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防犯カメラを確認した夜、妻は不倫相手を寝室に連れ込んでいた

作者: 熾星
掲載日:2026/09/18


出張を終え、一週間ぶりに澪浜市の自宅へ戻った。


 ゴミを捨てようとしたとき、ゴミ箱の中にホテルのロゴが入った使い捨て歯ブラシが見えた。


 これで三か月連続だった。


 先月はホテルのボディタオルの包装。その前の月には、アメニティの袋が捨てられていた。どれも決まって、俺が出張で家を空けている間に出てくる。


 そこへ妻の真帆が廊下から現れた。


 着ているのは、明らかに俺のものではない男物の白いシャツだった。


「修司、おかえり。疲れた?」


 笑顔で近づいてきた真帆が、いつものように腕を伸ばす。


 俺は半歩ずれて、その腕を避けた。


「俺がいない間、誰か来た?」


「どうしたの、急に。この一週間、ずっと一人だったよ」


 数秒だけ真帆の顔を見たあと、俺は何も言わず寝室へ向かった。


 部屋には、ごく薄い煙草の匂いが残っていた。


 俺は何年も前に煙草をやめている。


 スマホを取り出し、防犯カメラのアプリを開いた。


 出張初日の夜。


 見知らぬ男が俺の部屋着を着て、リビングのソファに座っていた。


 その膝の上には真帆が座っている。


 次の瞬間、二人はキスをした。



1



 画面に触れたまま、指が動かなくなった。


 男は自分の家にいるような顔でソファに深く腰を沈め、肘掛けを撫でていた。


「このソファ、かなり座り心地いいな。旦那さん、こういうところには金かけるんだ」


 真帆は男の肩にもたれ、楽しそうに笑った。


「修司なんて、仕事とお金のことばっかり。出張で一週間いないことだって普通だし」


 男が顔を寄せると、真帆は自然にその首へ腕を回した。


「文哉のほうが、私が何してほしいか分かってる」


 胃が強く縮んだ。


 あのソファは、真帆がデスクワークのせいで腰がつらいと何度も口にしていたから、俺がデザイナーに頼んで作ってもらったものだ。


 五十万円以上した。


 この家へ引っ越したばかりの頃、真帆はクッションを抱えてソファに座り、隣をぽんぽんと叩いた。


「修司、ここは今日から私たち二人の場所ね。週末は誰にも邪魔させないから」


 あの頃の真帆は、子どものように笑っていた。


 今、その隣には別の男がいる。


 画面を見つめているうちに、胃がもう一度痙攣した。テーブルに手をついて前かがみになると、酸っぱいものが喉元まで上がってくる。


 スマホを握る手が震えていた。


 一瞬、本気で床へ叩きつけそうになった。


 それでも堪えた。


 男が家へ入ってきたところから映像を保存し、パスコードをかけたフォルダに移した。


 そのとき、寝室の外から足音がした。


 真帆がドアを開ける。


「修司、急に寝室へ来てどうしたの?」


 すぐに画面を消し、スマホをポケットへ入れた。


 振り返る頃には、どうにか表情を整えていた。


「胃薬を探してた。出張中に飲む機会が多くて、ちょっと胃が痛い」


 腹を押さえると、真帆は目に見えて肩の力を抜いた。


 近づいてきて、俺の腰に腕を回そうとする。


「さっき何か見た? 本当に、この一週間ずっと一人だったからね」


 玄関で尋ねたことが、まだ気になっているらしい。


 俺はキッチンへ行き、水を一杯注いだ。


「ゴミ箱にあったホテルの歯ブラシは?」


 伸びていた真帆の手が一瞬止まった。


 ほんの一瞬だった。


「ああ、あれね。昨日、美咲が泊まりに来たの。予備の歯ブラシを使って、そのまま捨てるの忘れてた」


 すぐに笑顔を作り、こちらを見る。


「まさか、それまで気になるの?」


 答えが早すぎた。


 思い出すための間さえない。


 以前の真帆なら、高いグラスを一つ割っただけでも、俺に無駄遣いだと思われるのが嫌でしどろもどろになっていた。それが今では、こんな嘘をほとんど表情も変えずに口にできる。


