第8話 彼シャツと初雪の朝
その朝、白梢の谷には、ようやく本気の雪が来た。
夜のあいだに降ったぶんが、食堂の窓枠へやわらかく積もっている。まだ吹雪にはならないが、空は低く、息を吐くたび白さが長く残った。薪小屋から戻ったプラチャンが、肩の雪を払いながら戸を閉める。
「来たな。今日は煙が真っすぐ上がらねえと、客が全員いぶされる」
その言葉の通り、厨房の火を入れた途端、かまどの奥で嫌な音がした。ごう、ではない。ぼふ、と湿った咳みたいな音で、次の瞬間、煙が逆流する。
「わっ」
セシリアは慌てて鍋の蓋を押さえた。湯気ではない黒っぽい煙が天井近くへ溜まり、目にしみる。レクシーがすぐ窓を開け、アンナが戸口の幕を持ち上げた。ミルコフはひと嗅ぎしただけで顔をしかめる。
「煙突の継ぎ目だ。昨日の夜、凍って縮んだな」
「昨日の補修、足りなかったか」
プラチャンが天井を見上げる。
「足りないというより、朝の冷え込みが勝った」
ネマーニャは壁際の影の濃さを確かめながら言った。
「このまま朝の仕込みを続けると、咳の客しか来ません」
「そんな看板、絶対いやです」
セシリアは咳き込みながら答えた。
結局、朝の煮込みを本格的に始める前に、煙突の継ぎ目を補修し直すことになった。
屋根へ上がるのはプラチャンとミルコフ、下から継ぎ材と道具を渡すのはセシリアとネマーニャ、窓と火の加減を見るのはレクシー、溶かした樹脂と布巻きを整えるのはアンナ。もう、こういう時の配置は誰かが決める前から半分できている。
「食堂主、こっちの釘箱」
「はい」
呼ばれて振り向き、セシリアは昨日から胸の奥に残っていた小さな温かさを思い出した。食堂主。まだ途中の呼び方。けれど、今の仕事にはちょうどいい。
窓から外へ顔を出すと、初雪の粒が頬へ触れた。王都の雪は、磨かれた石畳の上へ上品に積もるものだった。白梢の谷の雪は、木柵にも桶にも犬小屋にも、差をつけずどんどん積もる。暮らし全体へ、まとめて降ってくる。
「継ぎ材、上げるぞ」
屋根の上からプラチャンの声が降る。
セシリアは縄に結んだ木箱を持ち上げた。ネマーニャがすぐ隣で結び目を確かめ、短く頷く。
「そのまま。右手を少し上げてください」
「こうですか」
「もう少し」
言われた通りに動くと、彼の指先が一度だけ、自分の袖口に触れた。滑る布を押さえるためだけの、必要な接触だ。それなのに、妙にそこだけはっきりする。
昨日までは、同じ卓で紙を広げても、同じ鍋の湯気を浴びても、こんなふうには意識しなかったはずなのに。
いや、とセシリアは頭を振った。
今は煙突である。布の感触へ気を取られて、鍋まで煙だらけにしてはならない。
「上げます」
縄を引く。木箱が軋みながら上へ昇る。ところがその時、屋根の縁でミルコフが「待て」と低く言った。
「雪が滑る」
次の瞬間だった。屋根の端に積もっていた粉雪がざっと落ち、その反動で縄が揺れた。木箱は無事だったが、窓の上へ置いていた煤受けの桶が引っかかり、盛大にひっくり返る。
「きゃっ」
黒い粉が、セシリアの肩から胸元へまともに降った。
髪の先、頬、前掛け、袖、そして上着の前身頃が、見事なくらい煤まみれになる。息を止めたのに遅かった。鼻先にも少し入ってしまい、彼女はくしゃみを二つ続けた。
数拍おいてから、屋根の上でプラチャンが腹を抱えて笑い始める。
「すまん、食堂主、今のはっ、見事にっ……」
「笑っている場合ですか!」
アンナが怒鳴る。
「怒られるのはわかってるが、黒猫みたいで」
「あとで屋根から落としますよ」
レクシーがにこにこ言う。
