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未来が見えない侯爵令嬢は、滅びゆく王都を静かに去る

作者: シオン
掲載日:2026/09/10


第一章 偽物の聖女


「セレナ・アルディール。お前には未来を予知する力などない」


第二王子ユリウスの声が、神殿の大広間に冷たく響き渡った。


普段であれば、祈祷の言葉と聖歌だけが許される神聖な場所だった。


高い天井を支える白亜の柱。


壁一面に描かれた、星々から神託を受け取る初代聖女の壁画。


色鮮やかな硝子窓から降り注ぐ午後の光が、磨き上げられた床に青や赤の模様を落としている。


祭壇の周囲には、王家の者をはじめ、枢機卿、神官、宰相、そして多くの有力貴族が並んでいた。


誰もが、この国の未来を担う聖女の誕生を見届けるために集められた者たちだった。


しかし今、その視線は祝福されるはずだった少女ではなく、祭壇の前で告発を受ける一人の令嬢へ向けられていた。


セレナ・アルディール侯爵令嬢。


王国東部を治める名門、アルディール侯爵家の一人娘である。


夜明け前の空を思わせる青灰色の髪は、銀の飾り紐で簡素にまとめられていた。身に着けているのは、聖女候補に与えられる純白の儀礼服だった。


本来ならば清らかさと栄誉の象徴であるはずの衣装。


けれど今のセレナにとっては、罪人に着せられた服のようだった。


彼女は大勢の視線を受けながらも、背筋を伸ばして立っていた。


その顔に涙はない。


怒りも、怯えも浮かんでいない。


紫水晶のような瞳で、正面に立つユリウスを静かに見つめている。


その落ち着いた態度を、気高いと感じる者もいた。


だが多くの者は、罪を自覚していない傲慢な令嬢だと受け取ったらしい。


貴族たちの間から、抑えた声が聞こえてきた。


「やはり、力などなかったのか」


「アルディール家は、王家を欺いていたのではないか」


「聖女の名を利用して、娘を王族に嫁がせようとしたのだろう」


「それにしても、ずいぶん平然としていること」


一つ一つの言葉が、細い針のようにセレナへ突き刺さる。


だが彼女は反論しなかった。


ただ、右手の指先を左手でそっと包んだ。


幼い頃から身についた癖だった。


不安や恐怖を感じたとき、セレナはこうして自分の手を握る。


泣いてはならない。


声を震わせてもならない。


聖女候補は常に清廉で、冷静で、民に希望を与える存在でなければならない。


そう教えられてきたからだ。


「聞いているのか、セレナ」


ユリウスの声に、セレナはゆっくりと瞬きをした。


「はい、殿下」


「ならば答えろ。お前には本当に、星の声が聞こえていたのか」


「いいえ」


一切の迷いなく答えると、広間のざわめきが大きくなった。


ユリウスは勝ち誇ったように顎を上げる。


「自ら認めるのだな」


「わたくしは一度も、未来が見えると申し上げたことはございません」


セレナの声は小さかったが、静まり返った広間にはよく通った。


「物心がついた頃より、星を読み解くための教育を受けてまいりました。しかし、どれほど祈りを捧げても、星々はわたくしに未来を示しませんでした」


「それならば、なぜ聖女候補の座に居座り続けた」


「王家と神殿から、力が目覚めるまで務めを続けるよう命じられていたからでございます」


ユリウスの眉が動いた。


広間の片隅では、アルディール侯爵が険しい表情で娘を見守っている。


十七年前、セレナが三歳になった日に、神殿の使者が侯爵邸を訪れた。


古くからアルディール家には、未来を予知できる娘が生まれるといわれていた。


星の動きから災厄を読み取り、王国を窮地から救う娘。


百年以上前、王都を襲った疫病を予言した聖女も、アルディール家の出身だった。


そのためセレナは幼い頃から、次代の星詠みの聖女として期待された。


遊ぶ時間はほとんどなかった。


同年代の子どもたちが庭を駆け回っている間、セレナは古い予言書を読んでいた。


貴族令嬢たちがお茶会で菓子を楽しんでいる頃、彼女は夜通し星の位置を書き写していた。


