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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第4話 辺境開拓団×料理バフ

 翌朝、セシリアが食堂の扉を開けた時、外はまだ青い闇の名残りを引きずっていた。


 雪は夜のあいだも止まなかったらしい。軒先には新しい白がふくらみ、踏み固められていない道は、どこからが地面でどこまでが吹き溜まりなのか見分けにくい。冷気は痛いほどだったが、昨日までとは少し違っていた。


 火を入れる前の厨房に、すでに人の気配がある。


 「おはようございます……って、早いですね」


 食堂の中央机を占領していたのは、プラチャンだった。昨夜借りた毛布はきれいに畳まれ、その横に置いた椀まで洗ってある。小柄な体を机へ乗り出し、炭で板切れに何本も線を引いていた。


 「おはよう。寝過ごしたら、雇われ初日の名折れだからな」

 「窓から入ってきた方の台詞とは思えません」

 「もう蒸し返すのか」

 「しばらく使います」

 「やめてくれ、効く」


 そう言いながらも、プラチャンの手は止まらない。板切れには、人の名らしい短い字と、木材、橋、雪、倉、といった単語が並んでいる。数の横には小さく丸や線が足され、見るからに頭の中の段取りを外へ出している途中だった。


 「何を書いているんですか」

 「今日の人手の割り振り。……と言いたいところだけど、人数も持ち場もわからんから、半分は愚痴だな」

 「愚痴が整然としすぎています」

 「数字で言うと、少し気が済む」


 そこへ、奥の部屋からネマーニャが出てきた。もう顔を洗い終え、いつもの無駄のない服装で、腕には紙束を抱えている。


 「愚痴の続きだ」

 彼はプラチャンの前へ紙をどさりと置いた。

 「白梢の谷の現時点で動ける大人。半日だけ動ける者。荷車。使える馬。橋板の損耗。昨夜までの薪の残数」

 「何であるんだよ、こんなもんが」

 「必要だからだ」

 「先生、お前、拾った男へ渡す紙の量じゃねえぞ」

 「拾ったのはセシリアだ」

 「そこで切り分けるな」


 プラチャンは口で文句を言いながら、紙へ視線を落とした瞬間に黙った。数行読むごとに目の色が変わる。疑いから驚きへ、それから仕事を前にした人間の顔へ。


 「……これ、全部この谷の分か」

 「今朝の分まで更新済みだ」

 「更新」

 「お前が増えた」

 「くそ、ちょっと嬉しいな」


 セシリアはそのやり取りを見ながら、鍋へ水を張った。今朝はいつもより多くいる。ならば朝のスープより、もっと先を見た仕込みがいる。


 扉が開き、冷えた風と一緒にレクシーが入ってきた。籠の中に薬草を山ほど抱えている。頬を赤くしながらも、彼女はまずまっすぐセシリアの目を見て言った。


 「おはようございます。今日は手伝う人の指先が何本残るか、ちょっと心配な朝ですね」

 「縁起のいい言い方ではありませんね」

 「現実的なだけです」


 籠の中には、細い灰緑の葉と、淡い紫の花穂が見えた。凍えた手足の血の巡りを助ける薬草だと、香りでわかる。


 「雪かきと材木運びが重なる日なんです」

 レクシーが言う。

 「昨日の夕方、山裾の置き場から冬用の材木を下ろすはずだったんですが、荷車が足りなくて途中で止まってしまって。今日中に動かさないと、次の雪で完全に埋もれます」

 「火の種になるものが減るということですね」

 「ええ。あと、薪置き場の屋根板も一枚割れてます」


 さらに、その言葉を追うように、今度は別の女性が入ってきた。大きな布包みを抱え、片手には湯気の立つ小さな薬缶。背筋の伸びた歩き方で、扉を閉める動作まできっちりしている。年はセシリアより少し上だろうか。目元は涼しいのに、食堂の様子を一目見た瞬間、視線の動きだけが忙しくなった。