セシリアは袖で顔を拭こうとして、かえって被害を広げた。上等な服ではもうない。辺境へ来てから何度も繕い、動きやすいよう裾を調整した普段着だ。それでも、今日はこのあと客前に立つつもりだったのに、これでは炭焼き小屋から飛び出してきた人みたいだ。
「水、持ってきます」
レクシーが走る。
「湯も」
アンナも続く。
残されたセシリアは、窓枠のそばで立ち尽くした。煤の匂いが鼻の奥に残る。肩からぱらぱら落ちる黒い粉を見下ろしていると、隣に影が差した。
ネマーニャだった。
彼は何も言わず、一度だけセシリアの顔を見て、それから自分の外套の前を開いた。肩へ掛けていた革紐つきの布袋を外し、中から畳まれた深い灰青色のシャツを取り出す。丈夫な麻布で、袖口は何度もまくった折り目が残っていた。
「これを」
差し出されたものを見て、セシリアは目を瞬いた。
「え」
「作業用です。洗ってあります」
「いえ、そうではなくて」
男性物だ、と言おうとして、口が止まった。
そんなことは見ればわかる。肩幅も袖も、自分の体には大きすぎる。けれど、今すぐ着替えなければ客前に出られないのも確かだ。
「食堂に乾いた替えはありません」
ネマーニャはいつもの調子で言った。
「アンナのところの予備服は診療用の寝間着しかない。あれで給仕に出ると、別の誤解が生まれます」
別の誤解、という言い方がおかしくて、こんな時なのに笑いそうになる。
「でも、これはネマーニャさんの」
「だから貸します」
彼はほんのわずかに言葉を足した。
「今のあなたに必要です」
その言い方は、昨日と同じだった。
探す価値がある、と言った時の声に似ている。大きくも優しくも飾らない。ただ、必要だから差し出す。
セシリアは煤だらけの指先で受け取るのをためらい、両手を少し宙へ浮かせた。するとネマーニャは、一歩近づいて、シャツの襟元をくるりと折り返す。
「触るのが嫌なら、卓へ置きます」
「いえ、触るのが嫌なわけでは」
そこまで言って、自分が何を否定したのかわからなくなった。嫌ではない。むしろ、そう思われるのがなぜか困る。
結局、セシリアは小さく頷いて、差し出されたシャツを受け取った。
手の中の布は乾いていて、少しだけ石鹸と紙の匂いがした。インクの匂いが移っているのかもしれない。あるいは、ずっと帳場とタイプライターのそばで働く人の匂いなのかもしれなかった。
「食堂の奥を使って」
ネマーニャはそれだけ言い、すぐに窓の外へ向き直った。
「プラチャン、笑っているなら手を動かしてください。煙突は笑いでは直りません」
「今の台詞で一番笑いを取ってるのはお前だぞ」
屋根の上から返ってくる。
奥の小部屋へ入ると、レクシーとアンナが湯を持って駆け込んできた。
「大丈夫?」
「目に入ってない?」
「少しだけ。もう平気です」
レクシーはセシリアの手の中のシャツを見た途端、ぴたりと止まった。アンナも一拍遅れて視線を落とし、それから、ああ、と何とも言えない声を出す。
「……借りたのね」
レクシーが言う。
「必要だったので」
セシリアは正直に答えた。
「でしょうねえ」
アンナの口元がゆるむ。
「必要だったので、ねえ」
「どうしてその繰り返し方をするんですか」
「いいえ、別に」
レクシーはもう笑いをこらえていない。
「ただ、初雪の朝に、煤まみれになった食堂主へ、先生が自分の作業シャツを貸したのかと思うと」
「思うと?」
「谷の人が好きそうな話だなって」
その予言は、たぶん当たる。
セシリアは頭を抱えたくなった。
けれど時間は待たない。髪の煤を落とし、頬を拭き、汚れた上着を脱ぐ。灰青色のシャツへ腕を通した瞬間、布がひどく大きくて、思わず息をのんだ。肩が余る。袖は指先をすっぽり隠す。胸元は紐で軽く留められるつくりだが、それでも自分の服とは感触がまるで違う。