七歳からは神殿に通い、冷たい石床の上で何時間も祈りを捧げた。


星座学。


天文学。


薬学。


古代語。


政治と外交。


災害記録の読解。


聖女が予言を授かった際、その意味を正しく理解できるよう、ありとあらゆる知識を学ばされた。


間違えれば叱責され、疲れたと言えば意志が弱いと責められた。


それでもセレナは逃げなかった。


いつか力が目覚めると、周囲の者たちが信じていたからだ。


その期待に応えられない自分を、誰よりもセレナ自身が責めていた。


十歳のとき、最初の予知の儀式を行った。


星明かりを映した聖水に手を浸し、一晩中祈り続けた。


何も見えなかった。


十二歳のとき、二度目の儀式を行った。


七日間の断食を終えたのち、神殿の最上階で星を仰いだ。


何も聞こえなかった。


十四歳、十五歳、十六歳。


儀式を繰り返すたびに、神官たちの目から期待が消えていった。


それでも王家は、セレナを聖女候補から外さなかった。


彼女にはアルディール侯爵家という後ろ盾があったからだ。


東部最大の穀倉地帯。


隣国へ通じる交易路。


洪水から国土を守る堤防と水路。


王都の食卓を支える穀物の多くが、アルディール領から運ばれてくる。


王家にとって、侯爵家との結びつきは簡単に捨てられるものではなかった。


だからセレナは、第二王子ユリウスの婚約者に選ばれた。


表向きは、未来の王子妃となる聖女。


実際には、王家と東部の有力貴族をつなぐための婚約だった。


セレナはそれも理解していた。


理解したうえで、婚約者としての責務を果たしてきた。


ユリウスが外交文書を読むときには、隣で古代語を訳した。


彼が地方の税制について分からないと言えば、自ら資料を作った。


王子が出席すべき慈善事業には、代わりに足を運び、孤児院や施療院の状況を報告した。


ユリウスの誕生日には、彼が欲しがっていた隣国の軍学書を取り寄せた。


その本が一度も開かれないまま、本棚の飾りになっていることも知っていた。


それでもセレナは、いつか彼が国を背負う自覚を持ってくれると信じていた。


少なくとも、信じようとしていた。


「王家の命令だったと言いたいのか」


ユリウスが冷たく尋ねる。


「自分には何の責任もないと?」


「そのようなことは申し上げておりません」


「では、何のためにここに立っている。力がないと分かった時点で、自ら身を引くべきだったのではないか」


セレナは答えようとして、言葉を止めた。


それは何度も考えたことだった。


力がないと分かった時点で、聖女候補を辞退すべきではなかったのか。


ユリウスとの婚約も、妹か、別の有力貴族の娘へ譲るべきではなかったのか。


実際、セレナは十五歳のとき、神殿へ辞退願を提出している。


翌年にも出した。


今年に入ってからも、三度目の書状を送った。


だが神殿から返事はなかった。


王家から届いたのは、聖女としての自覚を持つように、と記された短い注意書きだけだった。


「わたくしは、三度にわたって聖女候補の辞退を願い出ております」


セレナがそう答えると、神官たちの一部がわずかに顔色を変えた。


ユリウスは怪訝そうに振り返る。


「聞いていないぞ」


「神殿を通じて、王家へお届けいただいたはずでございます」


「そのような書状は届いていない」


神殿の最高位に立つ枢機卿は目を伏せたままだった。


セレナはそれを見て、すべてを悟った。


書状は途中で止められていたのだ。


アルディール侯爵家からの寄付を失いたくなかったのか。


それとも、本物の聖女が現れるまで、形式上の候補者を置いておきたかったのか。


今となっては、どちらでもよかった。


「事情がどうであれ、結果は同じだ」


ユリウスは言い放った。


「七度に及ぶ儀式で、お前は一度も神託を授からなかった。対してエミリアは、すでに三度も予言を的中させている」


彼が右手を差し出す。


すると、ユリウスの後ろに控えていた少女が、おずおずと前へ進み出た。


赤い髪を緩やかに波打たせた、華奢な令嬢だった。


エミリア・ロゼット子爵令嬢。


