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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第7話 新しい名の練習

 魔物騒ぎの翌々朝、白梢の谷の空は、磨いた錫みたいに薄く光っていた。


 食堂の屋根から落ちた雪が、軒先で低い壁になっている。プラチャンが朝いちばんでその壁を崩し、ミルコフが凍った足跡を確かめ、レクシーは戸口に吊した薬草束を入れ替えていた。昨日までなら、それぞれ別の場所で別の用事をしていたはずの人たちが、まるで最初から同じ仕事場の者だったみたいに動いている。


 セシリアは大鍋を火へかけながら、その流れを目で追った。

 食堂があると助かる。

 昨日、皆が言ったその言葉は、ひと晩たっても薄れなかった。むしろ朝になってからのほうが、じわじわ重みを増している。


 助かる、で終わらせてはいけないのだと思う。

 助かった場所は、守らなければならない。


 「守る話をするなら、ちょうど今です」


 いつの間にか、ネマーニャが帳場の卓へ分厚い紙束を積んでいた。湯気の向こうに見える横顔は、徹夜明けのわりに妙に静かだ。インクのついた指で紙の端を揃え、その隣へ魔導タイプライターを置く。


 「朝粥の前に?」

 セシリアが訊くと、


 「朝粥の前です。食べてからだと、全員が『あとで読む』と言います」


 それは確かにそうだった。

 プラチャンなど、腹が膨れた瞬間に椅子へ根を生やす顔をしている。


 「俺を見ながら言うな」

 「見てません」

 「今ちょっと見たな?」

 「記録は正確です」


 もう始まっているやりとりに、レクシーが小さく笑った。アンナは診療所兼仕立て場から湯気の立つ薬缶を持ってきて、勝手に湯を配り始める。こういう時の白梢の谷は、誰かひとりが口火を切ると、あとの者が自然に席を埋めていく。


 ネマーニャは紙束のいちばん上を、セシリアの前へ滑らせた。


 「監督官ハルヴェルトの避難放棄記録、避難誘導の配給表、石倉使用実績。ここまでは昨日の続きです」

 「はい」


 「その下が、食堂関連」

 「食堂関連?」


 めくると、壊れた板壁の補修見積り、薪の追加搬入表、春先までの豆と大麦の必要量、そして――営業確認票。


 紙の中央に大きく記された欄へ、セシリアは目を留めた。

 営業主体名。

 その右に、登録状態確認欄。

 さらに下へ、小さな字で但し書きが並んでいる。


 「……私、昨日まで、これが要るほどの店になるなんて考えていませんでした」

 「昨日まで要らなかったからといって、今日も要らないとは限りません」

 ネマーニャは淡々と言う。

 「谷の皆が『食堂があると助かる』と共有した以上、これは個人の台所ではなく、継続的な営業を前提に見られます」


 継続的な営業。

 たったそれだけの言葉なのに、胸の内側へ小さな錘みたいに沈んだ。


 セシリアは紙を持ち上げた。

 「暫定個人登録では、駄目ですか」


 「短期なら動けます」

 ネマーニャは答える。

 「日銭の受け取り、七日以内の雇用、単発の仕入れ、移動、宿泊。そういう『今日を越えるための権利』はあります」


 「今日を越えるための権利」

 レクシーが復唱する。

 「そんな言い方、初めて聞いたわ」


 「記録院ではそう教えます」

 ネマーニャは湯気の向こうで目を上げた。

 「逆に、暫定個人登録では持てないものも多い。土地権、婚姻、長期契約、相続、長期営業権。『明日もここにいていい』を法的に支える部分です」


 アンナが薬缶を置く手を止めた。

 「この店を守るなら、そこが要るのね」


 「はい」


 あまりにもまっすぐな返答に、食堂の火の音だけが一瞬大きく聞こえた。


 セシリアは紙を見下ろしたまま、唇を結ぶ。

 家名からの離脱を告げた夜のことを、急に身体が思い出した。あの時は、置いていくことだけで精一杯だった。何を得るかではなく、何を手放すかに全部の力を使っていたのだ。


 アスティリアの名から離れた。

 その代わり、アスティリアの名が当然のように守っていたものからも離れた。


 相続も。

 土地も。

 屋敷も。

 そして、誰かに席を確保されることも。


 「急がせたいわけではありません」

 ネマーニャの声が、考えを切る。

 「でも、説明は今日しておくべきでした。鍋が大きくなる前に、紙の大きさを知っておいたほうがいい」


 「紙の大きさ」

 プラチャンが腕を組む。

 「難しい言い方だが、要するに、店がでかくなる前に看板の持ち主を決めとけってことか」


 「ほぼ同義です」


 「だったら最初からそう言え」


 「最初からそう言いました」


 ミルコフが壁際で鼻を鳴らした。

 「どっちでも通じている。続きを言え」


 促され、ネマーニャは頷いた。

 「正式登録名を得るには、本人が受け入れられる名であることが前提です。打鍵術では、そこをごまかせません。嫌な名、押しつけられた名、呪いのようにしか響かない名は弾かれる」


