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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第1話 その名前は捨てました

 銀の燭台がいくつも並ぶ王城の広間は、夜だというのに昼のように明るかった。


 磨き抜かれた床には、人の顔だけでなく、杯を持つ手の震えまで映る。冬の終わりを告げる王城の茶会。第二王子アルベルトの婚約者候補たちが一堂に会し、諸侯や高官、その夫人たちまで詰めかけた場で、セシリアは自分の前に置かれた光景を、ひどく遠いもののように見つめていた。


 長卓の向こうで、若い伯爵令嬢が蒼白な顔で喉を押さえている。侍女たちが駆け寄り、薬師が呼ばれ、周囲には絹の裾を引きずる音と、抑えきれないざわめきが広がった。


 「毒ですって」

 「誰がそんなことを」

 「つい先ほど、あの方が茶器に触れておいででしたわ」


 囁きは、雪の上に落ちる煤のように、あっという間に一か所へ積もった。


 セシリア・アスティリア。


 名を呼ばれたわけでもないのに、視線が刺さる。彼女は逃げもせず、ただ背筋を伸ばした。いつもと同じように、背もたれへ深く寄りかからず、いつでも立てる姿勢を崩さない。そうしていると、昔から胸の内側まで乱れずに済んだからだ。


 「セシリア嬢」


 声を上げたのは、王家付き監察官のひとりだった。灰色の法衣を着た男が、彼女の席のそばへ進み出る。絨毯に沈む足音まで、もうこの場では裁きの演出の一つに聞こえる。


 「被害に遭われたラドフォード伯爵家の令嬢の茶器に、遅効性の眠毒が混入していた可能性があります。あなたは先ほど給仕の動線を変え、卓へお戻りになった。弁明は」


 弁明。


 その言葉は、なぜだか、ずいぶん親切なものに思えた。最初から誰も聞くつもりのない問いほど、外側だけ整っている。


 セシリアは視線を落とした。白磁の皿の縁に、まだ手をつけていない薄菓子がある。砂糖を控えめにした木の実の焼き菓子だ。噛めば香ばしいだろうに、今夜は誰の口にも入らない。


 その小さな無駄のほうが、彼女には毒の話より痛かった。


 「……給仕の動線を変えたのは事実です」


 広間の空気が膨らんだ。やはり、と言いたげな息。


 セシリアは続ける。


 「右端の給仕係の靴底が濡れていました。あのまま歩けば、料理皿を滑らせると思いましたので」

 「では茶器に触れたことも認めるのですね」

 「揺れた受け皿を正しただけです」


 監察官は頷き、いかにも記録通りですという顔をした。最初から用意していた台本の行が、一行進んだだけの顔だった。


 そこで、ざわめきを裂くように、低く整えられた声が響いた。


 「……娘に、申し開きの余地はございません」


 父だった。


 アスティリア公爵。黒い礼服の胸元に王家から賜った徽章を揺らし、ゆっくりと前へ出る。困惑と悲嘆を織り交ぜた、見事な表情だった。知らぬ者が見れば、今にも崩れ落ちそうな父親にしか見えないだろう。


 セシリアは、その横顔を見た。


 幼い頃、熱を出した彼女の額に一度も手を置かなかった男が、今は広間のすべてに聞こえる声で娘を惜しんでみせている。


 「この子は、幼い頃より思い込みが強く……第二王子殿下の御心を得られぬことを、必要以上に気に病んでおりました。まさか、ここまで愚かな真似をするとは。親である私の不徳の致すところです」


 すすり泣く声まで聞こえた。どこかの夫人が扇で口元を隠している。


 セシリアはそこで、ああ、と心の中で小さく息をついた。


 やはり、そうなのだ。


 ここで必要なのは真実ではない。筋書きだ。王都の人々は、わかりやすい役を欲しがる。哀れな被害者、苦悩する父、見て見ぬふりをした婚約者候補、そして嫉妬に狂った悪役令嬢。物語として収まりがよければ、それでいい。


