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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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9/13

第9話 はじめての繁盛日

 看板を上げた翌朝、白梢の谷の空は、めずらしく雪雲の切れ間を見せていた。


 白一色の朝ではあるが、どこか昨日より明るい。食堂の戸を開けた瞬間、セシリアはその理由をすぐに知った。入口の前に、もう人が立っていたのである。


 「……早いですね」


 思わず口をついて出た言葉へ、先頭にいた男が鼻の頭を赤くしながら笑った。鹿皮の外套を着た猟師だ。背には獲物を括りつけるための縄、腰には細身の刃物。いかにもこのあたりの森で生きている人間らしい風体だった。


 「昨日、木橋の向こうで聞いたんだよ。白梢の谷に、鍋を食わせる店ができたってな」

 「それに、寒い日に甘煮まで出るって話も回ってきたぞ」

 後ろの旅人が続ける。

 「看板まで上がったなら、もう仮の炊き出しじゃねえだろ」


 戸口の内側で、セシリアは一瞬だけ瞬きをした。

 鍋の噂が谷の中へ広がることは想像していた。だが、木橋の向こう、近隣の猟場や街道の宿継ぎ所にまで回っているとは思わなかった。


 レクシーが背後から顔を出し、列を見て目を丸くする。

 「朝の鐘も鳴ってないのに」

 「鳴る前だから来たんだろ」

 プラチャンが薪束を担いだまま言った。

 「腹減ったやつの足は早え」


 その言葉どおり、鐘が鳴る頃には戸口の前に人が増えていた。

 猟師が三人、薬草採りの女が二人、荷馬車を止めた旅人が四人。白梢の谷のいつもの面々も、それを見てなんとなく足を速める。昨日の看板を見たからだろうか、皆、今日は「食堂へ行く」という顔をしていた。ただ空腹をしのぐだけではなく、そこへ向かう理由がある者の顔だ。


 セシリアは、いつもより早く湯を沸かし、大鍋へ根菜と豆と干し肉を入れた。初雪の朝を越えたあとの体には、脂だけ多い料理より、芯からあたたまる汁のほうが合う。昨夜のうちに仕込んでおいた骨の出汁へ、刻んだ玉ねぎを落とし、木杓子で底から返す。ふわりと上がった香りに、入口で待つ人々の肩が少し前へ傾いた。


 見ている。匂いだけで、もう店の中へ心が入ってきている。


 ネマーニャは帳場で紙束を整えながら、列の長さを一度見た。

 「食堂主」

 「はい」

 「今日の席数では足りません」

 「……ですよね」


 白梢の谷の食堂は、まだ大きくない。

 窓際に四人掛けが二つ、壁沿いに二人掛けが三つ、かまど近くの小卓が一つ。昨日までなら、それで回った。けれど今日は、最初の仕込みが終わる前からその倍の人数が来ている。しかも猟師と旅人は食べるのが早い代わりに、食べたらすぐ次の用で動く者が多い。席を温めっぱなしにはしないが、回し方を誤れば入口の列が雪道へ伸びてしまう。


 「外で待ってもらうには寒すぎますね」

 レクシーが言う。

 「湯だけ先に配る?」

 「湯だけでは腹は持ちません」

 セシリアは鍋を見つめたまま答えた。


 そこで、ふと目に留まる。

 昨夜焼いておいた小ぶりの丸パン。いつもの食卓用より少し軽く、持ち運びやすいように焼いた分が、布の下にまだかなり残っている。補修の日に職人たちへ配るつもりで作ったものだ。鍋の中には、具を細かめに刻んだ今日の出汁。ならば――。


