第6話 最初のざまぁは鍋の底で
夜明けの少し前、白梢の谷へ短く裂けるような遠吠えが落ちてきた。
眠りの浅い者から順に目を覚まし、次の一声で、もう誰も寝台へ戻らなかった。食堂の裏手に吊った鐘が鳴る。金属の乾いた音が、雪を吸った空気の中を細く走った。
セシリアは毛布を跳ねのけ、まだ冷たい床へ足を下ろした。外套を羽織るより先に、かまどの火を確かめる。昨夜のうちに落としすぎなかった赤が、灰の下で息をしていた。
「起きてます!」
声を張った時には、もうレクシーが裏口から入ってきていた。頬が赤い。
「石倉へ向かった子ども、八人。トトが途中で転びかけたけれど、ユノが引っ張っていったわ」
「火鉢は」
「アンナが先に入れています」
「ありがとう。では、見張りの分から温めます」
鍋の蓋を取ると、昨夜の煮込みへ閉じ込めていた香りが一気にほどけた。大麦、根菜、刻んだ干し肉。そこへセシリアは、刻んだ針葉樹の若芽をほんのわずかに落とす。鼻へ抜ける青い香りは、眠気と怯えを切るのにちょうどいい。
もう一つの小鍋では、子どもと高齢者向けの薄い乳粥を温める。甘さは弱く、喉を通しやすく。食べる相手が違えば、同じ朝でも鍋の顔は変わる。
表へ出ると、昨夜の作戦書どおりに人が動いていた。
石倉へ向かう者。
診療所へ布を運ぶ者。
北の林際へ鳴子を見に行く者。
食堂前で空の壺を受け取る者。
作戦書の矢印はまだ壁に張られていて、夜のあいだに何人もの指でなぞられたらしく、紙の端だけ少し柔らかくなっていた。
ネマーニャは食堂の前に置いた卓で、すでに新しい紙を打っていた。眼鏡の奥の目が、朝の薄青い光を受けてもまったく眠たげに見えない。
「北は」
セシリアが鍋を運びながら訊く。
「早い。二群に割れた」
ネマーニャは顔を上げないまま答えた。
「林際へ回るのと、川沿いへ流れるのがいる。ミルコフが北、若い衆は西へ回した」
「食事は」
「作戦書どおり。見張り、罠番、石倉、最後に残り」
「はい」
返した瞬間、宿場跡の一番大きな建物から、きんきんした声が響いた。
「おい! 馬はどうした! まだ馬車を前へ出していないのか!」
開拓監督官ハルヴェルトだった。
王都から白梢の谷へ派遣されていた男で、秋からずっと、税と人員の帳面にだけ口を出してきた。寒さに弱いのか、冬へ入ってからはほとんど宿舎に籠もり、火鉢の数だけは誰より多く要求していたくせに、今朝に限っては誰より早く外へ出てきた。
毛皮付きの外套を二枚重ね、鼻の頭を赤くしながら、彼は食堂前へずかずか歩いてくる。
「獣が出たのだろう。ならば公的記録と監督官印を先に安全圏へ移す! 護衛を二名、いや三名つけろ。馬車へ保存食も積め」
プラチャンが持っていた縄束を、わざとらしく地面へ落とした。
「はあ?」
「はあ、ではない!」
ハルヴェルトは甲高く言った。
「監督官印が失われれば、開拓地全体の申請と報告が滞るのだぞ!」
ネマーニャの手が一拍だけ止まった。だが、言い返したのは彼ではなくミルコフだった。北から戻ってきたばかりで、肩に雪が積もっている。
「印より先に運ぶのは子どもと歩けない者だ」
「君は現場の巡回士であって、行政の順位を決める立場ではない!」
「獣は肩書で人を避けない」
その一言で、周囲の何人かが小さく頷いた。ハルヴェルトはそれが気に障ったらしく、さらに声を尖らせる。
「いいから馬を出せ! 私は王都への報告義務がある。ここで万一にも傷を負うわけには――」
「鍋、できています」
セシリアが、ちょうどそこへ言葉を差し込んだ。
全員の目が、いったん彼女へ集まる。彼女はそれを気にせず、大鍋を卓の横へ据えた。蓋を開ける。湯気が立ちのぼり、青い朝の空気に溶ける。根菜と肉の匂い、針葉樹の若芽の匂い、焼いた塩の匂い。その匂いを吸っただけで、人の肩は少しだけ戻る。
「走る方からどうぞ。匙を持って並んでください」
プラチャンがすぐ我に返った。
「聞いたな! 罠番、見張り、石運びの順だ! 監督官殿は後ろ!」
「何だと!」
「配給順は昨夜の紙に打ってある」
ネマーニャが、淡々と言った。
「ご自分で承認の印を押したはずだ」
ハルヴェルトの顔色が変わる。
