かは分かったものの、一番重要なことがわからない。
変に勘繰るより、単刀直入に聞くことにした。
「それで、何の用でしょうか」
笑顔は崩さず、それでも逡巡していたのであろう間がややあって、
「ええ……実は先ほど部屋に戻っていった方のことで、気になることがございまして」
「……気になること?」
それがちょうど鍋をかき混ぜている時で良かった。顔を合わせたまま話していれば、確実に今の表情を読まれていただろう。
ただ、思わず止まった手を見てセマードが何を思ったかは容易に想像できた。
「ええ。私共はサーカスという生業ですから、珍しいものには目が無いのです。……あの御嬢さんの腰巻はまるで生きているような毛並でした。ああいうものこそ、私共が探し求めている素材なのです」
「……素材?」
どうやらこの男が言っているのはアカシアではなく、メーネのことらしい。しかもメーネが獣人であることに気づいているかのような口振りである。
「ええ。言い換えれば生まれ持った才能……。そして、それを活かさないということはとてももったいのないことでございます」
隣に座ると男は話すのを止めた。カルルの反応を確認するように商売臭い笑顔を向けてきている。
「……何を言いたいのかがよくわかりませんね」
興味なさそうにそう返した。胸中では嫌な胸騒ぎが収まらないでいたが、ジャガイモの硬さを確かめるふりをして平静を装った。
「……つまりですね。御嬢さんを是非とも、我がサーカス団に迎え入れたいということでありまして。……如何でしょうか?」
「興味ありませんねぇ」
考えるまでもなく、そっけない返事を返したがやはり喰らいついてきた。
「そうですか……。――ですが、彼女のような小さな子ならきっとこういうものは好きなはずですよ? まずは本人にも聞いてみようではありませんか」
セマードの喋りの巧さには多少の感心はしたが、場慣れしている相手にこれ以上関わるのはやめたほうが良いと判断した。
「いえ。自分達は旅を急いでいるので。メーネもそれは理解しているはずです。――じゃあ」
鍋を持つとカルルは立ち上がり、その場を去ろうとした。
「先を急ぐ旅……それもそうでした。追いつかれてはいけませんからねェ。あなた達は」
危うく鍋を落とすところだった。
「おや、どうかしましたか?」
「…………。いえ」
「では、私もそろそろ失礼しますよ。メーネちゃんと騎士様に、どうぞよろしくお願いしますね」
そう告げると、セマードは黒の縁帽子を深く被り直して大部屋を後にしたのだった。
「……騎士様……?」
その言葉の指すところが彼女以外に思い浮かばない。
ただ、彼女はケルンに着いてからはずっとあの格好しかしていない。だからその言葉は有り得ないはずのだ。――あってはならないのだ。
不気味な胸騒ぎを覚えたカルルはなるべく急いで二人の待つ部屋へと戻った。
「セマード?」
「ええ。……お知り合いですか?」
カルルが鍋を置くや否や、器によそい始めたアカシアが答える。
「セマード……どこかで聞いたことがあるかもしれない。……なんだったかな。――で、その者がどうかしたのか?」
「あ、いえ……」
話すべきだろうか。アカシアのことを知っていたのは偶然としても、メーネの件を加味するとそれにつけ込んだ脅しのようにも取れる。
獣人を渡さなければ、アカシアの存在を告発する。
考え過ぎであって欲しい。
「ならいいんです。別に大した用があるわけでもなかったので」
「そうか……。まあ、なら食おう。せっかくのスープが冷めてしまう」
その晩、カルルはなかなか床に就くことが出来なかった。
『メーネちゃんと、騎士様に……』
メーネの名前はカルル自身が口にした。だが、騎士様と言った時のあのセマードの笑みが頭から離れない。
「…………」
あのサーカスのオーナーである男。
昼間の宣伝に使われていた獣人の少女の様子を思えば、とても善良な……とは言い難い。
奴がアカシアの弱みにつけ込んだ取引を要求してくる可能性は否めないだろう。
自分はそういう汚れた取引をこの目で何度も見てきた。その度に八つ当たりをされた身としては余計に嫌悪の念を抱いてならなかった。
「眠れないのか」
アカシアの声に首をむけた。
「……ええ」
ベッドは窓際に一つ。カルルだけ床に毛布を敷いて横になっている。ベッドの上で半身だけ起こしたアカシアの顔が、暗闇の中で月の燐光を浴びていた。
「今後のことで悩んでいるのか? だとしたら仕方ないが」
「…………」
「それとも、床が寝辛いのならお前もこっちにくればいいぞ?」
「いえ、そうじゃないんです。……ちょっと考え事を」
「……そうか。あまり一人で抱え込むなよ。相談してくれればなんでもするからな」
「はい。その時は……よろしくお願いします」
会話が途切れると、程無くして穏やかな寝息が聞こえてきた。
カルルももう考えるのをやめて、早く眠ることにした。
ケルンに入り、もう国境は目の前なのだ。セマードが何か行動を起こす前に国境を越えてしまえば問題はない。
そう納得させ、安心することでカルルもようやく睡魔に身を委ねることができそうだった。