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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第2話 白梢の谷の空っぽ鍋

 北へ向かう乗合馬車は、三度車輪を替え、二度御者を替え、最後には馬より人の足のほうが頼りになる細道へ、セシリアを置いていった。


 王都を出てから十二日目の昼過ぎだった。


 空は低く、白い。降っているのは雪というより、砕いた雲のかけらだった。頬へ触れたそばから溶け、冷たさだけを残して落ちていく。街道と呼ぶには心細い道の先に、ようやく谷が見えた。白く乾いた木立に囲まれた、小さな窪地。名を白梢の谷というらしい。


 御者は荷台から粗末な木箱をひとつ下ろし、「送り先はここまでだ」と言った。


 それだけだった。励ましも同情もない。けれど今のセシリアには、その簡潔さがありがたかった。王都では、余計な言葉ほど人を縛る。


 彼女は母の料理帳と、薄い着替えと、数日の食料が入った鞄を抱え直した。


 「ありがとうございました」


 礼を言うと、御者は少しだけ目を丸くした。家名も紋章もない女が、こんな場所まで来て礼だけはきちんとしているのが不思議だったのかもしれない。だがすぐに肩をすくめ、馬車は白い息を吐きながら来た道を戻っていった。


 残された足跡は、みるみるうちに薄れていく。


 これで本当に、王都と切れたのだと思った。


 心細さがないといえば嘘になる。けれど、誰かの視線を先回りして振る舞わなくていいだけで、胸の内側に広い場所が生まれたようでもあった。


 谷の入口には、傾いた柵と、半分雪に埋もれた木札が立っていた。文字は風雨に擦れて読みにくい。柵の向こうには、煙の細い家が数軒、崩れかけた倉庫、乾いた井戸囲い、低くうなる風。それから、ひどく静かな空腹の気配があった。


 最初に見たのは、子どもだった。


 倉庫の陰から、小さな顔が二つだけ覗いている。年の頃は七つと五つほど。兄妹だろうか。どちらも頬がこけ、袖口は擦り切れ、靴はつま先から藁が覗いていた。警戒しているのに、鍋の匂いでもするようにこちらを見ている目だけがまっすぐだ。


 セシリアはしゃがみこみ、視線の高さを合わせた。


 「こんにちは」


 兄らしい子が、返事の代わりに妹の前へ半歩出る。守ろうとする癖が、あまりに早く身についている足運びだった。


 「……誰」


 小さく、それでもはっきり聞こえた。


 誰。


 それは王都で問われたことのない種類の問いだった。あちらでは、彼女はいつだって何者か決められていた。公爵令嬢、婚約者候補、悪役。けれどここでは、本当に空欄のまま尋ねられる。


 セシリアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑した。


 「私は……」


 セシリア。そう名乗るのは簡単だ。けれど、この谷に来た自分がそれだけで足りるのか、まだわからない。


 「……仕事を探しに来た人、です」


 結局そう答えると、兄妹は顔を見合わせた。妹のほうが、こくりと喉を鳴らす。空腹の音だと、すぐにわかった。


 その時だった。


 雪を踏む、乾いた足音が近づいた。


 子どもたちがさっと身を引く。その反応に叱責への怯えはなく、むしろ「来た」と言いたげな慣れがあった。振り向くと、谷の中から男がひとり歩いてくる。


 黒に近い灰の外套。雪をかぶっても目立たぬ色だ。背は高いが、肩で威圧するような歩き方ではない。無駄のない足運びでこちらへ来る。年は二十代の終わりか、三十の手前くらいだろうか。整っているのに愛想の行き場がない顔で、風にさらされた手だけが目についた。指先に細かな傷が多い。