 「鍋を増やす前に、布を敷きなさい。机が冷えすぎて木が鳴いてる」

 彼女は包みを置きながら言った。

 「それと、そこの新入りは、昨夜ちゃんと足を温めてから寝たの。そういう顔色じゃないわよ」

 「おはようから説教か」

 プラチャンが呻く。

 「説教じゃないわ。凍傷で働けなくなったら手間が増えるだけ」

 「その言い回し、やさしいのか厳しいのかわからねえ」

 「どっちもでいいでしょ」


 ネマーニャが短く紹介する。

 「アンナだ。診療所兼仕立て場を見ている」

 「見ているというより、放っておくと皆が勝手に破れて勝手に熱を出すから、追いかけ回しているだけよ」

 アンナはセシリアへ向き直った。

 「あなたが新しい食堂の人ね。袖口がもう煤だらけ。あとで替えの腕覆いを持ってくる」

 「まだ名乗っていないのに、そこまで見えますか」

 「服は口より正直だから」


 言いながら、アンナは布包みを解いた。中から出てきたのは、色も形もまちまちな手袋と、厚手の布袋、それに肘まで覆う作業用の腕覆いだった。古布を解いて作り直したのだろう。つぎはぎだらけなのに、指を曲げる場所だけ柔らかく、掌の当たるところは二重になっている。


 「材木を持つ人、雪をかく人、鍋を運ぶ人で使い分けるの。全部同じにすると、全員が少しずつ困るから」

 アンナが言う。

 「食堂も同じでしょう」

 「ええ」

 セシリアは頷いた。

 「同じ鍋でも、よそう相手で中身は少しずつ変えたくなります」

 「なら話が早いわ」


 その時、外から雪を踏みしめる重い足音が近づいてきた。扉が開くなり、冷気と獣の匂いがどっと流れ込む。


 入ってきたのは、長身の獣人だった。灰褐色の狼耳に雪を積もらせ、大きな獲物袋を肩へ担いでいる。尾の先がわずかに左右へ揺れたが、それは機嫌ではなく、雪を払うための動きらしい。彼は食堂の中を一瞥し、まずネマーニャを見て、次にセシリアを見た。


