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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第14話 レクシーのありがとう帳

 読み書き教室の札が戸口へ下がってから、五日目の昼だった。


 白梢の谷はまだ冬の色をしていたが、食堂の軒先からは時々、つららの先が折れて落ちるようになっていた。石畳に当たるその小さな音を聞くたび、セシリアは春が遠くで爪を立て始めているのを感じる。


 昼の忙しさがひと段落し、卓の上には洗い終えた木椀が伏せて並んでいた。

 今日のまかないは、大麦と白豆の煮込みに、レクシーが摘んできた香りのやわらかな芽を散らしたものだった。重すぎず、けれど空気の冷たさへ負けないよう、最後に干し肉の脂をほんのわずかに溶かしてある。


 プラチャンは配達帳を脇へ抱えたまま二杯目を平らげ、アンナは窓際で裂き布の山を整え、ユノとトトは読み書き教室の復習だと言って、空になった粉袋へ炭筆で自分の名を書いていた。

 ミルコフは戸口の外で薪を割っている。一定の間隔で響く斧の音が、食堂の壁を軽く叩くみたいに届いていた。


 その中で、レクシーだけが妙に静かだった。


 いつもなら湯気の匂いへひとこと感想を挟み、誰かの眉間の皺を見れば勝手に薬草茶を押しつけ、ついでに余計な一言まで添えるのに、今日は隅の席で小さな帳面へ顔を寄せている。

 古い荷札帳をほどいて作ったらしい、手のひらほどの薄い冊子だった。表紙にはアンナの端切れが貼られ、青い糸で留めてある。


 セシリアは鍋の蓋をずらしながら、そっと覗き込んだ。


 「何を書いているのですか」

 「見ないで」

 レクシーは即答した。

 「そんなに早く隠されると、余計に気になります」

 「気にしなくていい類いのものよ」

 「怪しいですね」

 「怪しくないものほど、人に見られると困るの」


 言いながら、彼女は帳面を胸元へ抱え込む。

 その仕草がやけに素早くて、ユノが椅子の上から身を乗り出した。


 「秘密?」

 「秘密」

 「宝の地図?」

 「もっと地味」

 「じゃあ、おやつの隠し場所」

 「それは秘密にしないと大変でしょう」


 トトまで参加してくると、レクシーはとうとう帳面を背中へ回した。

 セシリアは笑いを堪えきれず、木杓子を置く。


 「そこまで守るほど大事なものなのですね」

 「そうよ。大事なの。だから、今は見せない」


 今は、という言い方が気になった。

 けれど、無理に聞き出すほどでもない。白梢の谷へ来てから覚えたことの一つに、人の抱えているものは、開く時刻が来るまでそっとしておく方がうまくいく、というのがある。


 その午後、食堂では読み書き教室で使う布札の補充が行われた。

 アンナが切った布へ、セシリアが薄い糊を引き、ユノとトトが乾かす役を買って出る。ネマーニャは窓際で今日の仕入れと配給の記録を整理しながら、時々、子どもたちの字を見て短く助言した。


 「ユノ、最後の払いが高いです」

 「ここ?」

 「そこです。風に飛ばされそうな『ノ』になっています」

 「飛ばされたらだめ?」

 「名前は飛ばさない方がよいです」


 真顔の答えに、ユノが笑う。

 その横でトトは、いつの間にか『トト』の下へ『やぎ』と書けるようになっていて、セシリアは思わず拍手した。


 「昨日は最後の点が逃げていましたのに」

 「きょうは、つかまえた」

 「えらいです」


 そう言った時だった。

 戸口の外から、薪の束を抱えたミルコフが入り、雪を払う拍子に冷たい風がひゅうと吹き込んだ。その風で、卓の端に仮置きしてあったレクシーの小さな帳面が、ぱらりと開いた。