一年前まで、王都から遠く離れた小さな町の修道院で暮らしていた少女である。


母親を早くに亡くし、父親であるロゼット子爵からも存在を忘れられていたという。


修道院では身分を隠し、孤児たちと同じ服を着せられていた。


やがて彼女が嵐の到来を言い当てたことで、人生は一変した。


神殿の調査を経て、エミリアには未来を予知する力があると認定されたのだ。


最初の予言は、王都を襲う嵐だった。


エミリアが告げた日の夕刻、季節外れの暴風雨が王都を襲った。


二度目は、隣国の使節が予定より早く到着するという予言。


これも的中した。


三度目は、王妃が晩餐会の途中で倒れるというものだった。


王妃は実際に胸を押さえて倒れ、数日間寝込んだ。


三つの予言が当たったことで、エミリアは本物の聖女としてもてはやされるようになった。


高位貴族の夫人たちは、こぞって彼女をお茶会へ招いた。


若い令嬢たちは、恋の行方を占ってもらおうと列を作った。


神官たちは、彼女が使った杯や衣服にまで神聖な価値があると言い始めた。


そしてユリウスは、誰よりも熱心にエミリアのもとへ通うようになった。


「エミリア、恐れることはない」


ユリウスが優しく語りかける。


先ほどまでセレナへ向けていた声とは、まるで別人のようだった。


「ここには私がいる」


「はい、ユリウス様」


エミリアは消え入りそうな声で答え、ユリウスの隣に立った。


身体を小さく縮め、緊張したように胸の前で両手を重ねている。


大勢の貴族の視線に慣れていない、純朴な少女。


誰もがそう思うような仕草だった。


彼女はおそるおそるセレナを見る。


「セレナ様、申し訳ございません」


「何に対する謝罪でしょうか」


セレナが尋ねると、エミリアの肩が跳ねた。


「わたくしが予言などしたために、セレナ様のお立場が……」


「あなたが謝る必要はございません。実際に未来をご覧になったのでしょう?」


「は、はい。ですが、わたくしはセレナ様から何かを奪いたかったわけではないのです」


大きな緑色の瞳に、みるみる涙が浮かぶ。


ユリウスはエミリアを庇うように、その前へ半歩進み出た。


「彼女を責めるな」


「責めてはおりません」


「お前の言い方はいつも冷たい。相手の気持ちを考えようとは思わないのか」


セレナは唇を閉じた。


相手の言葉に疑問があれば質問する。


誤解があれば訂正する。


それは責めることではないと、セレナは思っていた。


しかしユリウスにとっては違うらしい。


エミリアが涙を浮かべれば、彼女を泣かせた者が必ず悪くなる。


理由も経緯も関係ない。


少なくとも、この一年間はそうだった。


エミリアは手袋をした指で涙を拭うと、懸命に笑顔を作った。


「ユリウス様、わたくしなら大丈夫です。セレナ様もきっと、おつらいのだと思います」


「お前は本当に心が優しいな」


ユリウスは感動したように彼女を見つめる。


周囲の貴族たちも、エミリアへ同情的な眼差しを向けていた。


セレナだけが気づいていた。


エミリアは謝罪の言葉を口にしながら、一度も自分の未来のために力を使ったことがない。


彼女の予言は、いつもユリウスか王家にとって都合のよいものだった。


そして、そのうち二つは事前に知ろうと思えば知ることのできる内容だった。


隣国の使節が早く到着する可能性は、国境の役人から連絡が届いていた。


王妃も倒れる前から体調を崩し、侍医の診察を受けていた。


嵐については、漁師や農民なら空と風の変化から予測できたかもしれない。


もちろん、それだけでエミリアの力を偽物だと断定することはできない。


それでもセレナは、彼女の予言を無条件に信じるべきではないと訴えた。


力の真偽を疑ったのではない。


予言の内容だけで国の方針を決めるのは危険だと進言したのだ。


未来には、常に解釈の余地がある。


同じ光景を見ても、それが始まりを意味するのか、終わりを意味するのかは分からない。


予言は調査や判断を助ける材料の一つであって、すべての根拠にしてはならない。


そう説明したセレナを、ユリウスは嫉妬していると決めつけた。


「エミリアは昨日、新たな未来を見た」