 その説明は、どこかやさしかった。

 規則の読み上げのはずなのに、弾かれる、という言葉が妙にあたたかく聞こえる。無理に飲み込まなくていいものまで、飲まされるわけではないと示されているみたいだった。


 「じゃあ」

 レクシーが身を乗り出す。

 「セシリアが、いいと思える名を探せばいいのね」


 「はい」


 「すぐ決まるものかしら」

 アンナはセシリアを見る。

 「服の丈なら、その場で詰められるけれど」


 皆の視線が重なって、セシリアは少しだけ笑った。

 「服より難しそうです」


 「だろうな」

 プラチャンが頷く。

 「服は失敗しても縫い直せるが、名前は呼ばれるからな」


 その一言に、胸の奥が微かに痛んだ。


 呼ばれる。

 たしかにそうだ。

 自分の口の中だけで終わるものではなく、誰かの声帯を借りて、何度も自分へ返ってくる。そのたびに少しずつ馴染むか、逆に擦り切れるかする。


 セシリアは、これまで自分がどんなふうに呼ばれてきたかを思い返した。


 お嬢様。

 公爵令嬢。

 候補者様。

 アスティリアのお嬢様。

 あの方。

 殿下の席に最も近い方。


 名前そのものより、立場の札ばかりが先に来る。

 誰も間違ってはいなかったのだろう。けれど、その呼び方のどこに、自分自身がいたのかはわからない。


 「……練習、してみます」

 セシリアは言った。


 ネマーニャは、紙束の下から薄い用紙を何枚も出した。上質ではないが、ペン先の滑りはよさそうな紙だ。

 「候補をいくつ書いても構いません。読み上げてみて、嫌なら破棄してください」


 「ずいぶん簡単に破棄って言うのね」

 レクシーが目を丸くする。


 「破いた紙は薪の着火に使えます」


 「風情がない」

 アンナが呆れたように言う。


 「風情は後で足せます」


 この人は、本当にこういうところがある。

 セシリアはこみ上げる笑いを押さえながら紙を受け取った。


 朝粥の前に始まったはずの相談は、結局、朝粥を食べながら続いた。

 豆を煮た粥に刻み野菜を散らし、昨日の残りの塩漬け肉を細かくして入れる。怪我人でも食べやすいよう柔らかく炊いたものだ。湯気の上へ皆の言葉が行き交う。


 「谷の名を入れるのはどう?」

 レクシーが真っ先に言った。

 「白梢、って、ここで生きるって感じがするもの」


 「わかるけど、そのままだとちょっと広すぎない?」

 アンナが匙をくるりと回す。

 「谷の皆の名みたいになってしまう」


 「でも悪くない」

 プラチャンが口をはさむ。

 「住む場所と看板の向きが合う」


 「名は看板ではありません」

 ネマーニャが即座に返す。


 「比喩も通じないのか、お前は」


 「比喩はだいたい後で揉めます」


 ミルコフが無言で粥を飲み下し、ぼそりと言った。

 「呼びやすいほうがいい。夜道で叫ぶ時に長い名は困る」


 皆が一度、ミルコフを見る。

 本人はまるで特別なことを言ったつもりがない顔だ。


 「それは大事かもしれないわね」

 レクシーが頷いた。

 「呼びやすくて、呼ばれて苦しくないこと」


 苦しくない。

 その条件に、セシリアの指先が少し震えた。


 王都では、家名を聞くだけで背筋が伸びた。

 褒められても、期待の重さが先に乗った。

 叱責されれば、本人より先に家名が汚れると言われた。

 名前は自分のもののはずなのに、ずっと、自分の外側にある器みたいだった。


 粥を食べ終えたあと、食堂の隅の小卓が、急ごしらえの命名机になった。

 レクシーが窓辺へ椅子を動かし、アンナが針山をどけて紙の重し代わりにし、ネマーニャがペン先を整える。ユノとトトまで、何か大切な遊びが始まるのだと思ったのか、卓の周りをうろうろした。