 「あっ」


 レクシーが手を伸ばすより早く、一枚の紙片が床へ落ちた。

 セシリアは反射的に拾い上げる。返そうとして、そこへ書かれた短い一文が目に入った。


 はじめて来た朝、セシリアが空っぽの鍋を洗い直した。見ていた子どもたちが、まだここで待ってもいい顔になった。


 息が、止まった。


 文字はレクシーらしく、少し丸みがあって、ところどころ跳ねている。帳簿のような整い方ではなく、走って転ばない程度の急ぎ足だ。

 だが、その一行にある景色は、たしかにあの日のものだった。誰も食材の足りなさを口にしなかった朝。洗い直した鍋の底へ、自分が映るのを見るのが少しだけ怖かった朝。


 レクシーが慌てて紙片を奪い返す。


 「だから見ないでって言ったでしょう」

 「申し訳ありません。ですが、今のは……」

 「今のは、その……ただの覚え書きよ」


 頬が少し赤い。

 珍しく彼女の方が視線を逸らしたので、食堂の空気がわずかにざわめいた。


 プラチャンが椅子をきしませる。

 「覚え書き?」

 アンナも手を止めた。

 「何の?」

 ユノが問う。

 「れくしー、なにか集めてるの?」

 トトが続く。

 「たからもの?」


 レクシーは観念したように息を吐いた。

 それから、帳面を胸へ抱えたまま、椅子へ座り直す。


 「……ありがとう帳」

 「ありがとう帳?」

 セシリアが繰り返す。

 「白梢の谷へ来てから、誰が誰に何をして、そのあとどんな顔をしたかを、一行ずつ書いてるの。忘れたくないから」


 食堂が、少しだけ静かになった。


 レクシーは、言葉を選ぶ時だけ妙に丁寧になる癖がある。

 今の声は、まさにその時のものだった。


 「前はね、具合の悪い人の脈とか、傷の深さとか、薬をいつ飲ませたかとか、そういうことばかり書いてたの」

 彼女は帳面の端を指で撫でた。

 「もちろん、それも大事。でも、冬って悪いことだけで一日が埋まりやすいでしょう。誰が咳をした、誰の家の薪が足りない、どこの山羊が痩せた、そんな話ばっかり残る。でも本当は、その合間に、小さい助け合いがいくつもあるのよ。誰かが匙を譲ったとか、毛布を半分寄せたとか、泣いてた子が笑ったとか」

 「それを、書いていたのですか」

 「うん。書いておかないと、春になった時に『冬はつらかった』しか残らない気がして」


 セシリアは言葉を失った。

 つらかったことは、確かにたくさんある。寒さ、空腹、不安、噂、外から来る悪意。けれど、それだけでここまで来たわけではない。

 鍋を持つ手が重なり、言葉の代わりに椀が差し出され、うまく笑えない人の前へ誰かが座った。そういう小さなものが積もって、白梢の谷は崩れずに立っている。


 「見せて」

 アンナがやわらかく言った。

 「だめ。恥ずかしい」

 「今さらよ」

 プラチャンが鼻を鳴らす。

 「おまえ、俺が初めて『プラチャン』って曲がらずに書けた日も書いてるだろ」

 「書いた」

 「ほらな」

 「でも見せるかどうかは別」


 そのやりとりを聞いて、ネマーニャが手を止めた。

 紙束から顔を上げる。彼の視線は、帳面ではなくまずレクシーの表情を見た。その上で、いつものように短く尋ねる。


 「本人が見せたくないなら、無理に開く必要はありません」

 「先生、そう言うと思った」

 レクシーが少し笑う。

 「でも、たぶん今日なの。少しだけ開いていい日」


 そう言って彼女は、帳面をゆっくり卓の上へ置いた。


 表紙は、何度も手に取られたせいで端が丸くなっている。青い糸はアンナの仕事だから丁寧だが、中の紙は揃っていない。余った荷札紙、使い残しの伝票紙、薬包みだった薄紙。白梢の谷で拾える「書けるもの」を、少しずつ綴じ合わせた帳面だった。