 彼女は知っている。公爵家の屋敷で、使用人の失敗はいつも「誰が片づけるか」まで決まっていた。王都はあれを、もっと大きく、もっと豪奢にやるだけの場所だ。


 「父上」


 アルベルトが、壇の脇から一歩出た。いや、父ではない。第二王子殿下。だが彼は幼い頃から公爵をそう呼ぶ家臣たちに囲まれて育ち、その呼び方が喉の奥に引っかかったように止まった。


 薄金の髪の青年は苦しそうに眉を寄せ、セシリアを見た。


 「まだ決めつけるのは早い。証拠の精査を――」

 「殿下」


 公爵がかぶせるように頭を垂れる。


 「ご温情は痛み入ります。しかし、家の名に連なる者が王城の茶会で毒を疑われた時点で、もはや面目は潰えております。娘の処遇は、家として厳正に受け止めねばなりません」


 厳正に。


 都合よく切り捨てる時に使う、美しい言葉だ。


 セシリアは、そこで初めて笑いそうになった。もちろん唇は動かさない。ただ、胸のどこかが妙に冷えて、逆に澄んだ。


 思えば、ずいぶん長く待ったものだ。


 褒められれば家の飾りになり、手際がよければ便利な駒になり、少しでも誰かの不都合に触れれば、悪意があることにされた。茶会の席順を整えれば出しゃばり、沈黙していれば陰気、微笑めば計算高い。誰かの皿が空なら追加を頼み、侍女の袖が引っかかれば自分でほどき、倒れそうな花瓶があれば支える。そういうことをしてきたのは、ただ見過ごせなかったからだ。


 けれど王都では、気づく者ほど都合よく使われる。


 彼女の母は生前、厨房で小麦粉だらけの手を振りながら言っていた。


 「名前は器よ。中に入れるもので、よくも悪くも見えるわ。けれど、器を持つ手まで誰かに渡しちゃだめ」


 あの時はよくわからなかった。


 今はわかる。


 このままここで泣けば、彼らの望む器になる。ひび割れて、哀れで、家に処分されるのを待つだけの器に。


 そんなものは、いらない。


 セシリアは、椅子を引いた。


 広間が息を呑む。彼女は裾を乱さず立ち上がり、王座ではなく、まず倒れた伯爵令嬢の方へ視線を向けた。薬師が処置を終え、命に別状がないことはもう見て取れた。眠毒なら、たしかに死には至りにくい。騒ぎとしてはちょうどいい。


 ずいぶんと、行儀のよい毒だこと。


 そう思ったが、口にはしない。ここで真相を暴くことに、もう彼女の人生を使う気はなかった。


 代わりに、広間の中央へ歩み出る。


 「王立記録院の立会人をお呼びいただけますか」


 静まり返った場に、その声は思いのほかよく通った。


 「……何を言う」

 公爵が低く唸る。

 「処分なら、家に戻ってから――」

 「家へは戻りません」


 ぴたり、と空気が止まった。


 監察官が目を見開く。アルベルトが息を呑む。夫人たちの扇が一斉に下がる。


 セシリアは、公爵を見た。これまで一度も求められなかった、父親の顔を。


 「父上が厳正を望まれるのでしたら、私もまた、正規の手続きで応じます。この場で家名からの離脱申請を行います」


 「……何だと」


 公爵の声が裏返りかけたのを、セシリアは初めて聞いた。


 そこへ、ざわめきに遅れて記録院付きの書記官たちが入ってくる。王城では政略も婚約も相続も、言葉だけでは成立しない。公的な名に関わる手続きには、王立記録院の立会いが必要だ。灰青の外套をまとった中年書記が、呼ばれた理由を聞いてから、ひどく慎重な顔で頷いた。