 男はセシリアを見、次に彼女の手の灰色の木札を見た。


 それだけで何か察したらしい。


 「王都から来た人か」


 声は低いが、押しつける響きがない。


 「はい。今日、着いたばかりで」

 「そうか」


 男はそれ以上、王都で何があったかも、なぜこんな谷へ流れ着いたのかも聞かなかった。その代わり、入口脇に転がっていた割れた看板を拾い上げる。以前は店にでも使っていたのか、片側が焦げ、金具は曲がり、板面は白く荒れていた。


 そして彼は、背負っていた革箱を地面へ置いた。


 箱の留め具を外す音が、妙に澄んで聞こえる。中に収まっていたのは、セシリアがこれまで見たことのない形の魔導具だった。黒い金属の骨組みに鍵盤が並び、奥には巻き取り式の紙と、薄青い魔石の心臓部。王都の記録院で遠目に見た覚えがある。魔導タイプライター。打鍵術師の道具。


 男は看板を膝に置き、装置へ紙片を差し込み、何の説明もなく鍵を打った。


 カン、カツ、タン。


 乾いた音が雪の空気を切る。


 打たれた文字は紙に残るのではなく、青白い光となって浮かび、看板の表面へ沈んだ。古びた板に新しい線が走る。ひらがなでも貴族向けの飾り文字でもない、子どもにも読めそうな大きくまっすぐな字。


 食堂。


 たった二文字なのに、その場の風景が少しだけ変わった気がした。


 壊れた板切れが、行き先を持つ。


 男は打ち終えると看板を立て、曲がった柵へ結びつけた。さきほどまで雪と同じくらい無言だった入口に、初めて意思が置かれる。


 「倉庫を片づければ、炊事場くらいにはなる」


 男はそう言った。


 「なにを、勝手に……」


 呟いてから、セシリアは自分で少し笑ってしまった。けれど男は気を悪くした様子もなく、看板の傾きを直している。


 「勝手にした。困るか」

 「困るというより、驚いています」

 「驚くくらいなら、まだましだ」


 そこでようやく、男はまっすぐ彼女を見た。


 「家名を置いてきたなら、次は何と呼ばれたい」


 風が、ふっと止んだ気がした。


 何と呼ばれたい。


 王都では、呼ばれたくない名ばかり増えた。優秀な娘。便利な駒。嫉妬深い令嬢。悪役。けれど、呼ばれたい名を自分で考えたことなど、一度もない。


 答えようとして、喉が空回りする。


 何になりたいのか。何として生きたいのか。昨夜、王城で「自分で決めます」と言ったくせに、その続きはまだ白紙だった。


 セシリアは雪の上へ視線を落とした。


 「……まだ、わかりません」


 男は責めなかった。ただ、小さく頷く。


 「なら、決まるまでは今のままでいい」

 「今のまま」

 「名前がなくても、腹は減る。先にそこをどうにかしたほうがいい」


 その物言いに、子どもたちの肩がぴくりと揺れた。見れば、兄妹は看板から視線を外せずにいる。食堂の二文字を読めたのだろうか。それとも、読めなくても意味だけ感じたのか。


 男は子どもたちへ向き直る。


 「ユノ。トト。倉庫の鍵」

 「あるよ」


 兄が胸元から紐を引き出した。妹のほうはもう看板の下へ寄り、指先で「食」の字の端をそっとなぞっている。


 「読めるのか」と男が尋ねると、妹は首を振った。

 「でも、あったかい字」

 「字に温度があるの?」

 セシリアが思わず聞くと、妹は不思議そうに彼女を見た。

 「あるよ」


 言い切られて、セシリアは返す言葉をなくす。


 男は少しだけ口元を動かした。笑ったのか、寒さに息がずれただけなのか、判別のつかない程度だった。


 「入るぞ」


 案内された倉庫は、本当に空っぽに近かった。


 片側の壁には古い棚があるが、樽は二つとも底が見えている。ひとつには乾いた豆が指で数えられるほど。もうひとつには固くなった塩漬け肉の欠片だけ。床の隅にしわしわの玉ねぎが三つ、芽の出かけたじゃがいもが四つ、萎びた人参が二本、干からびた香草がひと束。あとは煤けた大鍋と、欠けた木椀が数個。