 レクシーは最初の頁を開く。


 「笑わないでね」

 「笑いません」

 セシリアが言う。

 「笑ったら皿洗い二倍」

 ユノが言った。

 「それ、もう教室の決まり」

 トトが真顔で頷く。


 レクシーは肩を震わせてから、最初の一行を読んだ。


 「――雪の朝、ミルコフがユノを抱えて坂を下りた。ユノは怖いより先に高い高いだと思った顔をした」


 ユノがぱっと顔を上げる。

 「それ、ぼく」

 「そう」

 「おぼえてる。みみ、つめたかった」

 すると戸口のそばで薪を下ろしていたミルコフが、ほんのわずかに眉を寄せた。

 「……耳は元から冷えやすい」

 「そこじゃないでしょう」

 アンナが笑う。


 次の頁。


 「トトがはじめて食堂の椅子で寝落ちした。セシリアが匙を置く音を小さくして、ネマーニャが紙をめくる音まで減らした」


 トトが照れくさそうに椅子の脚を蹴る。

 セシリアは思わずネマーニャを見た。彼もこちらを見ていて、視線がぶつかる。どちらからともなく逸らしたが、その間にレクシーが次をめくっていた。


 「アンナがちいさくなった手袋をほどいて、三人分の指なし手袋にした。受け取った子たちが、同じ日に雪玉を投げ合える顔になった」


 アンナが口元へ手を当てる。

 「そんな言い方されたら、縫い目が照れるわ」

 「縫い目は照れない」

 「照れるの。いい仕事した布は」


 次は、プラチャンだった。


 「プラチャンが避難の列を作った。怒鳴っていたけれど、いちばん最後に数えたのは自分の家族より先に余所の子どもの数だった」


 「それは」

 プラチャンが言いかけて止まる。

 「当たり前だろ」

 「ええ。当たり前の顔でやったから書いたの」

 レクシーが返す。


 食堂の空気が、少しずつやわらかく変わっていく。

 笑いもある。照れもある。けれど、それぞれの一行に、あの日その場にいた時よりもはっきりした輪郭があった。通り過ぎたと思っていた景色が、言葉の中でちゃんと居場所を持っている。


 レクシーは頁をめくる指を止め、しばらく迷うようにしたあとで、セシリアの方を見た。


 「これは、あなたの分」

 「私の」


 頷いて、彼女は読み上げる。


 「セシリアが、食べきれなかった子の椀を責めずに温め直した。あの時、泣くのをやめたのは子どもだけじゃなかった」


 胸の奥へ、何か熱いものが静かに落ちた。

 自分では覚えていない。いや、場面は覚えている。けれど、その時に誰がどんな顔をしたかまでは見切れていなかった。鍋の温度と匙の順番と、次に誰へ回すかで精一杯だったからだ。


 レクシーは続ける。


 「セシリアが、彼シャツを着て出てきた朝、食堂の空気が一度だけ春の手前みたいになった」

 「レクシーさん!」

 「これはちょっと余計だったかしら」

 「余計です」

 「でも本当」

 アンナがすかさず頷く。

 「本当ね」

 「本当だな」

 いつの間にかプラチャンまで混ざる。

 ミルコフは無言だったが、薪束を置く位置を微妙にずらして顔を隠した。

 ネマーニャだけが、咳払い一つで耐えていた。


 「そこは読まなくてよかったのでは」

 彼が低く言う。

 「だって、表情の記録だもの」

 レクシーは悪びれない。

 「あなたの耳まで赤かったって書いてないだけ、かなり配慮したわよ」

 「それは記録しなくてよいです」

 「でも赤かった」

 「記録しなくてよいです」


 食堂に笑いが広がった。

 セシリアは顔が熱くなりながらも、その笑いに救われた。からかわれているのに、どこにも悪意がない。ただ、同じ場所で同じ湯気を吸ってきた者たちの、柔らかな確認のような笑いだった。