 「席が足りないなら」

 セシリアは木杓子を鍋へ立て、振り向いた。

 「椀だけでも手に持てるようにしましょう」


 プラチャンが片眉を上げる。

 「こぼれねえか」

 「具を細かくして、とろみを少し強めます。立ったままでも食べやすいように。パンも小さめに切って、持ち帰りやすく」

 「立ったまま食うのか」

 「はい。窓際と戸口の内側へ板を渡して、簡単な置き場を作れませんか」

 「作れる」


 返事をしたのはプラチャンだが、その前にはもうミルコフが壁際の寸法を見ていた。アンナは布包みの大きさを測り始め、レクシーは空椀の数を数えに行く。誰かが「それは無理だ」と言う前に、どうすれば動くかへ頭が切り替わっている。その速さが、セシリアは好きだった。


 「食堂主、持ち帰り用は」

 ネマーニャが紙束を持ち上げる。

 「汁物とパンで分けますか」

 「ええ。食べていく方と、すぐ出る方も分けたいです」

 「では様式を作ります」


 さらりと言って、彼は帳場へ腰を下ろした。

 魔導タイプライターの鍵へ指が置かれる。次の瞬間には、もう音が跳ねていた。


 カタ、カタ、カタ、タン。


 食堂の朝に、その音はずいぶん馴染んできた。けれど今日は、いつもより少し速い。列の長さ、席数、厨房の手、持ち帰り、食べていく者、現金の受け取り、後払いの禁則。必要なものを頭の中で一度に組み直しながら打っているのが、音だけでわかる。


 セシリアは鍋へ戻った。

 玉ねぎの甘みが出たところで、潰した豆を半量戻し、とろみを出す。干し肉は細かく裂き、根菜は匙で掬いやすい大きさへ刻む。立ったままでも食べやすく、寒い外気に当たっても冷めにくいよう、塩より先に香草と黒胡椒を入れた。香りで体を起こし、あとから塩気で力を戻す。


 誰のための一椀か。

 それを考えるだけで、味の置きどころが少しずつ定まる。


 今日は、雪道を歩く足のため。

 森へ入る目のため。

 馬の手綱を握る指のため。

 そして、外で待つあいだに腹と心が冷え切らないための一椀だ。


 ぐつぐつ、と鍋が深い音を立てる。表面の泡がやわらかく弾け、そのたび湯気が立つ。湯気の向こうで、ネマーニャが打ち上げた紙を整えているのが見えた。


 「できました」


 差し出された紙は三種類だった。

 一つは、店内用。卓番号と人数、注文欄のある細長い票。

 一つは、立ち食い用。窓際用の印と、汁とパンの数だけを素早く書ける簡略版。

 もう一つは、持ち帰り用。名前、行き先、受け取り時刻を書く欄があり、途中で取り違えないよう角に穴を空けて紐を通せるようになっている。


 セシリアは思わず見入った。

 「……きれい」

 「きれいさは二の次です」

 「でも、きれいです」

 「読めれば十分です」

 「読めて、わかりやすくて、きれいです」


 言い切ると、ネマーニャはわずかに視線を外した。

 「急いでいるので、今はそれでお願いします」


 そこへレクシーが戻ってくる。

 「食堂主、立ち椀用の木匙、あるだけ出したわ。アンナが布も切ってる」

 「窓際の板、二枚入れたぞ」

 プラチャンが木屑を払う。

 「戸口の内側にも一本渡した。重さはかけるなよ」

 「馬は俺が見ておく」

 ミルコフが外の列へ目を向けた。

 「旅人の荷を通路へ置かせるな。転ぶ」


 あっという間に、朝の食堂は戦場ではなく、うまく回るための場所へ変わり始めた。


 最初の客を通した時には、もう新しい流れができていた。

 店内に座る者はレクシーが案内し、立ち食いの者は窓際の板へ、持ち帰りの者は戸口の横で待つ。アンナは布で包むパンを用意し、プラチャンは外と内の通り道が塞がらないよう人を流す。ミルコフは馬の鼻先まで見ながら、不審な動きがあれば短く声を飛ばす。ネマーニャは帳場で票を受け取り、厨房へ渡す順を整える。