 「増えてるな」

 「昨日より一人と半分ほど」

 ネマーニャが答える。

 「半分って何だ」

 「窓から入った分」

 プラチャンが頭を抱える。

 「だからその言い方やめろって」


 獣人の男は鼻で笑った。愛想ではなく、事実が面白かった時だけ漏れる短い笑いだ。


 「ミルコフだ」

 彼は獲物袋を床へ下ろした。

 「今朝の分。兎が二羽、小鹿が一。小鹿は外で捌く。中は血の匂いが残る」

 「ありがとうございます」

 セシリアが礼を言うと、ミルコフは一度だけ頷いた。

 「礼は食える形になってからでいい」

 「現金ですね」

 「腹の話だ。きれいごとにすると凍える」


 そのまま彼は、足で雪を払いながら続けた。


 「山裾の材木置き場を見た。埋まりかけてる。今日動かさないと明日は掘る方が仕事になる」

 「人は回せる」

 プラチャンが即座に紙を手繰り寄せる。

 「荷車二台、馬一頭、引き手が四。橋板の補修班を少し削れば――」

 「削りすぎると午後の搬入で橋が抜ける」

 ミルコフが言う。

 「谷の西橋、右側三枚が死にかけだ」

 「じゃあ先に橋。終わった人間から材木へ回す」

 「遅いと日が落ちる」

 「だから今組み直してんだろ」


 言い合いのようでいて、二人の視線はもう同じ場所を見ている。紙の上の人数と、谷の地形と、雪の深さ。セシリアは鍋へ手をかけたまま、その噛み合い方を見ていた。


 昨日までばらばらだったものが、少しずつ机の上で形を持ち始めている。


 「なら、朝から大鍋ですね」

 セシリアが言った。


 五人の視線が一斉にこちらへ向く。


 「今日、材木を運ぶ方も、橋板を替える方も、雪をかく方も、寒さへ体力を削られたら手が遅くなります。大きな鍋を作って、白梢の谷で動く方へ先に回したいんです」

 「全員分?」

 レクシーが目を丸くする。

 「できるなら」

 セシリアは答えた。

 「ただし、皆さんにも手伝っていただきます。今日は食べる人に合わせた鍋にしたいので」


 プラチャンが首を傾げる。

 「鍋に、合わせる?」

 「ええ。私は料理に少しだけ付与を乗せられます。でも、何でもできるわけではありません」

 セシリアは鍋のふちを撫でながら言った。

 「食材と手間と、食べる方のこと。その三つが噛み合わないと、大きな力にはならないんです」

 「じゃあ、肉を山ほど入れたら最強になるわけじゃねえのか」

 「胃がもたれる最強ならできます」

 アンナが即答し、プラチャンが黙った。


 セシリアは笑いをこらえつつ続ける。


 「たとえば今日なら、寒さに長くさらされる方が多い。だから芯から温まって、指先が鈍りにくくなる鍋がいい。でも、雪かきの方と、見回りの方と、子どもでは必要な温まり方が違います。急いで雑に煮たものでは、せいぜいお腹が満ちるだけです」

 「腹が満ちるのも大事だけどな」

 ミルコフが言う。

 「もちろんです。だから、まずそこを外しません」

 セシリアは頷いた。

 「その上で、ほんのわずかに後押しするんです。寒さへ耐えられるように。動きを合わせやすいように」

 「少しだけ、で材木が動くなら安いもんだ」

 プラチャンが腕を組む。

 「何を聞けばいい?」

 「朝から具合の悪い方、指先の古傷がある方、香草が苦手な方、脂で気分が悪くなる方、熱いものを急ぐと咳き込む方」

 「多いな!」

 「食べることは、わりと個人差があります」

 「先生の紙が必要な理由、今わかった」


 ネマーニャはもう机に向かっていた。打鍵音が立つ。白梢の谷で動ける者の一覧、その脇へ、寒さに弱い、力仕事向き、胃が弱い、子ども、高齢者。簡潔で容赦のない分類が並んでいく。


 「そんなに露骨に分けるんですか」

 レクシーが少し笑う。

 「読めないよりいい」

 ネマーニャは答えた。

 「あとで揉めない」

 「その言い方、好きよ」

 アンナが肩をすくめる。

 「優しさを飾らない人は助かるわ」


 それから食堂は、急に忙しくなった。


 ミルコフは小鹿を外で手早く捌き、肉と骨を分けて運び込む。骨は長く煮れば深いだしになる。脂は重すぎない程度に落とし、肩肉は角切りへ。兎は細かく裂いて、子どもや年寄りの鍋へ回す。レクシーは薬草を仕分けた。血の巡りを助ける葉、喉を守る花、香りで胃を起こす根。全部を一つの鍋へ入れないところが大事だと言って、迷わず束を分けていく。


 アンナは作業用の布袋へ名前代わりの印を縫いつけながら、次々に人を外へ追い出した。


 「あなたは穴の開いた靴下を替えてから」

 「その手袋じゃ雪で濡れる、こっち」

 「鍋を運ぶ子は袖を縛る。火が移るわよ」


 注意の一つ一つが細かいのに、言われた側が反発しない。厳しく聞こえても、すぐ次に必要な物が差し出されるからだと、セシリアは見ていてわかった。


 プラチャンは紙と炭と足を全部使っていた。食堂の床板にさえ、気づけば簡単な線が引かれている。


 「材木班は朝の一杯を食ってから西橋へ回る! 橋板組は先に行って、終わり次第で山裾! 昼前に一度戻れ、鍋の二巡目を入れる!」

 「二巡もあるのか」

 外から声が飛ぶ。

 「ある! なきゃ俺が困る!」


 自分の都合を先に言うから、かえって皆が笑う。そうやって場が動く人なのだと、セシリアは思った。


 鍋は三つ立てた。


 一つ目は働き盛りの大人へ回す主鍋。小鹿の骨でだしを取り、肩肉と根菜と大麦をたっぷり入れたシチューだ。玉ねぎに似た辛みの球根をよく炒めて甘みを引き出し、レクシーの持ってきた血巡りの葉を最後に少しだけ落とす。