 俺は冷たい水を一口飲んだ。


「そうなんだ」


 グラスを置き、真帆の着ている白いシャツへ目を向けた。


「じゃあ、その服は?」


 真帆は一度シャツに目を落とし、無意識に裾を握った。


 すぐに顔を上げる。


「美咲が彼氏に買ったやつ。昨日ちょっと寒かったから借りただけ。返すの忘れてたの」


 眉を寄せて俺を見る。


「修司、今日どうしたの? さっきから変だよ」


 歯ブラシにも理由がある。


 男物のシャツにも理由がある。


 何を見つけても、それらしい答えがすぐに出てくる。


 ある意味、感心するほどだった。


「分かった。明日、洗って返しといて」


 俺はクローゼットを開けた。


 真帆はまだ俺の顔を見ていた。


「怒ってる?」


「胃が痛いだけ。先にシャワー浴びる」


 着替えを持って浴室へ入る。


 ドアを閉めた途端、それまで作っていた表情が崩れた。


 冷たい水を顔に浴びる。


 洗面台に手をつき、鏡の中の青ざめた自分を見ていると、三年前のことが浮かんできた。



2



 三年前、真帆の父親が経営していた建材会社は、急ぎすぎた事業拡大が裏目に出た。


 新しく出した二つの拠点は赤字が続き、銀行から追加融資も断られた。取引先からは支払いを催促され、義父自身も会社の借入れに個人保証をつけていた。


 森下家の電話は、朝から晩まで鳴り続けていた。


 何日もまともに眠っていなかった佳代子さんが俺を訪ねてきたときは、一気に十歳ほど老けたように見えた。


 その年の十二月。


 俺は両親が地元に残してくれた家を売り、自分の貯金もかき集めた。


 千八百万円。


 それを、森下家が抱えていた差し迫った支払いに充てた。


 佳代子さんは俺の手を握り、目を真っ赤にして泣いた。


「修司さん、本当にありがとう。今回は、あなたに助けてもらったようなものよ」


 隣に立っていた真帆を見て、涙を拭う。


「真帆がいつか修司さんを裏切るようなことをしたら、私が許さないから」


 真帆も泣いていた。


 俺に抱きつき、強く腕を回した。


「修司。私、絶対にあなたを裏切らない」


 浴室では、今も水の音が響いている。


 鏡を見た。


 あのときの言葉を思い出しても、今はひどく空々しく聞こえるだけだった。


 夜八時。


 真帆は俺の好きな料理を何品も用意していた。


 最後のスープを置いたあと、すぐには席につかず、脇に置いていた分厚い書類をこちらへ差し出した。


「修司、食べる前にちょっと見てほしいものがあるの」


 一番上には、こう書かれていた。


 『主力店舗事業譲渡契約書』


 タイトルを見ただけで、手が止まった。


 株式会社SAKAKIは、俺が大半の株式を保有する非上場の同族会社だ。


 その原点になった店は、両親が若い頃に一から育てたものだった。夜明け前に市場へ仕入れに行き、昼は店頭に立ち、閉店後には二人で帳簿をつける。


 今も続く主要な仕入先や物流網の多くは、そこから積み上がってきた。


 単に一番売上の大きい店舗というだけではない。


 SAKAKIの土台そのものだった。


 数ページめくる。


 事業譲渡契約書の後ろには、俺の署名が必要な株主関係の書類まで挟まれていた。


 以前の俺なら、真帆から渡されたというだけで、大して疑いもせず署名していたかもしれない。


 そう考えると背筋が冷えた。


 真帆は俺の隣へ座り、腕に手を絡めてきた。


「最近、新しい会社の準備してたでしょ?」


 書類を指でめくる。


「SAKAKIって今、いろんな事業が一つにまとまりすぎてるじゃない。主力店の事業だけ別会社にしたほうが動きやすいって言われたの」


「どこへ移すんだ?」


「私が作った会社」


 さらりと答えた。


「そのほうが、新しい企画をやるときも投資の話をするときも便利だから」


「その会社、代表も株主も今は真帆だよな」


 笑顔がほんの一瞬固まった。


 だが、すぐ俺の腕へ体を寄せてくる。


「今は手続きが楽だからそうしてるだけだよ。夫婦なんだし、私のものは修司のものでもあるでしょ?」


 少し傷ついたような表情を見せた。


「修司、まさか私のこと疑ってるの?」


 以前なら、この一言で終わっていた。


 真帆が持ってきた書類なら、ざっと目を通しただけで署名することもあった。


 妻を警戒する必要があるなど、考えたことさえなかったからだ。


 俺はテーブルのペンを取った。


 真帆の目がわずかに輝く。


 署名欄にペン先が触れる寸前で、手を止めた。


 真帆がすぐそばにいる。


 その身体から、また薄い煙草の匂いがした。


 顔を上げる。


 今日は首元の少し開いたニットを着ていて、長い髪が肩にかかっていた。


 その髪を指で払う。