「……大きい」
「当たり前よ」
アンナが袖を二度折ってくれる。
「でも作業するなら、このくらい余裕があるほうが楽かも」
「裾は前掛けで押さえましょう」
レクシーが手早く紐を回す。
「はい、できた」
鏡代わりの磨き板へ映った自分を見て、セシリアは頬が熱くなるのを感じた。
変ではない。少なくとも、煤まみれの前の服装よりはよほどましだ。前掛けをつければ仕事着として通る。なのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。
「似合うわ」
レクシーがすぐ言った。
「ええ。腹立たしいくらい」
アンナも頷く。
「腹立たしいんですか」
「こういうのは、着せたほうが倒れるべきなのに、着た本人のほうが先に困ってる顔をするからよ」
その言葉の意味を考える前に、表からユノの声がした。
「セシリアー? おみずあったー?」
「あります、今行きます!」
扉を開けて出た途端、空気が変わったのがわかった。
台拭きを持っていたレクシーの手がまた止まり、窓際で工具を並べていたミルコフが一瞬だけ視線を上げ、そして屋根の上から身を乗り出したプラチャンが、盛大に口をあんぐり開けた。
「おい」
彼が言う。
「先生」
なぜそこでネマーニャへ話を振るのか。
セシリアが思うより早く、当のネマーニャが振り向いた。そして彼もまた、ぴたりと止まる。
止まる、というのは本当に止まるのだと、その時わかった。いつもなら指先か視線のどこかが先へ進む人なのに、まるごと一拍、時間が抜けたみたいに動かない。
「……袖、もう一折りしたほうがよさそうです」
やっと出てきた言葉がそれだった。
「そこ?」
プラチャンが屋根の上で崩れ落ちそうになる。
「作業性の話です」
ネマーニャは真顔で返したが、耳の先だけが少し赤かった。
その一事だけで、白梢の谷には十分だった。
噂は、薪の火より早く広がる日がある。
この日がまさにそれだった。
煙突の補修が終わる前に、まずユノがトトへ「先生のふく、セシリアがきてる」と報告した。トトはそれを水汲み場の子へ伝え、子どもは子どもの足で坂道を駆け、薪売りの若者が「へえ」と笑い、診療所へ包帯を取りに来た男が「まじか」と目を丸くし、昼前には谷の半分が、事情を一文字も正確に知らないまま、なぜか妙な納得顔をしていた。
しかも、今日は正式に食堂の看板を掲げる日でもあった。
前の板は、壊れた倉庫から拾った仮のものだった。昨夜、プラチャンが削り出した新しい板へ、アンナが縁の布飾りを縫いつけ、ネマーニャが下書きの文字配列を整え、セシリアが最後の色を選んだ。板の中央には、はっきりとこう入る予定だ。
白梢の谷の食堂。
まだ彼女の正式登録名はない。けれど、場所の名はもう揺らがない。
その看板を掲げる日に、食堂主が先生の作業シャツ姿でうろうろしているのだから、谷の人間が勝手に話を盛るのも、ある意味では自然だった。
「おめでとうございます!」
最初に堂々と言い放ったのは、薪売り見習いの若者だった。昼前、薪束を抱えて入ってくるなり、満面の笑みでそう言ったので、セシリアは持っていたお玉を落としかけた。
「何がですか」
「いや、何がって、その」
若者はちらりとネマーニャを見て、気まずそうに咳払いした。
「看板の日に、そういう……」
「どういう?」
ミルコフが低く問う。
若者は一気にしどろもどろになった。
「ち、違ったらすみません! でも谷で『ついに夫婦が出た』って」
レクシーが盛大に吹き出し、アンナは背を向けて肩を震わせた。プラチャンはわざとらしく天井を見上げる。