 「家名からの離脱申請、および暫定個人登録への切替。王族立会いの場で、本人の自由意思が明確であれば受理は可能です」

 「なりません!」


 今度こそ、公爵は一歩踏み出した。


 「この娘は動揺している。正気では――」

 「正気でなければ、王家の茶会で罪を認めた者へ、父親が即座に処罰を口にすることもございませんでしょう」


 きれいに返したつもりはなかった。ただ、事実だった。


 公爵の顔色が変わる。その表情に初めて、悲嘆でも慈愛でもないものが浮かんだ。計算を崩された人間の、剥き出しの苛立ち。


 セシリアはその顔を見て、むしろ安心した。


 ああ、やっぱりそうだったのだ。泣く必要など、どこにもない。


 書記官が革表紙の板を開き、数枚の紙を並べた。紙の端には薄く光る罫線が走っている。記録院の正式書式だ。虚偽や強制では最後の承認印が浮かび上がらない。


 「確認します。アスティリア公爵家令嬢セシリア殿。あなたは自らの意思で、家名との法的紐付けを切り離し、暫定個人登録へ移行することを求めますか」

 「求めます」

 「離脱後、相続権、家名による保護、家の資産管理権は失われます」

 「承知しております」

 「移行後は、最低限の移動・就労・短期契約は可能ですが、土地権、婚姻、長期営業権等には新たな正式登録名を要します」

 「承知しております」

 「本人が心から受け入れていない申請は成立しません。最後にもう一度だけ問います。あなたは、アスティリアの名から離れますか」


 セシリアは、そこで深く礼をした。


 裾が床にやわらかく触れ、髪飾りの小さな真珠が耳元で鳴る。王都で身につけた礼法の、たぶん最後の使いどころだった。


 顔を上げ、彼女は広間の全員を見渡した。


 「アスティリアの名は、今日ここに置いていきます」


 その一言は、怒鳴り声よりも強く響いた。


 誰かが息を呑み、誰かが聖印を切り、誰かが信じられないという目をした。けれどもう、どの反応も彼女を縛らない。


 書記官が無言で差し出したペンを取り、セシリアは署名欄へ自分の名を書いた。


 セシリア。


 その下、家名欄は空欄のまま。


 瞬間、紙の端を走る罫線が淡く青く光り、最後に中央へ小さな印が浮かんだ。受理。王立記録院の承認だ。


 広間がどよめいた。


 「無茶だ……」

 「家名なしでどう生きるつもりだ」

 「女が一人で」

 「正気じゃないわ」


 言葉が飛び交うたび、セシリアの心はむしろ静かになった。今まで彼らが見ていたのは、自分ではなく札だったのだと思い知る。だから札を置いていく。そうすれば、もう見せ物になる役も終わる。


 アルベルトが、二、三歩だけ近づいた。だがそれ以上は来られなかった。王子という立場も、この場の空気も、何より自分自身の迷いも、彼の足を縫い止めていた。


 「セシリア……私は……」


 何を言おうとしたのか、彼自身にも定まっていない声だった。


 彼女は穏やかに首を振る。


 「殿下。今夜、止まらなかった方がよいのは私ではなく、たぶんあなたです」


 それは責める言葉ではなかった。だからこそ、アルベルトは唇を噛んだ。


 公爵が吐き捨てるように言う。


 「好きにしろ。家名を失った娘に、明日の宿一つあるものか」

 「あります」


 セシリアは即答した。


 正確には、まだ決まっていない。王都に残れば嘲笑と監視がつきまとう。ならば離れるだけだ。北へ。公爵家が厄介払い同然に人と物を流しているという、白梢の谷へ。


 税ばかり重く、冬ばかり長く、失敗した人間が押しやられる場所。


 けれど逆に言えば、王都の筋書きから一番遠い。


 「明日の宿は、これから決めます。自分で」


 その言葉に、広間の誰より先に驚いたのは、たぶん彼女自身だった。


 自分で。


 簡単な言葉なのに、口にすると胸の奥が熱くなる。怖さもあった。けれど同じだけ、息がしやすい。


 その後のことは、あまり覚えていない。


 書記官に別室へ案内され、暫定個人登録の木札を受け取った。薄い灰色の札には、公的識別の印と、短い登録番号だけが刻まれている。家名の代わりに数字がぶら下がった気分は、思ったより軽かった。