昨夜、彼は『非常時の物資配給順確認書』だと聞かされ、ほとんど読まずに印を押していた。火鉢の数と寝具の枚数にはうるさいのに、こういう紙には妙に雑だ。ネマーニャが承認欄へ小さく打ち込んでいた文面を、セシリアは横で見ていた。
北側防備従事者を第一とする。
子ども、高齢者、負傷者を第二とする。
行政監督官は最終列とする。
偽りの文言は、打鍵術では浮かばない。だからネマーニャは、昨夜のうちに本人へ何度も確認していたのだ。
――子どもを先に通すのですね。
――ああ、もちろんだ。早くしろ。
――ご自身は最後列でも構いませんね。
――そんなことより暖炉を増やせ。
せかされるまま流した言葉が、今朝になってきれいな文書になって戻ってきたわけだ。
セシリアは最初の椀をミルコフへ渡した。濃い目の煮込みに、潰した香辛草をひとつまみ。鼻の通りがよくなる配合だ。
「北をお願いします」
「任せろ」
次は罠番の若者へ。次は石運びの男へ。次は診療所へ向かうアンナへ。アンナの椀だけは少し塩を控え、代わりに喉を潤す脂を足した。長く声を出す人の分量だ。
鍋の前へ人が並ぶ。けれど押し合いにはならない。昨夜の紙があり、今朝の香りがあり、誰より先に動くべき人がはっきりしているからだ。
セシリアは一人ずつ顔を見た。
眠れていない目。
手の震え。
喉の渇き。
寒さで固い肩。
それを見て、匙の深さを変える。胡椒を一振り足す相手と、乳を一匙落とす相手を分ける。
祝福の厨房は、ただ魔法を流し込む力ではない。相手が何を欲しがっているかを見誤れば、温かいだけの汁になる。
セシリアは鍋の底をゆっくりさらいながら、心の中で願った。
慌てる足が揃いますように。
呼ぶ声が届きますように。
怖い時ほど、人が一人になりませんように。
最後の一椀をよそい終えた瞬間、遠吠えが今度は近く響いた。
北の林際だ。
ミルコフが椀を空け、木匙をそのまま腰へ差した。
「来る」
鳴子が鳴った。
続いて、西の見張り台から短い笛。
さらに川沿いから、もうひとつ。
二群どころではない。三つへ割れている。
「紙の通りに動け!」
プラチャンの声が飛ぶ。
「石倉の扉を閉めすぎるな、空気穴だけ残せ! 若いの、西の縄を引け! アンナ、診療所の火は落とすな!」
人が走る。
だが、奇妙なくらいぶつからない。
食堂の鍋を回る時に似ていた。誰かが前へ出ると、横の者が半歩下がる。声をかけると、二つ隣の者まで同じ方向を見る。大げさな魔法陣が光るわけではない。けれど、連携強化の付与がのった朝の煮込みは、確かに人の動きを揃えていた。
セシリアは空になった椀を下げながら、その変化を見た。恐怖で我先に走る足が、昨夜決めた道へ収まっている。レクシーが子どもの肩へ手を置けば、三人まとめて同じ歩幅になる。プラチャンが縄を投げれば、受け取る側が息の合う位置に立つ。ミルコフの合図で、槍ではなく棒を持った若者たちが半円を描く。
北の林から飛び出してきたのは、黒灰の毛を逆立てた狼型の魔物だった。雪を蹴り上げ、牙の間から白い息を吐く。大きいのが三体、その後ろに細い影が四つ、いや五つ。
先頭の一体が真っ直ぐ走り込もうとして、地面を滑った。
昨夜の樹脂と灰だ。
足を取られた瞬間、ミルコフが脇から棒を叩き込み、若い衆が縄を引く。完全に倒し切れなくても、谷の中心へ一直線には入れない。その数拍の遅れだけで、後ろの群れがぶつかり、形が崩れる。
「いい、そのまま嫌がらせを続けろ!」
プラチャンが怒鳴る。
「正面から格好つけるな、今日は死ぬほど嫌われろ!」
不思議と、その声で何人かが笑った。
笑ったまま、動きは止まらない。
セシリアは食堂の入口で、次の壺へ煮込みを移した。戦う者のためだけではない。北へ出られない子どもたちも、石倉の中で怖がっているはずだ。
その時だった。
宿舎の前で、ハルヴェルトが御者へ怒鳴っているのが見えた。
「だから、私の馬車を先に出せと言っている! 印箱と旅鞄を積め! ついでに塩漬け肉の樽も一つだ!」
「監督官殿!」
レクシーが振り返る。
「石倉へ行く子がまだ二人――」
「知るか! 私は報告へ戻るのだ! 現地判断は君たちで――」
そこまでだった。
ネマーニャが、卓の上の紙を一枚引き抜いた。打鍵の音が、ここへ来て急に速くなる。普段の静かな連打ではない。冷たい鉄が怒りを刻むような硬い音だった。
