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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第11話 シャイニング・ラブ

 昼下がりの遊園地が再び開くと決まってから、白梢の谷の午後は目に見えて忙しくなった。


 子どもたちは昼を食べながら「今日は木馬から」「今日はすべり台から」と順番を相談し、大人たちは大人たちで、遊具の見回り番と食堂の手伝いをどう回すかを話し合う。生き延びるためだけなら、そんな相談はいらない。いま白梢の谷で増えているのは、そういう種類の会話だった。


 その朝、セシリアは仕込み台の上へ、見慣れない小壺を並べられて首をかしげた。


 「これは?」

 「夜照花の花蜜よ」


 答えたレクシーは、なぜか得意げだった。

 透き通った壺の中で、淡い金色の蜜が朝の薄光を受けてゆっくり揺れる。蜂蜜よりも少し軽く、けれど覗き込むと、底のあたりに微細な光が沈んでいるように見えた。


 「谷の北側の岩場に、夕方だけ開く花があるでしょう。あれ、去年までは摘む人がいなくて放ってあったの。でも薬草係の癖で、つい少し取っておいたのよね」

 「食べられるのですか」

 「食べられるし、煮つめると日持ちもするわ。少し気が上向くから、夜番の人に舐めさせる地方もあるそうよ」

 「士気向上寄りの付与が乗るかもしれませんね」

 ネマーニャが帳場の椅子に座ったまま言った。


 彼は、朝の売上帳を打ち込みながらも、会話はきちんと拾っている。

 そういうところが、この人は妙にずるいとセシリアは思う。視線を向ければ、指は紙の上を走っているのに、必要な言葉だけ過不足なく差し出されるのだ。


 「夜番に持たせる……」

 セシリアは小壺を持ち上げた。

 ひんやりしたガラス越しに、蜜がとろりと傾く。


 白梢の谷では、日が落ちるのが早い。

 遊園地の閉園も午後の二刻までと決めたが、それでも片づけや見回りを終える頃には、空はもう群青に近づいている。食堂へ戻る子どもたちが、暗くなる前に少し甘いものを持って帰れたら。見回りへ出るミルコフたちが、手を汚さず口へ入れられる保存菓子を持てたら。


 考え始めると、鍋とは別の熱が胸に灯った。


 「焼き菓子にしましょう」

 セシリアは言った。

 「崩れにくくて、持ち歩けて、寒い外でも手が止まらないものに」

 「良いですね」

 アンナが布袋を畳みながら頷く。

 「見た目がきれいだと、子どもはなお喜ぶわ」

 「見た目は大事だな」

 プラチャンも荷札の束を机へ置いた。

 「持ち帰りが増えれば、遊園地の帰りに買っていく流れもできる」

 「流れって、商売の話になると急に目が据わりますよね」

 レクシーが笑う。

 「食う話だぞ」

 「それもそう」


 そうして朝の食堂は、急きょ新作菓子の工房になった。


 セシリアは粉へ砕いた木の実を混ぜ、固めの生地を作った。冬でも持ち歩きやすいように、薄く伸ばしてから長方形に切り分ける。表面には夜照花の蜜を塗り、もう一度だけ火へ入れる。蜜は熱に触れると深い琥珀色へ変わり、焼き上がりの縁に、ほんのりとした艶を残した。


 ただ、それだけでは終わらない。


 仕上げにもう一度、薄く蜜を重ねた時だった。

 生地の上に塗った筋が、すう、と光を含んだのである。


 「……あら」

 レクシーが目を丸くする。

 「今、光りませんでした?」

 「光りましたね」

 アンナもはっきり頷いた。

 プラチャンは生地ではなく窓の外を見てから、もう一度戻る。

 「反射じゃないな」


 セシリアは焼き網の前で手を止めた。

 祝福の厨房の付与は、食べる相手を思い描くほど輪郭を持つ。寒い帰り道で子どもの手が冷えないように。夜番の人の肩が重くなりすぎないように。そう思いながら塗った蜜に、夜照花の性質が重なったのかもしれない。


 「暗くなってから確かめましょう」

 ネマーニャが立ち上がった。

 「昼の明るさでは判別しづらい」

 「ええ。味見もその時に」

 「味見は今でも可能では?」

 「先生、それを今言うの、ただ食べたいだけでは?」

 「品質確認です」

 「顔が変わっていませんよ」

 「品質確認なので」

 「二回言いましたね」


 どこかで聞いたようなやり取りになって、セシリアは笑った。

 その笑い声に釣られて、厨房の空気まで少しやわらぐ。


 昼の営業はいつも以上に慌ただしかった。

 遊園地へ向かう前に腹ごしらえをしたい家族連れ、持ち帰りのパンを買う木こり、屋台跡の休憩所で飲むための温スープを求める女たち。レクシーは盆を軽やかに運び、アンナは子どもの手袋のほつれをその場で縫い、プラチャンは椅子のがたつきを見つけるたび壁際へ回した。