 二つ目は子どもと高齢者用。兎肉を細かく裂き、芋を長めに煮てとろみをつける。飲み込みやすく、腹持ちもいい。冷えた体へ優しく入る味にする。


 三つ目は見回りと橋板組へ持たせる携行鍋。濃いめに作り、布で包んだ小壺へ分けても味がぼやけないようにした。塩は少し強め、喉の通りを邪魔しない程度に香草を減らす。


 ネマーニャが打鍵の手を止め、鍋を見た。

 「三つに分けるのか」

 「一つにまとめた方が楽ですが、今日はその楽をすると誰かが損をします」

 「自分は楽をしない方へ寄せがちだな」

 「そちらはどうなんですか」

 「必要な方へ寄せる」

 「似ていますね」

 「不本意だ」

 「私はわりと光栄です」

 「勝手に光栄がるな」


 口調はいつも通りなのに、ネマーニャはすでに鍋のそばへ紙を置いていた。どの鍋が誰向けか、読めない子どもでもわかるよう、湯気の線や小さな木の絵までつけてある。


 「……かわいいですね」

 「記号だ」

 「かわいい記号です」

 「そうか」

 否定しないところがずるい、とセシリアは思った。


 煮込み始めると、食堂の中は一気に生きた匂いで満ちた。


 骨から出る深い香り。炒めた球根の甘さ。煮えた麦がとろりとほどける匂い。そこへ、薬草の青さがほんの少し重なる。王都の宴席のような華やかさはない。だが、この匂いは空腹の人間を歩かせる力がある。


 ユノとトトが、いつの間にか鍋のそばへ寄ってきていた。

 「きょう、おっきい」

 トトが鍋を見上げる。

 「ええ。皆で食べる分です」

 「じゃあ、ぼくたちいっぱい手伝う」

 ユノが胸を張る。

 「何をしてくれますか」

 「うーん……こぼれてないか見る!」

 「大事な役目です」

 「ほんと?」

 「はい。食堂では、こぼれたらもったいないので」

 「じゃあ任せて!」


 ユノは本当に真面目な顔で床を見回り始めた。トトは木の匙を磨く係を申し出る。ネマーニャが二人へ簡単な札を作り、「見回り」「匙」と打って首から下げると、兄妹はそれだけで職人みたいな顔になった。


 「先生、これ読める!」

 ユノが嬉しそうに札を掲げる。

 「昨日の分だ」

 「きのうより増えた!」

 「一文字だ」

 「一文字でも増えた!」


 ネマーニャの返事は短かったが、その手元だけ、ほんの少し動きを緩めたのをセシリアは見逃さなかった。


 やがて最初の鍋が仕上がる。


 セシリアは味を見た。塩は足りている。脂は重くない。喉を通った後に、胃の底へゆっくり温かさが落ちていく。ここで彼女は目を閉じる。鍋の前ではいつも、最後に誰の顔を思い浮かべるかが大事だった。