「ハルヴェルト監督官」
呼ばれても、男は振り返るだけだった。
「何だ! 今忙しい!」
「ですから、確認です」
ネマーニャは紙を打ちながら言う。
「本日未明、白梢の谷北側に魔物襲来。監督官ハルヴェルト・セザールは、子どもおよび高齢者の避難完了前に、自身の退避を優先し、馬車、護衛、人力、保存食一樽、塩箱二つ、監督官印箱の搬出を命じた」
「おい、待て。文言が強い!」
「では違うのですか」
「それは……行政上の必要で!」
「子ども二人がまだ移動中ですが」
「私は報告義務が――」
「つまり、退避優先ですか」
「……そ、そうだとしても、正当な」
「承知しました」
最後の一打が落ちる。
紙の端が青くひかり、正書式の控えが二枚同時に吐き出された。
ネマーニャはそれを取り上げ、まだ狼狽えている男の目の前へ差し出す。
「確認署名を」
「今そんなものを読んでいる暇はない!」
「読む時間を惜しむ方のため、要点だけ大きく打ってあります」
紙の中央には、たしかに大きな文字でこうあった。
監督官、自身の退避を先に行う。
周囲の空気が、凍るより先に固まった。
ハルヴェルトは顔を青くし、赤くし、最後に紫へ近い色になった。
「き、貴様! こんな時に私を脅すつもりか!」
「違います」
ネマーニャの声は静かだった。
「残すだけです。紙は、あとで忘れたことにされるのが一番困りますから」
その背後で、また魔物が一体、石垣際へ突っ込んできた。
若い衆が鳴子を引き、ミルコフが吠えるように合図を飛ばす。セシリアは壺を抱え、北へ走る男の背へ声を投げた。
「戻ったら温かいのを渡します!」
「おう!」
返事がそろう。
その声の揃い方に、セシリアは胸が熱くなった。
彼女は石倉へ向かい、子どもたちへ乳粥を配った。ユノは膝を抱えながらも、昨夜の札を離していない。
「ここ、で、まつ」
彼は小さな声で読んだ。
「そうよ」
セシリアはしゃがみ込んで頷く。
「読めたなら大丈夫。ここで待つのが、一番えらいの」
トトが乳粥を飲んで、へにゃりと口元を緩めた。怖い時、人はまず喉が閉じる。そこへ温かいものがひと匙入るだけで、泣く力が戻ることもある。泣けるなら、まだ折れていない。
外では、三度目の笛が鳴った。
長くは続かない。これは終わりの合図だ。
セシリアが食堂前へ戻ると、雪の上に黒い毛が散っていた。完全に倒れた魔物もいれば、嫌がって林へ退いた影もある。白梢の谷の側に、大きく崩れた者はいなかった。擦り傷、噛み傷、打撲。ひどい怪我ではないが、誰の顔にも朝一番とは違う疲れがのっている。
「持ちこたえたぞ!」
プラチャンが胸を張って叫ぶ。
「見ろ! 俺たち、ちゃんと嫌われただろ!」
「誇る言葉かそれは」
アンナが呆れたように言いながらも、口元は笑っていた。
ミルコフが木柵へ寄りかかり、ようやく肩の力を抜く。
「二、三日は来ない。鼻に残る匂いを嫌った」
「なら追加の鍋だ」
セシリアはすぐに言った。
「怪我を診る前に、温かいものを入れます」
人々が食堂前へ戻り始める。その列の一番後ろで、ハルヴェルトだけが立ち尽くしていた。馬車は結局一歩も出ていない。御者が、誰の護衛もつかなかったからだ。監督官印箱だけを抱えたまま、彼は周囲の視線を避けきれずにいる。
「さて」
ネマーニャが、控えの文書を二枚、きれいに重ねた。
「この一枚は谷の記録。もう一枚は王都の開拓局へ。必要なら、第二写しを税務署にも回せる」
「ま、待て」
ハルヴェルトの声が裏返る。
「誤解だ。私は全体を見ていたのであって……」
「馬車の御者と、塩樽を担がされた若者二名が証人です」
ネマーニャは淡々と返した。
「あと、監督官ご自身の印もあります」
「そんな紙、燃やせば――」
「それも記録しますが」
笑っていないのに、そこだけ妙に痛快だった。
プラチャンが吹き出し、レクシーが慌てて口元を押さえ、アンナはとうとう背を向けて肩を震わせた。ミルコフは無言だったが、耳だけがわずかに立っている。
ハルヴェルトは何か言い返そうとして、結局言葉を失った。
食堂の鍋が、ことりと鳴る。
セシリアは新しい椀を並べた。
「配給順です」
彼女は静かに言った。
「北に出た方から、どうぞ」