 「名前を考えるの?」

 ユノが訊く。


 「そうよ」

 レクシーがしゃがみこんで目線を合わせる。

 「セシリアに、新しく着る外套みたいなものを探すの」


 「外套なら、あったかいほうがいい」

 トトが真顔で言った。


 「ほんとにそう」

 アンナが笑う。

 「ひやっとする名は着にくいもの」


 セシリアは一枚目の紙へ、まず、自分のもとの名を書いた。


 セシリア・アスティリア。


 見慣れていたはずの綴りなのに、もう少しも手に馴染まない。豪奢な縁取りのある席札や、金糸の刺繍と一緒にあった時には、文字そのものより、そこへ添えられた役目のほうが大きかったのだとわかる。


 彼女はその紙を伏せた。


 次に、姓の欄を空けて、セシリア、とだけ書く。

 今の暫定個人登録に近いかたちだ。けれど、これだけでは、風に晒された灯りのように頼りない。自分ひとりでは生きていけないわけではない。そうではなく、守りたいものが増えた今、ひとり分の書類では足りないのだ。


 「どう?」

 レクシーが覗き込む。


 「軽いです」

 セシリアは正直に言った。

 「悪くはないけれど、手を離したらどこかへ飛んでいきそう」


 「じゃあ、少し重さを足すのね」

 アンナが顎へ指を当てた。


 その後の一時間で、紙の上にはいくつもの候補が生まれては消えた。


 谷の雪を連想するもの。

 台所の火を思わせるもの。

 母が好きだった白い花の名に近い音。

 北風に折れない木の名。

 古い地図の脇にあった小川の名。


 ひとつ書くたび、レクシーが声に出して読んでみる。

 アンナが布を体へ当てるみたいに「似合う」「まだ裾が長い」と評する。

 プラチャンは帳簿上で書きやすい字面かどうかにうるさく、ミルコフは呼びやすいかどうかだけを見る。ネマーニャはどれにもすぐ良し悪しを言わず、セシリアの表情ばかり見ていた。