 空っぽだ、と思った。


 けれど次の瞬間には、空っぽではないとも思った。


 鍋がある。火床がある。包丁は刃こぼれしているが研げば使える。塩が少し、野菜が少し、肉が少し。数えるほどでも、まだ残っている。


 王都の大厨房なら捨てられるようなものばかりだ。けれど捨てるには惜しい。むしろ、このくらいしかない時ほど工夫のしがいがある。


 母が笑いながら言っていたことを思い出す。


 「いい台所ってね、立派な台所じゃないの。何が足りないか、立った瞬間にわかる台所よ」


 今なら、その意味がよくわかる。


 足りないものだらけだからこそ、まず何をするかがはっきり見える。


 セシリアは外套を脱いだ。袖を軽くまくる。


 「火を起こしてもいいですか」

 「いい」

 「水は」

 「裏手の井戸は半分凍ってる。叩けば使える」

 「包丁石はありますか」

 「ある」

 「……では、作ります」


 自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。


 ユノとトトが目を見開く。男は一度だけ彼女の木札を見、それから鍋へ視線を移した。そこで初めて、わずかに興味を持ったようだった。


 「何ができる」

 「何になるかは、切ってみないとわかりません。でも、空のままでは終わらせません」


 答えたあとで、胸の奥が少し熱くなる。


 それはたぶん、王都を出てから初めて、自分の得意なことで足を踏みしめた感覚だった。


 男が井戸へ向かい、ユノが薪箱を漁り、トトが小さな手で椀を並べ始める。指示したつもりはないのに、場が自然に動き出した。


 セシリアは包丁の刃を確かめた。鈍い。だが研ぎ石へ数度滑らせれば、野菜を裂く程度にはなる。じゃがいもの芽を丁寧に取り、人参の黒ずみを薄く削ぎ、玉ねぎの傷んだ外皮を剥く。塩肉は水で戻しながら、硬い部分を細かく刻む。豆は少ないが、砕いて入れればとろみになる。


 王都の令嬢がする手つきではない、と誰かに言われたことがある。


 違う。これは母の娘の手つきだ。


 鍋へ油代わりに塩肉の脂を落とし、玉ねぎをじわりと炒める。甘い匂いが立ったところへ人参とじゃがいもを入れ、少し遅れて豆を加える。水を注ぎ、香草を揉んで落とし、塩をひとつまみ。ぐつぐつという音は、どこの土地でも心をほどく。


 空腹の匂いは、人を正直にする。


 ユノが鍋へ一歩近づき、トトは二歩近づいた。男だけが離れたまま、倉庫の柱へ背を預けて彼女の手元を見ている。邪魔をしない距離の取り方に慣れている人だと、セシリアは思った。


 「味見を、しても?」

 ユノが聞く。

 「まだ少し早いです」

 「どれくらい」

 「十を三回数えるくらい」

 「長い」

 「待てる子は、もっとおいしく食べられます」

 「ほんとに」

 「ほんとです」


 トトが兄の袖を引っ張る。

 「じゃあ、にい、三十」

 「わかってる」


 そのやり取りが可笑しくて、セシリアは鍋をかき混ぜながら笑った。王都では笑い声さえ控えめに整える癖がついていたのに、ここでは少しだけ大きくなっても誰も眉をひそめない。


 煮えたところで、彼女は最後に塩を足し、ごく少量だけ残っていた乾酪を削り入れた。貧しい材料でも、香りの立ち方が変わる。仕上げに胡椒代わりの乾いた実を砕き、火を弱める。


 不思議な感覚が、指先から鍋へ流れた。


 料理をしていると、ときどき起こることだ。食べる人の顔が浮かび、その人に今いちばん要るものが、少しだけ味へ混ざる。母はそれを「鍋が聞いてくれる」と呼んでいた。セシリア自身はうまく説明できない。ただ、今日ははっきりわかった。