 雪の中で材木を引く人。

 橋の上で膝をつく人。

 薬草を摘みながら指先を赤くする人。

 破れた手袋を繕い、濡れた袖を乾かす人。

 読める字が増えたと胸を張る子ども。


 顔を思い出し、その皿へ届いてほしい力の形をひとつ決める。


 今日は、寒さへ負けにくいこと。

 焦って足を滑らせないこと。

 重いものを持つ時、隣の呼吸へ少しだけ合わせやすくなること。


 それだけでいい、とセシリアは願った。


 鍋の表面が、ふっとわずかに明るくなった。


 火の色ではない。湯気の奥で、朝日に薄氷がきらめくような、ごく淡い光。すぐに消える。けれど確かに、料理へ何かが降りた感触があった。


 「今のが?」

 レクシーが息を呑む。

 「ええ。でも、強いものではありません」

 セシリアは木杓子を持ち直した。

 「強くしすぎると、味が痩せます。あと、食べる方の体に合わないと、ただ疲れる」

 「魔法っていうより、手当てに近いのね」

 アンナが言う。

 「たぶん、そうです」

 「なら私は好きよ。その方が後でしわ寄せが少ないもの」


 食堂の外へ、最初の椀が並び始めた。


 プラチャンが順番を仕切る。

 「橋板組から! その次に材木班! 年寄りと子どもは奥の鍋! 口の中やけどしたやつは自己責任!」

 「最後いらないだろ」

 ミルコフが言いながらも、きちんと列の乱れを尾で押し戻した。


 働き手たちは最初、鍋の匂いへ引かれながらも、どこか遠慮がちだった。白梢の谷では、先に食べることへ罪悪感を持つ人が多いのだろう。セシリアは一人ずつ椀を渡しながら、できるだけ名前か役目を呼んだ。


 「西橋の方ですね、少し熱いので気をつけて」

 「見回りの帰り道へ持つなら、こちらが冷めにくいです」

 「お子さんと半分ずつなら、こちらの柔らかい方を」


 そうしているうちに、遠慮は少しずつ薄れていった。自分に向けられた一杯だとわかれば、人は受け取りやすいのだ。


 最初に目を見開いたのは、橋板組の中年男だった。普段は口数の少ない、腕の太い木工職人だとアンナが教えてくれた人で、シチューを二口、三口と飲み込んだところで、しげしげと自分の手袋を見た。


 「……指が、曲がる」

 「最初から曲がるでしょう」

 アンナが呆れる。

 「そうじゃねえ。朝はここまで滑らかじゃなかった」

 彼は指を握ったり開いたりする。

 「痛みが消えたわけじゃねえのに、固まらねえ」


 今度は材木班の若者が、目を丸くして笑った。

 「何これ、腹の中に火鉢入ったみてえだ」

 「表現が雑だ」

 ネマーニャが言う。

 「でも、近いです」

 セシリアは苦笑した。

 「熱くなるというより、冷えにくくなる感じでは?」

 「それそれ! 冷えが入ってこねえ!」


 ミルコフは言葉少なに主鍋を飲み、しばらく沈黙したあと、空になった椀を差し出した。

 「もう一杯」

 「効きましたか」

 「腹が減っている」

 「本音が早い」

 「あと、雪の匂いが薄くなる」

 「……寒さが刺さりにくいという意味でしょうか」

 「そうだ」

 彼は短く答えた。

 「走れる」


 その一言で十分だった。


 白梢の谷の朝は、一杯の鍋で動き始めた。


 西橋では、普段なら昼過ぎまでかかるはずの板替えが、午前のうちに半分以上進んだ。材木班は引き綱を握る手の交代が少なくて済み、足場の悪い坂でも、呼吸を合わせる声が自然と揃う。誰かが先に息切れしそうになると、隣が少し待ち、後ろが綱を持ち直す。その小さな連携が切れにくい。


 セシリアは二巡目の鍋を荷車へ載せ、レクシーと一緒に現場を回った。


 西橋では、さっきの中年木工職人が板を打ちつけながら叫ぶ。

 「次の釘!」

 まだ言い切る前に、若い男がすっと差し出す。

 「ほらよ!」

 「早えな」

 「今日は何か、手元の迷いが少ねえ!」

 「それ、鍋のおかげ?」

 「だったら毎日くれ!」


 山裾ではプラチャンが荷車の横で声を飛ばしていた。

 「一回で全部持つな、二回でいい! 転んでぶちまけたら三回だぞ!」

 「お前、自分では持たねえのか」

 「俺は全体を見る係だ! 文句あるならそこの丸太持ってから言え!」

 「口だけは元気だな!」

 「口が元気じゃない指図役なんか、ただ寒いだけだ!」


 笑いながら動いている。怒鳴っているのに、場が荒れない。誰が今きついかを、プラチャンがちゃんと見ているからだ。重そうな者には後ろから別の手を足し、足元が危うい者は先に荷を減らす。数字を見る男だと自分で言った通り、彼は人の疲れ方まで数にしているようだった。


