第10話 逆風の絆
朝の澄んだ光が、プレハブ事務所の狭い床に落ちた雨滴を淡く照らしていた。
伝説の貿易商・海老沢が持ち込んだ熱気と、全国から駆けつけた元同僚や職人たちの足音が、昨夜までの冷たく湿った絶望を瞬く間に吹き飛ばしていく。
「呆けている暇はないぞ、菊池君」
海老沢は老いてなお眼光鋭く、手に持った黒い革のセカンドバッグから数冊の分厚いファイルを卓上に叩きつけた。
「税関の不当な差し止めとやらだが、裏で糸を引いている商社と元副社長のやり口はすでに分かっている。彼らが利用したのは、省庁の外郭団体にいる天下り役人だ。原産地証明の不備をでっち上げ、手続きをわざと停滞させて交渉の期限切れを狙っている」
健一が身を乗り出す。
「じゃあ、いくらこっちの書類が正しくても、役所が判を押さなきゃ荷物は一歩も動かないってことか……!?」
「普通の手続きを通せばな」
海老沢はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「だが、彼らが押さえたのは東京港の主要ルートだけだ。……菊池君、君が昔、独断で拓いた『あのルート』を覚えているか?」
政臣の脳裏に、数年前の苦い、しかし熱い記憶が蘇る。
「……地方の重要港湾を経由する、小規模な沿岸海運の定期便ですか」
「その通りだ。大手商社が眼中にすら留めていない、北陸と九州の小さな港を経由するルートだ。あそこの税関支署には、かつて君の親父さんと共に泥をすすった骨のある古い役人が残っている。事情を話し、しかるべき現地の検査を受ければ、一網打尽にされることなどあり得ん」
「しかし海老沢さん、いまから品物をその港まで陸送するとなると、トラックの手配が……」
「それなら心配いらん」
プレハブの引き戸がガラリと開き、作業着姿の粗骨な男たちが顔を覗かせた。
政臣がかつて不渡り寸前だったところを個人的な奔走で救った、中小の物流業者の社長たちだった。
「菊池社長……いや、菊池さん。あんたの危機だと聞いて、うちの大型二台、空けて飛んできたぜ」
「こっちもだ。荷物の積み替えなら職人を十人連れてきた。昔の義理、今日返さなきゃ男が廃る」
政臣は言葉を失い、喉の奥が熱くなるのを感じた。
(短冊が引き寄せたのは、奇跡の力などではない……。俺がこれまで必死に生きて、誰かのために流してきた汗の記憶だ)
ミカヅキの二枚目の短冊は、ただ偶然の奇跡を起こしたのではない。政臣が過去に撒いてきた「信頼」という名の種を、絶体絶命の危機において芽吹かせる「手繰り寄せの風」となったのだ。
「……皆さん、本当にありがとうございます。ですが、これは相手の違法行為を突く戦いです。巻き込んでご迷惑をかけるわけには……」
政臣が深く頭を下げかけると、海老沢がその頭をポンと叩いた。
「水臭いことを言うな。俺たちはな、かつてのお前のような『泥をかぶってでも筋を通す男』が、汚い大資本の論理に踏みにじられるのが耐えられんだけだ。……さあ、指示を打て、菊池!」
政臣は勢いよく顔を上げた。その瞳から、迷いや気負いは完全に消え去っていた。
「健一! 親方に電話して、第2工場の荷を裏の搬入口からトラックへ積み込めと伝えてくれ! 税関の査察官には『書類の再確認のため一時保管場所へ移送する』と突っぱねるんだ!」
「おうよ!」健一が固定電話の受話器をひったくるように掴み取る。
「海老沢さん、申し訳ありませんが、北陸の税関支署への一本電話をお願いできますか。僕と健一は、都内のホテルで待つ東南アジアのバイヤーのもとへ直接向かいます」
「バイヤーとの交渉はどうする? まだ荷物は動いておらんのだぞ」
「直接会って、本当の状況をすべて話します」
政臣は力強く言い放った。
「嘘や隠蔽で固めた商社どもの資料ではなく、我が国の職人が魂を削って作った木材の『本物の価値』と、それを届けるための僕たちの熱量を、包み隠さずぶつけます」
「……いい顔になったな、菊池」
海老沢は満足そうに目を細め、受話器を取り上げた。
プレハブ事務所の中に、何本もの電話の電子音が激しく鳴り響き始める。
書類を整理する音、怒号のような指示飛び交う声、そして仲間たちの足音。かつて孤独に四畳半で凍えていた男の周りに、熱い人間たちのうねりが生まれていた。
政臣はコートを羽織り、胸のポケットにそっと手を触れた。
光を失い、役目を終えて静かに収まる二枚目の短冊。そのかすかな存在感は、いまや彼を支える揺るぎない確信へと変わっていた。
(見ているか、ミカヅキ。俺たちは、人間の泥臭い意志で、この理不尽な運命を突破してみせる)
雨上がりの澄み切った空の下へ、政臣と健一は力強く駆け出していった。
冷酷な巨大資本が張り巡らせた罠を打ち破るための、反撃の第一歩が始まろうとしていた。