 「店内、二人掛け一つ空きます」

 「立ち椀、三つ先です」

 「持ち帰り、街道南行きの二つ、先に出せます」

 「了解です!」


 セシリアは鍋を返し、パンへ薄く溶かし脂を塗り、皿を並べた。

 忙しい。けれど、不思議と怖くない。前へ前へと手を動かすたび、列がほどけ、湯気が増え、客の顔色が変わっていくのが見えるからだ。


 猟師の男は最初の一口で目を見開いた。

 「なんだこれ、ただあったけえだけじゃねえ」

 「豆を多めにしてあります。昼まで腹が持つように」

 「持つどころか、足が軽ぇな」


 隣の薬草採りの女は、湯気を吸い込むようにしてから匙を口へ運び、ふっと肩を落とした。

 「……冷えてた指が戻る」

 「よかった」

 セシリアは笑い、次の椀へ移る。


 旅人たちは、持ち帰り用の布包みを受け取ると揃って感心した。

 「雪道で汁物を持っていけるのはありがたい」

 「途中で宿代わりの納屋へ入っても食えるな」

 「このパン、軽いのに腹へ溜まる」


 そこへ、列の後ろから誰かが言った。

 「聞いたより、ちゃんと店だな」

 「聞いた話だと、彼シャツの嫁が鍋を振るうって――」

 「どこの話ですかそれは」

 セシリアが思わず振り向くと、列がどっと笑った。


 旅人の一人が悪びれもせず肩をすくめる。

 「木橋の向こうではそう聞いた」

 「昨日のうちに遠くまで行きすぎです」

 「看板と一緒に噂も立ったんだろ」


 セシリアの頬が熱くなる。

 その横で、ネマーニャが票を整えたまま静かに言った。


 「食堂主です」


 たったそれだけの訂正だった。

 からかいに付き合うでもなく、強く切るでもなく、事実だけを置く声。けれどそれを聞いた瞬間、セシリアは変に息を詰めた。彼シャツの噂を流すな、ではない。嫁でも何でもなく、この店の主だと、当たり前のように言い直してくれたのだ。


 「……はい」

 返事が少し遅れた。

 レクシーがそんな二人を見て、皿を運びながら目だけで笑っている。


 繁盛は、昼へ向かうほど勢いを増した。

 森から戻る前の猟師が立ち寄り、橋の補修班が早めの昼を取り、街道の伝令役が馬を繋いで椀を掻き込み、薬草採りの女たちは包みを二つずつ下げて帰っていく。白梢の谷の食堂は、いつのまにか「誰かが腹を満たしてから次へ向かう場所」になっていた。