 レクシーは笑いが落ち着くのを待ってから、帳面をもう一度だけめくった。

 今度の頁には、少し新しい紙が綴じられている。


 「これ、昨日書いたの」


 声が少し静かになる。


 「ユノが『せんせい』と書いた。ネマーニャは紙を返す前に、たぶん誰にも見せない顔で一度だけ目を伏せた」


 ネマーニャの指が、紙束の上で止まった。


 セシリアは息を呑む。

 あの朝の一行も、ここに残っていたのだ。


 そして、レクシーは最後に、帳面をセシリアの前へそっと置いた。


 「まだあるわ」

 「読んでいいのですか」

 「今日はいい」

 「本当に?」

 「うん。今日は、忘れたくないものを、ちゃんと皆で知っておいた方がいい日な気がするの」


 セシリアは頁へ指を置いた。

 紙の端は少し毛羽立っている。何度もめくられたのだろう。


 一行ずつ、ゆっくり読む。


 セシリアが最初の鍋へ塩を入れる前、味見をして目を閉じた。まだここで工夫できると思った顔だった。


 ネマーニャが借財証文を人前で読み上げる前、プラチャンの返事を待った。あれで助かった自尊心があった。


 アンナが診療所の布棚を半分空にして、石倉の子どもへ回した。あとでこっそり、棚の方へ謝っていた。


 ミルコフが夜の見回りから戻るたび、戸口の前で一度だけ中の匂いを嗅ぐ。帰る場所を確かめるみたいに。


 読み進めるほど、目の奥が熱くなる。

 白梢の谷へ来た最初の日、自分は「追放された娘」としてしかここに立てないと思っていた。鍋を持つ手はあっても、置いてもらえる椅子があるかはわからなかった。

 けれど今、この帳面の中では、自分はもう通り過ぎる客ではない。誰かの一日を少しだけ軽くした人として、町の記憶へ混ざっている。


 「……私、こんなふうに見ていただいていたのですね」


 声が震えた。

 慌てて笑おうとしたが、うまくいかなかった。涙は、こらえようとした時ほど先に落ちる。

 一滴、紙へ落としそうになって、セシリアは慌てて顔を上げる。


 「だめ、濡らしたら」

 レクシーが言ったが、その声は叱るというより一緒に泣き出しそうなものだった。

 「ご、ごめんなさい」

 「謝らないで。そういう本じゃないもの」


 アンナがすぐ布巾ではなく、やわらかな鼻紙を差し出す。

 プラチャンは露骨に窓の外を見始め、ユノとトトは何か大変なものを見た気がして黙った。ミルコフは薪を置き終えたあと、誰にも見つからない位置へ一歩だけ下がる。


 そしてネマーニャが、静かに席を立った。


 彼はセシリアの隣へ来ると、帳面へ落ちかけていた光を手で少し遮った。

 それだけで、涙の輪郭が人目へ晒されすぎずに済む。


 「記録は、乾いたものだと思っていました」


 彼が言った。

 誰へというより、帳面そのものへ向けるような声だった。


 「日付、金額、契約名、所在、責任。燃えれば証拠を失い、改竄されれば人生を失う。だから、記録は冷たく、硬く、誰が見ても同じでなければならないと」


 食堂の空気がまた静かになる。


 王立記録院の火災のことを、彼は詳しく語らない。

 けれど今の声には、焼け跡の灰がまだ混じっている気がした。


 「でも」

 ネマーニャは、レクシーの帳面を見た。

 「こういう記録もあるのですね。誰が誰を助けたか。どんな顔で受け取ったか。誰がその場にいたか。後から読んだ者が、『たしかにここで支え合いがあった』と知れる記録」


 レクシーが瞬く。

 「そんな立派なものじゃないわよ」

 「立派です」

 ネマーニャは即答した。

 「権力のためだけに記録があるのではないと、これで証明できます」


 その言葉は、セシリアの胸へ別の熱を落とした。

 この人は今、昔の仕事を懐かしんでいるのではない。失ったものの焼け跡から、新しい使い方を拾い直している。


 ネマーニャは帳面へ手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。


 「許可をいただけるなら、この帳面の複写を作りたい」

 「複写?」

 「はい。原本はレクシーが持つべきです。ただ、もう一冊、白梢の谷の保管用があってもよい。春以降、開拓補助金や営業継続願いを出す時、『この谷がどう立ち直ったか』を示す資料になります」