「違います!」
セシリアの声が店じゅうへ響いた。
その瞬間、なぜか一番びくっとしたのはネマーニャだった。
紙束を揃えていた手が止まり、薄い紙の角が少しずれる。
「違います、よね?」
若者が今度はネマーニャへ助けを求める。
「違います」
彼は答えた。
答えたのだが、間があった。
しかも、その後に「このシャツは作業上の必要から貸与されたものであり」と妙に書類じみた説明まで足したせいで、若者はますますにやにやした。
「わ、わかりました! 必要から!」
まるで何もわかっていない返事を残し、若者は薪を置いて逃げるように出て行った。
「貸与」
レクシーが言う。
「今の場面で、その言葉を選ぶ人、初めて見た」
「正確です」
ネマーニャは紙の角を揃え直す。
「正確すぎると、人は逆に想像するんですよ」
アンナが針を持ったまま振り向いた。
「それは相手の問題です」
「先生、今のは負けだぞ」
屋根から降りてきたプラチャンが言う。
「勝ち負けではありません」
「そうやって勝てないのが負けなんだ」
何の話だろう。セシリアはまだ熱い頬を両手で押さえたくなるのをこらえ、鍋の前へ戻った。煮込みの味を見る。塩は足りている。今日は初雪祝いも兼ねて、少しだけ根菜を多く入れた。寒い朝ほど、腹へ落ちた後にゆっくり広がる味がいい。
だが、問題は味ではなく、自分の袖だった。
前掛けで押さえても、やはり大きい。鍋を混ぜるたび、袖口が手首へずり落ちる。
「じっとしてください」
背後から言われて振り返ると、ネマーニャが細い革紐を持って立っていた。
「何ですか、それ」
「袖留めです。帳場の予備」
「帳場に袖留めの予備が?」
「私はよく紙で袖を汚すので」
そう言われると、なるほどとしか言えない。彼はセシリアの返事を待ってから、片袖ずつ、落ちてくる布を肘の少し下でまとめた。必要以上に触れないよう気をつけているのがわかる。だからこそ、指先が布越しに近づくたび、妙に意識してしまう。
「きつくないですか」
「だ、大丈夫です」
「ならよかった」
たったそれだけのやりとりなのに、鍋の湯気とは別の熱が上がる。離れたところで見ていたレクシーとアンナは、もう口を挟まない代わりに、完全に面白がっている顔をしていた。
昼の客足は、噂に釣られたぶんまで加わって、いつもより少し多かった。
猟師、薪売り、荷馬車の御者、診療所帰りの女、そしてなぜか水汲みだけのはずだった子どもまで、やたらと食堂の中を覗いていく。
「ほんとに着てる」
「先生のだ」
「大きい」
「夫婦だ」
「違います」
最後の否定だけ、セシリアがきっぱり言い返した。
するとユノが首を傾げる。
「でも、服かすのって、なかよしだよね?」
大人の誰も、すぐには答えられなかった。
ネマーニャだけが帳場で紙をめくる手を止め、少し考えるように視線を下げる。それから、子どもへ向ける時だけ柔らかくなる声で言った。
「困っている時に貸すのは、仲の良さというより、当たり前にしたいことです」
「じゃあ、なかよしじゃん」
トトが結論づけた。
レクシーが堪えきれず卓へ突っ伏した。アンナは「そういうところよ」と誰へともなく呟く。プラチャンは笑いを噛み殺しすぎて変な顔になっていた。ミルコフだけが、何かおかしいのかまだ半分わかっていない顔でスープを飲む。
午後になると、いよいよ看板を掲げる時刻が来た。
雪は朝より細かくなり、風も少し落ち着いている。食堂の正面柱へ梯子を掛け、板を持ち上げれば、今日のうちに固定できそうだった。
「食堂主、上で支えられますか」
プラチャンが訊く。
「はい」
セシリアは頷きかけて、ふと自分の格好を思い出した。