ユリウスの言葉に、大広間が再び静まり返った。


神官たちが期待に満ちた視線を向ける。


「三日後の正午、王都の上空に黄金の星が現れる。その光を浴びた我が国は、千年の繁栄を迎えるそうだ」


どよめきが広がった。


黄金の星。


千年の繁栄。


あまりにも希望に満ちた予言だった。


貴族たちの顔に笑みが浮かび、神官の中にはその場で祈り始める者までいた。


「黄金の星とは、どのような姿だったのでしょうか」


セレナはエミリアへ尋ねた。


「空に一つだけ、星が現れたのですか?」


エミリアの唇がわずかに強張った。


「空が……黄金色に染まりました」


「星そのものをご覧になったわけではないのですね」


「光がとてもまぶしくて、はっきりとは……」


「光はどちらから現れましたか。東ですか、西ですか」


「分かりません」


「そのとき、地上には何が見えましたか」


セレナが重ねて問うと、エミリアは両手をきつく握った。


「人々が大勢いました。皆が声を上げていました」


「何と叫んでいたのでしょう」


「そこまでは聞こえませんでした」


「人々は笑っていましたか?」


エミリアは答えなかった。


その顔から、少しずつ血の気が引いていく。


セレナは眉を寄せた。


「エミリア様。本当にそれは、繁栄を喜ぶ光景だったのですか?」


「やめろ!」


ユリウスの鋭い声が、二人の間へ割り込んだ。


「それ以上、エミリアを侮辱することは許さない」


「侮辱ではございません。予言の内容を確認しているだけです」


「彼女は黄金の光を見た。民の声を聞いた。神殿も、それが繁栄を示す予言だと認めている」


「しかし、別の意味である可能性もございます」


「またそれか」


ユリウスは苛立たしげに息を吐いた。


「お前はいつもそうだ。可能性、調査、証拠。そんな言葉ばかりを並べて、何一つ信じようとしない」


「国の未来に関わることだからこそ、慎重に判断する必要がございます」


「ならば、お前には何が見える」


その問いに、セレナは黙った。


ユリウスの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。


「答えられないだろう。未来の見えない偽物が、本物の聖女へ口を出すな」


その言葉に、セレナの胸が痛んだ。


偽物。


この十数年、彼女が最も恐れてきた言葉だった。


どれだけ努力しても、どれだけ知識を得ても、予知ができなければ聖女ではない。


国のために働こうとしても、人々がセレナに求めるのは奇跡だけだった。


けれど今、その言葉を聞いても、不思議と涙は出なかった。


胸の奥にあるのは、悲しみよりも深い諦めだった。


ユリウスは、セレナの返答を待たずに宣言した。


「エミリアこそ、王国が待ち望んだ本物の星詠みの聖女だ」


彼はエミリアの手を取り、高く掲げる。


「よって私は、未来を予知できないセレナ・アルディールとの婚約を解消する。そしてエミリア・ロゼットを、新たな婚約者として迎える」


割れんばかりの拍手が起きた。


最初に手をたたいたのは神官たちだった。


次いで、王家に近い貴族たちが続いた。


何人かは戸惑っていたが、周囲の様子を見て拍手に加わった。


大広間は、新たな聖女の誕生を祝う空気に包まれていく。


その中心で、エミリアは涙を流していた。


ユリウスは満足そうに微笑んでいる。


セレナはただ、二人を見つめていた。


これまで婚約者として捧げてきた時間。


彼のために作った資料。


代わりに出席した会議。


何度も書き直した地方改革案。


寝る間を惜しんで調べた災害の記録。


ユリウスが風邪をひいたと聞き、深夜まで薬草を選んだこと。


誕生日に贈った本。


一度も返事をもらえなかった手紙。


それらが、胸の内を静かに通り過ぎていった。


「婚約解消、確かに承りました」


セレナは立ち上がり、儀礼どおりの美しい所作で頭を下げた。


ユリウスは拍子抜けしたような顔をした。


「それだけか」


「ほかに、何を申し上げればよろしいのでしょう」


「私に考え直してほしいとは言わないのか」