 アンナは橋のたもとで、濡れた手袋を集めては乾いたものと替えていた。誰かが「まだいける」と言っても、指先の色を見て無言で取り上げる。


 「いける顔じゃないのよ」

 「顔でわかるのか」

 「手でわかるわ。あと、強がる声は布を引っかける」


 ミルコフは谷の外れと現場を行き来しながら、時々鍋へ立ち寄った。見回りの者ほど、持たせた携行鍋の効きが分かりやすいらしい。鼻先が赤くなる前に戻り、息を整えてまた出ていく。


 「これ、飲むと耳が痛くなりにくい」

 狼耳をぴくりと動かしながら彼が言った時、レクシーが小さく笑った。

 「そこまで聞けると作りがいがありますね」

 「事実だ」

 「ミルコフさんの褒め言葉は珍しいんですよ」

 「そうか」

 「そこで終わるのがあなたらしいわ」


 昼前、いったん皆が食堂前へ戻る頃には、朝よりも谷の空気が少し変わっていた。


 もちろん雪は冷たい。労働が楽になったわけでもない。腹の減り方は早いし、肩も背も張る。それでも、人々の歩幅に昨日までの頼りなさがない。できるかもしれない、今日中に。そんな顔で、鍋の列へ並んでいる。


 セシリアは二巡目をよそいながら、ふと、自分の手が少し震えていることに気づいた。疲れではない。安堵に近いものだった。


 王都では、どれだけ気を配っても、それが誰かの暮らしへ返ってくる実感は薄かった。だが今は違う。鍋の中身が減るほど、橋が直り、薪が運ばれ、子どもの頬へ色が戻っていく。


 ネマーニャが紙束を抱えて近づいてくる。

 「二巡目の希望者と、午後は休ませるべき者を分けた」

 「もうですか」

 「遅い方だ」

 「その言い方、だんだん信用できるようになってきました」

 「最初は信用していなかったのか」

 「便利すぎる方は、警戒から入るべきだと」

 「正しい」


 彼は紙を渡しながら、鍋をのぞき込んだ。

 「朝より香りが丸い」

 「鍋は二巡目の方が馴染みますから」

 「付与も?」

 「少し落ちます」

 セシリアは正直に答えた。

 「一度、朝の狙いへ合わせた鍋ですから。昼はお腹をつなぐ力の方が強くなる。だから朝と昼で役目を分けたかったんです」

 「万能じゃないんだな」

 プラチャンが横から聞く。

 「ええ」

 セシリアは杓子を置いた。

 「だから、何でも私一人で解決できるわけではありません。今日だって、ミルコフさんが獲物を持ってきてくださらなければ味が足りなかった。レクシーさんが薬草を見立ててくださらなければ、寒さへの助けがぼやけた。アンナさんが手袋を回してくださらなければ、手は先にかじかんだはずです。プラチャンさんが人を並べなければ、鍋を配る順番で揉めたでしょう」

 「先生は」

 ユノが訊く。

 「先生は、紙」

 「紙だけじゃない」

 トトが真剣な顔をする。

 「かわいいしるし」


 その一言で、ネマーニャがむせた。


 「……子どもの評価が独特ね」

 アンナが肩を揺らす。

 「いい評価だろ」

 レクシーも笑う。

 「私は好きですよ、かわいいしるし」

 「記号だ」

 ネマーニャは低く言ったが、耳がまた少し赤かった。


 セシリアはその横顔を見て、言葉を続けた。

 「ネマーニャさんが紙へしてくださらなければ、皆さんの力は今日みたいに噛み合わなかったと思います」

 「……そう言われると、否定しにくい」

 「では受け取ってください」

 「褒め方がうまくなったな」

 「食堂主ですので」

 「どういう理屈だ」

 「美味しく受け取っていただくまでが仕事です」

 「鍋みたいに言うな」


 昼を越える頃、西橋の補修は終わった。山裾の材木も、予定より多く下ろせた。食堂の裏へ薪が積み上がるたび、誰かが小さく歓声をあげる。たった一本の木が、ここでは夜の命数を伸ばす。