 店内の椅子は足りない。

 木匙も途中で一本欠けた。

 窓際の板には雪で湿った手袋が何度も置かれ、戸口の布幕は人の出入りで一日じゅう揺れた。

 それでも止まらない。


 止まらないから、工夫が増える。


 「立ち椀の人には、椀の縁を少し厚めにしましょう」

 セシリアが言う。

 「熱さが指へ移りにくいです」

 「それなら古い木椀を回す」

 アンナが即座に応じる。

 「布巻きも足すわ」

 「持ち帰り用の包みは色を分けます」

 レクシーが紐を二本持ち上げた。

 「南行きは青、谷の中は茶」

 「受け取り札と同色へします」

 ネマーニャがもう打ち始めている。

 「取り違えが減ります」

 「立ち椀の板、もう一本増やすか」

 プラチャンが外壁を見た。

 「ただし奥は風が巻く。風除けが要る」

 「干し草束、二つ積めば足元の冷えも減る」

 ミルコフが言う。


 それぞれの手が、それぞれの場所で動く。

 セシリアはその中心で鍋を回しながら、ふと胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


 王都の屋敷でも、何かを整える仕事はしてきた。

 茶器の並び、使用人の導線、席次の乱れ、言葉にならない気まずさ。だがあちらは、うまく回ったところで、最後に褒められるのは主催者か家の名だった。


 ここでは違う。


 板を増やしたのはプラチャンだ。

 票を整えたのはネマーニャだ。

 布を切り、紐を結び、湯を足し、馬を見、道を空け、笑って待たせてくれる人がいる。

 その全部が、鍋の湯気の中で見える。


 自分一人が役目を果たすのではなく、皆で一つの昼を回している。


 それが、嬉しかった。


 昼過ぎ、最初の波がようやく引いた頃、セシリアはかまどの横へ手をついて小さく息を吐いた。背中がじんと重い。腕も少しだるい。けれど嫌な疲れではない。椀の底を見せて返されるたび、体のどこかへ小さな灯りが増えていくような疲れ方だ。


 「食堂主」

 気づけば、ネマーニャがそばへ来ていた。

 差し出されたのは、湯気の立つ小さな陶杯である。


 「喉が乾いているはずです」

 「……ありがとうございます」


 中身はただの白湯ではなかった。ほんのわずかに干し果実を落とした、淡い香りの湯。厨房で忙しくしている間に、彼がどこで用意したのかもわからない。


 「甘くない」

 セシリアが言うと、

 「甘くすると、余計に喉が乾きます」

 ネマーニャはいつもの声で答えた。


 そのまま視線だけで鍋を確認し、帳場へ戻ろうとして、ふと足を止める。

 「窓際、三番目の板は夕方まで保ちません。あとで交換を」

 「わかりました」

 「それと、立ち椀の列ですが」

 「はい」

 「店内より回転がいいです。看板が見える位置なので、新しく来る者が並びやすい」


 言われてセシリアは窓の外を見た。

 たしかに、看板の下へ人が並び、そのまま窓際で椀を受け取り、湯気の向こうで食べている。食べ終えた者が満足した顔で去るのを、新しく来た者が見て、また並ぶ。店の賑わいが、そのまま次の客を呼んでいるのだ。


 「……面白いですね」

 思わず呟くと、ネマーニャがこちらを見る。

 「何がですか」

 「料理を作るだけじゃなくて、どう並んで、どう受け取って、どう帰っていくかで、店の形が変わることです」

 「経営の話ですね」

 「たぶん」

 セシリアは少し笑った。

 「いま、すごくそれをやっている気がします」


 ネマーニャは一拍だけ黙ったあと、静かに頷いた。

 「向いています」

 「そんなに簡単に言わないでください」

 「簡単には言っていません」

 「……そうですか」

 「はい」


 それだけの会話なのに、なぜか胸の奥へまっすぐ落ちてきた。

 向いている。

 王都で与えられた役ではなく、自分で選んで立っている場所へ、そんな言葉をもらう日が来るとは思わなかった。


 午後の波は、午前の混乱を知っている分だけ少し滑らかだった。

 立ち椀を目当てに来る者、持ち帰りを最初から頼む者、卓が空くまで窓際で温スープを飲んで待つ者。客の側まで店の流れを覚え始めている。


 「食堂主、今日の包みは二つ」

 「街道北へ行く前に受け取れますか」

 「先生、あの札どれだっけ」

 「青紐は南行きです」

 「ユノ、それはまだ熱いわよ」

 「トト、窓際で走らない!」


 声が飛び交う。

 笑いも混じる。

 木匙の当たる音とタイプライターの打鍵音、戸の開閉、鍋の煮える音、外で鳴く馬。白梢の谷の食堂は、その全部を混ぜながら、一つの昼を続けていた。


 夕刻近くになって、ようやく最後の旅人を見送った時には、窓の外が薄青く変わり始めていた。雪明かりの青だ。あれだけ人が出入りしたのに、看板の文字はまだくっきり見える。昼の湯気と人の影をくぐり抜けて、むしろ朝より店らしくなっていた。