 鎖骨の下に、小さな赤いタトゥーがあった。


 アルファベットの――F。


「これ、いつ入れた? Fって何?」


 真帆の身体がわずかに強張り、反射的に鎖骨を手で隠した。


「FashionのFだよ。最近、小さい文字のタトゥー流行ってるでしょ? かわいいなと思って」


 無理に笑っているのが分かった。


 結婚した頃、真帆は痛いのが苦手だからピアスの穴さえ増やしたくないと言っていた。


 俺は数秒、そのFを見つめた。


 真帆の表情が徐々に落ち着かなくなる。


「修司、今日ほんと変だよ。気に入らない?」


 俺は視線を外し、眉間を揉んだ。


「まだ胃が痛い。手も少し震えるし、こんな大きな契約を今日ここでサインする気にはならない」


 書類をまとめて真帆の前へ戻した。


 その瞬間、真帆の顔つきが変わった。


「でも、向こうの準備はもうほとんど終わってるの」


「明日、法務に見せる」


「修司――」


「一晩くらい待てるだろ。遅くても明日の午後には返事する」


 席を立つ。


 真帆は俺を見つめたまま、苛立ちを隠しきれていなかった。


 階段へ向かって数歩歩いたところで、後ろから箸がテーブルに強く当たる音がした。



3



 深夜、家の中には風の音しか聞こえなかった。


 真帆の寝息が一定になるのを待ってから、俺はリビングへ下りた。


 スマホはテーブルの上で充電されていた。


 しばらく眺めたものの、手には取らなかった。


 ホテルの歯ブラシにも男物のシャツにも、あれだけすぐ答えを用意できる女だ。スマホの中など、とっくに何度も整理しているだろう。


 ふと、ローテーブルの下に置かれたiPadが目に入った。


 真帆のApple Accountがログインしたままになっている。


 写真アプリを開き、「最近削除した項目」を確認した。


 一番下に、一枚のスクリーンショットが残っていた。


 二日前の夜に撮られたものだ。


 コンビニのデリバリー注文画面。


 ミネラルウォーター、二本のウコン系ドリンク。


 それから、Lサイズのコンドーム一箱。


 しばらく、画面から目を離せなかった。


 配送先にはこうある。


 受取人――森下。


 住所――


 桜坂サービスレジデンス 1608号室。


 注文時刻は、俺が出張へ出た二日目の夜だった。


 真帆がさっき、「美咲が泊まりに来た」と言っていた、その夜だ。


 スクリーンショットを自分のスマホへ送り、保存する。


 iPadを元の画面へ戻し、テーブルの下へ置いた。


 それからソファに座ったまま、長いこと動けなかった。


 書斎の引き出しに残っていた古い煙草を見つけて一本火をつける。


 一口吸っただけで激しく咳き込んだ。


 何年も前にやめたのだから当然だった。


 それでもその夜は、リビングに座ったまま夜が明けるまで眠れなかった。


 翌朝。


 真帆はきれいに化粧をして、よく考えて選んだのだろう服装で階段を下りてきた。


「修司、今日は新しい会社の銀行と契約関係を回ってくるね。それから午後は大事な投資家と会うから、帰り遅くなるかも」


 玄関の鏡で髪を整えている。


 俺はハンガーからコートを取り、真帆の肩へ掛けた。


 襟が鎖骨のFをちょうど隠した。


「大事な用事なら、電車じゃなくて車で行けばいい」


 BMWのキーを渡す。


 真帆の顔がぱっと明るくなった。


「ほんと? 修司、ありがとう」


 つま先立ちになり、俺の頬へ軽くキスをした。


 玄関のドアが閉まる。


 ヒールの音が遠ざかるのと同時に、俺も笑うのをやめた。


 スマホで車両位置を確認する。


 地図の上を車が移動していく。


 一時間後。


 銀行には向かわなかった。


 オフィス街にも停まらない。


 BMWが入っていったのは――


 桜坂サービスレジデンスの地下駐車場だった。


 住所を見つめていると、出かける前の真帆の言葉が頭に浮かんだ。


「これが終わったら、私たちもっと楽になるから」


 SAKAKIの中核事業を持っていければ、確かにあいつらは楽になるだろう。


 鎖骨に刻まれたFが脳裏に浮かぶ。


 俺は人事担当の松田さんへ電話をかけた。


「松田さん、営業部の藤本文哉、今日出社してますか?」


 向こうでキーボードを叩く音がする。


「藤本さんですか? 今朝、熱が出たって連絡がありまして。今日は休みです」


 スマホを握ったまま、しばらく黙った。


 藤本。鎖骨のF。そして桜坂の1608号室。


 そこまで重なれば、もう十分だった。


 電話を切る。


 書斎へ行き、署名していない事業譲渡関係の書類一式を封筒へ入れた。


 別の車のキーを手にして、家を出た。



4



 三十分後、桜坂サービスレジデンスに到着した。