 それが、少し照れくさい。


 「これはどう?」

 レクシーがある候補を読み上げる。


 響きはやわらかく、悪くない。けれど、その音を耳にした瞬間、セシリアの肩が固まった。


 「駄目です」

 「理由を言える?」

 ネマーニャが尋ねる。


 「王都の茶会で、同じ音の香油が流行っていました」

 「では駄目です」

 彼は即答した。


 「早いわね」

 アンナが笑う。


 「理由が明確です」


 また別の候補は、白梢の谷にはよく似合うのに、セシリアには大きすぎた。谷全体を背負うようで、まだそこまで胸を張れない。


 さらに別の候補は、料理人らしくていいと皆が言ったが、今度は本人が首を振る。

 「私は、料理だけで生きたいわけではないんです」


 言ってから、自分で驚いた。

 食堂を守りたい。鍋を囲む人たちの顔を見るのも好きだ。けれど、名の中へ仕事ひとつだけを閉じ込めるのは違うらしい。


 「料理だけじゃない?」

 レクシーがやわらかく促す。


 「……はい」

 セシリアは紙の上へ視線を落とした。

 「私はたぶん、誰かが座れる場所を残したいんです。食堂でも、寝床でも、紙の上でも」


 言葉にした途端、胸の奥に、ずっと曇っていた窓が少しだけ拭われた気がした。


 家で求められたのは、誰かの席を奪わないことだった。

 王都で教えられたのは、競り落とすみたいに席を得ることだった。

 けれど自分が本当にしたかったのは、そのどちらでもない。

 後から来た人にも、冷えた人にも、座れる場所を増やすこと。


 だから、自分は皿を温め、椅子を足し、最後の一切れを子どもへ回してきたのだ。


 「それ、すごくセシリアだわ」

 レクシーが言った。


 「ええ」

 アンナも頷く。

 「縫い物で言えば、破れ目だけ塞ぐんじゃなくて、その先でまた動けるようにしてる感じ」


 プラチャンが腕を組んだまま、感心したように唸る。

 「席を増やす名、か。そりゃ難しいな」


 「でも探す価値はあります」

 ネマーニャが静かに言う。


 その声に、セシリアは顔を上げた。

 彼の目は、相変わらず騒がしくない。急かしもしないし、慰めの飾りもつけない。ただ、探す価値がある、とだけ告げる。その言い方が、不思議なくらいありがたかった。


 昼が近づく頃、食堂の前へ、近隣の猟師と薪売りがやってきた。

 魔物の夜を越えた祝いも兼ねて、数日分の食事をここへ頼みたいという話だった。ありがたい申し出だ。けれど、話が進むにつれ、すぐ現実が追いつく。


 「じゃあ、月末までの分をまとめて――」

 薪売りの男が言いかけたところで、ネマーニャがそっと口を挟んだ。


 「現状では、長期契約はできません」


 男がきょとんとする。

 「どうしてだ?」


 「店主が暫定個人登録のためです」


 説明を受けた男は、責めるでもなく困った顔になった。

 「いや、責めてるわけじゃねえんだ。むしろここに頼みたい。でも、こっちも記録をつけなきゃならねえからなあ」


 「一日ごとの注文に分割すれば受けられます」

 ネマーニャが即座に代案を出す。

 「ただし双方の手間は増える」


 「うわあ、面倒くせえ」

 プラチャンが顔をしかめる。

 「合法的に面倒くせえ」


 その一言で場が少し和んだが、問題が消えたわけではない。

 セシリアは客たちへ頭を下げた。

 「ご不便をおかけします。けれど、その間も、食事はきちんとお出しします」


 「それはわかってるよ」

 猟師の女が言う。

 「だからこそ、早くちゃんと決まるといいな」


 責められていないぶん、その言葉はまっすぐ刺さった。


 客が帰った後、セシリアは命名机へ戻り、紙を見下ろした。

 候補はいくつもある。

 けれど、どれもまだ決め手にならない。

 良い音も、似合う字面も、呼びやすさもある。それでも、最後の一歩で手が止まる。


 「決められない理由、少しわかったかもしれません」

 彼女はぽつりと言った。


 皆の視線が集まる。


 「私は、ずっと名前を『求められる形になるための札』だと思っていたんです」

 セシリアはゆっくり言葉を選ぶ。

 「父の娘として。家の利益になる令嬢として。殿下の隣に置いて差し支えないように。名前は、そのための立派な箱でした。でも……」

 指先が、紙の端を撫でる。

 「箱を捨てた後に何を入れたいかを、考えたことがなかった」


 レクシーが息をのむのが聞こえた。

 アンナは何も言わず、ただ卓の上の紙が風でめくれないよう、重しを置き直す。

 プラチャンはいつもの茶化しを挟まず、黙って壁を見ていた。ミルコフの尻尾が一度だけ、ゆっくり揺れる。


 その沈黙の中で、ネマーニャだけが、ごく普通の声で言った。


 「なら、今から入れればいい」


 ひどく簡単なことのように聞こえた。

 でも、その簡単さに救われる。


 「空のままでも、紙は紙です。空欄でも、欄はなくなりません」

 彼は続ける。

 「今はまだ、全部を書き切れなくていい。仕事をして、鍋を回して、人を迎えて、そのたびに残るものを見ればいい」


 「……それで、遅くありませんか」


 「遅い名はあります。間に合わない名もある」

 ネマーニャは認めた。

 「でも、違う名で無理に通るほうが、あとでずっと遅れます」


 その言葉は、火の前に置いた手の甲へじわりと染みる温度に似ていた。


 レクシーが、ほっとしたように笑う。

 「じゃあ今日は、練習の日ね」


 「ええ」

 アンナも乗る。

 「いきなり裁断しないで、布を肩へ当ててみる日」


 「帳簿で言えば仮書きだな」

 プラチャンが言う。