「殿下のお心は、すでに決まっておられるのでしょう?」


「ああ、そのとおりだ」


「でしたら、お願いする意味はございません」


ユリウスの表情に苛立ちが浮かんだ。


おそらく彼は、セレナが泣いて縋ると思っていたのだろう。


長年の婚約者から捨てられた令嬢が、誇りを捨てて許しを乞う。


それを拒絶し、エミリアを選ぶことで、自分の決断が正しいと示したかったのかもしれない。


けれどセレナには、彼を引き止める理由がなかった。


むしろ婚約解消は、彼女にとって必要なことだった。


これで王家とのつながりは切れる。


これで父や母、そして領民たちを、堂々と国外へ連れ出せる。


三日後に訪れる災厄から。


「ずいぶんと平然としているな」


ユリウスの低い声に、セレナは顔を上げた。


「まるで、この婚約解消を望んでいたようだ」


一瞬だけ、セレナは答えに迷った。


否定すれば嘘になる。


しかし真実を伝えても、彼は信じないだろう。


それでも、最後にもう一度だけ警告すべきだと考えた。


「殿下」


「なんだ」


「王都の地下水路を、至急調査してくださいませ」


ユリウスの眉間に深いしわが寄る。


「またその話か」


「王城と王都西部の地下で、異常な熱と振動が発生しております。三日後までに大規模な崩落が起きる可能性がございます」


「根拠は?」


「地下の礎石と水路の石壁が、そう訴えております」


大広間のあちこちから失笑が漏れた。


「石が訴えるだと」


ユリウスも呆れたように笑った。


「未来が見えないと認めた直後に、今度は石の声が聞こえると言い出すのか」


「わたくしは以前から、何度もご報告しております」


「お前の思い込みに付き合って、技師まで動かした。だが目立った異常は見つからなかったではないか」


「地下水路の入口を確認しただけです。最深部まで調査する前に、殿下が中止を命じられました」


「エミリアが、災害は起きないと予言したからだ」


ユリウスは当然のように言った。


「三日後に訪れるのは災厄ではない。黄金の星と、この国の繁栄だ」


「光景の解釈を誤っている可能性がございます」


「まだ言うか!」


ユリウスの怒声に、エミリアが怯えたように彼の袖をつかんだ。


「ユリウス様、どうかお怒りにならないでください。セレナ様はきっと、わたくしの予言が当たるのが怖いのです」


「エミリア、お前が気にする必要はない」


彼女をなだめたあと、ユリウスはセレナへ厳しい視線を向けた。


「王都の民を惑わせるような発言は許さん。これ以上、根拠のない災害を触れ回れば、王家への反逆と見なす」


「王都の民に避難を呼びかけることも禁じられるのでしょうか」


「当然だ。三日後には祝祭を行う。お前の妄言で、めでたい催しを台無しにさせるつもりはない」


セレナは目を伏せた。


これで、王都全体を救う道は閉ざされた。


王家が避難命令を出さなければ、十万を超える人々を短期間で動かすことはできない。


セレナ個人が警告したところで、偽物の聖女の妄言だと笑われるだけだ。


それでも、できることは残っている。


少なくとも、自領の民だけは逃がせる。


「婚約解消だけではない」


ユリウスは続けた。


彼が合図すると、一人の神官が筒状に丸められた書状を祭壇へ運んできた。


赤い封蝋には、王家の紋章が押されている。


「アルディール侯爵家は、代々聖女を輩出する家として王家から特別な恩恵を受けてきた。だが、お前に力はなかった」


その言葉に、アルディール侯爵が一歩前へ出た。


「お待ちください、殿下。我が家は王家から恩恵を受けるどころか、毎年多額の寄付金と穀物を神殿へ納めております」


「発言を許した覚えはないぞ、侯爵」


「娘を偽物と断じるだけでなく、一族の誇りまで侮辱されては、黙っていることはできません」


二人の視線がぶつかった。


セレナは父の横顔を見つめる。


厳格で、滅多に感情を表に出さない父だった。


セレナが儀式に失敗するたび、父は何も言わずに娘を馬車へ乗せた。


慰めの言葉をかけられたことはない。