 遊園地が開く午後には、昨日より人が増えた。


 古い門柱の光札を見上げ、「本当に遊べるのか」と半信半疑だった旅人が、木馬の揺れる様子を見て目を細める。近隣の猟師は帰り際に「次は甥も連れてくる」と言い、いつも無口な薪割り番の老人は、滑り台の前で待つ子どもたちへ、自分から順番を譲った。


 笑い声は、人を呼ぶ。

 セシリアは、それを目で見て知った。


 そして日が傾き始めた頃、朝の焼き菓子の出番が来た。


 食堂の前へ小卓を出し、アンナが生成りの布をかける。

 その上へ、セシリアは木箱を並べた。薄く焼いた菓子は、紙に一つずつ包んである。昼のうちはただ艶やかなだけだったそれが、薄闇の中では、包みの隙間からやわらかな蜂蜜色を漏らした。


 「きれい……」

 ユノが思わずこぼす。

 トトは背伸びをして、箱の上から覗き込んだ。

 「ほしみたい」

 「食べものです」

 ネマーニャが訂正する。

 「たべものの、ほし」

 「訂正になっていませんね」


 セシリアは一つを取り上げ、そっと紙を開いた。

 夜照花の蜜を重ねた表面が、夕空の下で淡く光る。まぶしいのではない。道を照らすほどでもない。けれど、暗くなる手前の心細さへ、小さな灯りを置くには十分な明るさだった。