 「夜道で言えば試しに呼んでみる日だ」

 ミルコフが加える。


 それぞれ例えはばらばらなのに、言いたいことは同じらしかった。


 午後、セシリアは厨房仕事の合間にも、空いた紙へいくつかの候補を書いた。

 煮込みの火加減を見る前にひとつ。

 パン生地を休ませている間にひとつ。

 洗い物を終えた後にひとつ。


 書いて、見て、読んでみる。

 首の奥がすこし詰まるものは横線で消す。

 嫌ではないが他人行儀なものは、端へ寄せる。

 読んだとき、心のどこかがちゃんと振り向くものだけを残す。


 夕方、ユノとトトが命名机の紙を見て、内緒話をするように囁いた。


 「ねえ、まだ決まんないの?」

 「だいじなやつだから」

 「そっか」


 トトはしばらく考え、卓の端に置かれた余り紙へ、幼い字で何かを書いた。

 ユノも隣で真似る。


 ふたりが得意げに差し出したのは、

 セシリア しょくどう

 という、音だけの短い札だった。


 字は曲がっているし、法の紙としてはまるで足りない。けれど、そこには迷いがなかった。

 誰が、どこで、何をしている人か。

 子どもに見える輪郭で、十分に書かれている。


 セシリアはその紙を受け取って、思わず笑った。

 「ありがとう。でも、これはまだ、お店の呼び方ですね」


 「じゃあ、いまはそれでいいじゃん」

 ユノが言う。

 「だって、みんな、そう呼べばわかる」


 その無邪気さに、ネマーニャの指先がほんのわずか止まる。

 レクシーが、あら、という顔をして口元を押さえた。

 アンナはわざとらしく視線を逸らし、プラチャンはにやにやしている。ミルコフだけが、どうしてこの空気になっているのかわからない顔だ。


 「どうしたんですか、皆」

 セシリアが首を傾げると、


 「いえ」

 ネマーニャがひとつ咳払いした。

 「子どもの説明は、時々いちばん正確だと思っただけです」


 そして彼は、営業確認票の余白へ、整った字で一行を書いた。


 営業責任者記載欄――白梢の谷の食堂主 セシリア(暫定)


 セシリアは目を見開く。

 「これは」


 「正式登録名ではありません」

 ネマーニャは先に釘を刺した。

 「法の最終形ではない。ただ、今この店を誰が回しているかは示せます。暫定の間に、看板と帳簿で迷わせないための表記です」


 プラチャンが感心したように紙を覗き込む。

 「いいじゃねえか。実務に強い」


 「看板の持ち主というより、鍋の番人って感じで好きだわ」

 レクシーが言う。


 「番人は固いでしょう」

 アンナが首を振る。

 「でも、食堂主はいいわ。背負い込みすぎず、逃げてもいない」


 食堂主。

 その音を、セシリアは口の中でそっと転がした。

 家名ではない。

 まだ新しい正式登録名でもない。

 けれど誰かに与えられた札とも違う。自分がここで鍋を守り、席を整え、明日の分まで考えて立っている、その事実に近い。


 窓の外では、白梢の枝先に夕陽が薄く引っかかっていた。

 厨房の匂い、紙の乾く匂い、薪の匂い。全部が混ざる食堂の空気を吸い込んで、セシリアは頷く。


 「名が決まる前でも」

 彼女は静かに言った。

 「私は、白梢の谷の食堂主として働きます」


 言葉にした瞬間、胸の中で何かがちゃんと座った。


 レクシーが最初に拍手した。ぱちん、と小さく、でも弾む音。

 「いいじゃない。とてもいいわ」


 アンナも笑って頷く。

 「ええ。ちゃんと今のあなたに合ってる」


 「しばらくそれで回そう」

 プラチャンが現実的に言う。

 「帳場でも通しやすい」


 「夜道でも叫びやすい」

 ミルコフが真顔で続けた。


 「叫ばれる前提なんですね」

 セシリアが言うと、


 「危ない時は呼ぶ」

 彼は当然のように答えた。


 ネマーニャは何も言わず、ただその一文をもう一度打ち直した。

 魔導タイプライターの鍵が軽やかに跳ね、紙の上へ同じ文字列が、今度はよりはっきりと刻まれていく。


 白梢の谷の食堂主 セシリア(暫定)


 まだ途中の書き方だ。

 空欄も残っている。

 それでも、途中だからこその強さがあるのだと、セシリアは初めて思えた。


 捨てた名は後ろにある。

 新しい正式登録名は、まだ前にある。

 そのあいだの道を、空白のまま怯えて立つのではなく、鍋を持って歩いていける。


 食堂の戸が開いて、夜番前の若い衆が二人、冷えた手を擦りながら入ってきた。

 「まだ空いてるかー?」

 「今日は芋の煮込みあります?」


 セシリアは振り返る。

 「あります。今、よそいますね」


 「助かった、食堂主」

 片方が何気なくそう呼んだ。


 耳に入った瞬間、セシリアは少しだけ目を丸くした。

 けれど苦しくない。

 重すぎもしない。

 ちゃんと今の自分へ届く呼び方だった。


 「はい」

 彼女は微笑んだ。

 「白梢の谷の食堂主が、お出しします」


 その答えに、食堂の中で笑いが起こる。

 大げさではない、肩の力が抜ける笑いだ。鍋の蓋がことりと鳴り、紙の端が暖気でわずかに揺れる。


 名はまだ完成していない。

 それでも今日のぶんの居場所なら、もう書ける。


 セシリアは新しい椀を並べながら、余った命名紙をきちんと重ねた。

 今はまだ練習でいい。

 そのかわり、明日の火を絶やさない。


 書きかけの名と、よく煮えた鍋。

 どちらも、途中のものには途中の温度があるのだと、白梢の谷の夕暮れは静かに教えていた。



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