 フロントで部屋を開けろと騒ぐつもりはなかった。


 そのまま一階ロビーへ行き、二基あるエレベーターの出口がよく見えるソファに腰を下ろした。


 二十分ほど経った頃。


 右側のエレベーターが開いた。


 真帆がハイヒールで降りてくる。


 歩きながら小さな鏡を出し、口紅を直していた。


 俺は手にしていた雑誌をテーブルへ置き、立ち上がった。


「偶然だな」


 真帆の身体がぴたりと止まった。


「しゅ……修司?」


 みるみる顔色が変わる。


「なんでここにいるの?」


 近づき、ティッシュで唇の端についた余分な口紅を拭った。


「近くで客と会ってた。真帆は新しい会社の用事じゃなかったのか?」


「それは……」


 真帆の目が泳いだ。


「投資家が急に場所を変えたいって言い出して。上で話してたの。今、ちょうど終わったところ」


「そうなんだ」


 俺は持っている封筒を軽く上げた。


「じゃあちょうどいい。昨日の事業譲渡の書類、もう準備してきた」


 真帆の呼吸が止まる。


「その投資家、まだ上にいるんだろ? 俺にも紹介してくれよ」


 エレベーターへ向かおうとすると、真帆が慌てて腕を掴んだ。


「いいから!」


 声が大きすぎて、周囲の客がこちらを見る。


 真帆はすぐ声を落とした。


「もう帰ったの。それに上は散らかってるし、今日はやめよう。書類なら家で受け取るから」


「もう帰った?」


「うん」


 何度も頷く。


「分かった」


 真帆がほっと息を吐いたところで、俺はスマホを取り出した。


「ただ、一つ気になるんだけど」


 また表情が固まる。


「何?」


「そんな大事な商談を、どうして1608号室でやるんだ?」


 真帆の顔から血の気が引いた。


「それと、一昨日の夜、同じ部屋にウコンのドリンクとコンドームを届けさせたのはどうしてだ?」


「……修司」


 唇が震える。


「私のこと、調べたの?」


「投資家なんだろ?」


 腕時計を確認した。


「呼んでくれ。十分待つ」


 真帆はバッグの持ち手を強く握った。


「こんなところでやらなくてもいいでしょ。家に帰ってから話せば――」


「別に騒いでない」


 封筒を軽く叩く。


「親父たちが残した会社の大事な事業を任せる相手なら、俺が顔を見るくらい当然だろ」


 話しているうちに、サービスレジデンスのマネージャーがこちらへ来た。


 他の客に迷惑がかからないよう、ロビー脇の応接室へ案内される。


 ドアが閉まると、外の音が一気に遠くなった。


 俺はソファへ座った。


 真帆は向かいに立ったままだ。


「電話して。SAKAKIの話をしてる相手なんだろ。社長の俺が会っても問題ないよな」


 真帆の顔が青ざめていく。


 俺は見上げた。


「藤本文哉だろ?」


 真帆の肩が大きく揺れた。


「どうして……」


「鎖骨のF」


 視線を外さず言った。


「藤本のFか」


 真帆はテーブルに手をついた。


 唇が震えている。


 もう一度時計を確認する。


「十分だ。自分で呼ぶか、このまま会社の法務に回して、藤本を正式に呼び出すか。好きなほうを選べ」


 真帆はしばらくその場から動かなかった。


 やがて、バッグの一番奥のポケットを開けた。


 中から出てきたのは、見覚えのない古いスマホだった。


 それを見ても、もう驚かなかった。


 真帆が電話をかけ、スピーカーにする。


 二回コールしただけで相手は出た。


「ねえ、遅くない? まだ下で何か――」


 男の声が部屋中に響いた。


 真帆は目を閉じた。


 涙が頬を伝う。


「下りてきて。一階の応接室」


 声が震えていた。


「修司がいる」


 電話の向こうから音が消えた。


 数秒後、通話が切れた。


 十分もしないうちに、応接室のドアが開く。


 藤本文哉が立っていた。


 シャツは皺だらけで、髪にはまだ湿り気が残っている。首筋には赤い跡が二つ、はっきりと見えた。


 俺を見た瞬間、足が止まる。


 喉が上下した。


「社長……話を聞いてください」


 俺はソファに座ったままだった。


「まだ説明していいとは言ってない」


 藤本は黙った。


 向かいの椅子を見る。


「座れば?」


 藤本は座らなかった。


 逃げもしなかった。



5



 真帆はもう平静を装えなくなっていた。


 涙を拭うこともせず、俺のほうへ一歩近づく。


「修司、ごめんなさい。本当に、一時の気の迷いだったの。最初は文哉が――」


「今すぐ相手のせいにしなくていい」


 藤本へ目を向けた。


「二人とも、あとで好きなだけ話せる」


 封筒から事業譲渡関係の書類を取り出し、テーブルへ置く。


 その瞬間。


 藤本の目が変わった。