 「遊園地の帰りのおやつにどうぞ。少し日持ちしますから、夜番の方にも」

 「名前は?」

 レクシーが即座に聞いた。


 セシリアは固まった。

 「え」

 「え、ではないわ。札を書くのよ」

 「夜照花の蜜焼き……でしょうか」

 「堅い」

 レクシーが一刀両断した。

 「保存焼き菓子」

 プラチャンが言う。

 「さらに堅い」

 「機能は伝わる」

 「ときめきがないのよ」

 「保存食に必要か? ときめき」

 「必要でしょう。しかもこんなに光るのよ」


 アンナがくすりと笑いながら、紙包みを一つ持ち上げる。

 「可愛い名前の方が子どもは覚えるわね」

 「では、光蜜のおやつ」

 セシリアは控えめに出してみる。

 「惜しい」

 レクシーはなぜか腕を組んだ。

 その目が、すっとセシリアからネマーニャへ移る。さらにまたセシリアへ戻る。嫌な予感がした時には遅かった。


 「あ、決まった」

 「その顔はろくでもない時の顔です」

 「褒め言葉として受け取るわ。ねえ先生」

 「何でしょう」

 「追加の札、打てる?」

 「内容次第です」

 「これよ」


 レクシーは、紙切れへさらさらと何かを書いた。

 それを受け取ったネマーニャが、一拍だけ沈黙する。

 その沈黙が、たいへん嫌だった。


 「何と書いたのですか」

 セシリアが問うと、レクシーは満面の笑みを向けた。


 「シャイニング・ラブ」

 「……何ですって?」

 「だから、シャイニング・ラブ」

 「もう一度言わなくて大丈夫です」

 「ぴったりじゃない。光って、甘くて、持ってるとなんだか元気が出て、しかも」

 「しかも?」

 「言わせるの?」

 「言わないでください」

 「恋の気配がする」

 「言いましたね!?」


 顔が熱くなるのが自分でもわかった。

 アンナは口元へ手を当てて肩を震わせ、プラチャンはあからさまに視線を逸らしている。ユノとトトは意味がわからないまま、語感だけで面白がって復唱した。


 「しゃいにんぐ・らぶ!」

 「しゃいにんぐ・らぶ、ほしい!」


 「駄目です、駄目。今のは忘れてください」

 セシリアは慌てて手を振った。

 「もっと普通の名前にします。光蜜焼きとか」

 「えー」

 レクシーが不満そうな声を出す。

 「普通すぎるわ」

 「普通で結構です」

 「でも、もう先生が」


 その一言で、全員の視線がネマーニャへ集まった。


 彼は無表情のまま、小型の魔導タイプライターへ紙を差し込み、静かにキーを打っていた。

 カタ、カタ、カタ、と小気味よい音が続く。数息の後、白い札が吐き出される。


 『本日の新作 シャイニング・ラブ』


 「先生!?」

 セシリアの声が裏返った。


 ネマーニャは二枚目、三枚目も迷いなく打ち出す。

 『遊園地帰りに シャイニング・ラブ』

 『夜番の携帯菓子にも シャイニング・ラブ』


 「増やさないでください!」

 「売り場ごとに案内が必要です」

 「必要なのはわかりますけれど、名前が」

 「統一表記の方が周知が早い」

 「そういう問題では」

 「商品名が定まりました」

 「定まっていません!」

 「札はもう出ました」

 「出さないでほしかったんです!」


 真顔のまま言い切られると、ますます勝てる気がしない。

 レクシーはとうとう声を上げて笑い、アンナは「まあまあ」と言いながら、その札をいちばん見えやすい位置へ立てた。


 「はい、決定」

 「決定しないでください」

 「売れたら決定よ」

 「そんな横暴な」

 「白梢の谷では、売れ筋が法律みたいなところがあるからな」

 プラチャンまで余計なことを言う。


 そして、その場にいた全員が思い知る。

 売れたら、本当に決まるのだと。


 最初に買ったのは、見回り前のミルコフだった。

 彼は札を一瞥し、無言で二つ取る。

 「名前について何か」

 セシリアが恐る恐る聞くと、ミルコフは菓子を紙ごと懐へ入れた。

 「中身が良ければ札はどうでもいい」

 「ありがとうございます」

 「ただ」

 「ただ?」

 「夜道で『シャイニング・ラブをくれ』と言うのは少し面倒だ」

 「でしょう!?」

 「短くしても通じるように、別札も要る」

 ネマーニャが即座に呟く。

 「要りません!」


 だがミルコフが去った後、木こりの若者たちが面白がってその名を口にし始めた。

 「おい、あの光るやつ、シャイニング・ラブっていうらしいぞ」

 「何だその王都の芝居みてえな名前」

 「でも一つくれ」

 「俺も」

 「妹に持って帰る」

 「俺は夜番だから二つ」


 名前を笑いながら、皆が買っていく。

 笑いながらなのに、買っていく。


 子どもたちには、なおさら受けた。

 包みを開くたび、わっと声が上がる。薄闇の中で菓子が小さく光ると、それだけで宝物めいた。ひとかじりすれば、木の実の香ばしさのあとに、夜照花の蜜がほのかに残る。甘さは強すぎず、けれど気持ちが少し前を向くような、やさしい後味だった。