だが儀式の翌朝には必ず、セレナの好きな焼き菓子が食卓に置かれていた。


差出人のない辞退願を神殿へ届けたのも、おそらく父だった。


「侯爵。お前の娘は王家を欺いた」


「娘は一度も、自らを聖女だと名乗ってはおりません」


「結果として、偽物を王子の婚約者に置き続けたではないか」


「それを命じたのは王家です」


広間が凍りついた。


第二王子に正面から反論する者など滅多にいない。


ユリウスの顔が怒りで赤く染まる。


「ならば、その王家から正式に命じる」


神官から書状を受け取ると、ユリウスは封を切った。


「アルディール侯爵家には、聖女を偽った責任を取ってもらう。現在の爵位および王国内におけるすべての権利を停止する」


セレナの父は何も答えなかった。


ただ、静かに拳を握っている。


「また、王家より管理を任せていた東部の土地を返還せよ」


その土地は、三百年にわたりアルディール家が開拓してきた領地だった。


湿地を農地へ変え、堤防を築き、魔物の住む森を切り開いた。


王家から与えられたと呼べるのは、最初の荒れ地だけだ。


それでもユリウスは、当然のように返還を命じた。


「そしてアルディール侯爵夫妻、セレナ・アルディール、ならびにその直系家族には、一月以内の国外退去を命じる」


広間がざわめいた。


婚約解消だけではない。


実質的な国外追放である。


セレナは顔を上げた。


「領民は、どのように扱われますか」


予想外の質問だったのか、ユリウスは眉を寄せる。


「領民?」


「アルディール領に住む者たちです。彼らが我が家との同行を望んだ場合、国外へ避難させることをお許しいただけますか」


「好きにしろ」


ユリウスは投げやりに答えた。


「お前たちに従い、故郷を捨てたいという酔狂な者がいるのなら、連れていけばいい」


「国境を越える際、王家からの妨害はないと考えてよろしいでしょうか」


「ああ。ただし王家は一切の費用を負担しない。移動中に何が起きようと、こちらの責任ではない」


「承知いたしました」


セレナは深く一礼した。


それは敗者の礼ではなかった。


長く閉じ込められていた檻から、ようやく出る許可を得た者の礼だった。


ユリウスは気づいていない。


爵位も領地も、王家との婚約も、セレナにとっては民の命より軽い。


国外へ出る許可さえあれば、それでよかった。


この日のために、父は隣国と交渉を進めてきた。


母は薬と食料を集めてきた。


家令は領民の名簿を作り、騎士団は避難経路を確認してきた。


すでに準備は整っている。


あとは王都を出るだけだ。


セレナは祭壇の上にある星の紋章を見つめた。


三日後。


大地が裂ける。


地下水路が崩れ、行き場を失った水が王都へ噴き出す。


地盤は家々をのみ込み、逃げ遅れた者たちは濁流にさらわれる。


彼女には未来を見ることができない。


だから正確な犠牲者の数も、災害後の王国がどうなるのかも分からない。


分かるのは、大地が限界を迎えているということだけだ。


「セレナ様」


エミリアの声がした。


彼女はユリウスの隣から、不安そうにセレナを見ていた。


「本当に、王国を出て行かれるのですか」


「それが王命ですので」


「でも、きっと謝ればお許しいただけます。聖女ではなかったことを認め、ユリウス様に誠心誠意お仕えすれば……」


セレナはしばらくエミリアを見つめた。


それから、わずかに首を横へ振る。


「わたくしは、自分にない力を持っていると申し上げたことはございません」


「ですが……」


「それに、殿下へ謝罪すべきことも思い当たりません」


エミリアは困ったようにユリウスを見た。


彼は再び不機嫌そうな顔をしている。


「最後まで強情な女だ」


「そうかもしれません」


「お前は王国の庇護を失うのだぞ。今は平静を装っているが、いずれ自分の愚かさに気づく」


セレナは反論しなかった。


代わりに、ユリウスへ最後の問いを投げかけた。


「殿下。地下水路の調査を再開するお気持ちはございませんか」


「ない」


「王都の民を、一時的に東の高台へ避難させるおつもりは?」