 無意識なのか、一歩こちらへ寄る。


 真帆も書類から目を離さない。


 さっきまで泣き崩れそうだった顔に、わずかな期待が戻っていた。


「そんなに欲しい?」


 誰も答えない。


「SAKAKIで一番大きい店と、十年以上付き合ってきた仕入先だ」


 書類を指で叩く。


「いつから狙ってた?」


 真帆は何度も首を横に振った。


「違うの。修司が思ってるような――」


「じゃあ、どういう話なんだ?」


 ペンを取り、キャップを外す。


 署名欄の上でペン先を止めた。


 真帆の呼吸が小さくなる。


 藤本まで、もう一歩前へ出た。


 その瞬間、会社を立ち上げて一番苦しかった頃のことを思い出した。


 資金繰りが厳しく、毎日三、四時間しか眠れなかった。


 無理がたたって胃から出血し、入院したこともある。


 病室で、真帆は薄味のうどんを持ってきてくれた。


 目を真っ赤にしながら俺の手を握った。


「修司、もし全部なくなっても、また一緒にやり直せばいいよ。私は修司がいればいいから」


 あの頃の俺は、真帆が会社や金ではなく、俺自身を見てくれていると信じていた。


 ペンを置いた。


 両手で書類を持つ。


 真帆はすぐに気づいた。


「修司、待って!」


 紙が裂ける音がした。


 一番上の契約書を真ん中から破る。


 藤本の顔色が変わった。


「社長!」


 さらに破る。


「それ、破ったらまずいです! 向こうはもう――」


 藤本が書類へ手を伸ばそうと前へ出た。


 外で待っていたスタッフが物音に気づき、すぐ中へ入ってくる。


「お客様、落ち着いてください」


「離してください!」


 藤本は身を捩った。


 俺は顔も上げなかった。


 一枚。


 また一枚。


 書類を少しずつ破っていく。


 最後には、契約書も関連書類もテーブルの上で紙片になった。


 藤本の目が血走っている。


 真帆も青ざめたまま動かない。


「事業再編?」


 真帆を見る。


「リスク分散?」


 それから藤本へ視線を移した。


「この店が何年にできたか知ってる?」


 答えはない。


「最初の仕入先をどうやって口説いたかは?」


 藤本は黙ったままだ。


「うちの親が、一日何時間働いてたかなんてもっと知らないだろ」


 背もたれへ身体を預けた。


「何も知らない二人が、よく持っていこうと思ったな」


 藤本の顔が硬くなる。


「もう二度と、この事業には触らせない」


 真帆がふらつきながら近づいてきた。


 そのまま膝をつく。


「修司、本当にごめんなさい。私たち、まだやり直せるよね?」


 俺のズボンを掴む。


「子どもだって欲しいって言ってたでしょ。帰って、もう一回やり直そう」


 顔を上げた。


「文哉とはもう会わない。ちゃんと切るから。私、修司とやり直したいの。ねえ、子ども作ろう?」


 その言葉を聞いた途端、また胃がむかついた。


 脚を引き、真帆から一歩離れる。


 スマホを出して、松田さんへ電話をかけた。


「松田さん」


「はい、社長」


「藤本文哉の社内アカウントを全部止めてください。社用PCとスマホ、入館権限も回収。今日から自宅待機で」


 藤本が顔を上げた。


「社長、待ってください」


 無視した。


 電話の向こうで松田さんが少し間を置く。


「承知しました。他には?」


「営業部の過去三年分を内部監査に回してください。リベート、値引き承認、外注費。まず藤本が扱った案件を重点的に」


「過去三年分、全部ですか?」


「全部です」


 電話を切り、今度は顧問弁護士の西村先生へかけた。


「西村先生、内部監査の資料が出たら一緒に見てもらえますか」


「何かありました?」


「社員の私生活だけでは済まないかもしれません」


 藤本を見る。


「架空経費やキックバック、会社資金の不正流出が出てきたら、社内だけで処理しないでください。必要なら警察へ」


 藤本の顔から一気に血の気が引いた。


 真帆が床に座ったまま俺を見る。


「修司……そこまでするの?」


 もう一度、松田さんへ連絡した。


「それから、真帆に付与している社内権限も全部止めてください。社用車も回収で」


 真帆が顔を上げる。


「修司!」


 電話を切った。


 次に自分のカード会社のアプリを開き、真帆へ渡していた家族カードも利用停止にした。


「そんな……」


 真帆の声が大きくなる。


「私はあなたの妻でしょ? 結婚してこんなに経ってるのに、SAKAKIまで全部、私には関係ないって言うの?」


 俺は真帆を見た。


「妻?」


 スマホを取り出し、防犯カメラの映像を開いた。


 そこには藤本の膝に座った真帆が映っている。


 自分の声が、はっきり流れた。