 寒さに耐える力。立ち上がるだけの温かさ。明日も食べようと思える程度の希望。


 それらが、湯気の中へすっと溶けていく。


 男の目がわずかに細まる。気づいたのかもしれない。


 「……今、何かしたか」

 「え?」

 「鍋の気配が変わった」

 「気配」

 「言い換えれば、魔力の馴染み方だ」


 セシリアは少し迷ってから答えた。


 「昔から、たまに。食べた人が楽になることがあって」

 「便利な話だな」

 「でも、いつでも同じにはできません。食材が足りなければ無理ですし、相手のことをちゃんと知らないと、薄くしか乗りません」

 「万能じゃない、と」

 「万能なら、王都でも困らなかったでしょうね」


 そう言うと、男はそこで初めて、はっきりこちらを見た。慰めではなく、事実として受け止める目だった。


 「なるほど」


 それ以上は何も聞かない。


 その沈黙が、セシリアにはありがたかった。


 「できました」


 木椀へ注ぐと、湯気がふわりと立つ。透き通った上等なスープではない。少し濁り、少し重く、けれど匙を入れれば豆のとろみが絡み、野菜の甘さがのってくる。空っぽの倉庫で作ったにしては、ずいぶん豊かな匂いだった。


 最初の椀を、セシリアはユノへ渡した。

 「熱いので、ゆっくり」

 次をトトへ。

 「ふう、としてから」

 男にも渡そうとすると、彼は一拍だけ躊躇した。

 「私にもあるのか」

 「鍋の前で働いた方には、あります」


 すると男は、ほんのわずかに目を伏せた。驚いた時の癖なのかもしれない。


 最後に自分の分を持ち、セシリアは言う。

 「いただきます」


 ユノが真似をして言い、トトも慌てて続ける。男は少し遅れて、低く同じ言葉を返した。


 最初の一口を飲んだのは、トトだった。


 ふうふうと息を吹きかけ、恐る恐る口をつける。次の瞬間、丸い目がさらに丸くなった。冷えて赤くなるのとは違う、内側から灯るような色が頬へ差す。


 「あったかい……」


 ただの感想なのに、泣きそうになる声だった。


 ユノは兄らしく慎重に飲もうとしていたのに、二口目から速度が上がった。こわばっていた肩が下がり、握っていた椀の指先に力が戻る。トトのつま先は、さっきまでじっと床へ貼りついていたのに、今は嬉しそうに揺れていた。


 「にい、手、あったかい」

 「ほんとだ」

 「ほっぺも」

 「お前のも赤い」


 二人で互いの顔を触り合っているのが可笑しくて、セシリアは口元を押さえる。


 男も一口飲む。


 無表情な人だと思っていたのに、その瞬間だけ、呼吸の深さが変わった。張っていたものがわずかに緩む。喉を通った熱が胸のどこかへ届いたように、視線が遠くなってから戻ってくる。


 「……うまい」


 短い言葉だった。けれどお世辞ではない。必要な分だけを正しく言う人の声だった。


 セシリアは、それだけで報われた気がした。


 鍋の底は浅い。四人で食べれば、すぐに見えてしまう量だ。だが空のままより、ずっといい。ユノは最後の一滴まで匙で集め、トトは木椀を抱えたまま離さない。さっきまで倉庫に満ちていた、腹の鳴るような寒々しい気配が、少しだけ遠のいていた。