灰青色の大きなシャツ、袖留め、前掛け。どう見ても、看板掲げの現場で一緒に働く家族みたいな装いである。
いや、だから何だ。今日は働く日だ。
そう自分へ言い聞かせ、彼女は梯子へ手を掛けた。
上から看板を受け取る役はネマーニャになった。彼は板の裏に打ち込まれた固定用の金具を確かめ、位置を測り、柱へ印をつけていく。下から見ると、雪の明るさのせいか、睫毛の影までいつもよりくっきり見えた。
「左、もう少し上です」
「これで?」
「はい。そのまま」
セシリアは板の端を支えた。雪の冷たさで指先はかじかむのに、板の向こう側でネマーニャの手と近づくたび、そこだけ変に熱い。
「食堂主」
「はい」
「袖が金具に触れます」
「あっ」
慌てて動かすより早く、彼が片手で板を支えたまま、もう片方の手で袖口を内側へ折り込んだ。その動作は短く、迷いがない。けれど近い。息が白く混ざる距離で、セシリアはうっかり彼の目を真正面から見てしまった。
ネマーニャはほんの一瞬だけ、何か言いかけた顔をして、結局いつもの言葉に戻る。
「これで大丈夫です」
「……ありがとうございます」
下から、わざとらしい咳払いが聞こえた。
見ると、レクシーとアンナが、だいぶ楽しそうにこちらを見上げている。
「集中して」
アンナが言う。
「してます!」
セシリアは即答したが、声が少し裏返った。
最後の釘を打つ音が、初雪の空気へ乾いて響く。
こん、こん、こん。
そのたび板が少しずつ、食堂の顔になっていく。
白梢の谷の食堂。
黒ではなく、深い藍色の字だった。雪の白に負けず、夜の灯りにも沈まない色を選んだのはセシリアだ。縁の布飾りはアンナが風に耐えるよう二重に縫い、文字の間隔はネマーニャが何度も紙で確かめ、板そのものはプラチャンが木目を読みながら削り出した。ひとりで作ったものではない。
板が所定の位置へ収まった瞬間、下で見ていたユノとトトが同時に跳ねた。
「ついた!」
「ほんもののやつ!」
ミルコフが柱の根元を押して強度を確かめ、満足そうに短く頷く。
プラチャンは腕を組んで言った。
「いいな。これなら、雪の日でも腹減ったやつが迷わねえ」
「ええ」
レクシーが看板を見上げる。
「帰ってくる場所って感じ」
アンナは風に揺れる布飾りを見て、ほっと息をついた。
「やっと顔ができたわね」
梯子を降りたセシリアは、一歩下がって看板を見た。
壊れた板へ無理に書いた仮の文字とは違う。ここに、これから先も火を入れるのだと宣言する形をしている。正式登録名がまだでも、店の名はもう人を迎えられる。
「どうですか」
隣でネマーニャが訊いた。
セシリアは答える前に、もう一度看板を見た。雪を受ける板、深い藍色の文字、柱の根元に溜まる足跡。朝からずっと走り回っていたせいで、肩は少し重い。借りたシャツはやっぱり大きい。けれど、その大きさが今日は不思議と頼もしかった。
「うれしいです」
彼女は素直に言った。
「すごく」
ネマーニャは少しだけ目を細めた。笑ったというほどはっきりした変化ではない。それでも、紙の上以外で彼の表情が緩む瞬間を、セシリアは見逃したくなかった。
「なら、よかった」
その一言のあと、ユノが足元へ飛びついてくる。
「セシリア、かんばんのひ、おいわいする?」
「するわ」
セシリアはすぐ頷いた。
「今日は夕方に、初雪の祝いも兼ねて、りんごと干し葡萄の甘煮を出します」
「やったー!」
歓声が上がる。
それだけで、午前中の騒ぎも、頬の熱さも、少し笑えるものへ変わっていく。
食堂の中へ戻る前、風がふっと吹いた。灰青色の大きな袖が揺れ、看板の布飾りがひらめく。セシリアが袖を押さえるより早く、ネマーニャがさりげなく背中側の余った布を整えた。