『修司なんて、仕事とお金のことばっかり』


 部屋が静まり返った。


 真帆は画面を見たまま、青ざめていく。


 俺は動画を止めた。


「残りは弁護士と話して」


 真帆を見下ろす。


「これまで会社から渡したものも、真帆が関わった業務も、全部見直す」


 真帆は床に座ったまま、唇を震わせていた。


 俺はコートを手に取り、そのまま部屋を出た。


 振り返らなかった。



6



 三時間後、自宅へ戻った。


 引っ越し業者が、あのオーダーメイドのソファを解体していた。


 少し離れた場所から、その様子を見る。


 真帆は昔、このソファでドラマを見るのが好きだった。


 搬入された日のことも覚えている。


 クッションを抱えたまま深く腰を沈め、俺へ手を振った。


「修司、これすごくいい。これから週末はずっとここで過ごそうよ。誰に誘われても断るから」


 作業員が途中でこちらを振り返った。


「榊原様、かなり状態はいいんですが、本当に処分でよろしいですか?」


 惜しそうに肘掛けへ触れる。


「お願いします。処分してください」


 そのとき、玄関から慌ただしい足音が聞こえた。


 真帆が飛び込んでくる。


 髪は乱れ、化粧も崩れていた。


 解体中のソファを見るなり、その前へ駆け寄った。


「待って! それは修司が私に買ってくれたの!」


 肘掛けを掴み、振り返る。


 目は真っ赤だった。


「修司、怒ってるのは分かってる。ソファが嫌なら、新しいのに替えればいいよ」


 近づいてくる。


「もう文哉とは会わない。ちゃんと切る。本当に切るから」


 俺の手を取った。


「私、修司とやり直したいの。来年から子どものこと考えようって、二人で話してたでしょ。本当にそのつもりだったの」


「子ども?」


 思わず笑った。


 スマホを取り出し、iPadで見つけたデリバリーのスクリーンショットを真帆へ向けた。


「桜坂の1608号室。ウコンのドリンクとコンドーム」


 住所を見た瞬間、真帆の身体が強張った。


「誰との子どもを作るつもりだった?」


 真帆は口を開きかけた。


 だが、何も言葉が出てこない。


 そのまま力が抜けたように床へ座り込んだ。


 スマホをしまう。


「荷物まとめて」


 真帆が俺を見る。


「修司……」


「一時間。警備会社の人を外で待たせてある」


 クローゼットへ目を向ける。


「自分で持っていけるものは持っていって。残った私物は、あとで指定された場所へ送る」


 真帆がまた手を伸ばした。


 俺は避けた。


 引き出しからウェットティッシュを取り、さっき掴まれた手を拭いた。


 それをゴミ箱へ捨てる。


 床に座った真帆の泣き声が、次第に大きくなっていった。



7



 真帆が出ていってから三十分もしないうちに、インターホンが何度も鳴った。


 モニターを見る。


 先頭に立っているのは、義母の森下佳代子さんだった。


 後ろには真帆の兄と、森下家の親族が二人いる。


 ドアを開ける。


 佳代子さんは勢いよく中へ入ってきた。


「修司さん、どういうつもりなの! 真帆を家から追い出したって聞いたわよ!」


 俺は黙っていた。


「夫婦喧嘩は夫婦喧嘩でしょう? だからって帰る家まで取り上げることないじゃない!」


 だんだん声が大きくなる。


「森下の家だって、今まであなたに何もしてこなかったわけじゃないでしょ。あなたが今こうして会社を――」


 そこまで聞いて、思わず笑った。


 佳代子さんが言葉を止める。


 三年前。


 同じ人が俺の手を握り、立っていられないほど泣いていた。


『修司さん、あなたはうちの恩人よ』


 どうやら今は、その話をしたくないらしい。


 俺はリビングのテーブルへ行き、弁護士に準備してもらっていた書類と、当時の金銭消費貸借契約書のコピーを持ってきた。


 佳代子さんの前へ置く。


「三年前、会社が立ち行かなくなったとき、俺は両親の家を売って千八百万円出しました」


 契約書へ指を置く。


「ここに署名したのは佳代子さんですよね」


 佳代子さんの顔色が変わった。


「修司さん、あれは……あのときは……」


「返してもらうつもりはありませんでした」


 顔を見る。


「でも、今は違います」


 佳代子さんが慌てた。


「だって、私たち家族でしょう?」


「もうすぐ違います」


 弁護士からの通知書を差し出した。


「これからは弁護士と話してください」


 佳代子さんは書類を手に取り、数行読んだところでさらに顔を青くした。


「こんなことしたら、私たちがどうなるか分かってるの?」


「真帆は結婚してる間、俺の部下とずっと不倫していました」


 部屋にいた全員が黙る。