「ないと言っている。三日後、王都には繁栄を告げる黄金の星が現れるのだ」


「そうですか」


セレナは目を閉じた。


期待していたわけではない。


それでも胸のどこかで、最後には考え直してくれるのではないかと思っていた。


曲がりなりにも、国を治める王族なのだから。


多くの民の命を預かる立場なのだから。


けれど、その期待は完全に消えた。


「では、失礼いたします」


セレナは祭壇に背を向けた。


白い儀礼服の裾が、磨かれた床の上を滑る。


貴族たちは彼女のために道を開けた。


嘲笑する者。


哀れむ者。


どう接すればよいか分からず、目をそらす者。


誰一人として、セレナを呼び止めなかった。


父が彼女の後ろに続く。


神殿の扉へ近づいたとき、背後からユリウスの声が聞こえた。


「三日後には、どちらが正しかったか分かるだろう」


セレナは立ち止まった。


振り返りはしなかった。


「いいえ、殿下」


小さな声だった。


それでも、不思議なほど大広間によく響いた。


「三日後では遅いのです」


ユリウスは何も答えなかった。


神官たちも、貴族たちも、その言葉の意味を理解しようとはしなかった。


セレナは扉を押し開ける。


外から差し込んだ夕日の光が、白い儀礼服を赤く染めた。


神殿の階段の下には、侯爵家の馬車が待っている。


空には薄い雲が広がっていた。


穏やかな風。


美しい夕暮れ。


王都の人々は、三日後の祝祭について楽しそうに語っている。


誰も、足元の異変に気づいていない。


だがセレナには聞こえていた。


石畳のさらに下。


王都を支える岩盤の奥深くから、低く、不気味な音が響いている。


大地の悲鳴だった。


その音は以前よりも強く、近くなっている。


残された時間は、あまりにも少ない。


「セレナ」


父が隣に立った。


「後悔しているか」


セレナは、遠くにそびえる王城を見上げた。


十年以上を過ごした場所。


聖女になるために努力し、王子妃になるために学び続けた場所。


救いたいと願った国。


それらを捨てて去ることに、何の痛みもないと言えば嘘になる。


「いいえ、お父様」


セレナは答えた。


「わたくしが後悔するのは、できることをしなかったときだけです」


父はしばらく黙っていた。


やがて、ほんの少しだけ目元を和らげる。


「領地から連絡が届いた。住民の八割が、すでに移動の準備を終えている」


「残りの方々は?」


「王家の兵が到着するまで、故郷に残りたいそうだ」


「説得する時間はありますか」


「一度だけなら」


セレナはうなずいた。


「明朝、王都を出ます。道中の村にも警告を残しましょう」


「王子は、民を惑わせれば反逆と見なすと言っていたぞ」


「存じております」


「捕らえられるかもしれん」


「それでも、伝えます」


セレナは迷わなかった。


信じてもらえないかもしれない。


罵られるかもしれない。


それでも警告しなければならない。


笑われることと、命を見捨てることは同じではないのだから。


侯爵家の馬車が、夕暮れの王都を走り出した。


その背後では、神殿の鐘が高らかに鳴り響いている。


新たな聖女の誕生を祝う鐘。


千年の繁栄を告げるという黄金の星を迎える鐘。


人々は足を止め、笑顔で祈りを捧げた。


馬車の窓からその光景を見つめながら、セレナは膝の上で拳を握った。


「これでようやく、皆を救えます」


その言葉を聞いたのは、向かいに座る父だけだった。


窓の外では、黄金色の夕日が王都を照らしている。


まるで三日後の光景を、先取りするかのように。


そして美しい都の地下では、崩壊の時が刻一刻と近づいていた。

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― 新着の感想 ―
最後迄行って無いよね。此れだと筋書きが嘘になってしまうので少なくとも続きを書くか前後編にするなりした方が良いと思う。
これで終わり?
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