「まだ仕事中ですから」
彼は小声で言う。
「はい」
セシリアも小さく返す。
仕事中。
ただそれだけの確認のはずなのに、なぜか胸の奥へ大切にしまっておきたくなる。
夕方、甘煮の匂いが食堂じゅうへ広がった頃、昼の噂はだいぶ丸くなっていた。夫婦だと騒いでいた連中も、看板の前で椀を手にすると、結局は味の話と雪道の話へ戻っていく。白梢の谷の人々は、面白がるが、面白がるだけでは終わらない。ちゃんと腹を満たし、明日の薪と薬草と見回りの話もする。
それが、セシリアは好きだった。
夜の仕込みが一段落してから、彼女はようやく借りたシャツを脱ぎ、煤を落とした自分の服へ戻った。灰青色の布を畳みながら、ふと指が止まる。石鹸と紙の匂いはまだ残っていた。
返しに行くと、帳場でネマーニャが今日の売上と材料表を打ち込んでいた。魔導タイプライターの鍵が静かに跳ねる音は、もうこの食堂の夜の音になりつつある。
「ありがとうございました」
セシリアは畳んだシャツを差し出した。
「助かりました」
ネマーニャは受け取り、布の折り目を一度だけ見た。
「こちらこそ。看板を無事に上げられたので」
「シャツのおかげですね」
「半分くらいは」
「半分も」
そこで二人とも、少しだけ笑った。
大きな笑いではない。昼の客たちみたいな賑やかなものでもない。ただ、今日一日の慌ただしさをほどくような、短い笑いだ。
ネマーニャは畳まれたシャツを脇へ置き、かわりに一枚の紙を差し出した。
そこには整った字で、今日の日付とともに、簡潔な記録が打たれている。
白梢の谷の食堂 看板掲揚完了。
煙突補修済。
初雪営業、問題なし。
その下の余白へ、手書きで小さく追記があった。
食堂主の作業服貸与、返却済。
セシリアは思わず吹き出した。
「そこまで記録するんですか」
「本日、谷で最も話題になった事柄の一つです」
ネマーニャは真顔で言う。
「一つで済みましたか?」
「おそらく上位三位には入ります」
その返答がおかしくて、セシリアは肩を揺らした。昼間ずっと困らされていたはずなのに、今となっては、それも看板を上げた日の景色の一部みたいに思える。
外では、初雪の上を誰かが帰っていく足音がした。看板の下を通り、食堂の灯りを振り返り、また歩いていく足音だ。
まだ新しい正式登録名はない。
けれど、白梢の谷の食堂という場所は、今日、たしかに形になった。
そしてその看板を見上げた時、セシリアは、自分がもう「置いていかれる側」ではなく、「灯りを点けて待つ側」へ立っているのだと知った。
誰かの服を借りるほど近い朝があってもいい。
そのことで皆が勝手に騒いでも、最後に残るのが、きちんと火の入った鍋と、迷わず帰ってこられる看板なら、それでいい。
夜更け、戸締まりの前にもう一度外へ出ると、看板の上へ新しい雪が薄く積もり始めていた。
白梢の谷の食堂。
その字の下で、昼間に踏み固められた足跡が、いくつも入口へ向かって伸びている。
セシリアは肩へ外套を寄せ、静かに息を吐いた。
初雪の朝に借りた大きなシャツは、もう手元にない。
それなのに、胸のどこかにだけ、まだ少しあの布の温度が残っている気がした。
看板ができた。
店の顔ができた。
そしてたぶん、自分の毎日にも、昨日までより少しだけ、帰り道らしい線が引かれたのだ。
その線を、明日もまた、鍋の湯気と紙の文字で太くしていけたらいい。
セシリアは戸口の鍵へ手をかけ、灯りの残る食堂の中へ戻った。
白梢の谷の初雪は静かだったが、新しい看板の下では、もう誰も寒そうな顔だけで立ち尽くしてはいなかった。