 王城の控え室へ戻ると、屋敷から付き従ってきた侍女たちはすでに下がらされていた。置かれていたのは、小さな旅行鞄が一つだけ。誰かが「最低限」を見繕ったらしい。


 鞄を開けると、中には着替えが二組、冬の外套、革手袋、それから見覚えのある薄い手帳が入っていた。


 母の料理帳だった。


 角の擦れたその手帳を見つけた瞬間、セシリアは初めて息を詰まらせた。公爵家の持ち物として燃やされてもおかしくない品だ。誰が入れたのかはわからない。昔から厨房にいた年嵩の女中か、あるいは黙っていた侍女の誰かか。


 ありがとう、と声に出したが、部屋にはもう誰もいなかった。


 彼女は料理帳を胸へ抱いた。涙は出なかった。ただ、寒い台所で母が鍋をかき回しながら歌っていた調子だけが、耳の奥でやわらかく鳴った。


 王都の夜気は、城門を出る頃にはずいぶん冷えていた。


 公爵家の紋章入り馬車は使えない。記録院の紹介で手配された小さな乗合馬車の端席に腰を下ろし、セシリアは膝の上の鞄を抱える。周囲の客は、彼女がさっきまで王城の広間にいたとは思っていない。思わなくていい。


 城壁の上には、まだいくつか明かりが残っている。あのどこかの窓の向こうで、今夜の断罪劇が酒の肴になっているのだろう。


 ――悪役令嬢が追放された。

 ――家名を失って終わった。

 ――哀れなものだ。


 好きに言えばいい。


 馬車が揺れ、石畳を離れて雪の残る道へ出る。車輪の下で、しゃり、と薄い氷が砕けた。


 セシリアは窓を少しだけ開けた。頬に刺さる夜風は冷たい。けれど、王城の広間で吸う息より、ずっときれいだった。


 家名を置いてきた。婚約者候補という札も、従順な娘という役も、ついでに悪役令嬢という出来合いの仮面も、あの磨き抜かれた床の上へ。


 ならば、ここから先は何を持って生きるのか。


 答えはまだない。


 けれど膝の上には料理帳がある。空腹の人へ何を出せば手が止まるか。熱のある子にどんな粥を作れば喉を通るか。固いパンしかない朝に、鍋へ何を足せば少しましになるか。母の字で、そんなことがびっしり書き込まれている。


 それだけあれば、最初の一日くらいは何とかなる気がした。


 馬車の御者が、行き先の確認を後ろへ投げる。


 「北回り街道だ。途中で下りるなら、次の宿場か、その先の徴税所前だぞ」

 「白梢の谷へ行く荷車に、乗り継げる場所はありますか」


 御者が振り向いた。闇の中でも、物好きな客を見る目だとわかった。


 「あんな寒村へ? 何しに」

 「働きに」

 「……そうかい」


 それ以上は聞かれなかった。セシリアにはそれがありがたかった。


 働く。


 口にしてみると、不思議としっくり来た。誰かの駒としてではなく、誰かの皿を温める手として。もし白梢の谷が、本当に捨てられた人たちの流れ着く場所なら、なおさらだ。空っぽの器が多いなら、埋める仕事がある。


 馬車は北へ進む。


 王都の灯りはしだいに遠ざかり、やがて夜の向こうへ沈んだ。残るのは、雪明かりと、細い月と、膝の上のぬくもりだけ。


 セシリアは灰色の木札をそっと握る。


 番号だけの、仮の名札。


 でもこれは、誰かに付けられた役ではなく、自分の意志で手にした最初の札だ。


 「……はじめまして」


 誰にともなく、小さく呟く。


 明日からの自分へ言ったのかもしれない。


 乗合馬車はきしみながら、白い街道を北へ北へと進んでいった。



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