 セシリアは帳場の前へ立った。

 「売上、どうでしたか」

 ネマーニャは紙束を揃え、簡潔に答える。

 「予想の一・八倍です」

 「……そんなに」

 「ただし椀の消耗が予定より早い。木匙二本破損。パンは追加で焼かなければ明日の朝が足りません」

 「はい」

 「立ち椀の板は仮設です。雪が続けば、もっと丈夫なものが要る」

 「はい」

 「持ち帰りは、想定より需要があります」

 「はい」

 「あと」

 「あと?」

 「食堂主が、昼を食べていません」

 「……あ」


 完全に抜け落ちていた。

 セシリアが口を開けたまま固まると、向こうでレクシーが吹き出した。


 「やっぱり」

 「やっぱりじゃありません」

 「やっぱりよ。顔見ればわかるもの」

 彼女は笑いながら、小卓の上へ蓋つきの椀を置いた。

 「ネマーニャが途中で確保しておいたわ。売り切れる前に」


 セシリアがそちらを見ると、ネマーニャは書類を整える手を止めずに言う。

 「働く者が倒れると、明日困ります」

 「理屈で優しさを包まないでください」

 「理屈です」

 「半分くらいは」

 「七割です」

 「残り三割は?」

 「……食堂の損失回避」

 「それ、理屈に見せかける気すらないですね」


 くすり、と笑いが漏れた。

 忙しさが過ぎたあとの笑いは、昼間より少しやわらかい。


 椀の中には、今日の温スープが入っていた。ただし底にだけ、潰していない豆と、少し大きめの干し肉が残してある。忙しい合間に食べるには邪魔だからと、客用は全部細かくした。けれど今のこれは、自分のための分だ。噛むたび、今日一日の働きが体の奥へ戻ってくる気がする。


 食べ終えた頃、プラチャンが裏手の物置から顔を出した。

 「おーい。明日の板材探してたら、変なもん出てきたぞ」


 変なもの。

 その呼び方に、アンナが眉を寄せる。

 「あなたの変なものは、だいたい厄介なのよ」

 「いや、厄介というか、でかい」


 でかい。

 今度はミルコフが先に動いた。セシリアも椀を置き、裏手へ回る。


 食堂の裏は、まだ整理しきれていない雪と木箱と、昔の建材が積まれた場所だ。かつて何に使っていたのかわからない板や、折れた柵、錆びた釘箱、風化した樽の蓋。今日みたいに急ごしらえで何かを足したい時には便利だが、同時に、谷の昔がそのまま埋まっている場所でもある。


 プラチャンが雪を踏みしめながら、半分ほど掘り返された一角を指した。

 「これだ」


 最初、セシリアにはただの丸太の山に見えた。

 けれど近づいて雪を払うと、丸太ではない。なだらかな曲線。削り出された耳。色は落ちているが、木肌の下に薄い青の塗り跡。さらにその奥には、湾曲した鉄の輪と、地面へ斜めに埋もれた長い板が覗いている。


 「……木馬?」

 アンナが呟く。


 ユノとトトが、すぐ後ろで目を輝かせた。

 「うま?」

 「のるやつ?」


 ミルコフはしゃがみ込み、周囲の地面を手袋の先で確かめる。

 「腐りきってはいない。埋もれていた分、風には当たっていないな」

 「こっちの鉄輪、回る台の残骸かもしれねえ」

 プラチャンが言う。

 「昔、どっかの屋敷で見たことある」


 レクシーが積もった雪を払うと、さらに奥から細い支柱が何本も現れた。先端には、かつて旗か幕でも結んでいたらしい輪金具。もう布はない。けれど形だけで、そこに何があったのかがぼんやり浮かぶ。