「それだけじゃない。うちで一番大事な店の事業を、藤本文哉と一緒に真帆の会社へ移そうとしていた」


 真帆の兄が母親を振り返った。


「母さん、これ知ってたの?」


 佳代子さんは答えなかった。


「会社では、藤本が担当した過去三年分の案件を調べています」


 俺は書類を閉じた。


「他にも何か出てくるなら、それは二人の問題です」


 佳代子さんの表情が明らかに変わった。


 すぐに踵を返し、外へ出る。


 真帆は門の近くに立っていた。


 家の中へ入る勇気はなかったのだろう。


 佳代子さんは娘を見るなり近づき、頬を平手で打った。


 乾いた音が、室内にまで聞こえた。


「あなた、いったい何したの!」


 真帆が頬を押さえる。


「お母さん……」


「うちにまだいくら借金が残ってると思ってるの! 家まで全部なくすつもり!?」


 真帆も堪えきれなくなった。


「修司が急に全部調べ始めるなんて、私だって思わなかったの!」


「まだそんなこと言うの!」


 庭先では、真帆の泣き声と佳代子さんの怒鳴り声が重なっていた。


 一緒に来た親族も、口を挟めず立っているだけだった。


 俺は大きな窓の前で、冷めたコーヒーを一口飲んだ。


 しばらく外を見たあと、カーテンを閉めた。



8



 それから数か月。


 社内調査は、調べれば調べるほど問題が出てきた。


 最初に見つかったのは、不自然なリベートの処理だった。


 さらに藤本文哉が担当していた複数の案件から、架空の外注費や不自然な値引き承認が見つかった。


 一部の資金は、藤本と関係の深い会社へ流れていた。


 会社の法務が資料をまとめ、警察へ提出した。


 藤本はその間ずっと自宅待機のまま、社内調査と警察からの連絡を待つことになった。


 真帆との離婚についても、正式に弁護士へ任せた。


 家庭裁判所で何度か調停を重ねた。


 最初の頃、真帆は離婚そのものを拒んでいた。


 それがしばらくすると、「許してくれるなら、条件は何でもいい」に変わった。


 俺の返事だけは、最初から最後まで同じだった。


 調停は成立せず、その後の手続きも弁護士に任せた。


 森下家に貸した金についても、弁護士を通して返済を求めた。


 しばらくして、今住んでいる家を売って返済に充てるつもりらしいと弁護士から聞いた。


 佳代子さんは体調を崩し、最終的に脳出血で病院へ運ばれたらしい。


 俺はその場にいたわけではない。


 弁護士から時々進捗を聞くだけだった。


「分かりました」


 それだけ返し、電話を切る。


 森下家の事情に、これ以上自分から関わるつもりはなかった。



9



 数か月後。


 株式会社SAKAKI本社、一階ロビー。


 その日、藤本文哉は社内調査の最終確認と資料確認のため、一度会社へ呼び戻されていた。


 俺が会議を終え、数人の管理職と一緒に出口へ向かっていると、セキュリティゲート付近から揉める声が聞こえた。


 警備員に止められている女がいる。


 真帆だった。


 最後に会った頃より、ひと回り痩せていた。


 いつも丁寧に整えていた髪は荒れ、顔色も悪い。目の下には濃い隈ができている。


 手には家庭裁判所から届いた封筒を握りしめていた。


「修司!」


 俺を見つけるなり、警備員の間から身を乗り出す。


「お願い、少しだけ話させて!」


 俺は足を止めた。


 何人かを挟んだ向こうから、真帆が俺を見る。


「お母さん、入院したの」


 声がひどく掠れている。


「家も売ることになった。私、もうどうしたらいいか分からない」


 涙が頬を流れた。


「修司、本当に悪かったと思ってる。一度だけでいいから、ちゃんと話して」


 そのとき、ロビーの反対側でエレベーターが開いた。


 数人の警察官と一緒に、藤本文哉が出てきた。


 以前よりかなりやつれていて、目元もくぼんでいる。


 その日は社内で最後の聞き取りを受けていたが、会社が提出した資料を受けて、警察も事情を聞きに来ていた。


 真帆を見た瞬間、藤本の足が止まった。


「お前のせいだ!」


 急に真帆のほうへ踏み出したため、そばにいた警察官がすぐ腕を押さえた。


「やめてください」


 それでも藤本は真帆を睨んでいる。


「お前が修司に勘づかれたせいで、全部掘られたんだろ!」


 真帆の表情が変わった。


「今さら私のせいにするの?」


 声を荒らげる。


「店の事業を移せるって言い出したのは文哉でしょ! あの店さえこっちに移せば、もう修司の顔色なんか見なくていいって!」


「黙れ!」


「そっちが黙ってよ!」


 あれほど親密だった二人が、今は警察官と警備員を挟んで、必死に責任を押しつけ合っている。


 俺はその場に立っていた。


 ふと、結婚式の日を思い出した。