 プラチャンは薪の山を見上げ、妙に真面目な声で言った。

 「一日でここまで回るとはな」

 「鍋のおかげ?」

 レクシーが聞く。

 「鍋だけじゃねえよ」

 彼はすぐに首を振った。

 「鍋があっても、持つやつがばらばらなら無理だ。今日は、持つ順番と休む順番がよかった」

 「それ、褒めてます?」

 「半分は俺をな」

 「正直ねえ」

 「腹が減ってない時は、だいたい正直だ」


 その時だった。


 ミルコフが、谷の北側から戻ってきた。


 朝とは足音が違った。急いでいるわけではない。だが、雪を踏む一歩一歩が短い。視線はまっすぐネマーニャを探し、その途中でセシリアの前にも止まった。


 「どうしました」

 セシリアが問う。


 ミルコフは肩から下げていた革袋を外し、中から何かを取り出した。雪で湿った布に包まれていたそれは、折れた枝ではなかった。


 太い、黒ずんだ毛だった。

 そして、雪を押し潰した大きな足跡を紙へ写し取った簡単な拓き。


 「林の外縁で見た」

 ミルコフが低く言う。

 「一頭や二頭じゃない。群れだ」

 食堂の周りから、さっきまでの雑音がすうっと引いた。


 プラチャンが紙を奪うように見た。

 「これ、谷へ向いてるのか」

 「向きが変わってた。昨日まで北の岩場を回ってた連中だ」

 「餌が減った?」

 レクシーが顔を強張らせる。

 「たぶん、それもある」

 ミルコフは頷いた。

 「雪が深くなって、外で狩れない。痩せてる。追い詰められた群れは、柵を覚える」


 ネマーニャが無言で紙を受け取り、拓きの上へ自分の指を置いた。サイズと爪痕の深さを、目で測っているらしい。


 「いつ来る」

 「早ければ明日、遅くても二、三日」

 ミルコフの尾が低く揺れた。

 「子連れも混じってる。数は増える」


 セシリアは鍋の湯気を見た。


 さっきまで、白梢の谷は確かに暖まりつつあった。人の手が噛み合い、今日を越える準備が整い始めていた。けれど冬は、町が少し息をつけた瞬間を狙うように、次の厄介を連れてくる。


 ユノが不安そうに、セシリアの袖をつまんだ。

 「また、おなかすいたやつ?」

 「……そうかもしれません」

 セシリアはしゃがんで、兄妹の目線へ合わせた。

 「でも、今度は窓から一人入ってくるより、ずっと大きい相手です」


 トトが鍋を見た。

 「ごはん、あげる?」

 幼い問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 ミルコフが静かに言う。

 「魔物は、鍋を見ても止まらない」


 食堂の中の空気が変わる。

 温かいだけでは越えられない夜が、こちらへ歩いてきている。


 ネマーニャは紙を机へ置いた。その横顔は静かなままだったが、指先だけがもう次を考えていた。


 「なら、今夜のうちに書くものが増えた」

 彼が言う。


 セシリアは鍋の火を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。


 今日、白梢の谷は確かに一つになれた。

 なら次は、その形のまま守る番だ。


 大鍋の底では、まだ温かい湯気が立っている。

 それが明日も誰かの手へ渡るように、食堂も、紙も、人の足も、止めてはいけないのだとわかった。


 白梢の谷の午後は、薪の匂いの中へ、獣の気配を混ぜて冷え始めていた。



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