 誰かが子どものために作った場所。

 誰かが遊ばせるために置いたもの。

 その残りが、ずっとこの雪の下にあったのだ。


 セシリアは、木馬の欠けた耳へそっと触れた。

 冷たい。けれど、形はまだ消えていない。


 「白梢の谷に……こんなものが?」

 「視察用の古い施設跡かもしれん」

 ネマーニャが後ろから言った。

 いつのまにか来ていたらしい。雪の上に立ち、埋もれた残骸を一通り見渡している。

 「王都の記録で、北方視察時に一時滞在する子ども向けの庭園があったという記述を見たことがあります」

 「庭園」

 セシリアはその言葉を反芻した。


 白梢の谷。

 寒く、痩せて、流されてきた者たちが働き続ける場所。

 そこに、子どもが遊ぶ庭があったことがある。


 ユノは木馬のそばでしゃがみ込み、雪まみれの木肌をじっと見ていた。

 「これ、なおしたら、のれる?」

 トトもすぐ隣で見上げる。

 「すべるやつも、ある?」


 大人たちは誰もすぐに答えなかった。

 直せるかどうか、今すぐにはわからないからだ。冬の人手、板材、釘、塗り直し、安全の確認。考えることは多い。今の白梢の谷に、遊びへ割ける余裕がどれほどあるのかも、簡単には言えない。


 それでも、その沈黙の中で、セシリアの胸には別の思いが浮かんでいた。


 生き延びるための鍋は、たしかに必要だ。

 寒い日に腹を満たす食堂も、なくてはならない。

 けれど、今日の昼、あれだけ忙しくて、それでも皆の顔がよかったのは、腹が満ちただけではない。

 看板があり、並ぶ場所があり、湯気の向こうで笑える何かがあったからだ。


 ならば。

 生き延びた先に、笑う場所まで作れたら。

 この谷は、もっと違う顔になるのではないか。


 セシリアは木馬から手を離し、振り返った。

 ユノとトトの目が、同じ高さからこちらを見ている。期待している。けれど、それを口へ出すのをためらう目でもあった。


 「すぐに、とは言えないけれど」

 彼女はゆっくり言った。

 「直せるものがあるなら、考えましょう」


 ユノの顔がぱっと明るくなった。

 「ほんと?」

 「ええ。ただし、安全を確かめてから」

 「やくそく?」

 「約束の前に、まず掘り出すところからです」


 その答えに、プラチャンが鼻で笑う。

 「そう来ると思った」

 「食堂主ですから」

 セシリアが言うと、彼は肩をすくめた。

 「いや、そういうとこだよ」


 ネマーニャは木馬の脇へしゃがみ、古い金具の刻印を確かめていた。

 「打ち直せる札が要りますね」

 「もう札なんですか」

 セシリアが聞く。

 「直すと決めた場合の話です」

 「決める前から」

 「決めた時、すぐ動けるように」

 「……仕事が早い」

 「食堂で学びました」


 さらりと言われて、セシリアは言葉に詰まった。

 雪の冷たさとは違う熱が、耳のあたりへ集まる。けれど今は、それを隠すのも少しだけうまくなってきた。


 「では」

 彼女は咳払いを一つして言った。

 「明日の仕込みのあと、少しだけ掘りましょうか。板材探しも兼ねて」

 「賛成」

 レクシーが即答する。

 「子どもたちが夕方に手伝える時間なら、もっと喜ぶわ」

 「私は布の残りを見る」

 アンナが木馬の背を撫でた。

 「旗くらいなら、古布で何とかなるかも」

 「まずは腐食の確認だな」

 ミルコフが立ち上がる。

 「埋まっている下を見ないと」

 「人手は俺が回す」

 プラチャンが言った。

 「ただし明日の昼が今日より来たら、先に食堂だ」


 「もちろんです」

 セシリアは頷いた。


 食堂の裏手で見つけたものは、ただの古材かもしれない。

 けれど、ただの古材ではなかった。

 この谷に、いつか子どもの笑いを置こうとした誰かがいた証だ。


 夕暮れの青の中、半分雪に埋もれた木馬の背へ、薄い光が差した。

 看板を得た翌日に、食堂は初めての繁盛を迎えた。

 そしてその日の終わりに、白梢の谷はもう一つ、次の景色の入口みたいなものを土の下から見せたのだった。



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