 白いウェディングドレスを着た真帆が、目を潤ませながら俺の前に立っていた。


「修司に会えたことが、私の人生で一番幸せなことだと思う」


 あのときは俺も信じていた。


 このまま一緒に生きていくのだと。


 今、目の前にいる真帆は髪を乱し、会社のロビーで別の男と責任を押しつけ合っている。


 その真帆が突然こちらを見た。


 手を伸ばす。


「修司……助けて」


 立っているのもつらそうなほど泣いていた。


「私、まだあなたの妻でしょ……?」


 俺は目を落とした。


 ポケットへ手を入れる。


 ずっと身につけてきた結婚指輪に指が触れた。


 出張に出るたび、指輪がそこにあることを無意識に確かめていた。


 一度ホテルの洗面台に落としたときは、排水口まで外して探してもらったことがある。


 どうしても失くしたくなかった。


 その指輪を、ゆっくり外す。


 手を開いた。


 銀色のリングが大理石の床へ落ち、硬い音を二度立てた。


 真帆が伸ばした手の少し前で止まる。


 彼女は指輪を見たまま動かなかった。


 俺は何も言わず、背を向けた。


 会社の外には、社用の黒いレクサスLSが停まっていた。


 運転手が後部座席のドアを開ける。


「社長、この後はどちらへ?」


 シートに身体を預けた。


「家に帰る」


 ドアが閉まる。


 車がゆっくりと会社を離れていくにつれて、後ろの泣き声も言い争う声も聞こえなくなった。


10


 離婚の手続きが進む中、俺は家の中を少しずつ整理し始めた。


 防犯カメラの映像は弁護士へ渡したきり、一度も開いていない。


 真帆が残していった服、化粧品、アクセサリー、そのほかの私物も、弁護士と確認しながらまとめ、指定された住所へ送った。


 リビングは一気に広くなった。


 とくにソファがあった場所だけ、ぽっかりと空いている。


 カーペットには脚の跡が四つ、薄く残っていた。


 その前で、しばらく立っていた。


 父が生きていた頃、よく言っていた言葉がある。


「商売で損した金なら取り返せる。でも、人を見る目を間違えると厄介だぞ」


 何度も聞いた言葉だった。


 けれど、本気で考えたことはなかった。


 会社が一番苦しかった頃、俺は真帆なら何もかも任せられると思っていた。


 契約書を細かく確認することもなかった。


 口座の動きを疑ったこともなかった。


 真帆の言葉を、そのまま信じていた。


 もし彼女がもう少し上手く俺を宥めていたら、両親が残した事業まで、自分の手で渡していたかもしれない。


 俺はリビングの窓を全部開けた。


 冬の冷たい空気が一気に流れ込み、部屋に残っていた香りを少しずつ外へ運んでいく。


 窓辺に立った。


 家の中には、風の音だけが残った。


 その後、警察の捜査が進み、藤本文哉の会社資金をめぐる問題は刑事事件として扱われることになった。


 最終的にどうなったのかまで、俺は追いかけなかった。


 会社の法務に任せた。


 真帆との離婚も、引き続き弁護士を通して進めた。


 森下家は結局、長年住んでいた家を売却した。


 佳代子さんは退院したあと、一度も俺のところへ来なかった。


 真帆からは、何度もメッセージが届いた。


 謝罪もあった。


 泣き言もあった。


 何度も「一時の気の迷いだった」と書いてきた。


 ある日の午前三時過ぎ。


 一通だけ、短いメッセージが届いた。


『もし文哉と出会ってなかったら、私たち、今も前みたいに暮らしてたのかな』


 読んだ。


 返事はしなかった。


 その後、電話番号も変えた。


 春になった頃、SAKAKIの原点になった店を改装した。


 工事が終わった日、俺は一人で現場へ行った。


 看板の名前は変えていない。


 仕入先の顔ぶれも、長年付き合ってきた人たちのままだ。


 倉庫の責任者が俺を見つけ、笑いながら近づいてくる。


「社長、やっと奥の倉庫まで全部きれいになりましたよ」


 俺は頷いた。


「お疲れさまです」


 店の前に立つ。


 ふと、両親のことを思った。


 二人が若かった頃、この小さな店がいつか今のSAKAKIになるなんて、想像もしなかっただろう。


 まして、俺が一番信じていた人間に奪われかけることになるなんて、考えもしなかったはずだ。


 しばらく看板を見上げていると、スマホが鳴った。


 運転手からだった。


 会社へ戻るかと聞かれる。


 新しくなった店先をもう一度見た。


「いや。今日は家に帰る」


 通話を切る。


 春の風が通りを抜けていった。


 俺は駐車場へ向かって歩き出した。




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