 「おかわりは……ないですよね」

 ユノが遠慮がちに言う。

 「今日はないです」

 セシリアは正直に答える。

 「でも、明日も作ります。材料を集められれば」

 「ほんとに」

 「ほんとです」


 男がそこで口を開いた。


 「集める当てはある。狩りの帰りが夕方に戻る。薬草係も来る。荷運び頭は数字にうるさいが、鍋の効き目を見れば話は早い」

 「随分、具体的ですね」

 「具体的でないと冬は越せない」


 もっともだ、とセシリアは思う。


 男は空になった椀を置いた。

 「名乗っていなかったな。ネマーニャだ。記録係みたいなものをしている」

 「……みたいなもの、ですか」

 「説明が長い」

 「では、長くないほうで」


 ネマーニャはほんの一瞬だけ考え、諦めたように言う。


 「文字を打つ」

 「それは見ました」

 「契約も、地図も、伝言も、看板も打つ」

 「便利ですね」

 「たぶん」


 ユノが口を挟む。

 「先生はね、字をすごくはやく出す」

 ネマーニャの手が止まった。

 「先生?」

 「だめ?」

 「……だめじゃない」


 その返答は、許すというより、自分に言い聞かせるように低かった。


 セシリアはふと、彼の指先の傷を見た。薄い切り傷、熱で縮れたような痕、長く道具を握った者の硬さ。何をしてきた人なのかはまだわからない。だが、この谷でただ暇をしていた人ではないのだろう。


 そして彼もまた、何かを置いてここへ来た人なのだと、理由もなく思った。


 倉庫の外で風が鳴る。


 壊れた柵には、新しい看板が掛かっている。食堂。その二文字は、この谷にはまだ大げさなくらい立派な約束だ。けれど約束は、口にしなければ始まらない。


 セシリアは空になった鍋の底を見た。少し焦げつきかけた豆がへばりついている。こそげれば、まだ一匙ぶんくらいは取れそうだ。


 空っぽになった鍋を、嫌だとは思わなかった。


 食べ終えたから空になったのだ。誰かの腹へ届いた証拠だ。王都では飾りのために並べられ、ほとんど手もつけられず下げられる皿がいくらでもあった。その無駄より、鍋底が見えるほうがずっとましだ。


 「ネマーニャさん」

 「何だ」

 「名前が決まるまでは、どう呼ばれるのが自然でしょう」

 「セシリアでいいんじゃないか」

 「家名がなくても?」

 「今は要らない。少なくとも、この鍋には関係ない」


 その言い方が、妙に胸へ残った。


 この鍋には関係ない。


 誰の娘か、誰に切り捨てられたか、どこの広間で笑われたか。そんなものは、いま目の前の湯気には混ざらない。必要なのは、何を切って、どう煮て、誰に渡すかだけだ。


 セシリアはそっと鍋へ手を置いた。


 「では……明日も、作ります」

 「明日だけか」

 「その次も。材料が続く限り」

 「続かせる方法を考える」

 「それは、かなり助かります」

 「私も助かる。空腹の子どもは文字を覚えにくい」


 ユノがきょとんとする。

 「ぼく、字おぼえるの」

 「覚えろ」

 「鍋くれる?」

 「それとこれとは別だ」

 「けち」

 「現実的だ」


 トトがくすくす笑った。倉庫の中で、子どもの笑い声が跳ねる。小さいのに、不思議と部屋が広くなる音だった。


 セシリアもつられて笑う。


 王都を出てから、ずっと何かを置いてきた感覚ばかりだった。家名も、立場も、屋敷も、飾りのような暮らしも。けれど、この倉庫で初めて、置いてきた分だけ、手の中に入るものもあるのだとわかった。


 空っぽの鍋。

 新しい看板。

 頬を赤くした子どもたち。

 無愛想なくせに、先に居場所の札を打ってしまう男。


 たぶん、ここから始まるのだ。


 外へ出ると、雪は少しだけ弱まっていた。柵の看板に打ちつけられた「食堂」の字が、夕暮れの薄明かりの中でもかすかに青く残っている。


 セシリアはその文字を見上げ、胸の前で灰色の木札を握った。


 まだ仮のままの名。

 けれど、働く場所はもう仮ではない。


 白梢の谷の風は冷たい。なのに、手のひらの中には確かな熱があった。



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