 「ありがとうの記録が?」

 プラチャンが目を丸くする。

 「数字や被害報告だけでは、人がどう支え合って持ちこたえたかは残りません。ですが、それが残っていれば、『この谷には継続させる価値がある』と示せる」

 「人を守る記録、ということですか」

 セシリアが尋ねる。

 「ええ」


 短い答えだったが、その一語の奥に、彼の過去と今がきれいにつながる音がした。


 レクシーは帳面を見下ろし、それから、照れくさそうに笑った。


 「そんな大層なつもりじゃなかったんだけど」

 「始まりは大抵、そういうものです」

 ネマーニャは言う。

 「必要になった時、残っていて助かるのは、誰かが『大層ではないから』と書き残したものだったりします」


 ユノが手を挙げた。


 「ぼくも、かいていい?」

 「何をですか」

 ネマーニャが尋ねる。

 「ありがとうのやつ」

 トトも慌てて続く。

 「ぼくも。みじかいの」

 「字が曲がっても?」

 レクシーが聞く。

 「曲がっても、あとでなおす」

 ユノが胸を張る。

 「なおさなくても読めれば上等です」

 ネマーニャが真顔で言い、食堂にまた小さな笑いが戻った。


 その日の夕方、読み書き教室の前に、食堂の隅へ新しい木箱が置かれた。

 アンナが余り板で作り、プラチャンが底を補強し、ミルコフが釘打ちの最後だけ無言で請け負った箱だ。蓋の内側には、ネマーニャが打ち出した札が貼ってある。


 白梢の谷 ありがとう帳

 一行歓迎

 日付があると後で助かる


 「最後の一文が先生っぽいですね」

 セシリアが言う。

 「後で本当に助かるので」

 「でも少し可笑しいです」

 「記録と可笑しさは両立します」


 その答えに、セシリアはようやくちゃんと笑えた。

 さっき落ちた涙のあとへ、あたたかな空気が入り込んでくる。


 教室が始まる前、ユノが最初の紙片を箱へ入れた。

 たどたどしい字で、こう書いてある。


 きょう れくしーが みせてくれた

 せしりあが ないた

 でも いいかおだった


 「ユノ」

 セシリアが思わず呼ぶ。

 「だって、そうだった」

 「そうでしたけれど」

 「ほんとうだ」

 トトまで頷く。


 アンナが吹き出し、プラチャンが腹を抱え、レクシーはとうとう卓へ額をつけて笑い始めた。ミルコフは顔を背けたまま耳だけ揺らし、ネマーニャは咳払いでごまかそうとして失敗した。


 笑い声の中で、セシリアは箱と帳面と、そこへ集まる手を見た。

 白梢の谷はまだ豊かではない。薪は足りるか、雪解け前に何を植えるか、王都の目がいつまたこちらへ向くか、心配は尽きない。

 それでも、ここには今日を記しておきたいと思う手がある。


 それは、明日へ進む町の手だ。


 夜の教室が終わったあと、セシリアは戸口の札を外し、代わりにもう一枚、小さな札を横へ添えた。


 ありがとう帳 食堂の隅


 字はまだ少し緊張していたが、前よりまっすぐ書けた。

 その札を見たネマーニャが、隣でごく小さく頷く。


 「よい記録です」

 「札もですか」

 「はい。誰が見ても、何が、どこにあるかわかる」

 「先生らしい褒め方です」

 「食堂主らしい札でもあります」


 外はまだ寒い。

 けれど食堂の隅の木箱には、今日から、人が人へ渡したぬくもりが少しずつ積もっていく。


 春になれば雪は消える。

 だが、消えないように書かれたものは、次の冬にまた誰かを守る。


 セシリアはそう思いながら、胸の奥へ残ったあたたかさを、今度は泣かずに抱きしめた。



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