 「これ、明日もある?」

 ユノが真剣な顔で聞く。

 「材料があれば」

 「じゃあ、あしたもしゃいにんぐ・らぶ」

 トトが断言する。

 「……そうなりそうですね」

 セシリアは遠い目になった。


 日が落ち、遊園地の門札と、食堂前の小さな菓子箱だけがほのかに灯りを残す頃には、木箱の中身はほとんど空になっていた。


 意外だったのは、食べた後の変化である。


 見回りへ出る男たちの足取りが、朝よりわずかに軽い。

 片づけを終えた女たちが「もう少しだけ洗い物をしようか」と笑う。

 滑り台で転んで泣きかけていた子どもが、菓子を食べたあとで鼻をすすり、もう一度だけ階段を上る。


 強い魔法ではない。

 寒さを消すほどでも、疲れを帳消しにするほどでもない。

 けれど、肩を落とす前に一歩だけ持ち上げる力があった。


 「士気向上、ですね」

 ネマーニャが売れ残りを数えながら言う。

 「保存性も悪くありません。焼きを強めれば五日は持つでしょう」

 「五日も?」

 「紙包みを厚くして、湿気を避ければ」

 「夜番用の備蓄に回せますね」

 「ええ。携帯食として優秀です」


 そこへプラチャンが、空になった木箱を抱えて戻ってきた。

 「今ので終わりか?」

 「ええ」

 「明日から倍でいい」

 「倍」

 「遊園地帰りだけじゃない。橋の見回り番が欲しがってる。荷運びの連中もだ」

 「そんなに?」

 「名前が面白いから、一回は買う。食ってうまかったら二回目が来る。日持ちがするなら、なおさらだ」

 「商売の見方が容赦ないですね」

 「褒め言葉として受け取っとく」


 アンナは包み紙を一枚広げて、淡い光を透かして見た。

 「贈りものにもいいわね」

 「贈りもの」

 「ええ。何かのお礼とか、見舞いとか。『今日はありがとう』って渡すのに、ちょうどいい」

 「ありがとう」

 レクシーがその言葉を拾って、にやりとした。

 「ほら、やっぱり愛じゃない」

 「そこへ戻りますか」

 「戻るわよ。だって、誰かのために持ち帰りたくなるお菓子でしょう?」

 「それは……そうかもしれませんけれど」

 「じゃあ、ぴったり」

 「ぴったりでは……」

 「あります」


 反論しかけたセシリアは、そこで言葉を失った。

 今、そう言ったのはレクシーではない。

 ネマーニャだった。


 厨房の灯りの下、彼は売上票の横へ、新しい札を揃えて置いている。

 無表情のままだ。だが指先は、さっきよりどこか丁寧だった。


 「先生まで」

 「名は機能します」

 「ええ、それはわかります」

 「人が覚え、口にし、持ち帰る」

 「……はい」

 「この菓子は、そういう形に向いている」

 「それで、その名前ですか」

 「はい」


 そこまで言ってから、ネマーニャは少しだけ目を上げた。

 真っ直ぐではない。真正面から人を射抜くほど強い視線でもない。ただ、必要なだけ、きちんとセシリアを見る。


 「暗くなる時間に、手の中で光るでしょう」

 「ええ」

 「持ち帰る相手がいる人は、その人のことを思い出す」

 「……」

 「自分のために買う人も、帰る場所を思い出す」

 「先生」

 「ですから」

 彼は淡々と言った。

 「悪い名前ではありません」


 悪い名前ではない。

 それだけなのに、セシリアの胸の奥で、何かがふいにほどけた。


 レクシーが「ほらね」と言いたげな顔をしたので、そちらは見ないことにする。

 見たら負ける。


 代わりにセシリアは、最後に残った一包みを手に取った。

 紙越しでも、ほんのりと灯りがわかる。


 「……では、一本だけ条件があります」

 「条件?」

 レクシーが身を乗り出す。

 「明日からは、名前で遊ぶのではなく、ちゃんと用途も書きます。夜番用、持ち帰り用、贈りもの用。必要な人へ届くように」

 「それは賛成」

 プラチャンが即答した。

 「札を分けた方が売り場が整理できる」

 「先生」

 「可能です」

 ネマーニャも頷く。

 「明朝までに用途別の小札を打ちます」

 「……商品名はそのままなのですね」

 「統一表記の方が周知が早いので」

 「そこだけ仕事の顔をしないでください」


 とうとう皆が笑った。

 食堂の中で、遊園地で、今日いちばん大きな笑いだったかもしれない。


 夜の閉店後、セシリアは勝手口の前で空を見上げた。

 白梢の谷の冬の星は、王都にいた頃より近い。息を吐くたび、白い煙が頬をかすめる。


 扉が開く音がして、振り向くと、ネマーニャがいた。

 手には小さな紙包みがある。


 「売れ残りではありません」

 彼は先にそう言った。

 「最後の一つを、取り分けておきました」

 「誰のために?」

 「食堂主のために」


 差し出された包みを受け取る。

 中の灯りが、手のひらへやわらかく移る。


 「先生」

 「はい」

 「この名前、本当に平気なのですか」

 「何がですか」

 「その……少し、気恥ずかしいでしょう」

 「そうでしょうか」

 「私は十分恥ずかしいです」

 「では」

 ネマーニャは少し考えるように黙った。

 「慣れれば大丈夫です」

 「慣れの問題ですか」

 「白梢の谷の人間は、良いものにはすぐ慣れます」

 「良いもの」

 「はい」

 「それは、お菓子の話ですか」

 「お菓子の話です」


 答えはすぐ返ってきた。

 すぐ返ってきたのに、なぜか心臓の方は、少し遅れて騒ぎ出す。


 セシリアは包みを胸の前で持ち直した。

 「……なら、私も慣れる努力をします」

 「ええ」

 「ただし、人前で連呼されるのは、もう少し後にしてください」

 「善処します」

 「本当に?」

 「レクシー次第です」

 「先生」

 「冗談です」

 「今の、冗談の顔ではありませんでした」

 「練習不足です」


 それが冗談なのかどうか最後まで判別できないまま、セシリアは吹き出した。

 隣でネマーニャがわずかに息を緩める。


 手の中の菓子は、まだ静かに光っている。

 暗い帰り道で不安になりきる前に、小さく背を押す灯り。

 誰かに渡しても、自分で持っても、胸の内へ少しだけ温度を残す灯り。


 白梢の谷にはその夜、町の名物第一号が生まれた。


 名前は、ひどく気恥ずかしい。

 けれど皆が笑って口にして、子どもが覚えて、働きに出る者が懐へ入れていくうちに、それはただの洒落ではなくなっていく。


 暗い道で手の中に灯る、小さな焼き菓子。

 明日へ向かう人の気持ちを、ひと押しだけ前へ運ぶもの。


 シャイニング・ラブ。


 白梢の谷ではその夜から、その少し気の早い名前が、たしかな甘さと一緒に広がり始めたのだった。



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