誰も文句を言わなかった。必要な順に、人は前へ出る。怪我人、見張り、石倉の子ども、火を守った者。椀が渡るたび、湯気が上がる。疲れで強張った顔が、少しずつほどける。
「うま……」
若い衆の一人が、椀を抱えたまま呟いた。
「朝のより、こっちは身体の芯にくる」
「戦った後の分ですから」
セシリアは答える。
「生姜を増やしました」
「だから足の震えが引くのか」
「たぶん、鍋だけではありません」
「でも鍋がないと、たぶん今もっと情けない顔だった」
そんなやりとりの向こうで、ユノとトトが椀を両手で抱えている。昨夜は張りつめていた食堂の空気が、ようやく人のものへ戻ってきた。
そして、最後に列へ並んだのがハルヴェルトだった。
彼は視線を合わせようとせず、咳払いをひとつして言う。
「……私の分は」
セシリアは鍋を見た。
たっぷり作ったつもりでも、頑張った順に注げば、最後に残るのは決まってくる。具はもうほとんどない。鍋底に、よく煮えた豆と少しの肉片、それから薄く焦げた大麦がこびりついている。
「あります」
彼女は言った。
「鍋の底ですが」
木杓子でそっとこそげると、焦げの香りをまとった濃い一口分が集まった。焼けた大麦の香ばしさは悪くない。けれど、先ほど皆へ配った一番いいところとは明らかに違う。
セシリアはそれを小ぶりの椀へよそった。
「配給順の最後ですので」
プラチャンが、ぶ、と吹き出した。
「最初のざまぁが鍋の底って、なかなかだな」
「黙って食べて」
アンナが肘で小突く。
だが、笑いは止まらなかった。意地悪な嘲笑ではない。怖い朝を生き延びた者だけが出せる、息の抜ける笑いだった。
ハルヴェルトは顔をこわばらせたまま椀を受け取る。返そうにも返せない。自分で承認した配給順、自分で残した文書、谷の全員の目。その全部がある。
一口すすって、彼はむせた。
焦げが苦いのではない。自分が最後列である事実が、喉に引っかかったのだ。
セシリアはその様子を見ても、何も言わなかった。
見下しもしない。ただ、次の椀へ手を伸ばす。石倉から出てきた老婆へ、温め直した乳粥をよそい、診療所の前で震える若者へ塩を足し、ミルコフへ大盛りを渡し、ネマーニャには少し冷ましてから差し出した。
「道は切れませんでした」
彼女が言う。
「鍋も切れなかった」
ネマーニャが受け取る。
眼鏡の奥の目が、ようやく朝の終わりを認めたように和らいだ。
石倉から出てきた子どもたちが、食堂の壁の紙を見上げる。
よんでわからなければ、きく。
きいてわかったら、となりへつたえる。
ユノが、その一文をたどたどしく読んだ。トトが隣で途中から真似をする。
それを聞いた大人たちの顔が、また少しだけゆるんだ。
レクシーが、椀を胸の前で温めながらぽつりと言う。
「……食堂があると、助かるわね」
その声は小さかったのに、妙に遠くまで届いた。
「ほんとだ」
若い衆が頷く。
「飯屋って、腹を満たすだけかと思ってた」
「紙も集まるしな」
プラチャンが言う。
「人も集まる。怒鳴る場所も、笑う場所も、結局ここだ」
「薬も渡しやすいもの」
アンナが続ける。
「子どもが待つ場所にもなる」
レクシーが言う。
「読めたって言う場所にもなる」
ユノが、得意げに割り込んだ。
その言葉に、ネマーニャの手がほんのわずか止まる。
だが今度は、止まったあとでちゃんと笑った。大きくではない。火のそばへ置いた陶器にひびが入らない程度の、小さな笑みだった。
セシリアは椀を抱えたまま、その横顔を見た。
家名を捨てて来た朝には、自分の居場所がどこにもない気がしていた。けれど今は違う。鍋を置く場所があり、待つ人の列があり、紙の矢印があり、呼び合う声がある。誰かに与えられた席ではなく、自分たちで増やした席がここにある。
食堂の屋根から、遅い朝の雪がするりと落ちた。
白梢の谷はまだ貧しい。寒さも魔物も、きっと何度でも来る。それでも、今朝のように鍋と紙と人の手が揃うなら、追い返せる朝は増えていく。
セシリアは鍋の底へ残った最後の焦げを見て、そっと木杓子で撫でた。
怖かった朝の跡は残る。
でも、その跡ごと温め直して、次の一杯へ変えていける。
そう思えた時、食堂の前に立つ風は、もう追放された者の背を押す風ではなかった。




